31:四日目/女島06
水無月玲子。
武系四席にして学園最速。
かつて綴喜ゆらのライバルだった女。
だが、勝手に才能を開花させて、手の届かないところに行ってしまった女。
「なぜ、貴様がここに――」
「偶然だよ」
ゆらの口から漏れた疑問に、玲子は端的に答える。
「温泉に入りに来たら、こっちの方から戦闘音が聞こえてな。お前がこの辺に陣取っているのは知ってたから、こんなことだろうとは思ったが」
玲子はそう言ったが、信じがたい。
敵にとってあまりにも都合がよすぎる。ゆらを止めるためにもっとも適した相手が、最高のタイミングで現れたのだ。
思えば黒瀬塔子の姿が見えない。
そして自分の目前に震えながら立つのは、遠くから人を動かすことに心血を注ぐ女。
「――そういうことか。はなからおれ対策に玲子を仕込んでいたな」
そもそも、島に来るまで玲子と麻矢に接点はなかった。
だが、麻矢は温泉の場所を玲子に聞いたと言った。
それがこの女の策謀によるものなら、かなり早い段階でこちらの動きに気づき、布石を打っていたことになる。
「ふん、策略でおれの上を行くか、蓼科冥」
「えっ――いえ、私は何も――」
「謙遜することはない。戦闘、戦術の評価は覆らんが、策士としては再評価しよう」
「ではなく、本当に心当たりがなくて――」
首を振る冥を、ゆらは視界から外した。
いずれにしろ彼女に戦闘力が残っていないのは明白だ。風々院風雅も同様。
この場で、敵となりうるのは水無月玲子ただ一人。
(やってくれたな――まさに一番打たれたくない一手だった)
本来ならば玲子に再び挑むのは自分が壁を越えてからの予定だった。
彼女に並ぶ強さを得て、満を持しての再戦こそ、ゆらの計画だった。
だというのに、蓼科冥と風々院風雅には自分を追い詰めるだけの戦闘力がなく、計画は頓挫した。
まだ雲を掴めていない。
ここにいるのは玲子にまるで届かない弱い自分だ。
玲子に見られたくもないくらい、弱い自分。
知らず、足が一歩後退する。
「――逃げるのか、ゆら」
かけられた言葉にズキリと心臓が痛む。
「それもいいだろう。八嶋麻矢に構わないって言うなら、あたしの側に戦う理由はない」
「玲子――」
「けど、強い相手を探していたんじゃないのか? 自分を限界まで追い詰める相手を。それならちょうどここにいるわけだが、それでも逃げるのか?」
棘のある言葉と鋭い眼光がゆらを刺す。
「お前があたしを避けてたのはわかってる。その理由もなんとなくな。でも、あたしだっていつまでもは待てないぞ。そろそろ何か見せてくれてもいいんじゃないのか、我が宿敵」
「――――は」
乾いた笑いがゆらの口からこぼれた。
そうだ。
自分を限界まで追い詰めてくれる相手を探していたのだ。そこで玲子を候補から外したのはプライドの問題にすぎない。
自分の弱さを見せたくない、格好いいところだけを見せたいという、子供じみた願望のせいだ。
でも、もうなりふり構わないと決めたのだ。
彼女に追いつくためには何でもすると。
ならば――答えは一つ。
「いやいや、実にもっともだ。付き合ってくれるか、玲子」
「もちろん」
ゆらは足元の小石を拾い、指で弾いて真上に打ち上げた。
小石は不規則な動きでわずかに回転しながら宙を舞い、やがて重力に負けて落下する。
それが地面に着くと同時に、玲子の姿が消えた。
「え――」
こぼれた疑問符はゆらのものではなく。
冥か風雅か――いずれにしろ、もはやどうでもいいことだった。
ゆらは左を向き、左腕を盾のように構える。
そこに衝撃とともに、蹴りを放つ水無月玲子の姿が現れる。
ゆらは盾にした左腕を回転し、玲子の足を巻き込んで体勢を崩す。
対して玲子は地面に手をついて体勢を立て直し、離れる。
