異変
階段を下りる。
一段。
また一段。
後ろから、
足音は聞こえない。
「……」
振り返る。
誰もいない。
分かっている。
それでも、
何となく振り返ってしまった。
前を向く。
階段を下りる。
蝉の声が、
朝からうるさかった。
⸻
坂道を下りて、
住宅街へ出る。
いつもと同じ町だった。
自転車が通る。
遠くで、
犬が吠えている。
何も変わっていない。
変わったのは、
一つだけ。
「……」
ドクン――
足が止まった。
胸を押さえる。
「……怪物?」
辺りを見る。
いない。
でも、いる。
どこかに。
胸の奥が、
そう言っている。
ドクン――
今度は、
さっきより強い。
右を見る。
細い路地。
その奥。
黒いものが、
ゆっくり姿を現した。
「……」
四本の足。
細長い身体。
顔らしいものはない。
怪物が、
こちらを向く。
ドクン――
「僕を探してたの?」
怪物が、
地面を蹴った。
「――っ!」
右手を伸ばす。
黒い粒が集まる。
剣を握る。
怪物が飛びかかってくる。
身体を横へずらす。
すれ違う。
そのまま、
剣を振った。
黒い身体に、
刃が入る。
怪物が振り返る。
もう一度、
地面を蹴った。
「……!」
伸びてきた腕を避ける。
一歩、
踏み込む。
剣を振り抜いた。
怪物の身体に、
亀裂が走る。
そのまま、
黒い塵になって消えた。
「……」
剣を下ろす。
勝てた。
一人で。
足元を見る。
何も落ちていない。
「欠片は……ないか」
剣を消す。
その時。
ドクン――
「……?」
また、
胸が鳴った。
今倒したはずなのに。
ドクン――
「……」
一度。
ドクン――
もう一度。
違う。
一つじゃない。
ドクン――
ドクン――
ドクン――
「……何?」
前を見る。
道路の向こう。
黒い影が、
立っていた。
一体。
もう一体。
「……」
振り返る。
路地の奥から、
何かが這い出してくる。
屋根の上にも、
黒いものがいた。
「ちょっと……」
胸の奥が、
鳴り続ける。
右から。
左から。
後ろから。
どれが、
どの怪物の気配なのか。
もう分からない。
「多すぎるよ……」
一体が、
こちらへ走り出した。
続いて、
もう一体。
「……っ」
右手を伸ばす。
黒い粒が集まる。
剣を握った。
一体目。
振り下ろされた腕を避ける。
斬る。
二体目。
横から飛び込んでくる。
身体を沈める。
頭の上を通り過ぎた。
振り返る。
剣を振る。
黒い身体が崩れる。
「……!」
後ろ。
振り向く。
ガードしきれない。
身体が、
道路へ転がった。
「痛っ……」
すぐに起き上がる。
三体。
いや。
まだいる。
怪物たちは、
周りの人間を見ていなかった。
僕だけを、
見ている。
「……僕か」
剣を握り直す。
「やっぱり、僕なんだね」
怪物が、
一斉に動いた。
⸻
何体倒したのか、
分からなくなった。
息が上がる。
汗が、
頬から落ちる。
「……っ」
剣を振る。
一体が消える。
すぐ後ろから、
別の怪物。
振り返る。
斬る。
黒い塵が、
辺りに散る。
足元には、
いくつかの欠片が落ちていた。
でも、
拾っている暇がない。
「……まだ?」
遠くを見る。
黒い影。
こっちへ向かってくる。
「ほんとに……多いね」
剣を構える。
ハクトなら、
何て言うんだろう。
そんなことが、
一瞬だけ頭に浮かんだ。
「……」
考えるのをやめる。
地面を蹴った。
一体。
二体。
三体。
剣を振るたび、
黒い塵が舞う。
腕を掠める。
痛い。
それでも、
止まらない。
また一体。
最後の怪物が、
崩れた。
「……はぁ」
剣を地面へ突き立てる。
息を整える。
辺りを見る。
いない。
胸の奥も、
静かになっていた。
「……終わった?」
返事はない。
「……」
剣を見る。
「そうだった」
手を離す。
剣が、
黒い粒になって消えた。
⸻
道路に散らばった欠片を、
一つずつ拾う。
触れるたび、
黒い粒になって身体へ入っていく。
ドクン――
一つ。
ドクン――
二つ。
身体が、
少し熱くなる。
三つ目。
また、
身体へ吸い込まれる。
「……」
最後。
少し離れたところに、
一つだけ落ちていた。
「……?」
今までのものより、
大きい。
指先ほどだった欠片とは違う。
手のひらに収まるくらいの、
黒い塊。
近づくと、
胸が鳴った。
ドクン――
「……これ」
しゃがむ。
手を伸ばす。
触れた。
瞬間。
バキッ――
「――っ!」
欠片に、
亀裂が走った。
黒い粒が、
一気に右腕へ入り込む。
「……っ!」
熱い。
胸を押さえる。
ドクン――
ドクン――
ドクン――
「何……これ……」
心臓の音が、
頭の中まで響く。
身体の奥で、
何かが動く。
視界が、
揺れた。
「……っ」
立っていられない。
膝をつく。
ドクン――
その瞬間。
音が、
消えた。
「……?」
蝉の声がしない。
顔を上げる。
「……え」
道路、家、空。
何も、
変わっていない。
でも。
少し先。
自転車に乗った男の人が、
止まっていた。
「……?」
自転車ごと、
動いていない。
空を見る。
鳥がいた。
翼を広げたまま、
空中で止まっている。
「……は?」
風で舞っていた葉が、
目の前に浮いていた。
落ちない。
動かない。
「……」
立ち上がる。
僕だけが、
動いている。
道路へ出る。
辺りを見る。
全部、
止まっていた。
一歩、また一歩。
音がしない。
自分の足音すら、
聞こえなかった。
「……」
手を伸ばす。
空中に止まっている葉へ、
指先が触れる。
その瞬間。
ドクン――
世界が、
歪んだ。
「――っ!」
道路が揺れる。
家が揺れる。
空が、
大きく曲がった。
一瞬だけ。
その向こうに、
何かが見えた。
暗い。
何もない。
空も。
海も。
地面すらない。
ただ、
どこまでも続く、
何もない場所。
「……」
そこに、
何かが浮かんでいた。
光。
いくつも。
遠くに。
近くに。
数え切れないほど。
「何……あれ」
手を伸ばす。
ドクン――
「――っ!」
蝉の声が、
一気に戻った。
「……!」
自転車が、
目の前を通り過ぎる。
鳥が、
空を飛んでいく。
葉が、
地面へ落ちた。
車の音。
人の声。
風の音。
全部が、
戻ってきた。
「……」
その場に、
立ち尽くす。
さっきまでと、
何も変わらない町。
胸へ手を当てる。
鼓動は、
もう静かになっていた。
「……何だったの」
空を見る。
青い空。
いつもの空だった。
でも。
さっき見えた、
あの場所。
何もない世界。
そして。
そこに浮かんでいた、
いくつもの光。
「……」
右手を見る。
僕はまだ、
知らなかった。
さっき自分が、
ほんの一瞬だけ。
この世界から
外れていたことを。




