10 まさかミュゲは・・。
灰色の髪の男がアスランに殴り掛かった。
だが、その拳はアスランに届くことはない。
ミュゲが、通路入り口の男の頭上を飛び越し、アスランを殴ろうとしていた男の顔面に、強烈な蹴りを入れたからだ。
男は後ろに仰け反ったまま、ゆっくりを倒れた。
「アス・・じゃなかった。アーシュ、いないから心配しましたよ! 血の気が引くらいに焦ったんですから!!」
本当に心配していたミュゲは、涙目でアスランに近寄り、少し怒りながら買ってきた綿菓子を見せる。
「黙って動かないでくださいね! それと・・はい、どうぞ。これを食べながら、ゆっくり帰りたかったんだけど・・もう時間もないかな?」
呑気にそんなことを言っているミュゲに、アスランが「今はそんな事を言っている場合では・・」と状況を説明しようとするが、一向に気にしていない。
それどころか、ミュゲはアスランの膝の擦り傷を見て震えている。
「なな、なんて事を!」
押された時に転んで出来たものだが、今はこの危険な状況から、ミュゲだけでも逃がさないと、アスランは焦っていた。
この危機的状況で、ミュゲが擦り傷を確認しようと凝視して動かない。
「少し擦っただけなのかな? でも、水で流す方がいいかな?」
仲間がやられたため、息巻いていた男の一人が、ぶつぶつ呟くミュゲの後ろから、怒号と共に刃物で襲い掛かってきた。
「よくもやりやがったな!!」
「あっ」、と息を呑んだアスランだったが、ミュゲは後ろ向きのまま少し頭を傾けただけでその刃物を躱し、左手でその手を掴むと右手裏拳で男の顔を軽く殴った。
「ぐあはっ」
変な声を上げ、その男は白目を剥いてヒックリ返っている。
何が起こったのか、全く理解できないアスランは、倒れている二人の男を呆然と見ていた。
ミュゲは、すっくと立ち上げると「アーシュに傷を負わせた奴は誰?」と無表情で、そこにいた男たちに聞く。
苛立ったミュゲが、落ちていた刃物を拾い、レンガの壁に突き刺す。
まるでフランスパンのように簡単に、刃物が持ち手までしっかり刺さった。
圧倒的な強さを感じ、動ける男たちは、一斉に逃げ出した。
「仲間を置いていくなんて、あり得ないわ」
一人、ミュゲが怒っているが、その声だけで、路地裏は途端に静かになった。
すると、さっきまで殴られていた男の子が、アスランにお礼を言うために、倒れている男を避けながら出てきた。
「助けてくれて、ありがとう。こいつら、僕たち子供がご飯を拾うと横取りするんだ」
「じゃあ、路地に入らず、広場ですぐに食べればいいのでは?」
アスランが質問をすると、男の子は声を落とし、警戒しながら答えた。
「僕たちは大通りで食べちゃいけないって、決まりがあるんだ」
「なんだ?そのルールは・・」
アスランは怒り、眉を寄せる。
「仕方ないよ、ザラ側妃が僕たちみたいなのを見たくないって言ったせいで、あまり大通りには出れないんだ。長くうろうろしていれば、治安部隊に捕まるからね」
「そんな・・・」
アスランは自分が言った言葉ではないのに、王族の発言でこんな事になっているのが、居たたまれなかった。
その時、男の子のお腹がグウーと鳴る。
アスランはミュゲを見た。
アスランの言いたいことを理解したミュゲが、今日買ったパンを全てその男の子に渡す。
しかし、アスランはそれだけでは満足できず、「お金も渡して欲しい」と、ミュゲに目で訴えて頼んでみたが、それは出来なかった。
ミュゲに首を横に振られてしまったのだ。
パンを貰った男の子は、嬉しそうに一口食べると、残りを服の中に隠してすぐに帰っていく。
誰か待っている者がいるのだろう。
見送っている時間はない。
なぜなら、侍女長と約束した時間に遅れそうなのだ。
「アーシュ、走って下さい。時間がないです」
アスランは行きと同じように、ミュゲの手を繋いだ。だが、行きとは違い、走らなければならない。
走りながら、アスランにはミュゲに尋ねたいことが沢山あった。
だが、息が切れて中々聞けない。
ハーハー・・・
「あのさ・・・なぜお金・・・あの子に・・・渡さなかったの?」
「最近、良く買い物にこの街に来るのですが、治安部隊というのが警らしてるんですよ。あの子がお金を持ってて、治安部隊に捕まったら盗っ人扱いにされて、あの子は治安部隊に殺されるでしょうね。だから渡さなかったんです」
ハーハーハー・・・
「でも・・・貰った・・・と言えば?」
「あの子の言うことなんて、ここの治安部隊は聞いてくれませんし、そもそも、私らも名乗り出る事ができないから、あげなくてよかったんですよ」
「ハーハー・・・。・・・・。」
アスランは自分の無知を恥じた。
善意のつもりが、あの子を殺してしまうところだったのだ。
更に国民の味方がである、治安部隊が傍若無人に振る舞っている事に驚いた。
「あの・・・」
ミュゲが申し訳なさそうに振り返り、後ろ向きで走っている。
器用だなと思いつつ、「ハァーハァー・・・何?」とだけ言えた。
「ロスベータ侍女長の約束した時間に遅れそうなんです。少し急ぎたいから・・アスラン殿下を抱っこして走ってもいいですか?」
流石のアスランも、空いてる手を振って嫌がる素振りを見せる。
「ですよね・・・。ロスベータ侍女長に何度もアスラン殿下から離れるなと言われてたのに、離れて怪我させるし、これで遅れたら私・・・滅茶苦茶怒られるのかな・・・」
チロリ。
ミュゲが抱っこしたそうに見ている。
でも、それは恥ずかしい。恥ずかしすぎる。
アスランはもう疾うの昔に体力の限界を越えていたが、流石に女の子に抱き抱えられたくない。
酸欠の頭で、ミュゲが侍女長に怒られているところを想像する。
悲しそうに大粒の涙を流し泣いているミュゲが容易に浮かぶ。
どんどん、落ちるスピードに、アスランが男のプライドを捨ててミュゲに抱っこされようかと考えた。
しかし、足が止まらない。
流石に、か弱い女の子に抱っこされるのは・・・・。
あれ?
