007.怪物
薄れゆく視界の中で、血走った目の女の背後に、もう一人の人影が見えた。
目に入ってくる情報は理解できるものの、もはやそれについて考察を巡らせるだけの力は残されていない。
地面がゆっくりと近付いて来て。ついには暗転した。
「起きて」
暗い視界の奥から、誰かの声がする。
どこかで聞いたような声のような気もするが、思い出せない。思い出そうとする気にもなれないと言った方が正しいか。
僕はもう終わったのだ。今更何をする事があるというのか。何ができると言うのか。
このまま寝ても良いだろう。
声は無視することにした。
「さっさと起きて」
しつこいな。それともこれが天の声なのだろうか。
生憎と僕は無宗教で、あの世の存在なんて信じていなかったが、もしかして天使が迎えに来てくれたのだろうか。
もしくは和風に、地獄の鬼が迎えてくれたのだろうか。
なんにせよ本当にあの世があるのなら、生前もう少し素直に信じてやれば良かった。
信じてもいない僕が、へらへらとあの世の門をくぐるのは少し気まずい。あの世でイジられたら、イジメられたらどうしよう。
とりあえず、この目を開いた瞬間に、天に昇るのか、地に堕ちるのかが確定するわけだ。
女性の声は綺麗でいて乱暴だ。
この時点では天と地どちらの可能性もある。
「いや、もしくは異世界転生というパターンも‥‥」
「はぁ?何の話よ。頭でも打った?いや、それは打ってたか。しかし鼻血がすごいのね」
「チート無双よりも、力を隠してスローライフを送るタイプが希望です。でもワンパンで解決できる程度のトラブルはご馳走様ですいただきます」
「だから何の話をしているの。目を開けて和泉」
名前を呼ばれ、意識が急速に覚醒した。
目を開くと、真っ暗な空を背景に、どこかで見た顔がそこにあった。黒い髪が重力に引っ張られ、僕に向かって流れている。まるで僕と目の前の彼女の顔を取り囲むカーテンのようだ。
「う、誰だっけ?」
頭の痛みに耐えて、言葉を搾り出した。
女性は身を起こす。黒髪のカーテンが離れ、視界が開くと、自分が路地の上に転がっている事が自覚できた。
「三上円」
「ぁあ、大学の‥」
「とりあえず、起きられる?」
「お、おう‥‥」
言われて体を起こすと、自分でも意外な程にすんなりと体は動いた。
死まで覚悟したというのに、特に大きな外傷は見当たらない。派手に鼻血が出ていた痕跡はあるが。
いや、頭がズキズキと痛む。少し触れてみたが、血は出ていなかった。
「大丈夫そう。頑丈なのね」
「さっきの女は?」
「どっか行った。不甲斐なかった。ごめんなさい」
「なんで謝るんだよ。三上が助けてくれたのか?」
「和泉を助けたというよりは、あの女の方に用があったの。あれを探していたら、たまたま和泉もいただけ。そういう意味ではあの女に感謝することね。和泉があれではなく、車にでも轢かれていたら私は気付けなかったし、無視した」
なんて無茶苦茶な理論だろうか。返す言葉も見つからない。
「今何時だ?僕はどれくらい横になってー」
そこで思い出した。
スマートウォッチだ。
目の前にいる、この三上円から渡されたのだ。
そして今のこの状況。偶然という事はあるまい。
「お前もさっきのやつと同類か?」
「は?」
「正直に言えよ。僕の時計もそういう事だったんだろ」
緊張感が二人を包む――
かに思われたが、どうやら緊張しているのは僕だけらしい。
三上はメジャーリーガーでもここまではしないだろうという程に、大袈裟に肩をすくめ、やれやれといったような表情だ。
「やれやれ、馬鹿なの」
いや、実際に言ったわ。
「だって不自然だろ。2日前の夜もあの場にいたんだろ!?」
「あー、面倒。こんな往来でする話じゃ無いんだけど、こんな時間だし‥‥和泉の家はここから近い?」
というわけで僕の部屋で、僕の目の前で、三上は胡座をかいて寛ぐに至っている。
冷蔵庫から未開封のペットボトルのお茶を出してやると、一気に半分程飲み干していた。
僕も喉がカラカラだったので、遠慮なく喉を鳴らしてお茶を飲み込んだ。お茶に混じって、少し血の味がする。
「それで、説明してくれよ三上。お前は何なんだ?」
「そんなに警戒してるやつをよく部屋に上げたわね‥‥」
「ちなみにここ部屋に入った女性はお前が初めてだ」
「気持ち悪い。和泉が童貞だって話は今どうでもいい」
「童貞とは限らないじゃ無いか!」
「あー、うるさいしやかましい。本題に入らせて」
簡潔に言うと、2日前も三上は今夜同様にあの女を探していた。
そしてあの現場へと駆け付けると、走り去る僕を見た。
そして僕が落としたスマートウォッチを拾って届けた。
それだけの話だった。
何の変哲もない、日常のエピソードのように三上は語った。
しかし僕は気付いた。今日と2日前の違い。あの日は逃げ切れて、なぜ今日はそうはならなかったのか。
「三上、おまえだったのか。いつも助けてくれたのは」
「いつもじゃない。この2回だけ。というか、どうやったらこんな短い期間に2回もあれに行き当たるの」
「僕が知りたいよ。こんな人生が続くならって本当に死を覚悟した。あれは何なんだ?魑魅魍魎の類か?」
「んー」
三上は大して高くもない、どちらかというと低い天井を仰ぎ見て、考え込んでいるようだ。
かと思うと、ぱっと顔を向き直す。
「私なりに深く考えたのだけれど」
「3秒くらいだったぞ」
「いいから。あの女は、とりあえずは人間」
「人間。あれが」
「まあそう思うのも無理はないわね。あんな馬鹿力の華奢な女がいてたまるかって」
その通りだ。成人男性一人を投げ飛ばす腕力。
そして僕の意識を一発で飛ばした打撃。
体型だけで見れば、とてもそんな力技を得意とするようには見えなかった。
「私も何でもかんでも喋るわけにはいかないんだけど。簡単に言うと、ああいった人間がいるの」
「それで納得できるとでも?」
「してもらわないと困るのは和泉。あなたよ」
「なんでまた?」
「こういうのは一度知ってしまうと、知らなかった自分には戻れない」
「知識が増えるのは良い事じゃないか。僕はぜひ賢者になりたいね」
「君子危うきに近寄らず」
「ぐう」
「お、ぐうの音くらいは出るのね」
君子危うきに近寄らず。返す言葉も無い。
僕も心でそう唱えたばかりではないか。
物理的に近付かなくても、こうやって知らず知らずのうちに近付いてしまう僕は、やはり愚者でしかないのだろうと痛感する。
「で、でも知らなかったらまた近付いてしまうかも知れないじゃ無いか」
そうだ。知らず知らずのうちにと言うように、知らないからこそ巻き込まれる危険も多いはずだ。
僕達がスズメバチを避けるのは、野生の熊に抱きつかないのは、それが危険だと知っているからだ。
「和泉の言い分も分かるよ。それも真理だと思う。でも、あれはそういうのとは少し違う。知っても避けられるものじゃない。対策はできず、恐怖しか残らない」
「周り全員が敵に見える世界で生きていたいなら、もう止めないけど」そう三上は会話を締め括った。