「さすがだな、ゆら。あたしの速さについてこれるのは兄様と滝川ツルギと、あとはやっぱりお前くらいだ」
「ふん――」
ついていけているものか、とゆらは内心毒づく。
ゆらの動体視力では玲子の速さをまったく追えない。
ではなぜ反応できるのかと言うと――
再び玲子の姿がブレる。
だが、その瞬間を、ゆらは瞬きもせずに凝視していた。
体の向き、足の向き、重心の位置、そして最初の動き出しの角度――ただの一歩で姿を消すとしても、その直前まではゆらでも見える。
そして、それなら結果がゆらには予測できる。
恐ろしい初速で視界から出ていったとしても、今どの辺にいて、次にどこに接地し、どのような体勢であるのかが、計算できる。
だから、そこに向かって踏み出した。
「はっ――!」
本来玲子が二歩目に踏むはずだった地点に身を置く。
玲子が再びゆらの瞳に映る。その目は驚きに満ち、天性の敏捷性に任せて制動をかけようとする。
わずかに崩れる体勢。生まれる極小の隙。
そこに攻撃を差し込む。
放つのはモーションを極限まで小さくした突き。
狙うのはみぞおち。
水月とも呼ばれる人体急所。
その突きは確かに玲子に届いた。
しかし――浅い。
それゆえに反撃を許してしまった。
みぞおちを突かれてくの字に曲がった姿勢のまま、突きの腕を蹴り上げてくる。
「くぅっ――」
「ぐぁっ――」
ほとんど同時に漏れる声。
即座に脱力してダメージを逃したとは言え、凄まじい速度で放たれる玲子の蹴撃は、相応の威力を持っている。しかもその速さ故に完全には捌ききれない。
読み合いに完全に勝ってさえ、後出しで不利にされてしまう敏捷性。
それが学園最速、水無月玲子の強さの一つ。
「――ええい、化け物め」
「そんなこと言うなよ。あたしだって傷つくぞ」
「ふざけろ。傷つくとか、貴様がそんなタマか」
心底心外そうな玲子の顔。
「言っておくけど、お前があたしを避けてたことだって、けっこう傷ついたんだからな」
「……それに関しては悪かったよ。確かにおれは貴様から逃げていた。貴様に勝てるようになるまでは、逃げ続けるつもりだった」
避けていた。逃げていた。才能の差に絶望して。壁の高さに心を折られて。
会わなければ、戦わなければ、弱い自分に失望されずに済むから。
そして、その差が尋常な方法では二度と詰まるまいと悟ってからは、奇跡か何かが起きて玲子より強くなるまでは、と。
小石を積み上げるように技を磨きながら、起こるはずのない奇跡をずっと待っていた。
雲を掴むような奇跡を、座り込んでただ待っていた。
バカなことを。そんなこと起こるはずがないのに。
「……だが、ああ、諦めたぞ。たった今、己の愚かさを思い知った」
「へえ」
玲子は嬉しそうに笑った。
「それ、諦めた顔には見えないけどな」
「諦めたよ。今すぐ貴様より強くなることなど不可能だと。だが――」
最後に玲子と戦ったときのことを思い出す。
実力の差に絶望して、呆然と座り込んだ日のことを。
あの日以来、越えられない壁を前にして、足元の小石をいじるだけの日々だった。
長い時間が経ったというのに、壁の高さは変わらず、自分は未だそこにいる。
――けれど。
あの日の自分よりは、勝つために試行錯誤した翌日の自分の方が強かった。
その日の自分よりも、さらに翌日の自分の方が強かった。
そうして遥かな積み重ねを経て、昨日の自分よりも今日の自分の方が強い。
あのころの隔絶がどこまで埋まっているか、やはり自信はない。
だが、今日の自分の強さを、ゆらは信じてみたくなった。
「――それでも、今日のおれは少しばかり強いぞ、玲子」
「それは――楽しみだ」
未だ雲は掴めない。
だが――ゆらの心を覆っていた暗雲は、霧消した。




