第3話 堅物管理官と、公爵家の食卓
「マティルドの菓子工房」は、その小さな始まりからは想像もできないほどの評判を呼んでいた。
村の子供たちがお小遣いを握りしめてクッキーを買いに来たり、農作業帰りの男たちが「嫁さんへのお土産だ」と照れくさそうにタルトを買っていったり。素朴だけれど心を込めて作ったお菓子は、少しずつ、確実にディルフィア領の人々の日常に溶け込み始めていた。
「マティルド様、見てください! 今日もこんなにたくさん売れました!」
工房の閉店後、フローラが興奮気味にその日の売上金が入った袋を振る。帳簿をつける私の隣で、彼女は目をキラキラさせながら今日の出来事を捲し立てる。この活発で太陽のような少女は、今や私にとって欠かせない相棒であり、大切な友人だった。
「すごいわ、フローラ。あなたがお客さんにてきぱき対応してくれるおかげよ」
「へへ、任せてください! それにしても、マティルド様の作るお菓子は本当にすごいですよ。みんな、食べると魔法にかかったみたいに笑顔になるんですから!」
フローラの言葉に、胸が温かくなる。領民たちの笑顔。それこそが、私がこの工房を始めたかった理由なのだから。
しかし、そんな穏やかな日々は、ある日突然、終わりを告げた。
その日も、いつものように工房でフローラと仕込みをしていると、入り口にすっくと立つ人影が現れた。逆光で表情はよく見えないが、その厳格な立ち姿と、周囲の空気が一瞬で張り詰める感覚に、私は嫌な予感を覚えた。
「…アルト様」
現れたのは、やはり領地管理官のアルト・エーベルだった。銀縁眼鏡の奥の鋭い目が、工房の中を値踏みするように見回している。いつの間にか集まっていた村人たちも、彼の姿を認めると、蜘蛛の子を散らすように距離を取った。フローラも私の後ろに隠れるようにして、緊張で体を強張らせている。
「マティルド様。少々お話を伺ってもよろしいですかな?」
低い、抑揚のない声。有無を言わせぬその響きに、私は背筋を伸ばして向き直った。
「はい、アルト様。どのようなご用件でしょうか?」
「単刀直入に申し上げます。このような場所で、侯爵令嬢ともあろうお方が、いつまでこのような『道楽』をお続けになるおつもりか、と」
『道楽』。その一言に、カッと頭に血が上りそうになるのを、ぐっと堪える。ここで感情的になっては相手の思う壺だ。
「道楽、とおっしゃいますと?」
「見ての通りです。領地の蔵を勝手に使い、素性の知れぬ者(と、アルトはフローラを一瞥した)を雇い入れ、本来勉学に励むべき時間をこのような…商売の真似事に費やす。これは、グリュース侯爵家の名を汚す行為であり、財政の無駄遣い以外の何物でもありますまい」
冷静沈着、理路整然とした非難。しかし、彼の言葉には明確な誤りがある。
「お待ちください、アルト様。まず、この工房は決して道楽ではありません。そして、無駄遣いどころか、既に利益を生んでおります」
「…なに?」
私は、この日のために用意しておいた帳簿をアルトの前に差し出した。前世で経理の基礎知識も多少かじっていたのが役に立った。収入、支出、材料費、そして純利益。数字は嘘をつかない。
アルトは怪訝な顔で帳簿を受け取ると、そこに記された数字を指で追い始めた。彼の眉間の皺が、みるみる深くなっていくのが分かる。予想以上の利益に、さすがの彼も驚きを隠せないようだ。
「…なるほど。数字の上では、確かに利益が出ているようですな。しかし、問題はそれだけではない。そもそも、貴族が、ましてや侯爵令嬢が自ら商売に手を染めるなど、前代未聞。領地の秩序を乱す行為です」
「ですがアルト様、このお菓子で領民の方々が笑顔になっているのも事実です。衰退しつつあったこの土地の果物にも、新たな価値が生まれています。それは、数字には表れない、大切な『利益』ではないでしょうか?」
私の問いかけに、アルトはしばし黙り込んだ。銀縁眼鏡の奥の瞳が、複雑な色を宿して揺れているように見えた。やがて彼は、ふう、と一つため息をつくと、帳簿を私に返した。
「…今回は、この帳簿の数字を信じましょう。ですが、マティルド様。もし今後、何か問題が発生した場合、あるいは侯爵家の名誉を著しく損なうような事態が起きた場合は、この工房は即刻閉鎖していただきます。よろしいですな?」
「…はい。肝に銘じます」
厳しい言葉を残し、アルトは踵を返して去っていった。彼の背中が見えなくなるまで見送ると、全身からどっと力が抜けた。
「は、はぁ〜…怖かったぁ…」
「フローラ、大丈夫?」
「だ、大丈夫ですけど…マティルド様、すごいです! あのアルト様に言い返すなんて!」
「ふふ、帳簿のおかげよ」
内心は冷や汗ものだったけれど、ひとまず最大の難関は突破できた。でも、アルト様の言う通り、いつまでも秘密のままではいられないだろう。公に認められる、何かきっかけが必要だ。
チャンスは、意外な形で訪れた。数日後、父である侯爵から、近隣領地の貴族を招いた小さな晩餐会を邸で開くこと、そして、その準備を手伝ってほしいと頼まれたのだ。
(これだわ…!)
