海の匂い
蝉の声で、
先生の話がほとんど聞こえなかった。
「――ということで、明日から夏休みだ」
その言葉に、
教室が一気に騒がしくなる。
海、花火、旅行、部活。
友達同士で、
夏休みの予定を話している。
僕は、
窓の外を見ていた。
青い空。
大きな入道雲。
校庭の向こうでは、
陽炎が揺れている。
「……夏休みか」
去年までなら、
楽しみだった。
朝陽と結衣と、
何をするか。
それだけで、
夏休みなんてあっという間だった。
今年も、
そうなるはずだった。
机の横に掛けた鞄の
三つのキーホルダーが、小さく揺れていた。
「……」
明日から、
夏休みか。
そう思った瞬間。
少しだけ怖くなった。
学校に来れば、
先生がいて。
クラスメイトがいて。
授業がある。
でも、夏休みになったら。
僕は一人だ。
「白波ー」
「は、はい!」
顔を上げる。
先生が、
僕を見ていた。
「聞いてたか?」
「あ……はい」
「じゃあ、今言ったこと言ってみろ」
「……夏休み」
教室に笑い声が広がった。
「そこだけか」
先生も呆れたように笑った。
窓の外では、
終礼の鐘が鳴り、
蝉がうるさいくらい鳴いていた。
⸻
校門を出た瞬間。
熱気が身体を包んだ。
「暑っ……」
手で顔を隠す。
「こんな暑かったっけ」
「夏だからな」
「うわっ!」
隣を見る。
ハクトがいた。
「急に出てくるなよ!」
「さっきからいたぞ」
「嘘つけ!」
「本当だ」
「じゃあ教室にもいたの?」
「ああ」
「……マジで?」
「先生に当てられてたな」
「見てたの!?」
ハクトが笑う。
「夏休み」
「やめろよ!」
「そこだけか」
「先生の真似すんな!」
「あははははっ」
ハクトが、声を出して笑った。
「……」
「何だ」
「いや」
「普通に笑うんだなって」
「そりゃあ笑うだろ」
最初に会った時は、
もっと不気味な奴だと思っていた。
何を考えているのか分からなくて。
僕のことを何でも知っていて。
怪物のことまで知っている。
でも、今は少しだけ。
変な奴だと思う。
「湊」
「何?」
「腹減った」
「お前、腹減るの?」
「気分だ」
「なんだよそれ」
「アイス食いたい」
「自分で買えよ」
「金がない」
「だろうな……」
「奢ってくれ」
「嫌だよ」
「昨日、女の子を救った英雄だろ」
「関係ないだろ!」
「ケチだな」
「なんでお前にアイス奢らなきゃいけないんだよ!」
そんなことを話しながら、
坂道を下っていく。
照り返す太陽。
遠くから聞こえる蝉の声。
海から吹いてくる、
少し湿った風。
ふと、
足が止まった。
朝陽と結衣とも、
何度も歩いた道。
夏休みの前の日。
三人で、
今年は何をするか話しながら。
「海行こうぜ!」
朝陽が言って。
「去年も行ったじゃん」
結衣が笑った。
「じゃあ今年も行けばいいだろ!」
そんな会話を、
していた気がする。
「湊?」
ハクトの声で、
我に返った。
「……何でもない」
歩き出す。
ハクトは、
何も聞かなかった。
ただ、
僕の隣を歩いていた。
⸻
コンビニの前。
僕は、
二本のアイスを持っていた。
「……なんで買っちゃったんだろ」
「優しいからじゃないか」
「自分で言う?」
一本を、
ハクトへ差し出す。
「ほら」
「ありがとう」
普通に受け取った。
「……持てるんだ」
「持てるぞ」
「食べられるの?」
「たぶん」
「たぶん?」
ハクトが袋を開ける。
一口。
「……」
「どう?」
ハクトは、
しばらく何も言わなかった。
「ハクト?」
「懐かしいな」
「え?」
ハクトは、
手に持ったアイスを見ていた。
「昔、よく食べた」
「昔?」
「ああ」
「誰と?」
ハクトの動きが、
ほんの少し止まった。
「……友達だ」
