欠片
赤い血が湊の頬をゆっくりとなぞる。
「湊!」
ハクトの声が飛ぶ。
「来るぞ!」
怪物が地面を蹴った。
速い。
「――っ!」
反射的に身体を横へ投げる。
直後、
怪物の腕が地面を叩いた。
鈍い音。
砂埃が舞う。
「うわっ……!」
地面を転がりながら、
必死に距離を取る。
「避けてるだけじゃ倒せないぞ」
「分かってるよ!」
立ち上がる。
「でも、どうやって倒すんだよ!」
「殴れ」
「は?」
「殴れ」
「そんなので倒せるの!?」
「今のお前ならな」
「それ先に言ってよ!」
怪物が再び飛びかかってくる。
怖い。
でも。
今度は逃げなかった。
拳を握る。
「うあああっ!」
思い切り腕を振る。
その瞬間。
怪物の身体が沈んだ。
「え――」
次に見えた時には、
目の前にいた。
腹に、
強い衝撃が走る。
「がっ……!」
身体が宙に浮いた。
背中から地面へ叩きつけられる。
「……っ」
息ができない。
何が起きたのかも、
分からなかった。
痛い。
苦しい。
「湊!」
遠くでハクトの声が聞こえる。
立たないと。
そう思うのに、
身体が動かない。
怪物が近づいてくる。
一歩。
また一歩。
長い腕を地面に引きずりながら、
ゆっくりと。
逃げないと。
頭の中で、
何度も声がする。
逃げろ。
無理だ。
勝てるわけがない。
僕は、
ただの高校生だ。
昨日まで、
怪物がいることすら知らなかった。
こんなの――
戦えるわけがない。
怪物が腕を振り上げた。
「動け!」
ハクトの声。
身体を転がす。
直後、
地面が揺れた。
「っ……!」
立ち上がろうとする。
膝に力が入らない。
それでも、
なんとか立った。
「どうすればいいんだよ……!」
怪物を見る。
「殴っても当たらないじゃん!」
「よく見ろ」
「見てるよ!」
「見てるだけだ」
「何が違うんだよ!」
「動きを見ろ」
怪物がこちらを向く。
「怪物だって生き物だ」
ハクトの声が聞こえる。
「動く前には必ず予兆がある」
「予兆……?」
怪物の右腕が、
わずかに地面から浮いた。
来る。
そう思った瞬間、
長い腕が横薙ぎに飛んできた。
「――っ!」
しゃがむ。
頭のすぐ上を、
怪物の腕が通り過ぎた。
風が髪を揺らす。
「今だ!」
ハクトが叫ぶ。
僕は地面を蹴った。
怪物へ走る。
怖い。
近づきたくない。
それでも、
拳を握った。
「うあああっ!」
拳が、
怪物の腹に当たった。
その瞬間。
ドン――
鈍い音が響いた。
「え……?」
怪物の身体が、
後ろへ吹き飛んだ。
地面を転がり、
滑り台へ激突する。
「……僕が?」
拳を見る。
痛い。
でも、
確かに当たった。
「ぼさっとするな!」
「え?」
怪物が起き上がる。
「まだ終わってない!」
「嘘だろ……」
怪物の身体が震える。
さっきまでゆっくりだった動きが、
明らかに変わっていた。
怒っている。
そんな気がした。
怪物が地面を蹴る。
「速っ――」
避けられない。
肩に衝撃が走った。
「うわっ!」
地面へ倒れる。
すぐに立ち上がろうとする。
でも、
今度は背中に衝撃が走った。
「がっ……!」
身体が地面を滑る。
痛い。
肩が熱い。
口の中に、
鉄の味が広がった。
「……無理だ」
思わず呟いた。
怪物が近づいてくる。
「無理だよ……」
一発当てただけ。
それだけなのに。
僕はもう、
まともに立つことすらできない。
怪物は、
まだ動いている。
「ハクト……」
声が震える。
「助けてよ……」
返事はなかった。
「ハクトっ...!」
顔を上げる。
少し離れた場所に、
ハクトは立っていた。
僕を見ている。
でも、
動かない。
「なんで……」
怪物が近づいてくる。
「死にそうになったら助けるって言っただろ!」
「ああ」
「だったら!」
「まだ死んでない」
「……は?」
「お前はまだ立てる」
「無理だよ!」
「立てる」
「なんで分かるんだよ!」
ハクトは、
真っ直ぐ僕を見ていた。
「俺が知ってる」
まただ。
こいつは時々、
僕のことを何でも知っているみたいに話す。
「知らないくせに……」
地面に手をつく。
腕が震える。
「僕のことなんて……」
膝を立てる。
痛い。
身体中が、
