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第7章 白いゲート

1. 列に紛れる


夜明け前のセクターAは、遠くから見るより白かった。


投光器の光が、フェンスを洗っている。


金網、鉄条網、簡易バリケード、検査テント。投光器に照らされたそれらは、夜明け前の闇の中で、消毒された器具みたいに白く浮かび上がっていた。


希望の光とはよく言ったものだ。


しかし、実際に近づいてみれば、それはただ眩しいだけの照明だった。


目を細める人間。

肩を抱き合う親子。

咳を押し殺す老人。

包帯から血を滲ませた男。

何度も身分証らしいものを握り直す女。


彼らは列になっていた。


セクターAの検疫ゲートへ続く、ゆっくりとした列だ。


俺と七瀬さんは、その最後尾に紛れ込んだ。


「先生」


七瀬さんが、俺の白衣の袖をつまむ。


白衣。


聖明中央医療センターを出る時、俺が脱がなかったもの。


血と煤で汚れ、ところどころ繊維が裂けている。だが遠目には、まだ医師の記号として機能する。


俺は小さく頷いた。


「大丈夫だ」

「先生の大丈夫、あんまり信用できません」

「妥当な評価だ」

「そこは否定してください」

「否定する材料がない」


七瀬さんは、困ったように息を吐いた。


息が白い。


彼女の体温は、まだこの世界の側にある。


俺の口元からは、何も出ない。


それを悟られないように、俺はマスクの位置を直した。医療用ではない。野営地で拾った布マスクだ。防護性能はほぼないが、呼吸の有無を隠すには役に立つ。


列の前方から、拡声器の声が流れてきた。


『咬傷、発熱、意識混濁のある方は、申告してください。虚偽申告が判明した場合、入所資格を失います。同行者がいる場合は、必ず同時に申告してください』


声は若い男だった。


平坦で、疲れている。


『緑判定は一般区。黄判定は医療区または短期観察。赤判定は隔離棟。黒判定は入所不可。係員の指示に従ってください』


七瀬さんの指が、袖を握る力を強めた。


「黒って」

「外で聞いた通りなら、入所拒否か外周処理だ」

「外周処理」

「言い換えれば、ここから先へ入れないということだ」


言葉を柔らかくしても、中身は柔らかくならない。


黒。


トリアージタグの色。


救命不能。


資源を投入しない。


避難車列跡で見た黒が、脳裏をよぎった。いや、思い出すまでもない。あの色は、俺の手の中にまだ残っている。


列が進む。


フェンスの向こうでは、自衛隊の迷彩服を着た男たちが小銃を下げていた。銃口は下を向いているが、指は近い。誰かが一歩でも列から外れれば、すぐ上がる距離だ。


検査テントは三つ。


ひとつは問診。

ひとつは身体確認。

ひとつは採血と体温測定。


その奥に、白いビニールで囲われた通路が伸びている。通路の先は、外からは見えない。


だが風に乗って、消毒薬の匂いが来た。


アルコール。

塩素系消毒剤。

血液。

汗。


そして、微かな腐臭。


完全には消せていない。


「先生、顔」


七瀬さんが低く言った。


「怖いです」

「すまない」


俺は表情筋を緩めた。


生者のふり。


まずはそこからだ。


心拍はない。

呼吸はない。

体温は低すぎる。

血液も、通常の生存者として扱われる保証はない。


まともに検査されれば、終わる。


だから俺は、検査を避けなければならない。


医師として。


患者としてではなく。


2. 色分けの門


列の前方で、女の悲鳴が上がった。


「違います!この子、噛まれてません! 転んだだけです!」


母親らしい女が、まだ小さい男児を抱えていた。男児の膝には擦過傷がある。出血は少量。だが検疫員は、傷口をライトで照らしながら首を振った。


「黄。短期観察」

「一緒に行けますか」

「保護者一名まで。検査後に判断します」

「判断って何ですか!」


問いに、答えは返らなかった。


男児と母親は、黄色いテープを手首に巻かれた。


黄。


まだ中へ入れる。


だが、自由ではない。


次の男は、赤だった。


右前腕の包帯を外した瞬間、検疫員の動きが止まった。


歯形。


深い。


発赤ほっせきは肘の近くまで伸びている。皮下出血と感染性浮腫ふしゅ。すでに末梢循環が悪い。


「赤。隔離棟へ」

「待て、俺はまだ何ともない!」


男が暴れた。


銃口が上がるより先に、横から伸びた金属音がした。


カシャン、と。


検査テント脇に置かれていた金属製の結束具が、まるで糸で引かれたように跳ねた。


男の手首へ絡みつく。


一秒。


いや、それ以下。


鉄の輪が両手を固定し、男は膝をついた。


列が凍った。


俺も、反射的にその方向を見た。


テントの支柱にもたれる女がいた。


黒いショートジャケット。短く切った髪。二十代後半。すらりとした長身で、腰の位置が高い。薄いインナーの上からでも、鍛えられた肩と胸元の線が分かる。目立つ防具はつけていない。ただ、腰にいくつもの鍵束と、細い金属棒の束を下げている。


