力の意味
「痛っ……」
制服に腕を通した瞬間、
肩に鋭い痛みが走った。
「……っ」
思わず顔をしかめる。
鏡を見る。
頬には傷。
肩には大きな痣。
拳には血が滲んだ跡が残っていた。
身体を少し動かすだけで、
背中まで痛む。
昨日、
僕は怪物と戦った。
今でも信じられない。
拳を見る。
傷だらけの手。
「やっぱり、夢じゃなかった」
この痛みが、
昨日の出来事が現実だったことを教えてくれていた。
「湊ー!」
階段の下から父の声がする。
「遅刻するぞ!」
「今行く!」
鞄を持ち上げる。
その瞬間、
肩に痛みが走った。
「痛っ……」
こんな身体で、
今日も怪物と戦うことになったら。
そんなことを考えて、
すぐに首を振った。
鞄に付いた三つのキーホルダーが、
小さく揺れていた。
僕はそれを見つめる。
「……行ってきます」
⸻
「白波」
「……はい」
先生が僕を見る。
そして、
少し眉をひそめた。
「その顔、どうした?」
「あー……」
教室中の視線が集まる。
「転びました」
「どんな転び方したらそうなるんだ」
教室に笑い声が広がった。
僕は顔を引つるように笑った。
席へ向かう。
その途中、
後ろの席が目に入った。
誰もいない机。
朝陽の席。
昨日までなら、
こういう時。
一番大きな声で笑っていたはずなのに。
「……」
僕は何も言わず、
自分の席に座った。
窓の外を見る。
青い空。
入道雲。
蝉の声。
何も変わらない。
いつもの夏。
でも。
僕にはもう、
昨日までと同じ景色には見えなかった。
この町のどこかに、
怪物がいる。
誰にも見えず。
誰にも知られず。
今この瞬間にも。
僕は窓から、
町を見下ろした。
今まで僕は、
何も知らずに生きていたんだ。
⸻
放課後。
校門を出る。
「遅い」
「うわっ!」
声のした方を見る。
電柱の横。
白い人影が立っていた。
「……ハクト」
「遅かったな」
「学校なんだから仕方ないだろ」
「そうだったな」
「そうだったなって……」
僕はハクトを見る。
「学校行ったことないの?」
「あるさ」
「何者なんだよ...」
「昔のことだからな、もうあまり覚えてない」
小さくため息をつく。
「いくぞ」
ハクトが歩き出した。
「どこ行くの?」
「昨日の続きだ」
「……怪物?」
「いや」
ハクトが振り返る。
「欠片だ」
⸻
海を見渡す高台。
夕日が、
水平線へゆっくりと沈んでいた。
僕たちは、
誰もいないベンチに座っていた。
ハクトが手を開く。
その手のひらには、
昨日拾った黒い欠片があった。
「……それ」
「ああ」
「結局、何なの?」
ハクトは欠片を指で摘まむ。
小さな、
黒い石のように見える。
「怪物を倒すと、こうして力の一部が残ることがある」
「力?」
「欠片だ」
「そのまんまだね」
「分かりやすいだろ」
「まあ……」
僕は欠片を見る。
昨日。
あの怪物が消えた場所に、
これだけが残っていた。
「で、どうするの?」
ハクトが僕を見る。
「お前が取り込む」
「……僕が?」
「ああ」
「取り込むって……」
嫌な予感がする。
「食べるとか?」
「それでもいいぞ」
「絶対嫌だよ!」
ハクトが小さく笑った。
「冗談だ」
「お前、そういう冗談言うんだ……」
ハクトが僕へ手を差し出す。
「手を出せ」
「本当に大丈夫?」
「たぶんな」
「たぶん!?」
「早くしろ」
「怖いんだけど……」
恐る恐る、
右手を差し出す。
ハクトが僕の手のひらへ、
黒い欠片を置いた。
「……冷たい」
石みたいだった。
「どうすればいい?」
「握れ」
「それだけ?」
「ああ」
半信半疑のまま、
欠片を握る。
「……」
何も起こらない。
「ハクト」
「待て」
「いや、何も――」
ドクン――
心臓が、
大きく鳴った。
「……っ!」
手の中が熱い。
慌てて拳を開く。
「なにこれ……!」
黒い欠片が、
砂のように崩れていた。
そして、
崩れた欠片が僕の手のひらへ、
ゆっくりと吸い込まれていく。
「なんか、まずいよ!」
「動くな!」
「無理だって!」
熱が、
腕を駆け上がる。
肩。
胸。
腹。
そして、
全身へ。
「っ……!」
思わず膝をついた。
身体の奥から、
何かが溢れてくる。
熱い。
でも。
痛くない。
手の中にあった欠片の光が僕の身体中を駆け巡った。
むしろ――
治っていく。
「……え?」
肩を見る。
さっきまで、
動かすだけで痛かった場所。
痛くない。
「……嘘」
制服の袖を捲る。
昨日できた大きな痣が、
少しずつ薄くなっていた。
「え……?」
頬に触れる。
傷がない。
拳を見る。
裂けていた皮膚も。
血の滲んだ傷も。
目の前で、
消えていく。
「なんだよ……これ」
ゆっくり立ち上がる。
身体を動かす。
肩、腕、背中。
昨日、
あれだけボロボロになったはずなのに。
全部。
消えていた。
「……治ってる」
もう一度、
拳を握る。
痛みはない。
「全部……」
ハクトも、
少し驚いたように僕を見ていた。
「……再生の力か」
「再生?」
「ああ」
ハクトが僕の手を見る。
