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兆し

蝉の声で目が覚めた。


「……暑い」


目を開ける。


カーテンの隙間から、


朝の光が差し込んでいた。


時計を見る。


九時過ぎ。


「……」


もう一度、


目を閉じる。


今日から夏休み。


学校はない。


先生もいない。


宿題はあるけど、


今日やる必要はない。


だったら。


「もう少し……」


「起きろ」


「……」


聞かなかったことにする。


「湊」


「……」


「起きろ」


「うるさい……」


布団を頭まで被る。


「夏休みなんだから寝かせてよ……」


「昨日言っただろ」


「何を……」


「特訓だ」


目を開けた。


布団から顔を出す。


「……嘘だろ」


机の横。


ハクトが立っていた。


「おはよう」


「なんでいるんだよ!」


身体を起こす。


「ここ僕の部屋だぞ!」


「ああ」


「どうやって入った!」


「普通に」


「普通に入るなよ!」


「お前の父親には見えないからな」


「そういう問題じゃない!」


ハクトが笑う。


「着替えろ」


「嫌だよ」


「行くぞ」


「まだ九時だよ!」


「もう九時だ」


「夏休みの九時は早朝なんだよ!」


「知らん」


「横暴だな!」


ハクトは窓の外を見る。


「いい天気だぞ」


「だから何」


「特訓日和だ」


「そんな日和ないよ!」


初めての夏休みは、


最悪の始まりだった。



「暑い……」


海岸沿いを歩きながら、


何度目か分からない言葉を口にした。


太陽は、


朝から容赦がない。


砂浜から照り返す光。


耳が痛くなるほどの蝉の声。


海では、


もう何人か泳いでいる。


「なあ」


「なんだ」


「本当に今日やるの?」


「ああ」


「暑いよ」


「夏だからな」


「それ昨日も聞いた」


ハクトは涼しそうに歩いている。


「お前はいいよな」


「何がだ」


「暑くないんだろ」


「暑いぞ」


「嘘つけ」


「気分でな」


「便利すぎるだろ……」


僕たちは、


海沿いから外れて、


人の少ない林の中へ入った。


木々が太陽を遮る。


それだけで、


少しだけ生き返った気がした。


「ここならいいだろ」


「何するの?」


ハクトが、


僕を見る。


「昨日の力を出せ」


「……いきなり?」


「ああ」


「出し方分かんないって言っただろ」


「だから調べる」


「どうやって」


「出るまでやる」


「雑すぎない?」


「一回できたんだ」


ハクトは、


何でもないことのように言う。


「なら、できる」


「その理屈嫌いだな……」


自分の手を見る。


昨日。


怪物に触れた瞬間。


僕の中から、


何かが溢れた。


男の身体へ入り込んでいた怪物が、


はっきりと見えた。


そして。


僕は、


あいつを引き剥がした。


「……」


目を閉じる。


昨日を思い出す。


胸の奥。


あの感覚。


ドクン――


心臓が鳴った。


でも。


それだけ。


「……何も起きない」


「もう一回」


「やってるよ」


目を閉じる。


怪物。


男。


女の子。


あの時、


僕は何をした?


何を考えていた?


