001.極悪
僕が大学2年生の初夏の事だ。我が身に降りかかったイベントは、最悪と言えば最悪であり、むしろ最悪という言葉では足りない程だ。
極悪と言ってもいい。
極めて悪いと書く『極悪』という言葉。
悪を極め、他の追随を許さない程の悪のはずだ。
だが極悪人や極悪非道とは言っても、日常遣いというか、状況に対して使われる事が無いのは何故だろうか?
「今朝電車が遅延しててさー!もう極悪!」
なんて聞いた事があるだろうか?
無いはずだ。少なくとも僕は無い。
そんな話をしたら「最悪だって、最も悪いと書くのだから悪界隈のナンバーワンでしょう。そんなくだらない事を真顔で語ってしまうあなたの頭は、間違いなく最悪で極悪ではあるのでしょうね」と冷めた目を向けられて言われた。
最悪もナンバーワンとは的を射られた。言われてみれば当然の事ではある。
自分で掘り下げて考える事もなく、安易に人に聞いてしまう僕の軽率さに呆れられていた。
確かにそれは僕に非がある。
しかし言葉と同時に視線も射るのは、いささかオーバーキルでは無いだろうか。
同時に二矢射ったうえに、見事に正鵠を射るなんて、まるで神話に出てくる弓兵のような腕前ではある。
だがしかし、僕は神話に出てくるような、退治される運命にある極悪非道の王でも、人に仇なす獣でも無いのだ。手心を加えて欲しい。
「くそ、なんで今こんな事を思い出してしまうんだ」
小さく呟いた言葉は、誰の耳に届くでもなく闇夜に吸い込まれた。
誰にも届いて欲しくないので都合が良い。
どうでもいい記憶だったわけだが、これが走馬灯というものなのだろうか。
そもそも誰との会話だったか?
走馬灯とは直面した死を回避するために、本能が過去から救かるための方法を引き出すために起こる現象という説を聞いた事がある。
だが今しがた思い起こされた記憶に救かるための答えは無いと言い切れる。
そもそも走馬灯では無いと思う。思いたい。
アルバイトの帰り道、今日という日が終わり、今日が昨日へと移り変わろうかとしている時間に、僕は小さな橋の下で膝を抱えて丸くなり息を殺している。
顔の周りを漂う羽虫が煩わしいが、今はまだここを動くわけにはいかない。
耳を澄ませて周囲の様子を探る。
目の前を流れる小さな川の水の音。
蛙の鳴き声。
風が草木を揺らす音。
自然に包まれている。人の足音や声はおろか、車の走行音なんかも聞こえない。
スマホを取り出し、操作しようとした指を寸でのところで止める。
スマホのライトが、あれの目に留まるのではないかと気付いたのだ。
そもそもスマホを使ったところで、誰を頼るというのだ。警察?友人?
誰がこの状況を疑わずに信じて、手を貸してくれるというのか。
しばらく考えるも、やはりスマホを使う事はやめたおいた。これが吉と出るか凶と出るか、僕にはわからない。
夜闇の中でも更に暗い橋の影からわずかに身を出し、辺りを見回す。
やはり周囲に自分以外の気配は無い。
静かに身を低くして、斜面を登り土手の上に敷かれたランニングだかサイクリングだかのコースへと足を踏み入れる。
アスファルトの感触を足裏に感じ、すぐに自分がいた草むらと反対へと駆け出し、コースを横切った。
もつれる足で必死にバランスを取りながら、斜面を駆け降りていくと、さっきまで身を隠していた草木生い茂る自然とは対照的な整然とした住宅街へと出た。
どの家も窓の中は暗く、人の気配を感じさせない。
せっかく草むらの中から這い出して来たというのに、安心感なんてこれっぽっちも得られなかった。
それどころか、どの家も御立派に塀を携えており、死角が多い。
十字路の死角からあれが現れるのでは無いかと、心臓が高鳴る。
今すぐにでも明かりの落ちた知らぬ家のドアを叩き、中に招き入れてもらえればどれほど助かるかとも思ったが、こんな状況でも僕という人間は常識人でいたかった。
こんな深夜も深夜に、知らない男が訪ねて来たら誰だって怖いだろう。僕も今現在、まさに恐怖の真っ只中にいるのだが、自分が恐怖から逃れるために、自分が恐怖そのものにはなりたくは無い。
「まぁ、最後の手段にしておこう」
知らぬ家のドアから目を離し、スマホを開く。
おおよその位置しか分からない現在地を、正確に確認してから駆け出した。
十字路を通過する度に、誰も何も現れないでくれと祈り、全力で足を動かし続けた。
何かが背後まで迫っているような気配に、振り返る事はできない。
割と早い段階で息が上がり、足が重くなる。
日頃の運動不足を呪いながらも、それでも今できる精一杯を出し切った。
20分程度の時間をなんとか完走し、急いで自宅アパートのドアを開く。
靴も脱がずに玄関から床の上へと倒れ込んだ。
「はぁ、はぁ、生きてる‥‥」
うつ伏せから仰向けになり、自分の手のひらをまじまじと見つめ、指を動かす。
体が動く。生きている。
なんと素晴らしいことだろうか。
気分が落ち着いて来ると、僕が勝手に恐怖し、実態の無いものから、幻から逃げ回っていただけなのではないかとすら思えて来る。
気分だけではなく、少しずつ呼吸も落ち着いていくのを感じる。
動くのは完全に息が整ってからにしようと、瞼を閉じてその時を待った。




