003.回想
昨夜の事だ。
私服に着替え、アルバイト先の居酒屋を後にした。
閉めたドアの向こうからは、まだまだ鎮まりそうも無い喧騒が聞こえる。
週末でも無いというのに、この喧騒の元となっている人々は何の仕事をしている人達なのだろうか。
考えた所で知る由はない。一卓ずつ聞いて回れば答えは得られるのだろうけど、一瞬の好奇心を満たすために、そこまでできるような人間では無い。
この日の僕の退勤時間は、予め夜の11時と決まっていた。
「和泉ぃ!ありがとう!上がっていいよ!」
厨房で忙しなく動く店長の大きな声に素直に従った。
まだまだ慌ただしく営業している店を後にする事には、いくらか後ろ袖を引かれる思いではあったが、ここで下手に同情しようものなら何時に帰れるか分からない。
「ごめんみんな。ここは任せた」
もう誰も見ている者は無いが、それでもドアの向こうにいる従業員の皆様へ親指を立ててから背を向けた。
僕は「俺のことはいいから先に行け!」なんて言われたら、迷う事なくその言葉に従う事にしている。
どうせ最後はその言葉に従う事になるのだ。一旦立ち止まる件はカットの方向で話を進めたい。効率重視だ。
『俺も一緒に戦う!』なんて一旦は立ち止まるセリフが美しいものとして、テンプレートになっているのは甚だ疑問である。勇者とは呼ぶが、さすがに蛮勇が過ぎるというものだ。
確かに相手を思い、心中すら厭わない姿勢は美しいのだろう。
だがそのせいで、目的が達成できなくなるのは本末転倒であり、託した仲間の思いを踏み躙っていると言ってもいい。
素直に言葉に従う事で、相手の気持ちを汲んでいるうえに、効率も良い。
『一緒に戦う』より『ここは任せた』の方が美しいと僕は思う。
後日談にはなるのだが、この話をしたら『やはり頭が最悪なのね。人の心に寄り添うということを知らないのかしら。ああ、だから誰にも寄り添われずに一生を終えていくのね』と冷たい目で言われた。
あんな冷たい目をした人間に心を説かれるとは心外だった。
喧騒を離れ、数分歩くと見るからに店は少なくなり、目に映るのものは民家ばかりとなる。
とても静かで暗い道だが、慣れたものだった。毎日のように通るこの時間のこの道に、いまさら恐怖なんてものは無い。
正確には、この時までは無かった。
自宅のアパートまで半分くらいの距離まで来ただろうか、太い枝でも折るような、中身の詰まったゴミ袋を叩きつけるような音が聞こえた。
こんな時間に誰か庭の片付けでもしているのだろうか。それも結構大掛かりな。
まあ都合なんて人それぞれだろう。アルバイト先で騒いでいるお客様方だってきっとそうなのだ。
平日休みの人がいればその逆もいて、日中に働いている人もいればその逆もある。そうして人間社会は、経済活動は回っているのだ。たぶん。
しかしいくらなんでもこの時間に、大掛かりな片付けをしていたら、ご近所トラブルに発展しやしないだろうか?でもこの時間にしかできないのかも知れない。と、姿も知らぬ人に少しだけ同情めいた感情を向けて、足は曲がり角に向けた。
角を曲がった先、明らかに音が近付いている。
正確には僕が音に近付いているのだが。
あまり深く考える事もせず、音の正体を知りたくなってしまった。
耳を澄まして音へとさらに足を進める。
隣り合って並んだ塀の隙間へと体を潜らせて、知らない人の家の裏へと出ると、地面一面にコンクリートが敷かれた殺風景な場所に出た。白線が引いてあるので駐車場だろうが、車は一台も停まっていない。
しかし人はいた。
暗いうえにこちらに背を向けているので、顔は確認できない。肩までかかった髪に、華奢な体の輪郭を見るに、女性だろう。
手には先ほどの想像通りに、ゴミ袋を持っていた。
声をかけるべきかと一瞬だけ思い立ったが、やめた。
音の正体が、僕ではとても敵いそうもないムキムキの変質者では無い事には胸を撫で下ろしたものだが、こんな時間に1人でゴミ袋を持って立っている女性というのもマトモではないだろう。
そもそも僕に、そんなコミュニケーション能力も無かった。
これ以上は何か事件性のある事態に巻き込まれてしまいそうだ。
『深夜に奇妙な音を聞き、音の正体を探ったら1人で佇んでいる不気味な女性を見た』これで十分なオチだ。人に話すネタとしてはやや弱いかも知れないが、紛れもない実体験なのだ。それも現在進行形の。