「……駄目だ」


目を開ける。


「全然分かんない」


ハクトは、


少し離れた場所で僕を見ていた。


「なあ」


「なんだ」


「本当に僕がやったのかな」


「何が」


「昨日のあれ」


自分の胸を見る。


「偶然だったんじゃないの?」


ハクトは、


すぐには答えなかった。


「偶然でもいい」


「え?」


「一度起きたなら、もう一度起こせ」


「だから、それが分からないんだって」


「分からないなら探せ」


「……」


「俺が答えを教えたところで意味がない」


ハクトが僕を見る。


「それはお前の中にあるものだ」


「僕の中……」


「ああ」


「俺にも分からない」


ハクトは、


腕を組んだ。


「だから、お前が見つけろ」


相変わらず、


無茶苦茶だ。


でも。


昨日。


確かに僕の中から、


何かが出てきた。


だったら。


もう一度。


目を閉じる。


思い出す。


怪物に触れた時。


熱。


鼓動。


そして。


あの時、


僕が思ったこと。


あの人から、


怪物を引き剥がしたかった。


女の子を、


助けたかった。


「……」


胸に手を当てる。


助けたい。


誰かを。


朝陽と結衣みたいに、


怪物のせいで。


「違う」


ハクトの声がした。


目を開ける。


「何が?」


「考えすぎだ」


「だって出せって言ったのそっちだろ」


「力を使おうとするな」


「……は?」


「昨日、お前は力を使おうとしたか?」


言われて、


思い出す。


違う。


何が起きているのかも、


分からなかった。


ただ。


怪物を引き剥がそうとした。


「……してない」


「ああ」


ハクトが、


僕を見る。


「なら同じだ」


「どういうこと?」


「やりたいことを考えろ」


「……」


「力はその後だ」


風が吹いた。


木々が揺れる。


葉の隙間から、


夏の光が落ちてくる。


僕は、


自分の手を見る。


やりたいこと。


怪物を倒したい。


違う。


強くなりたい。


それも、


少し違う。


僕が。


やりたいこと。


「……助けたい」


小さく、


口から出た。


ハクトが、


何も言わず僕を見る。


「朝陽と結衣みたいな人を」


拳を握る。


「もう、増やしたくない」


ドクン――


胸の奥が鳴った。


「……っ」


ハクトの目が、


わずかに見開かれる。


熱い。


昨日と同じ。


胸の奥から、


腕へ。


ゆっくりと、


何かが流れていく。


「ハクト……!」


「そのまま続けろ」


「どうすればいい!」


「俺に聞くな」


「この状況で!?」


「お前の力だろ」


「分かってるけど!」


右手を見る。


何もない。


でも。


分かる。


何かが、


そこに集まっている。


「……っ」


手を伸ばす。


その瞬間。


目の前の空気が、


わずかに歪んだ。


「……え?」


揺れている。


夏の陽炎みたいに。


手の先だけ、


景色が歪んで見える。


「ハクト」


返事がない。


「ハクト?」


見る。


ハクトは、


僕の手を見つめていた。


いつもの顔じゃない。


驚いている。


「……何?」


「いや」


「何だよ」


「続けろ」


「だから何なのこれ!」


「俺にも分からない」


「またそれかよ!」


集中が切れた。


一瞬で、


歪みが消える。


「あっ」


手を見る。


もう、


何も感じない。


「……消えた」


「そうだな」


「そうだなじゃないよ!」


ハクトを見る。


「今の何?」


「知らん」


「絶対なんか知ってる顔してたじゃん!」


「知らないものは知らない」


「本当に?」


「ああ」


ハクトは、


さっきまで歪んでいた場所を見る。


「ただ」


少しだけ、


間があった。


「昨日より進んだな」


「……」


僕も、


自分の手を見る。


昨日は、


怪物がいなければ使えなかった。


今日は。


ほんの一瞬だけど。


自分で出せた。


「……僕がやったんだよね」


「ああ」


なんだろう。


少しだけ、


嬉しかった。


「もう一回やる」


ハクトが笑う。


「やる気になったか」


「うるさい」


もう一度、


胸に手を当てる。


「今度はもっと長く出す」


「その次は動かせ」


「できるかな」


「できる」


即答だった。


「なんで分かるんだよ」


ハクトは、


少しだけ笑った。


「俺が知ってる」


「……またそれ?」


「ああ」


僕は、


その意味を知らない。


でも。


なぜか、


ハクトにそう言われると。


できるような気がした。



「……無理」


砂浜に、


大の字で寝転がる。


空が青い。


雲が白い。


蝉がうるさい。


「もう無理……」


「まだ昼過ぎだぞ」


「朝からやってんだよ!」


「夏休みなんだろ」


「夏休みを何だと思ってるんだよ!」


ハクトが、


僕の隣に座る。


「少しはできるようになったじゃないか」


「少しだけね……」


手を上げる。


胸の奥へ意識を向ける。


ドクン――


指先の向こう。


空気が、


ほんの少しだけ揺れた。


数秒。


そして、


消える。


「……これだけ」


「昨日はそれすらできなかった」


「まあ……」


手を下ろす。


確かに。


昨日よりは、


少しだけ進んだ。


「でも」


空を見る。


「これ、何に使うんだろ」


「さあな」


「お前ほんとそれ多いよな」


「便利な言葉だ」


「開き直るなよ」


目を閉じる。


波の音。


蝉の声。


砂の熱。


海から吹く風。


本当なら今頃。


朝陽と結衣と、


この海にいたのかもしれない。


そう思った。


でも、今日は。


隣にハクトがいる。


「……なあ」


「なんだ」


「明日もやるの?」


「ああ」


「即答かよ……」


「明後日もだ」


「休みは?」


「夏休みが終わったら」


「それ休みじゃないだろ!」


ハクトが笑う。


僕も、


少しだけ笑った。


その時だった。


ハクトの笑い声が止まった。


「……?」


身体を起こす。


「どうした?」


ハクトは、


海の方を見ていた。


さっきまでの表情が、


消えている。


「ハクト?」


「湊」


「何?」


白い影が、


ゆっくりと立ち上がった。


「立て」


「……怪物?」


「ああ」


僕も立ち上がる。


辺りを見る。


海。


砂浜。


泳いでいる人たち。


何も変わらない。


でも。


胸の奥が、


ざわつき始めた。


「どこ?」


ハクトは、


水平線ではなく、


砂浜の先を見ていた。


僕も、


そちらを見る。


一人の男が、


海を眺めながら歩いている。


その後ろ。


黒い何かが、


ゆっくりと這っていた。


「……いた」


昨日とは違う。


小さい。


でも。


妙な感じがする。


胸の奥。


さっきまで練習していた、


あの場所が。


ドクン――


強く鳴った。


「……っ」


手を胸に当てる。


「どうした」


「分かんない」


怪物を見る。


ドクン――


また。


「でも」


なぜか、


目を逸らせなかった。


怪物も、


こちらを見る。


その瞬間。


胸の奥が、


熱くなった。


まるで。


僕の中の何かと、


あいつの中の何かが。


互いを、


見つけたみたいに。


「……ハクト」


「ああ」


ハクトも、


怪物を見ていた。


「来るぞ」


怪物が、


ゆっくりと身体を起こす。


海から、


強い風が吹いた。


潮の匂いが、


一気に濃くなる。


僕は、


拳を握った。


どうやら。


のんびりできる夏には、


なりそうになかった。

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