強大な怪物
怪物が、
少女へ腕を伸ばす。
「――っ!」
地面を蹴った。
考えるより先に、
身体が動いていた。
「その子から離れろ!」
少女の前へ飛び出す。
その瞬間。
「……え?」
僕は自分の目を疑った。
怪物の姿が、
揺らいで見えた。
黒い身体。
異様に長い首。
四つん這いの姿。
その中に、
誰かいる。
いや。
違う。
誰かに、
怪物が重なっている。
「……人?」
男だった。
黒い服を着た、
どこにでもいそうな男。
その背中に覆い被さるように、
怪物が張り付いていた。
「ハクト」
「ああ」
男は、
僕たちに気付いていない。
その少女だけを見ていた。
「おじさん」
少女が男を見上げる。
「お友達、どこにいるの?」
男が笑った。
「もう少し先だよ」
「でも、お母さん待ってるから……」
「大丈夫」
男はしゃがみ、
少女と目線を合わせる。
「おじさんも友達だから」
「……友達?」
「ああ」
男が手を伸ばす。
その手に重なるように、
怪物の長い腕が伸びた。
「駄目だ!」
思わず叫んだ。
男と少女が、
同時にこちらを見る。
「……誰?」
少女が首を傾げる。
男の表情から、
笑みが消えた。
「その子から離れろ」
「何だ、君は」
「いいから離れろ!」
男が立ち上がる。
「この子とは知り合いだ」
「嘘つけ!」
「嘘じゃない」
男は、
少し苛立ったように僕を見る。
「なあ?」
少女を見る。
「おじさんと友達だよな?」
「……うん」
「え?」
少女は、
何も分かっていないようだった。
「さっきお友達になったの」
男が笑う。
その背後で。
怪物も、
笑っていた。
ハクトは、
男を見つめたまま静かに呟いた。
「乗り移られてる」
「……乗り移る?」
「ああ」
「怪物って、そんなことできるの?」
「できる」
ハクトの表情から、
いつもの軽さが消えていた。
「奴らは、人間の悪に寄ってくる」
「悪……?」
「欲望」
ハクトが男を見る。
「憎しみ」
怪物の長い首が、
ゆっくりと揺れる。
「嫉妬」
そして。
「殺意」
まだ夏の夕暮れ時なのに、
冷たく鋭い風が吹いた。
「人間の中にある、そういうものを食う」
「……食う?」
「ああ」
僕は男を見る。
どこにでもいる、
普通の人間にしか見えない。
その背中に、
怪物がいることを除けば。
「じゃあ……」
喉が乾く。
「こいつは怪物に操られてるってこと?」
「ああ」
「だったら、この人は悪くないんじゃ――」
「違う」
ハクトが遮った。
「怪物は、何もないところに悪を作るわけじゃない」
「……え?」
「元々そこにあるものを食う」
男の背後で、
怪物の身体が蠢いた。
「そして」
ハクトの目が細くなる。
「その悪を大きくする」
「……」
男が、
少女の手を掴んだ。
「行こう」
「待て!」
僕は男の前へ出る。
「その子をどこに連れていくつもりだ」
「君には関係ないだろ」
「あるよ」
「ない」
男の声が、
少しずつ低くなる。
怪物の黒い腕が、
男の身体へ沈んでいく。
「邪魔するな」
その瞬間。
胸の奥が、
強くざわついた。
「湊!」
男が動いた。
「――っ!」
拳が飛んでくる。
身体を反らす。
目の前を、
拳が通り過ぎた。
「危なっ……!」
「離れろ!」
男が再び拳を振る。
避ける。
でも。
反撃できない。
「くそっ……!」
昨日なら、
殴ればよかった。
でも今は。
怪物の中に、
人間がいる。
男の拳を避ける。
「湊! その怪物を男から引き剥がせ!」
「どうやって!」
「昨日を思い出せ」
「昨日?」
「欠片だ」
男の拳が飛んでくる。
身体を横へ投げる。
「欠片を取り込んだ時のことを思い出せ!」
「そんなこと言われても!」
昨日。
手のひらに置かれた、
黒い欠片。
握った瞬間。
心臓が、
大きく鳴った。
身体の中を、
何かが駆け巡った。
熱かった。
でも。
嫌な感じはしなかった。
まるで。
ずっとそこにあった何かが、
目を覚ましたような――
ドクン――
「……っ」
胸の奥が、