立つなと言っている。
それでも。
立ち上がった。
「……知らないくせに」
怪物を見る。
怖い。
さっきより、
ずっと怖かった。
痛みを知ってしまったから。
次にあれを食らったら、
本当に立てないかもしれない。
死ぬかもしれない。
逃げたい。
今すぐここから逃げたい。
怪物が腕を上げる。
その姿に、
あの日が重なった。
道路。
転がるクジラ。
「湊ッ!!」
朝陽の声。
「湊!」
結衣の声。
背中を押された。
僕は助かった。
二人が、
僕を守ったから。
僕は手のひらを見る。
震えていた。
ずっと。
守ってもらっていた。
朝陽にも。
結衣にも。
だったら。
「……もう」
拳を握る。
「守られてばっかりは……嫌だ」
怪物が地面を蹴った。
速い。
でも、
見える。
右腕。
わずかに肩が沈む。
来る。
僕は一歩、
前へ出た。
「湊!」
怪物の腕が迫る。
身体を沈める。
頭の上を、
長い腕が通り過ぎた。
そのまま、
怪物の懐へ入る。
黒い穴。
目もない。
口もない。
怖い。
怖いけど。
「今度は――」
拳を握る。
「僕が!」
思い切り、
怪物へ叩き込んだ。
ドン――
拳に、
さっきとは違う感触が伝わった。
怪物の身体が止まる。
「……え?」
黒い身体に、
小さな亀裂が走っていた。
一本。
二本。
亀裂は、
全身へ広がっていく。
怪物が、
僕へ腕を伸ばす。
反射的に目を閉じた。
でも。
何も来なかった。
目を開く。
怪物の身体が、
ゆっくりと崩れていく。
黒い塵のようなものが、
夜の風にさらわれていった。
「……」
僕は動けなかった。
荒い呼吸だけが、
静かになった公園に響いていた。
目の前には、
もう何もいない。
「……僕が」
拳を見る。
傷だらけだった。
血も滲んでいる。
それでも。
この手で、
確かに――
「僕が……やったのか」
「ああ」
振り返る。
ハクトが立っていた。
「……倒した?」
「ああ」
「僕が?」
「何回聞くんだ」
「だって……」
急に、
身体から力が抜けた。
「うわっ」
その場に座り込む。
「いった……」
「最初にしては上出来だ」
「……これで?」
「ああ」
「ボロボロなんだけど……」
「生きてるだろ」
「基準おかしいよ……」
ハクトが小さく笑った。
僕はもう一度、
怪物がいた場所を見る。
何もない。
街灯。
滑り台。
ブランコ。
いつもの公園に戻っていた。
こんな場所に、
あんなものがいた。
誰にも見えずに。
ずっと。
「……なあ、ハクト」
「なんだ」
「怪物って……こんなのが他にもいるの?」
「ああ」
「この町にも?」
「ああ」
「……そっか」
怖くないと言えば、
嘘になる。
むしろ、
今の方が怖かった。
怪物が本当に存在することを、
知ってしまったから。
それでも。
僕は自分の拳を見る。
僕にも、
倒せた。
その時だった。
少し離れた場所で、
小さな音がした。
カラン――
「……?」
怪物が消えた場所。
何かが落ちている。
僕は立ち上がろうとした。
「痛っ……」
「無理するな」
ハクトがそれを拾い上げる。
黒い、
小さな欠片。
「何それ?」
ハクトは、
手のひらの欠片を見つめていた。
さっきまでの表情が、
消えていた。
「ハクト?」
「……いや」
ハクトは欠片を握る。
「なんでもない」
「なんでもない顔じゃないだろ」
「今日はもう帰れ」
「え?」
「その身体じゃ、もう戦えない」
「ちょっと待ってよ」
ハクトは、
握った欠片を僕に見せようとしなかった。
「それ、何なんだよ」
「いずれ分かる」
「またそれ?」
「今のお前には必要ない」
そう言って、
ハクトは歩き出した。
「なんなんだよ……」
僕はその背中を見つめる。
また、
何か隠している。
そんな気がした。
「湊」
ハクトが足を止める。
振り返らないまま、
静かに言った。
「よくやった」
「……え?」
ハクトはそのまま歩き出した。
「急になんだよ」
返事はない。
でも。
なぜだろう。
その一言が、
少しだけ嬉しかった。
僕は痛む身体を起こし、
ハクトの後を追った。
ほんの少しだけ。
昨日より、
前へ進めた気がした。
毎日、17時に更新します。




