032.屋上
佐倉の手が僕の首に触れた。
しかしそれはほんの一瞬の事で、硬い何かが僕の皮膚に触れた事は分かったが、その後の大きな衝撃で全て吹き飛んだ。
気付くと僕は廊下の壁に肩を打ち付け、そのまま体を預けていた。
「痛っ〜‥‥」
「集中して!死ぬわよ!」
三上が振った黒い警棒は、佐倉を捉える事ができず空を切る。
それを何度か繰り返すと、僕と佐倉の間にはいくらか距離が開けた。
佐倉の手が僕に触れると同時に、いやコンマ何秒か早く、三上は僕を蹴飛ばした。
これはこれでそれなりのダメージだが、あの手の方が早ければ、胴と首が離れていた可能性もあるので感謝するべきなのだろう。
「あはは、ひどいんだね。和泉くん、円ちゃんに足蹴にされるくらいなら、私の手を取った方がいいんじゃない?」
「馬鹿言え、佐倉のゴリラめいた馬鹿力で握り潰されるくらいなら、僕の方から喜んで三上の足元へ滑り込むね」
「だからゴリラはやめてってば!」
佐倉は大きくその拳を横薙ぎに振るう。
三上は冷静にその拳から目を離さず、上半身を逸らして躱した。
空を切った拳の勢いは止まる事なく、そのまま横の窓ガラスを引き裂いた。
破片が舞い、三上は後ろに跳んで距離を取る。
佐倉はその場から動かずに破片を浴びているが、全く傷は見られない。拳も無事だ。
そしてすぐに衝突音。
後ろに跳んだばかりの三上が、再び佐倉へと大きく踏み出して警棒を打ち付けた。
警棒は佐倉の手で防がれた。
もはや金属と人間の体がぶつかる音では無い。鈍く大きなその音は、まるで中身の詰まった金属同士のぶつかり合いだ。
佐倉は忌々しそうに舌打ちをした。
「くっそー、やっぱり狭いなぁ〜」
攻撃を受けた事に対しての苛立ちでは無かったようだ。
狭く不自由な場所で、自由に力を振るえない事への不満。
なんて傲慢。僕達なんて何の脅威にも感じていないのだ。
何度か三上の攻撃は続くが、その全てを佐倉は腕で受け切っている。
三上のような流麗な動きでは無い。乱暴に腕を振り回しているようにも見える。
しかしそんな素人目に見ても無駄の多いように感じる動きが、三上の無駄の無い攻撃に全て間に合っているうえに、フェイントにも対応している。
なんという動体視力と速さ。
それだけで鍛錬を重ねたであろう三上と同等か、それ以上の戦闘能力を有している。
「和泉!屋上へ!」
「え、は!?」
「走って!私も行くから!」
「お、おう!」
僕の頭には疑問を中心に様々な思いが湧き上がるが、これ以上の足手まといになりたくはなかった。三上の言う事を聞く事だけが、今の僕にできる最善なのだ。
三上を信じて背を向け駆け出す。
背後では佐倉が何やら騒いでいるが、無視だ。
しかし屋上ってどうやって行くんだ。一度も行った事が無い。
でもとにかく上を目指すしかない。屋上と言うくらいだ、目的地が上にある事だけは確かだろう。
階段を2段飛ばしで駆け上がる。
しかしなんで屋上?せっかくの狭さというアドバンテージが無くなる。それに逃げ場も無い。
ヘリでも手配してあるのだろうか?モンスターから逃げた先にある救いのヘリコプター。映画やゲームならテンプレとも言える展開だ。落ちるという展開を含めて。
離れた所から響いて来る衝撃音に振り返る事も無く、階数も数えずにとにかく上へ上へと足を動かす。
暗闇の中の段差に何度も躓きながらも上を目指すと、唐突に階段は終わる。
ドアがあった。鍵はかかっていない。
ドアを開けると風が吹きつけ、視界が広がる。
「屋上だ‥‥」
本当に屋上はあった。
フェンスに取り囲まれたそれなりに広い空間には、木製のベンチが複数置かれている。
恐る恐る足を踏み入れ、ぐるりと辺りを見回す。
ヘリどころか、人っ子1人いない。