ミュゲは・・か弱いのか?
漸く考えが、そこに辿り着いた。
ハーハー・・
もしかして、本当にロスベータ侍女長は、本当に私を外に連れ出し、外の世界を見せようと思っただけだったのか?
一瞬で二人の男を倒したのは、今目の前をしかも、後ろ向きに軽々走っている少女だ。
「もうちょっとです!!」
ミュゲは息も切らさず、アスランの手を引いて走り続けていた。
もうダメだ。足が止まる。
そう思った時、行きに見た井戸が見えた。
やっと、着いた。
だが、まだ安心は出来ない。
ここからは、城内に繋がる秘密の通路。
ここでうっかり、ザラの手の者に遭遇すれば終わりだ。
「大丈夫ですか? 休憩したいところですが、時間がないから、すぐに行きますね」
すぐに行くと言ったのに、ミュゲは何故か歩き出さず、じっと手を見ている。
「ああああっっっ!!」
ミュゲの叫びにアスランが構えた。
「どうしたの?!!」
「ない・・・。手に持っていた綿菓子がない・・・」
「なんだ・・・。」
ふー・・と一息ついたアスラン。
「急がないとだめだし・・・、諦めます。でも、いつ失くしたのかな?・・」
名残惜しそうにしながらも、先を急ぐミュゲ。
普段は騒ぐこともないミュゲは、食べ物の事だと大騒ぎして、幼い少女になる。
戦っている時と全く違うように見えた。
歩いて息切れが落ち着いてきたアスランは、疑問に思っていた事を口にした。
「ミュゲは強かったんだ・・」
言われたミュゲは、何を今さら?の顔だ。
「だから、虫も殺せるって言いましたよ?」
丁度その時、ヒラヒラと蝶々が二人の目の前を飛んでいった。
「虫っていうから、こんな蝶々かと思っていたんだよ。違うんだね?」
ミュゲの顔は呆れ顔に変わった。
「フッ・・蝶々は、昆虫ですよ?」
確かに昆虫だけど・・・。
昆虫は虫と言うのが一般的なんだけどな・・。『フッ』と笑われたアスランはミュゲの呆れ顔に不服だ。
アスランの顔を見ていないミュゲがダンメルス領の一般的な呼び方を教える。
「蝶々みたいなのが昆虫で、魔虫は『むし』って言うんです!」
知らないの?とばかりにミュゲに言われると、常識を疑われているようで、アスランも少し反論する。
「ここに、魔虫はいないから・・。それに魔虫は見たこともないよ」
「・・・・。ええええ?!」
ミュゲは大層に驚き、少ししてから「そうか、見たこともないのか・・」と呟くと、何やら考え込んでいた。
「ところで、『昆虫』と『魔虫』の違いって大きさなの? 魔虫って人を殺すの?」
アスランの質問に、考えていたミュゲは顔を上げる。
「昆虫でも、毒とか持ってて刺されたら死ぬ事もありますし、魔虫でも掌サイズの小さいサイズがいます。一番の違いは、魔虫は生きてる人間を食料として襲ってくる事です」
「・・人間が・・食料」
アスランがゾッとする。
「特に怖いのは大陸ムカデで、長い奴で3メートル。狂暴で、家畜や人も襲われるから要注意です」
「さ、さん・・めーとる」
想像以上の大きさだ。思わずアスランは唾を飲む。
「でも安心して下さい。私でも大陸ムカデは狩れるし、まとめて3匹くらいなら大丈夫!!」
そう豪語するミュゲに、アスランは漸く確信した。
ロスベータ・ヘイツ侍女長は、ミュゲが護衛として適任だと判断して、王宮の外に出してくれたのだと。
「ロスベータ侍女長は、今日外に出る時、君に何て言ってたの?」
「『殿下のお側を離れないように、絶対に守って下さい』って、仰ってたのですが・・離れてしまって・・」
アスランは肩の力が抜けた。
ロスベータ侍女長にも、とうとう見捨てられたのだと思い込んでいたが、違ったようだ。
やはり、必ず大事なことは本人の口から聞かないといけない。勝手に決めつけてはならぬのだなと、肝に銘じるアスランだった。




