002.笑顔
瞼を開く。
リビングへと続くドアの細長いすりガラスからは、光が見えた。
まさかとは思いたいが、リビングの明るさを見るにきっとそうなのだろう。
スマホを開く。
「朝かー‥‥7時」
いつも通りの起床時間。
体内時計というものは、こうも正確なものだろうか。
望んでいないにしても久しぶりの全力疾走をして、汗だくで、靴も履いたまま、硬い床の上に転がっていたというのに、なんと正確な時計だ。スマートウォッチを捨ててしまおうかとすら思う。
「あれ?」
左手首に触れるも、そのスマートウォッチの感触が無い。
袖を捲って見えたのは自分の肌のみ。
起きている間はいつもそこにあるはずのスマートウォッチは影も形も無い。
いや、正確にはうっすらと肌に残る日焼け後がその影を残している。
アルバイト先に忘れたのだろうか。
昨夜の逃避行中に落としたとしたら最悪だ。
高校生の時から使っていて、買い替え時かとも思ってはいたが、多少充電の減りが早くなっただけで、まだ十分に使える相棒を失うのはあまりにも惜しい。しかも年々高額になっていくあの手のガジェットは、買うとすれば何日分のアルバイト代を捧げる必要があるのかと考えると気が滅入った。
心当たりを当たろうにも、こんな朝からアルバイト先に電話をしたところで繋がるはずもない。
そして昨日走った道を探しに行くくらいなら、不本意でも数日間のアルバイト代を捧げる方を選ぶ。
一旦スマートウォッチの事は置いておいて、シャワーを浴びる事にした。
今日も1日が始まったのだ。
どんな酷い目に遭ったところで世の中は僕を待ってはくれない。
特に大学。僕にとってはこいつが曲者だ。
待ってくれないくせに、単位を得ない事には卒業だけはいくらでも待ってくれるのだ。
しっかりと対価を支払う必要はあるのだが。
幸い今夜の予定は無い。さっさと授業というタスクをこなして早めに寝ることを心に決めた。
背中に痛みを感じながら、重い足を引き摺るような思いで大学の門をくぐる。
目的の部屋に着き、椅子に腰を下ろして項垂れる。
視界には机しか入ってはいないが、周りからは同年代の男女の騒がしい声が、絶え間なく耳に飛び込んでくる。
いつもは耳障りな騒音も、今日だけは好ましいものに感じる。おそらく明日からはまた騒音にしか感じないのだろうけども。
隣の席に誰かが座る気配がした。
「おはよう和泉くん。調子悪いの?」
「‥‥おはよう。佐倉」
無視しようかと思ったけども、項垂れたままこの時間をやりすごしたかったけれど、知人の挨拶を無視するのは今後のキャンパスライフに差し支える。
ましてや相手があの佐倉つむぎともなれば。
挨拶を口から絞り出しながら顔を上げると、佐倉と目が合う。
佐倉はにこりと笑顔を輝かせる。
輝かせると言っても太陽のような眩しさではなく、温かみのある柔らかい笑顔。この笑顔のファンは多い。かなり多い。なんせ一年の時からミスコン候補に選ばれているほどだ。
結局誰がその栄冠を手にしたか結果は知らないが。
佐倉の可愛さは流石の僕も認めざるを得ないにしても、決してお近付きになりたい人種では無い。
可愛い子と接点を持てるのは素直に喜ばしい。気分が良い。それは事実だ認めよう。
だが佐倉が魅力的であればあるほどに、佐倉と仲の良い男は、その他の男から漏れなくヘイトを向けられるのだ。
どうせ恋仲になる予定も気配も無い。だったら僕は一時の気分の良さよりは、平穏なキャンパスライフを選びたい。
ではなぜこう人数の多い学徒の中から知り合いになれたかと言うと、グループディスカッションでたまたま同じグループになり、挨拶を交わす程度には顔見知りの関係になっただけなのだ。
僕は佐倉の笑顔に応えるように、笑顔を作る。
だが僕の表情筋はきっと人より劣っている。少なくとも佐倉には到底敵わない。
目の前にある笑顔を手本に口角を上げたつもりが、引き攣って片方しか上がっていない事が鏡で確認せずとも分かる。
笑顔作りは無様にも、凄惨にも失敗した。
『しまった』と思ったが、そのぎこちなさを佐倉は僕に都合のいいように取ってくれる。
「やっぱり調子悪い?大丈夫?」
「あ、いや。ちょっと寝不足なだけ。大丈夫だよ」
「本当に‥‥?昨日の夜何かあったの?」
「あ‥‥‥」
その言葉に昨夜の光景がフラッシュバックした。
瞬時に『まずい』と思い、呼び起こされる記憶にブレーキを踏んだつもりだったが、機械とは違う人間の体は、必ずしも主の思うがままに動いてくれるとは限らない。
考えないようにしていた。
考えてしまうと、もう2度と、まともな生活には戻れないような気がしていた。
1人でいるとつい思い返してしまうし、昨日まで積み重ねてきた日常を続ける必要があるから大学まで来たのだが――――
昨夜の記憶が鮮明に蘇る。




