011.重荷
三上の名前が口から漏れた瞬間。身体にかかる重さが消えた。
恐る恐る顔を上げると、僕を踏み潰そうとした女の代わりに、三上が立っていた。
僕より明らかに小さいはずのその背中が、とてと頼もしいものに見えた。
「遅いって‥‥」
「そう?生きてるじゃない」
「死ぬ事以外はかすり傷って考え方か?悪いが僕は健康寿命の方を重視するんだ」
言いながら立ちあがる。派手な衝撃の割に、骨は大丈夫だったようだ。
とは言え痛いものは痛い。この状態で走って逃げるのは無理なので、いよいよ三上に頼るしかなくなった。
「またお前かあ!?」
さっきまで僕を見下して笑っていた女が、三上には憎らしげな表情と声を向けている。
頭上から照らす街灯が、眉間の皺をより濃いものにしていて、その顔はまるで般若面のようで迫力がある。
「今日は逃げられると思わないで。こちらもそれなりには準備してきたのだから」
女は舌打ちをして、身を屈めた。本気で戦う時の構えなのかも知れない。
「私がお前達相手に逃げるわけないだろうっ!」
「記憶喪失?逃げたじゃないの。二度も」
「そんな事はしていないっ!」
三上も姿勢を低くする。手にはすでに黒い警棒が握られていて、向かい合う相手に集中している。
そんな場合では無いのだが、その姿に見惚れた。
僕に武道の心得なんて無いが、三上のこの構えはきっと理に適ったもので、何かしらの技術の結晶なのだろう。
だって、こんなにも美しい。
「来なさい」
「ぁああああ!!」
女が三上に飛び掛かる。2人の間にある距離は、普通の人間ならば数歩は必要とするだろう。
だが、その距離を女は一歩で跳んだ。それどころか、まだ余裕があるようで、三上の頭の高さほども飛んでいた。
手を振り上げ、着地の勢いのまま殴打を狙っているのだろう。まるで獣の、肉食獣の狩りだ。
しかし三上は表情ひとつ変えない。女の腕を潜り抜けながら、警棒を容赦なく振るう。
硬いもの同士がぶつかる鈍い音がして、飛びかかってきた女は、地面に足をつける事なく、空中に弧を描いて背から落ちた。
言葉も出ず、時間が止まったようにしばらくその光景に見入ってしまった。
女は床に投げ捨てられた人形のようになって動かない。
「こ、殺した?」
「死ぬような殴り方はしてないはずだけどー、昨日よりは良いのが入ったかな」
三上は倒れた女に近付いて、その顔を覗き込む。
頭の周りに血溜まりができたように見えて、死んでいると思ったが、髪が広がっているだけだった。
「うん。死んで無い」
「そりゃあ、良かった‥?」
「お疲れ様。ここからは私の仕事じゃないから帰ろうか。痛いんでしょ?肩くらい貸してあげる」
そう言うと半ば無理やり僕の腕を自分の肩へと回し、僕の体重を、文字通り肩代わりしてくれる。
驚いてバランスを崩し、思わず体重をかけてしまったが、三上の体幹は相当なものらしく、びくともしなかった。
僕より頭ひとつと少し低い身長と、腕に伝わる細い肩の感触からは考えられない強靭さだ。
そしてそんな僕の心情なんてお構いなしに、歩き始めてしまう。
「おい、あのまま放っておいていいのか?」
「いい。これ以上は私の仕事じゃない」
『じゃあ誰の』とは聞かなかった。どうせこれは答えてもらえないタイプの質問だろう。
これも『君子危うきに』だ。『知らぬが仏』『見ぬが極楽』でもいい。
これ以上の詮索は、きっとあの倒れている女よりも危ういのだろう。
もう終わったのだ。痛みと引き換えに平和を取り戻した。マイナスがゼロに戻っただけではあるが、これ以上何かを望むのはやり過ぎなのだ、きっと。
「それにしても、一発で終わるなんて」
「物足りないの?あの女の代わりに、明日からは私が恐怖に叩き落としてあげようか」
「やめろ。そうじゃない。あんなものに目を付けられてさ、僕の人生は終わったと思ったんだ。さっき殴り飛ばされた瞬間も思った。なのに僕の今後の人生全てが込められた諦念は、三上の1秒にも満たない一発で吹っ飛んでいったわけだ、あの女と一緒に」
「そんなもんでしょ、よく分からないけど。想いの重さと、起こる事実の重さが必ず釣り合うものでもないんじゃないの」
「そう、かもな。重いも軽いも無いよな。大事なのは僕がこうしてまだ生きていられるってことだ。とにかくありがとう。助かった」
「ははっ、ごちゃごちゃ言ってないで早くそう言えば良かったのに」
三上は目を細め、口の端を上げて穏やかに笑った。
初めてこいつの笑顔を見た。驚いた。笑えるのかと失礼な事すら思ってしまった。
言うと失礼に当たるだろうから口には出さない。
色々と大変な目には合ったものだが、なんか最後に報われたような気になってしまった。これも絶対に口には出さないが。




