海の精霊
第二話まで読んでいただき、ありがとうございます。
ここから物語は、大きく動き始めます。
悲しみの先で湊が出会うものとは。
物語の始まりとなる第三話、ぜひ最後までお付き合いいただけたら嬉しいです。
学校が終わると、僕は毎日ここへ来ていた。
病院の窓から見える空は、今日も青く澄んでいた。
あの日から、何日経ったのか分からない。
今日が何曜日なのかも
もう、どうでも良くなっていた。
時間だけが、僕を置いて進んでいく。
僕は毎日、同じ場所に座っていた。
「結衣」
返事はない。
「今日さ」
僕は椅子に座りながら、小さく笑った。
「先生に怒られた」
「授業中、寝ちゃって」
少し間を置く。
「朝陽がいたら、絶対笑ってたと思う」
窓の外を見る。
蝉の声。
夏の匂い。
何も変わっていない。
世界は、あの日のまま続いている。
なのに。
僕の知っている日常だけが、
どこにもなかった。
⸻
「そういえば」
僕は鞄を見る。
そこには、歪んだクジラのキーホルダーが付いていた。
金具は曲がっている。
もう三人で揃うことはない。
でも、外すことはできなかった。
「朝陽のも」
ポケットから、小さな袋を取り出す。
事故の後、警察から渡されたもの。
中には壊れたシャチとイルカのキーホルダー。
本当なら、三人分の笑顔がそこにあったはずなのに。
今は僕の手の中にしかない。
⸻
「湊」
声がして振り返る。
父だった。
「……そろそろ帰るぞ」
僕は首を横に振る。
「もう少しいる」
父は何も言わなかった。
父は昔から厳しい人だった。
でも今は、何も言わない。
それが逆に苦しかった。
⸻
学校が終わり病院へ向かう途中、神社の前で足が止まった。
赤い提灯。
屋台から昇る白い煙。
浴衣姿で駆けていく子供たち。
そうか。
今日だったんだ。
「今年の夏祭りさ」
朝陽の声が頭の中で蘇る。
「三人で浴衣着て行こうぜ」
僕は空を見る。
「……約束したのにな」
小さく呟いた。
夏祭りの日の夜、僕はまた結衣の隣にいた。
窓の外から微かに祭りの音が聞こえる。
外を駆け回る子供の声。
笑い声。
本当なら。
僕たちもそこにいた。
「結衣」
「来年は行こうね」
返事はない。
「朝陽も連れて」
その瞬間。
ほんの少しだけ。
結衣の指が、僕の指に触れた気がした。
「……え?」
椅子から立ち上がる。
「待ってて。今、先生呼んでくるから!」
立ち上がろうとした、その時だった。
握っていた指から、
ゆっくりと力が抜けていった。
「……結衣?」
何かの音が聞こえた。
一定の間隔で鳴っていた音が、
聞いたことのない音に変わっていた。
「結衣!」
扉が開いた。
看護師が駆け込んでくる。
続いて医師が入ってきた。
僕は何が起きているのか分からないまま、病室の外へ連れ出された。
「待って」
扉が閉まる。
「結衣!」
何度呼んでも、扉は開かなかった。
どれくらい経ったのか分からない。
やがて、医師が病室から出てきた。
僕を見る。
何も言わない。
ただ、静かに首を横に振った。
「……え?」
その時。
ドン――
遠くで大きな音がした。
窓を見る。
夜空に、大きな花火が咲いていた。
赤。青。白。
次々と夏の夜空を染めていく。
「……結衣」
また一つ、夜空に花火が咲いた。
その音だけが、いつまでも鳴り止まなかった。
⸻
その夜。
海を見下ろすような断崖。
そこは、町で一番高い場所だった。
足元には暗い海が広がり、波だけが何度も岩肌を叩いていた。
あの日と同じ潮の匂い。
手の中には、三つのキーホルダー。
歪んだクジラ。そして、壊れたシャチとイルカのキーホルダー。
僕はそれを握りしめたまま、海を見つめていた。
「……僕だけ」
声が震える。
「なんで僕だけなんだよ!」
波の音だけが返ってくる。
「朝陽も」
「結衣も」
「僕のことなんて守らなければ」
涙が落ちる。
一歩。
海へ近づく。
もう一歩進めば、
全部終わる。
「もう……いやだ」
「……また逃げるのか」
波の音に混じって、
知らない声が聞こえた。
足が止まる。
「……誰だ?」
振り返る。
誰もいない。
海だけが、暗闇の中で静かに揺れていた。
「逃げたところで、何も変わらない」
「なんなんだよ!」
辺りを見渡す。
その時だった。
波の向こう。
月明かりの下に、
白い人影が立っていた。
人の形をしている。
でも、人ではない。
輪郭は淡く揺らぎ、
今にも夜の中へ溶けてしまいそうだった。
「……っ」
なぜだろう。
怖いはずなのに、
目を逸らすことができなかった。
白い影は、僕を見つめていた。
そして、
少し寂しそうに笑った。
「久しぶりだな」
「……え?」
白い影が、僕の名前を呼ぶ。
「湊」
風が頬を掠めた。
海の匂いがした。
その瞬間。
なぜか、懐かしい気がした。
目の前にいる存在を、僕は知らない。
なのに。
ずっと前から知っているような気がした。