「へえ」
僕もアイスを齧る。
冷たい。
暑かった身体に、
甘さが広がっていく。
「どんな人?」
「うるさい奴と」
ハクトが、
少し笑う。
「よく笑う奴」
「二人?」
「ああ」
「仲良かったんだ」
「……そうだな」
ハクトは、
遠くを見ていた。
その視線の先には、
海があった。
「今は?」
「お前がいるじゃないか」
「.....」
「友達じゃないのか?」
「そうだけど.....そういうこと聞いてるんじゃないよ、教えてくれないならいい」
僕たちは、
しばらく黙ってアイスを食べた。
蝉の声だけが、
道いっぱいに響いていた。
「……溶けてるぞ」
「え?」
気づいたらアイスが手に垂れていた。
「うわっ!」
ハクトが笑う。
「何笑ってんだよ!そっちも溶けてるぞ!」
「……本当だ」
今度は、僕が笑った。
ほんの少しだけ。
夏が戻ってきたような気がした。
⸻
昼間の眩しさが、
少しずつ町から消え始めた頃。
僕たちは海沿いを歩いていた。
蝉の声はまだ止まない。
長く伸びた影の向こうで、
空が少しずつ橙色に染まり始めていた。
「なあ、ハクト」
「なんだ」
「昨日のことなんだけど」
ハクトが、
僕を見る。
「僕の中から出てきた、あれ」
「……ああ」
「本当に何も分からないの?」
「分からない」
「そっか」
胸に手を当てる。
今は、
何も感じない。
「でもさ」
「何だ」
「あれが使えれば」
海を見る。
「また誰かを助けられるかもしれない」
ハクトは、少しだけ考えていた。
「人を傷つけずに怪物を倒せる」
「ああ」
ハクトが頷く。
「だったら」
僕は、ハクトを見る。
「使えるようになりたい」
「そうしろ」
「でも、まだ使い方がよく分からない.....」
ハクトは、
僕の胸を見る。
「分からないなら、分かるまで使え」
「……」
「昨日できたんだ」
ハクトが僕を見る。
「なら、お前の力だ」
「僕の……」
「ああ」
胸に、
もう一度手を当てる。
「どうやって使うの?」
「知らん」
「そこは知らないのかよ!」
「だから今から調べるんだろ」
「僕で!?」
「他に誰がいる」
「もう少しなんかあるだろ!」
ハクトが笑った。
「安心しろ」
「何を」
「死にそうになったら助けてやる」
「それ前も聞いたよ!」
「生きてただろ?」
「ボロボロだったよ!」
「欠片で治った」
「結果論じゃん!」
ハクトは、
楽しそうに笑っていた。
「……でも」
僕は自分の手を見る。
昨日。
怪物を掴んだ時。
確かに、
僕の中から何かが出てきた。
あれが何なのか。
僕は知らない。
「使えるようになったら」
拳を握る。
「もっと助けられるかな」
「ああ」
ハクトは、
迷わず答えた。
「だから使いこなせ」
その言葉が、
妙に嬉しかった。
「……分かった」
「明日から特訓だな」
「え?」
「夏休みなんだろ?」
「いや、ちょっと待って」
「時間ならあるな」
「そういうための夏休みじゃないから!」
ハクトが歩き出す。
「待ってよ!」
白い背中を追いかける。
その時。
夕日の中で、
ハクトの身体が、
ほんの一瞬だけ透けて見えた。
「……?」
足が止まる。
目を擦る。
もう一度見る。
いつもの、
白い姿だった。
ハクトが振り返る。
「どうした」
「……いや」
見間違いかな。
「何でもない」
「そうか」
ハクトが、
また歩き出す。
僕も、
その隣へ追いついた。
海へ沈んでいく夕日。
遠くから聞こえる、
蝉の声。
僕はまだ、
この夏がどこへ向かっているのか、
何も知らなかった。
サマータイム・トラベル ep.10を読んで頂きありがとうございました。
謎の力を使い怪物を引き剥がし、少女を救った湊。
この長く短い夏をお楽しみください。




