20:三日目/女島03
黄泉沢クルミは木刀を蜻蛉に構えた。
スイッチが切り替わる。
いつものごとく、その瞬間に雑念は消えた。
塩水にべたつく肌も、長く肌にまとわりつく髪も、潮騒も、すべてが遠く離れてゆく。
感じるのは対手の気配。
視界の中には四人の人間。
黒縁眼鏡の小柄な女。
三つ編みの女。
どこか自分と似た雰囲気の長身の女。
そして、自分に対して構えを取ったポニーテールの女。
黒縁眼鏡の名前は蓼科冥。
クルミの信奉する綴喜ゆらが連れてこいと言った対象。
他は知らない。
三つ編みと長身は戦闘力もほとんど臭わないから、路傍の石と同じだ。
武系生徒である蓼科冥にしたって、クルミから見れば脅威ではない。
――ただ、相対するポニーテールの女。
彼女だけは明確な闘志を宿している。
そして武系生徒の臭いがしないのに、動きの一つ一つが鋭い。
底が測れない。
ほんのわずかな困惑は、しかしすぐに晴れた。
こういうときどうすればいいのか、師である両親が言っていたからだ。
すなわち。
――相手の底まで両断するつもりで叩き斬れ。
「キエェェェェェェェェェイッ!」
踏み込みと同時に木刀を打ち下ろす。
何百万回、何千万回と繰り返してきた立ち木打ちの型と、それに培われた筋肉が必殺と呼ぶにふさわしい打ちを生む。
(――殺った)
そう確信した。
なのに木刀は空を切り、地面に衝突して砂を吐き散らした。
「しまった――」
漏れたのは二重の意味での苦言だった。
一つは己の打ちの未熟さ。
地面まで深く振り下ろすのは薬丸自顕流の打ちであって示現流の打ちではない。
もう一つは巻き上がった砂塵が視界を隠してしまったことだ。
(いや、落ち着け……砂なんて一拍待てば収まる……)
クルミは構え直し、油断なく周囲を探る。
すぐに砂塵が重力に負けて砂場に戻り、視界が晴れる。
――けれどそこにポニーテールの女はいない。
人が消える?
バカな。そんなことはありえない。
ただ砂が舞っている間に死角に入っただけにすぎない。
「だから、後ろ」
振り向きざまに一刀。
しかしこれもまた空を切る。
――ぞわりと鳥肌が立つ。
「違う――上か!」
反射的に飛び退くと、そこにポニーテールの女が降ってくる。
隼の急降下めいた蹴撃が、再び砂を巻き上げる。
「くっ! キェェェエエエィ!」
クルミは砂嵐に躊躇なく突っ込み、蜻蛉を振り下ろす。
必殺の斬撃によって空気と共に砂塵も斬り裂かれ、隙間からわずかに対手の動きが見えた。
ポニーテールの女は摩擦の少ない砂地を利用して、走るのではなく歩くのでもなく、滑って移動していた。
姿勢は低く、重心は前方。氷上を進むかの如き姿勢から180度股を割り、手を楔にして足先を滑らせて方向転換する。
どこか新体操を彷彿とさせる柔らかな動き。
それは今まで戦ってきたどの武系生徒の歩法とも違う。
(神足法――)
そんな言葉がクルミの脳裏をよぎった。
忍びの使う歩法をそう呼ぶという。
クルミはそんなもの見たことないし、術理もわからない。
だがそれなのではないか、と思った。
武術の歩法は基本的に攻撃に特化している。
いかに攻めやすいか、いかに速く打つか――それこそが肝要。
殊に剣術ではそれが顕著だ。
なぜなら、斬られた相手は反撃してこないから。
それゆえ剣術は攻めを重視する。より威力が高く、より速く、より安全に斬り込める歩法が用いられる。
だが、ポニーテールの女が使う歩法は明らかにそれとは思想が違う。
言うなれば、生き延びるための歩法。
「忍び――か」
「ご明察」
「ぐっ!」
声と同時に膝裏を打たれた。
姿勢を崩されながらも振り向く。
想像よりも遥かに低い位置にポニーテールが揺れていた。
両足を滑らせ、腰が地面につきそうになっている。その状態からブレイクダンスのように伸ばした足を回し、足払いを仕掛けてきたのだ。
たまらず木刀を砂地に突き立てて杖にし、そこを起点にして素早く立て直す。
