13:サンドバッグへの黙祷と、裸のメイドからの謝辞と
部屋に荷物を置き、動きやすい服装に着替えて三人はトレーニングルームに来ていた。
簡素だとは言っていたが床材から柔らかなものに変えられているし、機材も一通りそろっている。たとえばランニングマシンやエアロバイクなどの有酸素運動用機械、チェストプレスなどの筋力トレーニング器具。
それと、吊るされたサンドバッグ。
「すごいな……」
「すごいですね……」
興味深く部屋の中を歩き回るツルギと麻矢に対し、塔子は早々に座って見学を決めこんでいる。
「わたしも使わせてもらおうかな……ちょっとお腹周りが気になるんですよね……」
「確かに、もう少し筋肉をつけると何かあったときに安心かもしれないな」
例えば通り魔に刺されたときとか。筋肉には鎧としての効果もあるのだ。
「いえ、そうじゃなくて……」
麻矢の表情を見る限り、どうも意図が違ったらしい。
女子の考えることを推測するのは難しい。
「それで、ツルギくんが気になったのはどれですか?」
「これだ」
立ち止まったのはサンドバッグの前。
「ははあ。機材じゃないんですね」
「これは相当いいものだぞ。下手をすると寮のトレーニングルームのヤツより高いかもしれない」
表面を撫でて、質感と厚さを確かめる。
これならツルギが本気で殴り回しても破れることはあるまい。
「麻矢、少し下がってくれ」
「あ、はい」
拳を振るう。
二度、三度と叩いても、重いサンドバッグは衝撃を吸収し、揺れもすぐに収まる。
鈍い打撃音が室内に響く。
「おー」
麻矢が控えめな拍手をする。
それでツルギも調子に乗ってしまった。
――構えを取る。
鉤爪のようにした左手を前に出し、拳を作った右手を後ろに引き絞る。
ちょうど弓を引いているような構えだ。
目を閉じて、深く息を吸う。
さらに右腕を下げていくと、肺が圧縮されて獣の唸り声のような音がのどから漏れる。
体の中の歯車同士を押しつけて噛みあわせるイメージ。
自重を矢として、己の体を弓として、全身の力で極限まで引き絞り――
――撃ち出した。
明らかにさっきとは違う手応え。
遅れて風圧が顔をなでる。
サンドバッグが大きく跳ね上がり、金具が悲鳴のような軋みをあげ――ついには天井から引きちぎられた。
大きな音を立てて、サンドバッグが壁にぶつかる。
「おー……」
麻矢が気の抜けた声を出す。
塔子がぱちぱちと拍手をくれる。
「い、いや。違うんだ。悪い、すまない、こんなつもりでは……せっかく塔子とサラさんが用意してくれたのに……」
恥ずかしい。心が痛い。
ちょっと格好つけようとしたばっかりに、こんなことになるとは。
「……いいのよ。ツルギのために用意したものなのだから」
「すまない、本当にすまない……」
飛ばされたサンドバッグをそっと部屋の端に置き直し、黙祷を捧げた。
そんなツルギに麻矢が声をかける。
「もしかして今の、火事のときにも使いました?」
「ん。ああ、そうだったな。扉が開かなかったら」
歪んだ避難扉をこじ開けるために使ったのが、この《獅子懸》だった。
ツルギの流派、無影血刀流において基礎の完成を確認するための型なのだが、用いれば高い威力とそれに準じた反動を発揮する。そのため、体が成長しきるまではあまり使うなとも言われていた。
それを今は格好つけるために披露してしまった己の未熟を、ツルギは恥じ入る。
「ほんとすごい威力ですよね……ツルギくん、身長はわたしとそんなに変わらないのに。何か秘訣とかあるんですか?」
「ううむ、そうだな……」
獅子懸は複雑な身体運用を組み合わせた型だ。
やっていることを全部説明するのは難しい。
強いてわかりやすく言うのならば――
「手じゃなくて、体で打つことだ」
「体で、ですか?」
よくわからない、という顔をする麻矢。
仕方ない。これは実感しないとわからないことだから。
「自分のすべてを使うこと、拳に自重を載せること――それが一番基本で、一番大切なことだからな」
「ははあ」
難しそうな顔で考えこむ麻矢が、不意に眉をひそめる。
