15:温かい感謝と、冷たい策謀と
夜も更けたころ。
うっすらとした明かりを頼りに、もはや勝手知ったる廊下を通ってツルギは一人進む。
「――誰もいないな」
脱衣所の扉を少しだけ開けて中の確認をしたツルギは、安心から肩の力を抜いた。風呂の電気は消えているし、人の気配も感じない。昨日の二の舞いは避けられそうだ。
改めて扉を開けて、洗面台に向かった。
置きっぱなしにしていた歯磨きセットを開けて歯ブラシを取り出す。
違和感。
「あれ……?」
歯ブラシが新品に変わっている。
だいぶ毛先も傷んでいたし、サラが気を利かせて変えてくれたのだろうか。
そう結論づけて歯磨きを済ませる。
それから片づけをして、ケースを持って部屋に戻る。明日の早朝には学校に戻るので、もうこの屋敷で歯ブラシを使うことはないのだ。
部屋にもようやく慣れて、戻るという感覚になってきたところだったが、それももう終わりだ。帰り支度もおおよそ済ませてある。
夕方まで使っていたトレーニングルームは終わった後入念に掃除した。サンドバッグには再び黙祷を捧げた。掃除の汗も風呂で流したし、歯も磨いたし、あとはもう寝るだけだ。
部屋に戻って、カバンに歯磨きセットをしまい、部屋の明かりを弱くしてベッドにもぐりこむ。
――見たことのないものを見て、聞いたことのないものを聞きなさい――
そんな師匠の言葉に従って、この二日間はたくさんの未知を経験した。
正直なところ、これが壁を破るきっかけになるとは思えない。
けれど純粋に楽しかったし、塔子や麻矢とは来る前よりずっと仲よくなった気がする。サラもおもしろい人だった。料理は上手だったし、いろんな話を聞かせてくれた。
本当にもう、感謝しかない。
武を始める前のころ――小学生のように無邪気に遊んで、楽しんでしまった。
そんな風に二日間を振り返っているうちに、睡魔がやってくる。
(明日起きたら、みんなにありがとうって言わないと……)
そんな思いが泡のように浮かんだ。
泡は心の中をふわふわと漂い、それを含めてすべての思考を睡魔が飲みこもうとして。
ツルギは目を開いた。
「――違う。ダメだ。言うなら今日だ」
むっくりと起き上がる。
明日やろう、という気持ちは努力の天敵だと、ツルギは知っている。
人の感情というものは移ろいやすい。
時間が経てば感情は薄れて小さくなるし、形が変わることもある。やらなければ、という気持ちが発生したときには、必ずそこでやらなければならない。
この、自分の中に生じたこの炎が消えないうちに届けなければ。
部屋の電気をつける。
それから眠気を払うように顔をこすると、自分の部屋を出た。
けれども廊下の薄暗さに迷いが生まれる。
「これはもう、塔子も麻矢も寝てるかな……」
「お嬢さまは起きておりますよ」
突然響いた後ろからの声に、心臓が飛び跳ねた。
反射的に前転して距離を取り、構えを取る。
薄明かりの中、静かに立っていたのはメイドのサラだった。
油断と眠気があったとは言え、声をかけられるまで気づけないとは。
息を吐いて構えを解く。
そんなツルギに頓着した様子もなく、サラは言った。
「先ほど紅茶をお持ちしましたので確かです。まだ寝ておられませんが――この真夜中に、お嬢様にどのようなご用件で?」
「い、いや、すごく些細なことなんですが」
二日間の感謝を今日のうちに伝えたいのだと告げた。
「そうですか、夜這いではありませんでしたか。つまらな――いえ、大変いいことだと思います。お嬢さまの部屋までご案内しましょう」
「助かります」
考えてみれば塔子の部屋には行くことがなかったので、サラがいなければウロウロと三階を彷徨うはめになっていただろう。見通しが甘すぎた。見切り発車の極みだ。
そんな自分にため息を吐く。
案内されるままに薄暗い廊下を進む。
背筋を伸ばしたサラの後ろ姿は隙がなく、やはり美しい。
例えば自分が大鳳示炎のようなタイプであればこの場で戦いを挑んだかもしれない。
そんなことを考えているうちにそれらしき扉の前まで来た。
「では、わたくしはこの辺で」
「あ、待ってください。サラさん」
礼をして立ち去ろうとするサラを呼び止める。
「まだ何か?」
振り返ったサラに、今度はツルギが頭を下げる。
「いや、貴方にもまだ言ってなかったなって。この二日間、色々とお世話になりました」
「……貴方は本当に、柔らかいのですね」
「柔らかい?」
「若くて、そして柔らかい。よいことです。またわたくしの中で大きく加点されました」
サラは笑った。
サラの笑いはいつも小さくて、目元も口元もほとんど動かないのだが、ツルギにはそれがわかった。
無表情の中の表情。塔子に似ているのだ。
「貴方のような若者はとうの昔に絶滅したと思っておりましたが、人間もまだまだ捨てたものではないですね。わたくし、感慨を覚えます」
「そんな大仰な……」
「そのまま柔らかく健やかに育っていかれますように、わたくし、切に願っております」
それでは、と背を向けて去っていくサラ。
しばらくその後姿を見送って、それからツルギは目的を思い出す。
そして塔子の部屋の扉をノックした。
「塔子、いるか。少し話がしたいんだが」
「……少し、待って」
部屋の中でなにやらガサガサという音がする。
それがしばらく続いた後、塔子が扉から顔を出す。
「……ああ、本当に本物のツルギだわ」
「たぶん偽物のツルギはいないと思うぞ」
真似をするだけの価値はないからな、とツルギは言った。
「……そんなことはないと思うけど……とりあえず、入って」