相手が低姿勢を保っているのは蜻蛉に対する対策でもあるのだろう。
上段から切り下ろす打ちは重力の助けを得られるために威力は高くなるが、低い地点に到達するのは遅くなる。相手は一方的に示現流剣士の無防備な下半身を攻撃できる。
その対策として、上体を沈めた相手を斬る型が示現流には存在する。
するのだが、クルミはまだ習っていない。
どころか示現流の基本とされる燕飛、三太刀さえ教わっていない。
――貴方には技はまだ早い。
――まずは立ち木を打ちなさい。
――朝に三千、夕に八千。
――それで一刀が必殺になったのなら、その先に進みましょう。
それが母の考えだったから。
まさかこんなところでその教えに恨みを覚えようとは。
しかしない袖は振れない。
教わってない技は出せない。
できるのは――ただ、必殺の一刀を繰り返すのみだ。
「キェェェェェェエエエエエェェェィ!」
「ふっ、ふっ、ふーっ!」
また避けられる。
本当に紙一重のところで必殺を打ちを避ける。
汗が飛び散り、二人の吐息が交じる。
ポニーテールの女はこちらの目を切るのが巧い。
そして、肉体を指先に至るまで実に緻密に制御している。
クルミの敬愛する綴喜ゆらの動きに近い。
(ゆら様に――似ている――)
そう考えた瞬間、頭になにか熱のようなものが籠もる。
――熱?
「キェェェェィ!」
「ふーっ、ふっ!」
二人の視線が交じる。
二人の吐息が交じる。
どこから来たのかわからない熱が頭の中を溶かし、心拍数を高めていく。
(私は――私は何をしようとしていたんだっけ)
不意にそんな疑問が脳裏に浮かんだ。
そしてそんな疑問を浮かべた自分の状態に驚いた。
(戦闘中だぞ――トンボを――トンボを構えなければ)
明らかに尋常な状態ではない。
いかに自分の頭の出来が悪いとは言え、ここまで胡乱になることはない。
息が切れているわけではない。酸素が足りなくなったわけではない。
ただ妙に頭の働きが鈍りつつある。
例えるなら眠気。
昼食をとった後の午後の授業で、急激に睡魔が襲ってきたときと似ている。
自分は必死に起きている。
真面目に黒板の内容をノートに写している。
なのに、はっとなって見直すと、意味のわからないことが書かれている。
あのときの感覚。
(いや、これは――おそらく攻撃――)
思考力を奪う毒の類だ。
どうやって仕込まれたかわからないが、対手の忍びに仕掛けられたものに間違いない。
まだ、ギリギリ意識は保てている。
だが動きはどうか。
今の自分がちゃんと示現流を使えているのか、自信がない。
「うぐっ――」
砂に足を取られ、よろけた。
体幹が保てていない。丹田への意識が疎かになっている。
――限界だ。
これ以上続けても無様を晒すだけだ。
では何を。
何すればいい。
何が目的だった? 何を命じられていた?
誰に、何を――
「――蓼科冥」
そうだ。
タデシナメイを連れてこいと言われていたのだ。
「蓼科冥を――連れて行く」
クルミは木刀をポニーテールの女に向けて投擲した。
驚きの臭い。
直撃の気配。
「づぁ――ッ!?」
「フーガ! 大丈夫ですか!?」
「すぐに手当を――」
場に生まれる混乱と動揺。
しかしそこには構わない。もうどうでもいい。
離れて戦いの行方を見守っていた三人の女子。
そこに突っ込んで、身柄を確保した。
「うぇぇええぇ!? なんでわたしなんですか!?」
「うるさい。タデシナメイを、連れて行くんだ」
身をよじる女子生徒の首根っこを掴み、引きずって斜面を駆け上がる。
過酷な鍛錬で培った筋肉と体力はそのポテンシャルを遺憾なく発揮し、ぐんぐん加速していく。
胡乱な頭のままで、後ろを気にすることもなく登っていく。
黄泉沢クルミは逃走に成功した。
対処に遅れた三人の女子生徒を残して。
何がなんだかわからないという顔の三つ編みの少女を引きずって。