脈打った。
「え……?」
一瞬。
世界から、
音が消えた。
男を見る。
その背中に、
怪物が張り付いている。
さっきまで、
ただ重なっているようにしか見えなかった。
でも。
今は違う。
怪物から伸びる黒い何かが、
男の身体の奥へ入り込んでいた。
「……見える」
「何がだ」
「分かんない」
胸に手を当てる。
また。
ドクン――
「でも……」
何かがいる。
自分の中に。
そんな気がした。
「何をしている湊!」
ハクトの声が聞こえる。
でも、
遠い。
目の前の怪物だけが、
異様にはっきりと見えていた。
男が地面を蹴る。
拳が飛んでくる。
身体をかわす。
そのまま、
怪物へ手を伸ばした。
「――っ!」
指先が、
黒い身体へ触れる。
その瞬間。
ドクン――
胸の奥で、
何かが弾けた。
「うわっ……!」
僕の腕から、
何かが流れ込んでいく。
熱い。
昨日と同じだ。
いや。
違う。
昨日は、
外から入ってきた。
でも今は。
僕の中から、
溢れてくる。
「なんだよ……これ!」
手を離そうとする。
でも、
離れない。
怪物の身体が、
男から少しずつ浮き上がっていく。
「ギィ――!」
怪物が、
初めて声を上げた。
暴れる。
男の身体にしがみつこうと、
長い腕を伸ばす。
「ハクト!」
「そのまま離すな!」
「何が起きてるんだよ!」
「俺にも分からない!」
「はぁ!?」
「でも――」
ハクトが、
僕の腕を見ていた。
その顔から、
いつもの余裕が消えている。
「そいつを引き剥がせる!」
「無茶言うなよ……!」
腕に力を込める。
胸の奥が、
激しく脈打つ。
ドクン。
ドクン。
怪物の身体が、
少しずつ男から離れていく。
「離れろ……!」
怪物が暴れる。
「その人から――」
力を込める。
「離れろ!」
思い切り、
腕を引いた。
その瞬間。
怪物の身体が、
男から引き剥がされた。
「――っ!」
男がその場へ崩れ落ちる。
怪物だけが、
地面を転がった。
「……え?」
僕は、
自分の手を見る。
何もない。
さっきの熱も、
もう消えている。
「今の……」
ハクトを見る。
「何?」
ハクトは答えなかった。
ただ、
僕の手を見つめていた。
「……ハクト?」
「俺にも分からない」
「え?」
胸が、
小さく鳴った。
「じゃあ……」
自分の胸を見る。
「今のは、何なんだよ」
「……分からない」
ハクトはそう答えた。
でも。
その目は、
明らかに何かを警戒していた。
「湊」
「何?」
「今は怪物を見ろ」
顔を上げる。
引き剥がされた怪物が、
ゆっくりと立ち上がっていた。
「……そうだった」
拳を握る。
今は、
考えている場合じゃない。
怪物の顔が、
こちらを向く。
人間みたいな笑顔が、
ゆっくりと歪んだ。
今度は。
誰かの身体に、
隠れていない。
「これなら――」
一歩、
前へ出る。
「殴れる」
怪物が、
地面を蹴った。
速い。
でも。
昨日ほどじゃない。
長い腕が、
横から飛んでくる。
身体を沈める。
頭の上を、
腕が通り過ぎた。
昨日。
何度も殴られた。
何度も倒れた。
その度に、
ハクトに言われた。
動きを見ろ。
予兆を見ろ。
怪物の肩が、
わずかに動く。
「そこ!」
一歩踏み込む。
拳を、
怪物の腹へ叩き込んだ。
ドン――
怪物の身体が、
後ろへ吹き飛ぶ。
「……っ」
拳を見る。
昨日とは違う。
身体が、
動く。
怪物が立ち上がる。
人間のような笑顔が、
大きく裂けた。
再び、
こちらへ走ってくる。
「湊!」
「分かってる!」
腕を避ける。
もう一つ。
避ける。
懐へ入る。
そして。
「これで――!」
拳を叩き込む。
鈍い音。
怪物の身体に、
亀裂が走った。
一本。
二本。
亀裂は、
全身へ広がっていく。
怪物が、
僕へ手を伸ばす。
でも。
届く前に。
黒い身体が、
崩れ始めた。
塵になり、
夜の風へ消えていく。
「……」
静かになった。
境内には、
風で木々が揺れる音だけが残っていた。
「……倒した」
