05:一日目/男島03
「――少々奥まで来すぎましたか」
金色に染めた長い前髪をかきあげて、大鳳示炎はつぶやいた。
どうも体力に任せて水場を探しているうちに進みすぎたようだ。人の気配がまるでない山中にいた。
空気の匂いが既に違う。
下船したときに感じたのは潮の匂い。
山に分け入ってから森の匂いがした。
今はそのどちらとも違った匂いがする。
雨の日の匂い。叩きつけられる水分が土を溶かして揮発したときの、ほのかに鼻をつく匂い。嗅覚だけではなく、耳にも激しい水音が届いている。
だが、雨が降っているわけではない。
気候ではなく地形的な理由だ。
――つまるところ、そこにあったのは大きな滝だった。
飛沫がときおり頬に届く。
肌触りも違う。五月とは思えないほど暑い島だが、この辺りは涼しい。
白濁した奔流は深い滝壺を作っており、わずかながら魚影も見える。
「まあ、場所としては悪くないですね」
ナイフを取り出して周辺の小さな木を切り、角度をつけて地面に刺していく。
すると、お互いの枝葉が重なって傾斜のきつい屋根になる。
その側面にも何本か木を刺して壁を作る。
これで一方向だけ開かれたシェルターの完成だ。
続いて杉の樹皮を剥いで重ね、屋根の下に置いて敷物にする。
地面に直接寝るという行為は人が思っている以上に体温を奪う。それを少しでも防ぐための工夫だった。
このサバイバル実習において重要なのは水と温度だ。
こうして水場の近くにビバーク用シェルターさえ作ってしまえばあとはどうにでもなる。
「極論、五日くらい食べなくても死にませんからね」
実際に絶食すれば筋肉がかなり落ちてしまうだろうが、示炎は気にも留めない。示炎の肉体は節制とトレーニングの成果ではなく、体質と趣味が噛み合った結果にすぎないのだ。
「と言っても、ここならその辺は杞憂になりそうですが」
周囲を見渡す。
水場特有の植生。イワタバコやウワバミソウが群生し、大きなミツバやワサビの姿も見える。滝壺とそこから流れる川には魚も泳いでいる。
食糧は豊富だ。
「ふむふむ。あと必要なのは火くらいですかね?」
水の危険は最重要知識として事前の授業で叩き込まれた。
溜まり水は雑菌が繁殖しているから危ない。
洞窟の水は石灰が溶け出していて腎臓を傷める。
川の水は寄生虫の恐れが拭いきれない。
だから可能であれば濾過をして、それから絶対に火を通して飲むべきである――という話だった。
水の危険性を周知するために行われた日本住血吸虫の講義はなかなかに恐ろしいもので、受講者の中には恐水症のような様相を呈する者もいた。
安全策は取りすぎるということはない。
示炎は天の導きを信じているが、目に見える障害物に当たりに行く趣味はなかった。
滝の周りを歩き回り、転がっている石をナイフの背で叩く。
それを繰り返しているうち、目当ての石を見つけた。
――火花の出る石だ。
いや、厳密に言えば火花を出しているのはナイフの方で、石に必要なのは金属を削れる硬度なのだが、とにかくこれで火起こしの憂いもなくなった。
杉の葉と樹皮を火口にし、ナイフの背を石で叩いて火花を散らす。
火花はあちこちへ飛んでは消え、なかなか火口に当たらない。
それでもそのまま打ち続けること数分、無事着火に成功した。
小さな赤い光に息を吹きかけて大きくし、そこに細い枯れ枝を組んでいく。
火が安定してきたら少しずつ投入する枝の太さを上げていく。
火が、炎に変わる。
示炎は少し思案して、滝のそばから大きな石を拾ってきて火の回りに組んでいく。
不格好ながらかまどが完成したところで、首を鳴らして座り込む。
パチパチと薪の爆ぜる音がする。
示炎は支給品の水筒を飲み干して、重ねた杉皮の上に寝そべった。
目を瞑る。
「――さて。果たして今回はどうでしょうかね」
先日の記章争奪戦。
滝川ツルギと戦えることを期待していたが、いくつかの要因が重なって機を逃した。
それでも示炎は信じている。
――自分とツルギの間には何かしらの縁がある。
惹かれるものを感じる。
複雑に絡まった糸のようなものを感じる。
それは例えば宿敵同士たるツルギと臣ほど強固ではないかもしれないが、いずれ逃れようなく戦うという確かな予感がある。
焦る必要はないはずだ。
この実習期間、五日もあれば機会はやってくるだろう。
……いや。
五日は待つにはいささか長い。
三日目までに何もなければ、ツルギかそれに準じる獲物を探しに出ることにしよう。
校内私闘禁止に触れない貴重なチャンスだ。
楽しまなければもったいない。
「ええ、ええ。性悪女に吹き込まれるまでもなく、拙は拙の意志でしかけましょうとも」
誰かのためではなく。
誰かに言われたからではなく。
大鳳示炎はいつだって自分自身の楽しみのために動く。
拙という一人称が示すとおり、示炎はもともと仏門の出だ。
不良然とした今からは想像もつかないが、模範的な人間であろうとした時期もあった。
だが、段々と内なる欲求が抑えきれなくなった。
懊悩する示炎に、あるとき父が言った。
『――我慢するのをやめろ』
殴り合いに生の喜びを見出すことは間違っている。
だから自分という存在は正しくない。壊れている。間違っている。
そう思っていたのに。
『いいか、示炎よう。確かにそいつは正しくない。法的にも仏の道的にもな。だが、人間は正しいだけである必要はねえ。一から百まで正しいだけでいいんなら、人間なんてこの世に一人で足りちまう』
座禅を組んで対面しながら、父は言った。
『仏に逢ったら仏を殺せ。先祖に逢ったら先祖を殺せ。聖者に逢ったら聖者を殺し、親に逢ったら親を殺せ。偉大なる先達の言葉だな。意味がわかるか?』
そのときの示炎は首を振った。
『人の言うことを鵜呑みにするなってえ意味だ。人は誰しも先に立つ誰かの言葉に縛られている。だがなあ、その誰かが絶対的に正しいとは限らないんだぜ。仏様のことでさえ疑って、教えから解き放たれて本当に自由になったとき、その先にこそ悟りが待っている――まあ、だいたいそんな意味だ。だったと思うぜ。たぶんな』
歯切れ悪くも自信満々に、笑いながらそう言った。
『だから、お前のやりたいことをやれ。俺ァ最低限の線引きくらいは教えてやったつもりだ。そこさえ守るなら好きにしろ』
弱すぎるものを殴るな。
戦う意志のないものと戦うな。
与する相手を間違えるな。
それからやりすぎるな。
それさえ守れるなら、好きなだけ喧嘩してこいと言ってくれた。
――それで示炎は今、ここにいる。
だから示炎は好きにする。
簡素なシェルターに寝そべって、のんびりと待つ。
来たるべき戦いを。
その相手となるものを。