これでオチが女性の正体が魑魅魍魎の類だったり、はたまた逃亡中の指名手配犯などというのは行き過ぎである。僕のキャパシティを越える。
人生に少しの冒険は必要だと思うものの、『好奇心は猫をも殺す』というイギリスのことわざを僕は知っている。今回は猫ではなく自分自身だ。これ以上の好奇心は文字通り命懸けになってしまう。
衣擦れの音ひとつ立てないよう注意を払い、元きた道を戻る。
女性からは目を離さず、ゆっくりと後退する。
『気付くな』と何度も繰り返し心で唱える。
だがその願いは叶う事は無かった。
髪を揺らし、女性はこちらに顔を向けた。暗闇で表情は見えない。
頭の中が真っ白になり、後ろに踏み出した足も止まり、時間が止まったかのような錯覚。
だがしかし、止まったのは僕の時間だけで、女性の動きは僕とは対照的にも早かった。
手にしたゴミ袋を振りかぶり、投げつけてきた。
ゴミ袋は見た目以上の重量があるらしく、ものすごい速さで僕の横をすり抜けて、それが起こした風は僕の大して長くもない髪を揺らして、背後の塀に激突した。
女性は投げ終えた手を空中に置いたまま、項垂れていた。
髪が顔にかかっていて、やはりその顔は見えない。
沈黙。
今度は女性も止まっている。
今度こそ時間が止まったのだろうか。
息も上手くできていない気がする。
足は地面にくっついてしまったのでは無いかと思う程に、うまく持ち上げられない。
無意識に顔と目だけは動いた。本当に意識したわけでは無い。意識があるなら動かすべきは足なのだから。
勝手に動き出した僕の本能とも言える好奇心は、その姿を捉えた。
「人‥‥?」
口も、声帯も、無意識に動く事もあるものだ。
思わず出たその言葉は、目の前の光景を何のひねりも無く、それでいて的確に表している。
まるで糸の切れたマリオネット。
地面に転がっているその人の関節は、本来曲がらない方向に曲がっているどころか、普通の人よりも関節が多いように見える。
肩から肘の間で一度折れた腕。膝から足首の間も同じように関節が一つ増えている。増やされてしまっている。
視線をその人の体から顔に移すと、目が合った。
その瞳が真っ黒なのは、闇夜のせいなのか、目の光がすでに失われているかは判断が付かない。
それでも、その深い穴のように黒一色の瞳は、僕の瞳を通して、ダイレクトに脳に焼き付いた。
「う、ああああああ!!」
急速に意識を取り戻し、思わず叫んだ。
しかし張り付いた喉に声はひっかかり、空気の抜けたようなマヌケな声が、さらに裏返って口から漏れ出ただけの結果となる。声というよりは、まるで失敗した管楽器。
ザリッと、アスファルトを擦るような音。
女性が一歩を踏み出した。
そして拳を振り上げ、力任せに近くのブロック塀を叩く。
塀はまるで豆腐のように崩れ、殴られた箇所のコンクリートが地面に落ちた。塀には穴が空いたようだが、向こう側の景色は暗くて見えない。ただの黒い穴だ。
どうやら彼女は邪魔が入った事で怒り心頭らしい。だが八つ当たりされたブロック塀に同情している余裕は無い。
「‥‥ひっ」
弾かれたように駆け出し、さっき出て来た狭い塀の間へと身を潜り込ませる。
乱暴に進んだせいで、体のあちこちを塀にぶつけてしまう。
服は破けているかも知れないし、擦り傷もできているかも知れない。しかしそんな事はどうでも良かった。
少しでも早く、1秒でも早く、あの女から離れなければ。
好奇心に殺される。
這い出すように、道とも呼べない狭い通路から這い出す。
街灯の明かりのなんと心強い事だろうか。
自分が抜けてきた暗闇を振り返る。
「あっ」
そして瞬時に再び駆け出した。
いたいたいたいたいたいた!!
追ってきている!!
まずいまずいまずいまずい!!
恐怖で振り返ることができない。背中に全神経を集中させてとにかく足を前に運ぶ。
しかしこのまま帰宅して良いのだろうか。成人男性ひとりを片手で投げるという人間離れした相手だ。僕の全速力なんて通用しているのだろうか。
右へ、左へ、また左へ、踏み入れた事の無い道に片っ端から足を踏み入れる。
あれが僕を見失うように。
「はぁ、はぁ、だっ、だれか、たすけっ‥!」
いくら足がもつれても、立ち止まらず、振り返らずに足を動かし続けた。
そうして見覚えのない住宅地を抜けて、見覚えのない橋の下へと身を隠した。




