誓いの紐
気付けば僕は、昨日と同じ場所に立っていた。
海を見下ろす断崖。
水平線へ沈みかけた太陽が、海を赤く染めている。
「……来たぞ」
返事はない。
聞こえるのは、
波の音と、風の音だけ。
「日が沈む頃って言っただろ」
辺りを見渡す。
誰もいない。
「……ハクト」
名前を呼んでみる。
やっぱり返事はなかった。
「なんなんだよ……」
昨日のことさえ、
夢だったんじゃないか。
そう思い始めた時だった。
「遅い」
背後から声がした。
「うわっ!」
慌てて振り返る。
そこには、
昨日と同じ白い人影が立っていた。
「いつからいたんだよ!」
「さあな」
「またそれかよ!」
ハクトが小さく笑う。
「……約束通り来たんだな」
「聞きたいことがあるから来ただけだよ」
「怪物か」
僕は頷いた。
「教えて」
「何を」
「あいつは何なんだよ」
ハクトは答えない。
「昨日言っただろ。あの日の事故は偶然じゃないって」
「ああ」
「だったら教えてよ」
拳を握る。
「朝陽と結衣を殺した奴が何なのか」
ハクトはしばらく僕を見つめていた。
やがて、
海へ視線を移した。
「怪物は、人じゃない」
「それは……なんとなく分かるよ」
「人のそばにいながら、人には見えない」
「……見えない?」
「ああ」
ハクトは町を見下ろした。
「お前たちが知らないだけで、ずっと昔から存在している」
僕も町を見る。
夕暮れの坂道。
家々の窓に灯りがつき始めている。
昨日までと、
何も変わらない景色。
「じゃあ……」
僕は辺りを見渡した。
「今もいるかもしれないってこと?」
「ああ」
背中に冷たいものが走る。
見えないだけ。
僕のすぐそばにも、
何かがいるのかもしれない。
「……そんなの、どうすればいいんだよ」
「だから呼んだ」
「え?」
ハクトが僕に近づいてくる。
白い手が伸びる。
「ちょ、何――」
額に、
ハクトの指先が触れた。
その瞬間。
身体の奥を、
何かが駆け抜けた。
「……っ!」
熱い。
胸の奥から、
全身へ何かが広がっていく。
思わずその場に膝をついた。
「な、何したんだよ……!」
「少し力を分けた」
「力……?」
「ああ」
ハクトは何でもないことのように言った。
「これで、お前にも怪物が見えるはずだ」
「……え?」
顔を上げる。
何も変わっていない。
海、空、町。
目の前には白い影のハクトだけ。
「何も見えないけど」
「ここにはいないからな」
「……先に言えよ」
「聞かなかっただろ」
「そういう問題かよ」
ハクトが少し笑った。
なんなんだよ、こいつ。
「……じゃあ」
僕は立ち上がる。
「怪物を見つけたら、どうすればいい」
「一人なら、何もするな」
「は?」
「今のお前じゃ、何もできない」
その言葉に腹が立った。
「じゃあなんで見えるようにしたんだよ!」
「知らなきゃならないからだ」
「何を」
ハクトから笑みが消えた。
「お前が、何に狙われているのかを」
「……え?」
聞き間違えたと思った。
「今……なんて?」
「怪物が狙っていたのは、朝陽でも結衣でもない」
胸の奥が、
嫌な音を立てた。
ハクトが僕を見る。
「お前だ」
「……僕?」
頭の中に、
あの日の光景が蘇る。
道路へ転がっていくクジラ。
それを追いかけた僕。
朝陽と結衣の叫び声。
背中を突き飛ばされた感覚。
衝撃音。
血の付いたアスファルト。
「……嘘だ」
「嘘じゃない」
「じゃあ……」
声が震える。
「あの二人は……」
言葉が続かなかった。
僕が狙われた。
だから、
朝陽と結衣は――
「僕のせいだ」
「違う」
「僕のせいだろ!」
声が響いた。
「僕がいなかったら!」
「湊」
「僕がいなかったら、二人は死ななかった!」
「違う!」
ハクトが初めて声を荒らげた。
僕は息を止める。
「……何が違うんだよ」
ハクトは僕を見つめていた。
怒っているようにも、
苦しんでいるようにも見えた。
「二人が選んだんだ」
「……え?」
「お前を守ることを」
風が吹く。
白い輪郭が、
夕暮れの中で揺れていた。
「それを、お前が勝手に後悔に変えるな」
何も言えなかった。
「……なんで」
声が掠れる。
「なんで、そんなこと分かるんだよ」
ハクトは答えなかった。
ただ、
沈んでいく夕日を見つめていた。
しばらくして、
僕は口を開いた。
「……なんで僕なんだよ」
ハクトの目が、
わずかに動いた。
「朝陽でも」
「結衣でもなくて」
拳を握る。
「なんで、僕が狙われたんだよ」
ハクトは黙っている。
「知ってるんだろ」
返事はない。
「教えてよ」
やがて、
ハクトが僕を見る。
「今はまだ、知らなくていい」
「なんで!」
「知ったところで、今のお前には何もできない」
「またそれかよ……」
太陽が、
水平線の向こうへ沈んでいく。
最後の光が、
海から消えた。
「湊」
「……何」
「知りたいなら、強くなれ」
「強く……?」
ハクトは、
暗くなった町へ視線を向けた。
「生き残れるくらいにはな」
「……どういう意味だよ」
ハクトは答えない。
そして、
静かに歩き出した。
「待ってよ」
白い背中を追う。
「どこ行くんだよ」
ハクトは振り返らなかった。
「怪物を見に行く」
足が止まった。
ハクトだけが、
夜の町へ向かって歩いていく。
「来ないのか?」
僕は、
手の中の三つのキーホルダーを握りしめた。
そして、
その白い背中を追いかけた。
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