戦うために飾りを削った女、という印象だった。


そのくせ、金属の束が腰で揺れるたび、妙に危うい色気があった。


女の右手が、軽く開かれていた。


指先が、空中の何かを摘まむように曲がる。


その瞬間、彼女の虹彩の縁に、銀青色の細い光が走った。


投光器の反射ではない。


金属が動くより、ほんの半拍だけ早い光だった。


拘束具がさらに締まった。


「赤判定。抵抗するな」


女の声は低かった。


感情はない。


男は、唇を震わせた。


「能力者かよ」

「適応者だ」


女は訂正した。


それだけだった。


適応者。


外の野営地で聞いた話は、本当だった。


金属を曲げる女。


だが、目の前の光景は、その言葉よりずっと正確で、ずっと危険だった。


彼女は金属を曲げているのではない。


金属を、従わせている。


電気ではない。音も熱もない。拘束具の動きは、電磁的な制御というより、もっと直接的だった。


磁力。


そう考えるのが自然だ。


セクターAは、ゲートそのものに能力者を置いている。


検査を突破しても、逃走は難しい。


「あの人」


七瀬さんが囁いた。


「やばいですね」

「おそらく、壬生玲央奈みぶれおな

「知ってるんですか?」

「外の野営地で名前を聞いた。金属を曲げる女がいる、と」


実物は、曲げるだけではない。


鍵、柵、拘束具、銃器。


この場の金属は、ほとんど彼女の手の延長だ。


俺の医療用鋏。

鉗子。

メス。


白衣のポケットに入っているそれらも、いざとなれば俺の武器ではなく、彼女の拘束具になる。


列がまた進んだ。


赤判定の男は、白い通路の奥へ運ばれていく。


隔離棟。


戻らない場所。


七瀬さんは、その背中を見ていた。


「先生」

「どうした」

「あの奥」


彼女は胸元を押さえた。


「まだ、変な感じはしません。でも、嫌な感じはします」

「それは正常な反応だ」

「正常って、便利な言葉ですね」

「医者はよく使う」

「先生も?」

「使いすぎて、信用できなくなった」


七瀬さんは小さく笑った。


その笑いは、すぐ消えた。


3. 医師の手


列の真ん中で、老人が倒れたからだ。


音は鈍かった。


膝から崩れ、肩、側頭部の順に地面へ落ちる。


周囲が後ずさる。


「感染か?」

「触るな!」

「係員!」


老人は痙攣していない。四肢の硬直もない。口元から泡もない。


呼吸は浅い。


顔面蒼白。

皮膚乾燥。

唇の亀裂。


感染による意識混濁ではない。


少なくとも、最初に疑うべきは脱水と低血糖、低体温、疲労による失神だ。


俺は一歩踏み出していた。


「先生」


七瀬さんが袖を掴む。


止めるためではない。確認するためだ。


目立つ。危険だ。


検査前に医療行為をすれば、俺たちは列の外に出る。


だが、倒れた老人の呼吸は浅い。


舌根沈下ぜっこんちんかの危険がある。


今、誰も触らないなら。


「行く」

「はい」


七瀬さんは、袖を離した。


俺は老人の横に膝をついた。


「医師だ。触る」


周囲の視線が刺さる。


自衛隊員の銃口がわずかに動いた。


壬生玲央奈の視線も、こちらへ来た。


気にしている時間はない。


俺は老人の下顎を持ち上げ、気道を確保した。頸椎けいつい損傷の可能性は低い。転倒時の頭部外傷はあるが、意識消失前に膝から崩れている。


「水を。できれば経口補水液。なければ水に塩と砂糖」

「勝手に何を」


検疫員が駆け寄ってくる。


「脈は」


俺は老人の頸動脈に指を当てる。


拍動あり。


弱い。


当たり前だが、生者の脈は温かい。


その温度が、俺の指先から入り込んでくる。


内臓の奥が、微かに鳴った。


空腹。


ここで来るか。


俺は奥歯を噛んだ。


「脈あり。呼吸浅い。発熱より低体温寄り。感染者化の所見は現時点で強くない。脱水と低血糖を疑う」


検疫員が俺を見た。


「あなた、列の」

「聖明中央医療センター、感染症科、九条蓮」


言った。


嘘ではない。


足りない真実が多いだけだ。


「この人を赤で隔離棟へ送れば、移送中に死ぬ。黄で医療区へ回せ」


「判断は検疫班が」


「判断する材料を出している。瞳孔を見ろ。対光反射たいこうはんしゃは残っている。攻撃性なし。咬傷なし。熱感なし。まず補液ほえきだ」


検疫員が言葉を詰まらせた。


俺は老人の口腔内を確認する。乾いている。舌に咬傷なし。血臭はない。


七瀬さんが、列の脇からペットボトルを受け取って走ってきた。


「これ、水です。未開封」

「ありがとう。少量ずつ」


老人の意識がわずかに戻った。


俺は首を支え、むせない量だけ口へ含ませる。


「聞こえますか。名前は言えますか」

「……た、なか」

「田中さん。ここがどこか分かりますか」

「せく……た」

「よし。意識は戻りつつある」


背後から、別の足音。


白い防護服ではない。


簡易ガウンにフェイスシールド。首から聴診器。目の下に濃い隈。


三十歳前後の女性医師が、息を切らして来た。


細身で、背は七瀬さんより頭ひとつ高い。後ろでひとつに束ねた黒髪が、走った勢いで肩に落ちている。化粧気はほとんどないのに、目鼻立ちは整っていた。疲労で頬は削げているが、そのぶん視線だけが妙に強い。