「ああ」
昨日とは違った。
自分が生きるためじゃない。
僕は、
少女を見る。
助けるために、
戦った。
「お兄ちゃん……」
少女が、
僕を見ていた。
「……大丈夫?」
「うん……」
僕は、
少しだけ笑った。
「もう大丈夫だよ」
少女の視線が、
地面に倒れている男へ向く。
僕も、
男を見る。
ゆっくりと、
身体を起こしていた。
「……俺」
男が、
自分の手を見る。
「俺……何してたんだ」
声が震えていた。
「俺が……」
少女を見る。
顔が、
青ざめていく。
「俺が、この子を……」
「覚えてるの?」
男が、
僕を見る。
「何を……?」
「いや……」
怪物のことは、
覚えていない。
違う。
最初から、
知らないんだ。
自分が怪物に操られていたことを。
男は、
両手で頭を抱えた。
「なんで……」
声が震える。
「なんで俺、こんなこと……」
何も言えなかった。
怪物に操られていた。
でも。
ハクトは言った。
怪物は、
何もないところに悪を作らない。
だったら。
この人の中にも、
最初から――
「湊」
ハクトの声がした。
振り返る。
「怪物は倒した」
「……うん」
「でも、人間の中にあったものまで消えるわけじゃない」
男を見る。
地面に座り込んだまま、
震えていた。
「……怪物って何なんだよ」
思わず、
口から出た。
「人に乗り移って」
拳を握る。
「こんなことさせて」
「……悪魔だ」
「え?」
ハクトを見る。
白い影は、
夜空を見上げていた。
「昔」
静かな声だった。
「とんでもなく強い怪物がいた」
「怪物……?」
「ああ」
ハクトは、
僕を見る。
「そいつが、この世界に穴を開けた」
「穴?」
「俺たちの世界と」
一度、
言葉を止める。
「別の世界を繋ぐ穴だ」
胸の奥が、
ざわついた。
「そこから来た」
「……何が?」
ハクトが、
怪物の消えた場所を見る。
「こいつらだ」
風が吹く。
木々が、
大きく揺れた。
「人間の悪を食う」
白い輪郭が、
暗闇の中で揺らぐ。
「悪魔たちだ」
「……悪魔」
その言葉だけが、
妙に耳に残った。
怪物。
昨日まで、
そんなものがいることすら知らなかった。
でも。
僕が知らなかっただけで。
ずっと昔から。
人のすぐそばに、
こいつらはいた。
「……あ」
怪物が消えた場所を見る。
何もない。
「欠片」
辺りを探す。
昨日みたいな、
黒い石は落ちていなかった。
「あれ……?」
「何だ」
「欠片、落ちてないよ」
「ああ」
ハクトは、
何でもないことのように答えた。
「毎回残るわけじゃない」
「……そうなの?」
「ああ」
「先に言ってよ」
「聞かなかっただろ」
「またそれかよ……」
ハクトが、
小さく笑った。
僕はもう一度、
少女を見る。
何が起きたのか、
きっと分かっていない。
それでも。
生きている。
朝陽と結衣は、
僕を守った。
あの日、
二人が僕にしてくれたことを。
僕も、
誰かにできた。
「……よかった」
小さく呟いた。
「何がだ」
「この子を助けられて」
少女を見る。
ハクトは、
何も言わなかった。
ただ。
僕の隣で、
静かに笑っていた。
その時。
ふと、
さっきの感覚を思い出した。
昨日とは違う。
僕の中から、
溢れてきた何か。
自分の胸に、
そっと手を当てる。
今はもう、
何も感じない。
「……なんだったんだろ」
小さく呟く。
「さあな」
隣から、
ハクトの声がした。
「またそれ?」
「分からないものは分からない」
「ハクトでも?」
「ああ」
少しだけ、
意外だった。
ハクトなら、
何でも知っていると思っていた。
でも。
ハクトは、
僕の胸を見ていた。
その目は、
笑っていなかった。
暖かい風が吹いた。
それは海の匂いがした。
サマータイム・トラベル ep.9を読んで頂きありがとうございました。
昔存在した強大な怪物。一体それはなんなのか。
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