「ツルギくん、ちょっと血が出てます」
「む」
見れば、包帯の一部が赤く染まっている。傷口のどれかがまた開いてしまったらしい。
「とりあえず包帯を外して薬を塗って、血が乾いてから新しい包帯巻きましょうか」
腰のポーチの一つから軟膏と包帯を取り出す麻矢。
「何から何まで、申し訳ない……」
するすると包帯を解く麻矢と、その様子をのぞきこむ塔子に、頭をかく。
猛省せねば、とツルギは固く誓った。
大きなあくびをして、ツルギはふかふかのベッドに倒れこむ。
どうやらこれも高級品のようで、体が沈むほど柔らかい。
手足が布団とこすれる感触があまりに心地よく、自然とまぶたが重くなっていく。
傷が開いたことで麻矢から今日はおとなしくしていましょうとなだめられ、昼食後は屋敷の中を探索して回ったりした。物置になっている部屋にはいろいろなものが押しこまれていて騒いだり笑ったりと忙しかった。
それからティータイム。
サラにケニルワースとかいう紅茶を淹れてもらった。その講義も面白かった。アールグレイとはフレーバーを足したもので、オレンジペコは茶葉の大きさ。茶葉の種類とは別の概念で、だからダージリンのアールグレイのオレンジペコ、なんてことが有り得るのだ、とか。
「……ああ、楽しかったな……」
不思議な感慨だった。
すっかり忘れていた感覚。いつもなんでも武術を通して見てきたツルギが、どこかで置いてきたもの。まるで世界に色が一つ増えたような感じだ。
うつら、と何度か眠りかけながら、一日を思い返す。
食事は美味かったし、風呂も広かった。
小学生の頃のように純粋に楽しんでしまった。
「ああ……そうだ……まだ歯を磨いてないんだった……」
しかし、このまま眠気に意識を委ねればどれほど気持ちいいか、という悪魔の誘惑が鎌首をもたげる。
「……いや、ダメだ。さっぱり磨いて、すっきり寝よう」
心を奮い立たせて起き上がり、荷物から歯磨きセットを取り出す。
それから部屋を出て、洗面台のあった風呂場に向かう。
窓の外は真っ暗だ。まるで黒い紙が貼ってあるようで何も見えない。
眠い目をこすり、つけっぱなしになっている廊下の燭台状の光源を頼りに進む。
そして歯磨きセットのケースをいじりながら脱衣所の扉を開けたとき、奇しくも対面にある風呂場の扉が開く。
現れたのは全裸のサラだった。
「おや、滝川さま。わたくしの体をご所望ですか?」
「違います」
答えながらも、ツルギは内心感嘆した。
美しい。全体的に均整の取れた実用的な筋肉がついている。女性的な肉体美と、運動のための機能美が兼ね備わっている。
やはり何らかの武術の達人かもしれない。
「ずいぶん堂々と眺めてくれますね」
「あ、いや、そんなつもりでは」
背を向けて洗面所の方へ振り返ったが、今度は鏡にその裸体が映る。
仕方ないので目をつむって歯磨きを始めた。
それでもタオルで体を拭く音は耳に届く。
「ところで、滝川さま」
「なんですか」
「――お嬢さまを助けていただき、ありがとうございました」
それは、身がすくむほど熱のこめられた声だった。
思わず振り返ると、下着姿のサラが静かにツルギを見つめていた。
「あれはわたくしの不徳と不始末でした。滝川さまには感謝してもしきれません」
どうやらスフィアデパートの一件を言っているようだった。あのとき、あの場所に彼女もいたのだろうか。
「その上あのお嬢さまが誰かを信頼して、欲して、自分で動くとは。そんな変化を期待したことさえ、ありませんでしたのに」
そこまで言って、サラは張り詰めていた表情を不意に和らげる。
「色んな意味でわたくしは貴方を気に入ってしまいました。わたくしの力が必要なときはいつでもおっしゃってください。命の限りにご助力しましょう」
かすかな微笑を浮かべるサラに、心臓の動きが早くなる。
「……じゃあ、そのときには、よろしくお願いします」
かろうじてそれだけ告げると、サラは満足したように会釈して、着替えに戻った。
それからふと思い出したようにつけ足す。
「ちなみにエッチなお願いはダメですよ」
「しません」