白衣ではなく簡易ガウンを着ていても、医師だと分かる立ち方だった。


「どいてください。検疫医です」

「九条。聖明中央の感染症科だ」


彼女の動きが止まった。


「聖明中央?」

「確認は後でいい。低血糖の簡易測定は」

「あります」

「測ってくれ。あと体温。毛布。頭部外傷の確認」

「あなた、指示を」

「患者が倒れている」


彼女は一瞬だけ俺を睨んだ。


次の瞬間、医師の顔になった。


「血糖測ります。毛布!誰か、毛布!」


近くの検疫員が動き出す。


いい。


命令系統が動けば、俺は少し下がれる。


女性医師は手早く血糖を測定し、数値を見て短く息を吐いた。


「低い。ひどい脱水もある」

「感染所見は」

「現時点では薄い。でも規則上は黄」

「妥当だ」


彼女は俺を見た。


笹川千尋ささがわちひろ。セクターA医療・検疫班」

「九条蓮」

「聖明中央は、崩壊したと聞きました」

「崩壊した」

「なぜ生きているんです?」


鋭い。


当たり前の問いだ。


俺は一拍置いた。


「運がよかった」

「その白衣で?」

「運が悪かったとも言える」


笹川医師は、笑わなかった。


黒縁メガネの奥の疲れ切った目で、俺を見る。


疑っている。


だが、疑いより先に、足元の患者を見た。


「田中さんは黄。医療区へ。搬送」

「赤じゃないんですか」


検疫員が言う。


笹川医師は首を振った。


「この状態で隔離棟まで歩かせたら死ぬ。先に補液」

「伊丹先生に確認を」

「私が責任を持つ」


その言い方には、慣れない硬さがあった。


責任を持つ。


この場所では、たぶん誰もがそれを言わされる。


そして少しずつ、持てない責任まで抱える。


老人が担架に乗せられる。


七瀬さんが、俺の隣に戻ってきた。


「先生」

「ああ」

「目立ちましたね」

「予定より早い」

「予定ではいつ目立つつもりだったんですか」

「中に入ってからだ」

「下手ですね、嘘」

「今のは医療行為だ」

「もっと厄介じゃないですか」


否定できなかった。


4. 聖明中央の名前


笹川医師が、俺たちの前に立った。


「九条先生」


先生、と呼ばれた。


その響きが、胸のどこかを鈍く打った。


「身分証はありますか」

「病院のIDなら」


俺は白衣の内ポケットから、割れた職員証を出した。


写真。

名前。

聖明中央医療センター。


血で汚れた透明ケース。


笹川医師はそれを受け取り、光にかざした。


「本物に見えます」

「本物だ」

「ただ、病院が崩壊してから七日以上経っています。あなたがここまで生きて来た経路を説明してください」

「市街地を迂回しながら北上した。途中でこの子を保護した」


俺は七瀬さんを示した。


七瀬さんは、少し肩をすくめる。