私は父に願い出た。「お父様、晩餐会のデザートを、私に作らせていただけませんか?」と。父は最初、「お前が? 厨房の者に任せれば…」と戸惑っていたが、私の熱意と、「アルト様にも認められた腕前なのですよ?」という(少し盛った)言葉に、最後は「…まあ、良いだろう。ただし、失敗は許されんぞ」と許可をくれた。
晩餐会当日。私はフローラにもこっそり手伝ってもらい、厨房の一角を借りて最高のデザート作りに集中した。メニューは、アルト様を(数字の上で)黙らせたリンゴタルトを改良したものと、数種類の焼き菓子のアソート。使うのはもちろん、ディルフィア領自慢の果物や木の実だ。
緊張の晩餐会。メイン料理が終わり、いよいよデザートの時間。銀のワゴンに乗せられた私の作品が、ゲストたちの前に運ばれていく。心臓が早鐘のように鳴る。
一口食べたゲストの口から、最初に漏れたのは感嘆の声だった。
「おお…これは、素晴らしい!」
「なんという香り高さ! タルト生地のサクサク感も絶妙だ!」
「この小さな焼き菓子も…! 口の中でほろりと溶ける…!」
次々と上がる称賛の声に、父も母も目を丸くしている。
「グリュース侯爵、これは一体どこの菓子職人の作かね? 我が領にもぜひ招きたいものだが」
「いえ、これは…」父は一瞬ためらい、そしてどこか誇らしげに言った。「娘の、マティルドが作ったものでして」
「「「ええっ!?」」」
会場が驚きの声で満たされる。まさか10代の令嬢が作ったとは思わなかったのだろう。注がれる驚嘆と賞賛の視線に、私は頬を染めながらも、小さく胸を張った。
ふと、会場の隅に目をやると、そこには難しい顔でデザートを口に運ぶアルト様の姿があった。彼がどんな評価を下すのか、固唾を飲んで見守る。彼はゆっくりとタルトを味わい、そして…ほんの少しだけ、本当に僅かに、口角を上げたように見えた。そして、私の方を見て、小さく、誰にも気づかれないほど小さく頷いた。
(…認めて、くれた?)
確信は持てない。けれど、あの堅物なアルト様の、ほんの僅かな変化。それが、何よりも嬉しい成功の証のように感じられた。
この日の晩餐会での成功は、私の自信を大きく後押ししてくれた。同時に、私の「お菓子」が、ただ領民を喜ばせるだけでなく、貴族社会においても通用する力を持っていることを証明してくれたのだ。
(次は、もっと大きな舞台で…!)
頭に浮かぶのは、年に一度、秋に開催される「スイーツフェスティバル」。領主一族や近隣諸侯が集い、名産菓子での外交も行われるという、ディルフィア領最大のイベント。
(あの舞台で、私のスイーツを披露できれば…!)
新たな目標が、胸の中で熱く燃え始めた。アルト様という壁はまだ高いけれど、今日の成功をバネに、きっと乗り越えてみせる。私のスイーツで、この領地をもっともっと輝かせるために。
(第三話 了)