夜ではあるが、皮肉なほどに天気は良く、月も星も煌々と輝いている。天体観測には最高の場所だ。こんな状況でなければだが。
屋上の中央まで見てから、自分が入ってきたドアの前へと戻る。衝撃音は聞こえない。
階段を覗き込むと、底は暗い。
耳を澄ます。
軽快な足音が聞こえる。
いくら集中して聞いても、1人分の足音しかしない。
足音の主がどちらかによって、僕のこの状況は随分と変わる。
足音の主に想像を馳せる。
良くは無い想像に、思わず後退りする。
隠れるべきか、迎えるべきか。
しかし音は僕の決断を待つ事なく、すごい勢いで近付いて来る。
そして暗闇から姿を現したのはーー‥‥
「三上っ!」
「なによ、泣きそうな顔して」
「大丈夫だったか!?怪我は!?」
「いいから、落ち着きなさい。どこも、怪我してないから」
三上は息を切らし、額からは汗が伝っている。
それでもベンチに腰掛ける事はなく、腰に手を当て、天を仰いで息を整えている。
「すぐ、来るわよ」
『誰が』とは聞かない。
どこかでガラスの割れる音がした。
その数秒後、近くで重なるような耳障りな金属音。
屋上の端には、フェンスを力任せに引き裂いて佐倉が登場していた。
「‥‥よお、人間辞めると階段も忘れるのか?便利だから使ってみろよ。足を交互に上げるだけだからさ」
「ふふ、『余裕なんだね』って言いたい所だけど、分かってきたよ。和泉くんって追い詰められている時の方が饒舌になるんだね」
改めて指摘されると恥ずかしい。
その悪癖は自覚していた。
「私を特別扱いしないで、気さくに話してくれて嬉しかったんだよね。あれは逆に和泉くんなりに緊張してたから?私を意識してたからだったのかなー?あはは」
「僕はいつだって饒舌で絶好調だよ。それに僕は女の子相手なら誰だって緊張するんだ。佐倉が特別じゃない、勘違いしないでよね」
「うわー、なんて悲しいツンデレ」
背後の三上の気配を探る。
乱れていた呼吸は落ち着いたようだ。
状況は良くなったとは言えないが、前回のように僕と佐倉の一対一という詰みの状況にはなっていない。
まだ、できる事はあるはずだ。
「さて円ちゃん。続きやろうか」
「僕じゃ無いのか?随分と浮気性なんだな」
「浮気したのは和泉くんだよ?だからその女を殺してから、ゆっくりと追いかけっこしようよ、2人きりでさ。せっかくの舞台なんだし。あ、こういう企画のテレビ番組あったよね」
「あれで人は死なないだろ。お前はハンターというよりはプレデターだよ」
「あっは!プレデターっていいねえ。ゴリラよりはそっちの方が全然いい」
人間の超越者を謳い、人間と同列に語られるのは嫌で、ゴリラもダメで、プレデターは良いらしい。いまいち佐倉の価値基準は分からない。
僕の方に手が置かれる。
三上が僕の背後から、佐倉の前へと足を踏み出す。
「お待たせ。やりましょうか」
「またそうやって私達のお喋りを邪魔して‥‥まあいいか、早く済ませたらいいだけだし」
佐倉と三上はぶつかり、三上が弾け飛んだ。
やはり単純な力比べになると圧倒的に佐倉が有利だ。
それでも三上はすぐに起き上がり、何度も立ち向かって行く。
何度も。
何度も。
何度も。
そうやって三上の服の所々が裂け、さらにはその下にある肌も裂け、血が流れる。
暗くてよく見えないが、その肌はきっと全身どこもかしこも腫れて変色しているに違いない。
佐倉の直接的な攻撃こそ当たっていないようだが、それを受けて、吹き飛ばされてアスファルトに叩きつけられるだけでも相当なダメージである事は明らかだ。
「もうっ、しつこいなぁ〜!あの男より力も無くて武器もしょぼいくせに何で死なないのっ!」
佐倉は何度も立ち上がって来る三上への苛立ちを隠そうともしていない。手は抜いていないようだ。
「さあ?覚悟の差かしらね」




