006.逃走
帰宅してからは、二人の女性に思いを馳せた。
決して僕が気の多い、軽薄で軟派な男だという事ではない。
佐倉つむぎ。僕に少なからず好意を抱いてくれている。もちろん恋ではない。そこまで自惚れていないし、僕が彼女に惚れているという事でもない。
僕にというよりは、僕達の距離感に居心地の良さを感じてくれているのだろう。アイドルというのも楽ではないようだ。
そしてもう一人は三上円。
無くしたはずのスマートウォッチを渡してきた。
なぜ僕のものだと知っていたのだろう。
そもそもどこで見つけたのだろうか?とりあえずアルバイト先へ探しに行く手間は省けた。本当にささやかではあるが、それだけは良かった。
本音を言えば、アルバイト先に忘れていて欲しかった。
あの帰り道に落とした事が確定してしまった。
そしてなぜ三上はそれを見つけて、しかも僕の物だと思ったのだろうか。
分かっている、答えは分かりきっている。
「落とした瞬間を、見ていたー‥‥?」
言葉にすると、背中を虫でも這ったかのようなゾワリとした感覚に襲われる。
あの女性と、今日の三上の姿を結びつけようと脳内で何度となく試みるが、うまくいかない。
二人の像が結びつかないのではない、どちらの姿も曖昧なのだ。
思い返そうとすると、投げつけられた男の真っ黒で穴のような瞳が思い起こされる。
気分の悪さに、そこで記憶を掘り返すのを止めてしまう。
「くそっ」
一人悪態をつく。考え事ばかりで眠気が来る気配も無い。
気分を変えてコンビニにでも行こうかと思ったが、窓の外はすっかり暗い。それに昨日の今日で夜遊びするほど愚か者では無いつもりだ。
布団を頭まで被り、朝の訪れを待つことにした。
翌朝、いつも通りの目覚め。
結局いつ眠ったのかは覚えが無い。
特に寝不足も感じないので、それなりには眠れたのだろう。
昨日よりは随分と気分も良い。
あんな目に遭って、あんな目と合って、どんなに気分が滅入っても、時間が経てば慣れてしまうのが人間らしい。都合よくできているものである。
外からは水の音が聞こえる。どうやら寝ている間に雨が降ったらしい。
雨はあまり好きでは無い。こうして屋根のある所から聞こえる水音は嫌いでは無いが、外に出ると傘で手は塞がるし、髪や服が濡れて重くなるのは嫌だ。
大学で過ごす時間をあっという間と表現できたなら幸せだろうが、本日も非常に長く感じた。
こんなに長い時間を、知識の獲得に費やしたはずなのに、新たに知識を得たとどうしても思えないのは何故なのだろうか。いや、もしかしたら僕だけがそうなのだろうか。
今日は大学で誰とも話さずに終わった。そんな日もある。
もしくは佐倉と食事に行った事がすでに知れ渡っていて、大学ぐるみの無視でも始まったのだろうか。
そういえば今日はその佐倉を見ていない。
用が済んだ大学からアルバイト先の居酒屋へ直行した。
黙々と目の前の仕事を片付けていると、余計な事を考えずに済む。
あんな事があったというのに、普通にまた夜の仕事に励む自分をおかしくも思うが、金が必要なのだ。
変質者に殺されるか、金欠に殺されるかの違いでしかない。
バイト仲間からの食事の誘いを断り、退勤して帰路に着く。フリーターの彼らに付き合って、こんな時間から食事なんかに行ったものなら、何時に帰してもらえるのか分かったものではない。
もちろん寄り道は道を逸れたりもせずに、一番安全な道を帰る。
街灯が多く、車通りもある道だ。
怖くないとは言えない。店を出る前に比べると、いざ暗闇を前にして明らかに恐怖が蘇ってきている。
これがトラウマというやつか。最近はPTSDと言うのだったか。
順調に歩みを進めていく。
誰も僕の前を妨げる者はいない。それはそうだ、あんな体験が人生に二度とあってたまるか。ましてやこんな昨日の今日で。
アパートも近付き、もうすでにゴールしたような浮かれた気分。
最後の角を曲がると、細長い影が立っている。
「――――っ」
全身が一瞬にして凍ってしまったような。
僕だけ時間が止まったような。
体の全機能が一斉に停止したような。
とにかく僕の体はパントマイムさながらに、右足を踏み出したままの格好でピタリと静止した。大して見どころのない、不恰好なパントマイムではあるが。
影は、まるで影のような女性は、こちらに背中を向けている。
後姿だけで女性と分かったのは、後頭部には大きく柔らかそうな髪の団子があるからだ。
黒い服と、黒い団子の間にある白い首筋が、やけに際立って見える。
その影は振り返る。やはり女性だ。
今夜ははっきりと見えた。
女性の顔に見覚えは無い。
歳は自分とあまり変わらないくらいか、少し上だろうか。
僕の記憶に無いだけで、大学の人間だろうか。
何か忘れ物でも届けに?