「あの怪物が持っていた性質だろう」
「性質……?」
「怪物には、それぞれ違う力がある」
ハクトは、
僕の中へ消えた欠片を見るように、
手のひらへ視線を向ける。
「どうやら欠片には、怪物が持っていた性質の一部が残るらしい」
「じゃあ……」
僕は拳を握る。
「これからも怪物を倒して欠片を取り込めば、その怪物の力が使えるようになるってこと?」
「可能性はある」
「可能性?」
「何が残るかは分からない」
ハクトは僕を見る。
「力が残ることもあれば、何も残らないこともあるかもしれない」
「ハクトも知らないの?」
「ああ」
「……意外」
「何がだ」
「なんでも知ってるみたいな顔してるから」
「そんな顔してるか?」
「してる」
「そうか」
ハクトが小さく笑う。
僕は、
もう一度自分の身体を見る。
傷一つない。
「……すごい」
昨日の傷が、
全部消えている。
怪物の力。
そんなものが今、
僕の中にある。
「でも」
ハクトが言った。
「勘違いするな」
「え?」
「再生できるからといって、死なないわけじゃない」
ハクトの表情から、
笑みが消える。
「致命傷を受ければ死ぬ」
「……」
「身体が治るからといって、無茶をしていい理由にはならない」
「分かってるよ」
「ならいい」
そう言いながら、
ハクトは僕を見ていた。
その目が、
なぜか少しだけ寂しそうに見えた。
「……何?」
「いや」
ハクトは海へ視線を戻す。
「なんでもない」
まただ。
何かを隠している。
そんな気がした。
その時だった。
「……」
ハクトが、
突然町の方を見た。
「ハクト?」
返事はない。
「どうしたの?」
白い輪郭から、
さっきまでの緩い雰囲気が消えていた。
「行くぞ」
ハクトが立ち上がる。
「え?」
「どこに?」
「怪物だ」
胸が跳ねた。
「……いるの?」
「ああ」
ハクトは、
町の一点を見つめていた。
「それも――」
白い影が、
僕の横を通り過ぎる。
「人を狙ってる」
⸻
僕たちは走った。
昨日なら、
身体中が痛くて、
まともに走ることすらできなかったはずなのに。
今は違う。
足が動く。
身体が軽い。
昨日の怪我なんて、
最初からなかったみたいだった。
「どこなんだよ!」
「神社だ」
「神社……?」
足が、
一瞬止まりそうになった。
赤い提灯。
屋台。
浴衣姿の人たち。
夜空に咲いた花火。
そして。
結衣。
「湊!」
ハクトの声で、
我に返る。
「……分かってる!」
走る。
坂を下る。
神社が見えてくる。
夏祭りの終わった境内には、
もう屋台もなかった。
提灯だけが、
いくつか残されている。
静かな石段。
風に揺れる木々。
その下に、
小さな少女が立っていた。
「……?」
少女は、
境内の奥を見ている。
「ねえ」
誰かに話しかけていた。
でも。
その先には、
誰もいない。
「こっち?」
少女が、
一歩。
暗闇へ近づく。
「何してるんだ……?」
その時だった。
胸の奥が、
ざわついた。
昨日と同じ感覚。
背中を、
冷たいものが這う。
僕は、
木々の奥を見る。
暗闇。
その中に。
何かがいた。
「……っ」
昨日とは違う。
細い身体。
異様に長い首。
四つん這いのまま、
木の陰から少女を見つめている。
顔だけが、
人間みたいに笑っていた。
「……怪物」
少女は気付いていない。
また一歩。
怪物へ近づいていく。
「ハクト」
返事がない。
隣を見る。
ハクトは、
怪物を見ていた。
白い手を、強く握る
「湊」
ハクトが僕を見る。
「助けるぞ」
「……」
怪物が、
ゆっくりと動き出す。
長い首を揺らしながら、
少女へ近づいていく。
僕は、
拳を握った。
昨日の感覚が蘇る。
殴られた痛み。
地面に叩きつけられた恐怖。
立てなくなった身体。
今でも覚えている。
でも。
拳は震えていなかった。
僕は少女を見る。
何も知らない。
自分が今、
怪物に狙われていることすら。
あの日の僕と同じだった。
何も知らなかった。
怪物のことも。
自分が狙われていたことも。
そして。
朝陽と結衣が、
僕を守った。
「……ハクト」
「なんだ」
「僕が1人でやる」
ハクトが僕を見る。
「昨日とは違うぞ」
「分かってる」
「どんな力を持っているかも分からない」
「ああ」
「死ぬかもしれない」
「分かってるよ」
怪物を見る。
怖くないわけじゃない。
でも。
それ以上に。
あの子を、
このままにしておけなかった。
僕は一歩、
前へ出る。
「僕はもう」
拳を握る。
「守られてるだけは嫌なんだ」
ハクトは何も言わなかった。
ただ、
僕を見ていた。
やがて。
ほんの少しだけ、
笑った。
「そうか」
怪物が、
少女へ腕を伸ばす。
「――っ!」
地面を蹴る。
怪物へ向かって走る。
昨日は、
自分が生きるために戦った。
でも。
今日は違う。
初めて。
誰かを守るために、
僕は怪物へ向かって走った。
サマータイム・トラベル ep.8を読んで頂きありがとうございました。
この作品は毎日17時に随時更新致します。
よろしくお願いいたします。