「七瀬結衣です。未成年。咬まれてません」


言い方が、少し固い。


練習していないのに、ちゃんと分かっている。


笹川医師は七瀬さんを見る。


「保護者は」


七瀬さんの目が、一瞬だけ揺れた。


「いません」


それ以上は聞かなかった。


笹川医師は、俺の職員証を返す。


「医師は足りていません」


その一文だけで、彼女の疲労が分かった。


「ですが、入所者は全員検査対象です。医師でも例外ではありません」

「理解している」

「本当に?」


彼女の視線が、俺の手に落ちた。


老人の頸動脈に触れた指。


そこに、わずかに残った温度。


俺は手袋を外した。


指先は冷えている。


生者の手ではない。


「検査は受ける。ただし、俺を患者として列に戻すより、医療区で使ったほうが合理的だ」


「自分で言いますか」

「医師不足だろう」

「足りないのは医師だけじゃありません。薬も、ベッドも、寝る時間も、人間らしさも足りない」

「それでも患者は来る」


笹川医師は黙った。


その沈黙だけで、交渉は半分終わっていた。


彼女は俺を信用していない。


だが、俺の手は必要だ。


セクターAは希望の避難所ではない。


足りないものを数えながら、まだ死んでいない場所だ。


「……仮入所扱いにします」


笹川医師は言った。


「医療区の臨時協力者。正式登録は保留。七瀬さんは保護対象、黄寄りの観察。異議は」

「黄寄り?」


七瀬さんが反応した。


笹川医師は、表情を変えない。


「未成年、長距離移動、栄養状態不良。短期観察は必要です」


嘘ではない。


俺は言った。


「彼女は俺のそばに置く。パニックが強い」

「本人に聞きます」


笹川医師は七瀬さんを見た。


「七瀬さん。医療区でこの医師のそばにいることを希望しますか」

「はい」


即答だった。


「理由は」

「先生が嘘、下手なので」


笹川医師が、初めて少しだけ瞬きをした。


「それは、保護理由としては弱いです」

「でも、たぶん本当です」


俺は咳払いのふりをした。


咳は出ない。


ふりだけだ。


「検査へ」


笹川医師が言った。


最初の門は開きかけている。


だが、本当の問題はここからだった。


体温。

採血。

眼球確認。


俺の死体が、生者のふりをできるか。


5. 低すぎる体温


検査テントの中は、外よりさらに白かった。


ビニールカーテン越しの光。

消毒液で濡れた床。

簡易ベッド。

採血台。

赤、黄、緑、黒のテープ。


壬生玲央奈は入口脇に立っていた。


近くで見ると、遠目よりさらに線が鋭い。


短い髪から覗く耳には、小さな銀色のピアス。黒いジャケットは身体に沿っていて、細い腰と長い脚を隠していない。武装しているというより、金属を従えたまま立っている。そんな立ち姿だった。