僕の帰りを待って告白でも?
都合の良い想像を振り払う。
まずは、逃げねば。
色々と頭の中を駆け巡ったが、ここまで思考するのに一秒もかかっていないだろう。
覚悟を決めて、すぐに走り出す。
先日あんな目に遭って、同じ事があったら迷わず逃げようと心に決めていた事が功を奏した。
「なんで、またかよ!?」
あれと同じものかは分からない。もしかしたら偶然居合わせた普通の人かも知れない。なにせ髪型が洒落ていた。先日のあれに比べれば、いくらか人間味を感じた。
もしかしたらたまたま向かう方向が同じなだけかも知れない。
でも『もしかしたら』なら逃げると決めていた。
君子危うきに近寄らず。僕は君子では無い。一度すでに危険に近付いている。でも君子に倣うくらいはいいじゃないか。あの時から、危うきには近付かない君子に少しでも近付きたいと心に決めたのだ。
「え」
一心不乱に走っていると、後髪に何かが触れた感触。
先程のあれが、背後まで迫っていて、自分に手を伸ばす想像が頭をよぎる。ただの想像の可能性もあるが、改めて『もしかしたら』なら逃げるのだ。
とにかく走り続ける。
カーブミラーを追い越し様に見ると、僕の後ろには確かに女性の姿がいた。近い。
『もしかしたら』がもしかしなくなった。現実だ。
カーブミラーに映った人物が自分一人であるなら、一旦休んで後ろを振り返るつもりだったのに。
休む理由がなくなってしまった。
休むわけにはいかなくなってしまった。
息が切れるなんてもんじゃない。肺が千切れそうだ。
この足を止め、諦めて楽になりたいとすら思えてくる。
これから毎日のように、いや毎日じゃ無いとしても、週一でも、月一でも、年一でも、こんな目に遭う事が確定している人生なら、諦めてしまってもいいのではないだろうか。
周りの景色はすでに見覚えがない。
先日のようにどこかに身を潜めてやり過ごしたいが、今日はぴたりと背後にいる。できっこない。
あまりに苦しい呼吸に、声も出せない。ポケットからスマホを取り出して操作する余裕なんて無い。体力の底も見えて来た。
終わりだ。
今終わるのだ。
覚悟を決めた。とは少し違う。
手放した。自分の人生を、命を。
体から力を抜き、急激に速度は落ちる。
自分の命を終わらせる相手の顔くらい見ておこうかと振り返る。
女は血走った目で、組んだ両手を僕の頭に振り下ろそうと、高らかに腕を上げていた。
そこからはスローモーションだった。
振り下ろされた細い腕は、見た目に似つかわしく無い怪力で、僕の頭を捉えた。
脳裏によぎる大きな岩石。それほどの重み、衝撃。
鼻の穴から脳でも出て来てしまいそうだ。
意識が遠のく。体の感覚は消えて、体が倒れようとしている事は理解できるが、抗いようが無い。




