031.廊下
「こんばんは〜」
「佐倉っ!」
三上は黙って身構えた。
まだ距離は十分にある。
僕も冷静にならなければ。
「よく分かったな。今日は趣向を変えて街には出なかったってのに」
「あはは。どこに逃げても無駄だよ〜。せめてもっと遠くに逃げれば良かったのに」
「そうしたらあなたは見せしめにこの街の人をたくさん殺すのでしょう?」
「あは!すごい円ちゃん!もうそんなに私の事を理解してるんだ!」
絶句した。
まただ、また僕の理解が及んでいない。
三上が、遠くへ逃げる提案をしなかったのはこれか。
正確には、僕だけは遠くに逃げるという話はしていた。
こんな目にあっているというのに、三上にこの街を離れるという選択肢が無かったのはこのためだったのか。
「佐倉、お前そこまで!」
「そこまで、なぁに?」
「そこまで、落ちたのかよ!」
「失礼だなぁ。落ちたんじゃ無くて上がったの。生き物としてのステージが」
「おまっ!なっ!?」
言葉の途中で、三上に手を引かれた。
力任せに、引き摺られるように引っ張られる。
なんとか転ばずに着いて行き、後ろの扉から廊下へと飛び出した。
背後の暗闇からは、佐倉の笑い声が聞こえる。
「構う必要は無い。走って!」
「あ、ああ!」
気合いを入れ直し、力強く廊下を蹴る。
角を曲がると靴底のゴムが廊下に擦れて甲高い音が鳴り、その音が廊下の隅にまで響き渡るようだった。
自ら位置を知らせてるようで気にはなるが、それでも今はこの足を緩めるわけにはいかない。
僕達以外の足音もする。佐倉だろうが、まだ足音は遠い。
必死に目の前の背中を追う。着いていくのがやっとだが、それでも三上は僕に速度を合わせてくれているのだろう。
扉が空いている部屋に転がり込むように入る。
三上に促されるまま、棚の陰へと身を潜めた。
足音が近付いてくる。
どうかそのまま、素通りしてくれ。
「ねえ2人とも、かくれんぼは苦手?」
その声とほとんど同時に、横から三上の舌打ちが聞こえる。
そして間髪入れずに走り始めた三上の背を再び追う。
廊下に出ると、すぐ背後から甲高い音と、床を強く叩く足音が聞こえた。
佐倉が僕の背をめがけて跳んだのだろう。
幸い僕にその手がかかる事はなく、走り続けられている。
佐倉が伸ばしたであろう手と僕の背中には、どれくらいの距離があったのだろうか。考えるだけで背筋が凍る思いだ。
暗い廊下には僕達の足音が響く。
響きすぎて、あちこちから無数に聞こえる足音は誰がどの音なのか分からない。つまり佐倉との距離も掴みようが無い。
振り返る余裕は無かった。少しでも足の回転が鈍るような動きをすれば、その瞬間に佐倉の手に捕らわれそうで。
「大丈夫、距離はある。と言うか、あっちは走ってもいない」
僕は余程ひどい顔をしていたのだろうか、ちらりと僕の顔を横目で見た三上が走りながら教えてくれた。
どうやらこの足音を聞き分けられているらしい。
三上は少し走るペースを落としてくれたので、僕もそれに合わせる。
ようやく深く酸素を深く吸うことができて、いくらか落ち着くことができた。
「なんか佐倉は随分と余裕があるようだな。僕達の居場所が分かるのか?」
「タネや仕掛けは分からない。けど、あの様子だとそう思った方がいいわね」
「そういえば、佐倉はいつもタイミングが良いというか、狙ったように僕の前に現れていた気がするな」
「今日もそうだけど、これが初めてじゃ無いってわけね。いよいよどこにいても、佐倉さんには和泉の場所が分かっているという前提で動かなきゃまずいわね」
「くっそ、なんでだ!?」
「考えても何も浮かばないなら、とりあえず逃げることに専念して。今は隠れても無意味ということだけ分かってればいい」