「ああ、お邪魔します」
部屋に入ると、不思議な既視感に襲われた。
「なんだかオレの寮の部屋と少し似てるな」
「……そうかしら?」
「物が少ないけどあんまり片づいてない感じというか、生活感はあるけど味気ない感じというか……いや、違う。そういう話をしに来たんじゃないんだった」
ツルギは頭を振ってから、塔子とはっきり目をあわせる。
「塔子、ありがとう。この二日は本当に楽しかった」
「……それなら、私の方こそ言いたいわ……貴方たちは私にたくさんの色をくれた……だから、ありがとう」
その言葉を聞いたツルギの顔が曇る。
「楽しかった。それは本当だ。だけど……だけどそもそもはオレ自身の勝手のために来たんだ。塔子のことも麻矢のことも考えてなかった。スランプを脱するために、オレは二人を利用したんだ。すまない」
「……そうなの?」
「そうだ。塔子も麻矢も、オレのことを考えてくれているのに、もらってばかりで、何も返せていない。返そうとさえしていなかった。オレは――自分が恥ずかしい」
「……いいえ、それは違う……返してもらっているわ」
塔子の答えに、ツルギは驚く。
「オレは、何かしていたか?」
「……何もしなくてもいいのよ……貴方が近くにいるだけで私は幸せだから……きっと、麻矢もそう思ってる」
むう、とツルギはうなった。
「そんなに無欲でいいのか」
「……それはどうかしら……私は、自分が無欲だとは思っていないけれど……」
そう言って塔子は部屋の隅を見た。
つられてツルギもそちらに視線を向ける。
大きなカバンが置いてある。大きい上にパンパンになるまで荷物が詰まっている。来るときもああだっただろうか、とツルギは首をかしげる。
そのファスナーの端から、見慣れた歯ブラシの柄が覗いていたような気がしたが、それはたぶんツルギの勘違いだろう。
使い古した他人の歯ブラシをわざわざ持ち帰る理由なんてどこにもないのだから。
夜半の静寂に包まれた白嶺学園の女子寮。
すでにほとんどの生徒が就寝している時間だが、綴喜ゆらは眠らずに自室の椅子に腰かけていた。自室の扉をにらんだまま組んだ両足をぶらぶらさせている。
ゆらは燃えるような赤毛をしている。その髪は満足に櫛も通していないようで、あちこちハネが目立つ。極端に短い前髪も含めて、彼女の個性を強烈に主張している。
と、彼女の部屋にノックの音が四度響く。
「――入れ」
「失礼します。ゆらさま、頼まれた件のご報告に上がりました」
小柄な女子生徒だった。
顔にはそばかすが散っていて、どちらかと言うと目立たず、教室の隅で一人本を読んでいそうなタイプだ。
「ご苦労だった、小牧。聞かせてくれ」
小牧と呼ばれた少女は顔を赤くしながら、懐から紙を取り出して読み上げる。
「それでは基本情報から。滝川ツルギ。二年D組。武系第三席。身長百五十六センチ、体重五十五キロ。獅子座のB型。部活動、委員会への所属なし。食べ物の好き嫌いなし。第二席にして風紀委員の倉本臣と極めて親しい。女子人気は中の上。その支持層は武系女子に偏っていて、一説には第四席の水無月玲子さまも――」
「その辺はいい。実用的なところまで飛ばせ」
ゆらに冷たくさえぎられ、小牧は身を縮こめる。
「は、はい。失礼しました。ええと、流派は無影血刀流。詳細は不明ですが、バリツなる力の極意があって体格に不釣合いなパワーを発揮するとか」
「『その強さが力に偏っているから、切り崩すなら滝川ツルギ』――か」
「はい、よく流布している話ですね。気まぐれで不戦敗の多い第五席や、ルールの不備で第四席に甘んじている玲子さまよりも、切り崩しやすいのは確かかと」
小牧は信じ切っているようだが、ゆらはこの風評を信用していない。
どうも特定の誰かがわざと流している気配があるのだ。おそらく記章争奪戦のターゲットを滝川ツルギに誘導し、他の記章持ちへの注意を減少させるためだろう。そうして競争相手を減らして記章を狙う作戦だと考えられる。
もっとも、こちらの目的は最初から滝川ツルギだ。だからおそらく今回そいつとかちあうことはあるまい。
「――続きを」
「戦闘傾向はやや慎重。特に初見の相手のときには見に回ることが多いそうです。現在両腕に包帯をしていますが戦闘には支障なさそうだった、という報告もあります」
「ふむ、大した怪我ではなかったわけか」
かねてより武系女子の話題に上がっていたツルギの腕の包帯。
その様子からある程度のハンデを期待をしていたのだが、そういうわけにもいかないようだ。
ではどうするか。
綴喜ゆらは考える。
武系コースには二種類の人間がいる。戦闘の過程を重視する者と、結果を重視する者。
自分は後者だ。戦いにおいて相手が不調であるならそこを突くべきだし、実力で得ようが幸運で得ようが、あるいは策謀で得ようが、それも含めて実力であり、勝利は勝利だと考えている。
「それからここ最近、特定の女子と行動を共にしていて、その関係を怪しまれています。名前は黒瀬塔子と八嶋麻矢。ともに一般コースの女子生徒です」
「ああ、そんな話もあったな」
「特に前者は体が弱く、集会などを免除されていて、一人でいることが多いとか」
「ふむ――」
ゆらは机に足をかけ、突き放すように椅子を傾けながら思考を巡らせる。
集めた情報を使って構想を糸のように編み上げていく。
「――小牧」
「は、はいっ!」
「当日、頼みたいことがある。手配してくれるか?」
「もちろんです、ゆらさま! お心のままに!」
――白嶺祭まで、あと二日。