嫌な予感がする。
三上はオーバーなんて所詮は人間だと言うけれども、多少進化したところで人間にあんな力が身につくのだろうか。
彼女らはまだ辛うじて人間の姿形をしているだけで、もっと別の何かになろうとしているのではないだろうか。
ひたすら三上に着いて行く。
それしか出来ない事は歯痒い限りだが、それすら止めたら即ゲームオーバーだ。
かといって、いつまでこうしていればいいのだろう。
こんなことを続けていたら、3人の中で一番初めに脱落するのはこの僕である事だけは間違いない。
僕達は階段を昇る。
ジョギング程度の速さで、長い廊下を走る。
その時だった。
目の前のガラスが高い破砕音を響かせて舞った。
月明かりを浴びて、僅かにキラキラと輝く破片がスローモーションに見える。
「ばぁ」
廊下に散らばった輝くガラスは、まるで彼女を彩るステージのようだ。煌めく破片の中央に佐倉が立っている。
1階から2階へと飛び上がったのだろう。
上から下へ行くにしても、相当なスタント技術を必要とするであろうその行為を、重力に逆らって、逆方向へとやってのけた。
それも、違うフロアにいる僕達の位置へとほぼ正確に。
無茶苦茶だ。人外じみている。
これは本当に人間を越えた存在だとしかーー‥‥
「夜中に後者の窓を割るなんて、不良のやる事だぞ佐倉」
「昔の不良でしょそれ。私は昔の存在じゃ無くて、どちらかと言えば最先端の存在だよ。あ、だとすると流行は繰り返すってやつかもね?これからのトレンドは盗んだバイクで走ってガラス割り!そして同級生狩り!あはは!」
「それじゃついでに拳で語り合うとするか?少しは分かり合えるかも知れない。こんな僕でも、ただの標的から強敵と書いて友と呼ぶくらいにはなれるかも知れない」
虚勢だ。
減らず口は叩けたが、声が震えているのが自分でもよく分かる。
「和泉、落ち着いて」
「ああ、ごめん」
三上の声で我に返る。
弱気になってはいけない。身体能力ではもはやコールド負けしている。
僕が唯一勝負できるのは心の強さくらいだ。しかも強力なセコンド付きなのだ。そこだけは譲るわけにはいかない。
「まったくー。円ちゃんがいるとつまらないなぁ。逃げ惑う獲物を狩るのが楽しいのに」
「ええ、だって私達あなたの獲物にはなり得ないもの。それより教えてくれない?どうして私達の場所が分かるの?」
「ははっ。そりゃ人間程度の能力じゃこんな事もできないよね。お気の毒ぅ〜」
蔑んだ目で、不気味な猫撫で声で、下卑た笑顔を張り付けて佐倉は笑う。
心から僕達を見下し、遊びの道具としか見ていない。
先日涙を流した時とは明らかに様子が違う。
佐倉も覚悟を決めたのか、もしくはこれがそもそも通常の状態なのか。
それか、やはりオーバーも成長するのだろうか。
能力が向上し、心は益々人間から遠ざかる。
「能力の向上‥‥そうか、超能力的なものじゃなくて五感か?」
「五感。ぁあなるほど、単純に私達より目も耳も良いってだけね。こんな状態初めて見るから少し惑わされたけれど、無い話では無いか」
佐倉の反応は無い。
だが得意の笑顔が消えた。
「オーバーはみんなそうなのか?」
「聞いた事は無い。けど、きっと佐倉さんはそうなのでしょうね」
「超能力じゃないって分かって良かったよ。最後はビームでも出すんじゃ無いかってヒヤヒヤした」
分かったところでどうにかできるという事も無いが、神がかり的な超能力というわけでは無いというだけでも安心だ。
五感なら僕にもある。
まだ、人間の範疇だ。
「イライラするなぁ。そうやってすぐ私を人間の枠組みに連れ戻そうとするんだ」
僕の耳には佐倉の声が静かに届き、間髪入れずに佐倉自身の手も僕へ届いた。