さっきの拘束具は、彼女の足元に戻っている。


金属の輪が、まるで飼い慣らされた蛇みたいに静かだった。


俺が中へ入ると、彼女の視線が白衣のポケットに落ちた。


医療用鋏の位置。

鉗子の重さ。

金属の気配。


彼女には、それが見えているのかもしれない。


「外部医師?」


壬生が言った。


「らしいです」


笹川医師が答える。


「らしい、で通すの?」

「医療区が死にかけています」

「ここも似たようなものだけど」


壬生は俺を見た。


「変な動きしたら、止める」

「心得た」

「金属、持ってる?」

「医療器具を少し」

「預けて」


来た。


俺は白衣のポケットから、鋏、鉗子、ペンライト、割れたペンを出す。


壬生が指を動かす。


虹彩の縁に、銀青の光が一瞬だけ灯る。


鋏と鉗子だけが、台の上を滑った。


音もなく。


目に見えない糸で引かれるように。


七瀬さんが、息を呑んだ。


壬生はそれを見逃さなかった。


「珍しい?」

「はい」

「慣れないほうがいいよ」


それだけ言って、彼女は視線を外した。


磁力操作。


説明はない。


だが、それで十分だった。


セクターAでは、能力は見世物ではない。


管理の道具だ。


「体温測定します」


検疫員が非接触体温計を向けた。


俺は一瞬だけ、左手を白衣の内側に入れた。


そこには、夜の間に温めておいた小さな保温パックがある。野営地で拾ったものだ。すでに熱は弱い。


非接触体温計は額を見る。


俺の額は冷たい。


だから、測定直前に、俺はわずかに俯いた。


額ではなく、帽子の縁と白衣の襟元の影を拾わせる角度。


誤差を作る。


完全な正常値は無理だ。


だが、異常な低体温を「測り直しが必要な不安定値」まで押し上げる。


ピッ。


「三十五・一」


検疫員が眉をひそめた。


「低いですね」


「夜間移動、低栄養、睡眠不足。末梢循環も落ちている」


俺は即答した。


嘘ではない。


説明としては足りないだけだ。


「再測定」


二度目。


三十四・九。


まずい。


笹川医師が数値を見る。


「低すぎる」

「俺より先に患者を診ていた。手袋も濡れていた」

「額です」

「非接触は環境に左右される。腋窩えきかで測るなら」

「時間がない」


彼女は短く言った。


そして、俺を見た。


気づきかけている。


だが、確定ではない。


俺は目を逸らさない。


「採血」


笹川医師が言った。


次。


もっと悪い。


俺の血液は、赤い。


だが、普通ではない。


凝固も、温度も、ウイルス指標も、通常の生存者とは違う。


簡易検査でどこまで出るか。


俺自身にも分からない。


七瀬さんが、俺の横でわずかに動いた。


「先生」


その声と同時に、テントの外で叫び声が上がった。


「待て!列から離れるな!」


検疫員たちの視線が外へ向く。


赤判定を恐れた若い男が、列から逃げ出そうとしていた。


壬生玲央奈の指が動く。


銀青の光が、彼女の目の奥で細く瞬いた。


ゲート脇に立てかけられていた金属柵が、斜めに滑った。


男の進路を塞ぐ。


外周警備兵が走る。


テントの中が、一瞬だけ手薄になる。


七瀬さんは俺を見ていた。


違う。


彼女が作ったわけではない。


だが、彼女は機会を見抜いた。


俺は採血台に置かれた自分の手を少し引いた。


針先が、静脈の手前で止まる。


「先に彼女を」


俺は言った。


「未成年の確認を済ませたほうがいい。俺は逃げない」


笹川医師が戻ってくる。


「順番は」

「外が荒れている。俺の検査は後回しでいい。医師として医療区に入れるなら、あなたの監督下で追加検査を受ける」

「ここで済ませる規則です」

「その規則で今、医療区の医師が足りていない」


笹川医師の表情が強張った。


痛いところを突いた。


俺は畳みかける。


「俺を信用する必要はない。監視をつければいい。医療区で働かせながら検査しろ。使えないと判断したら隔離すればいい」

「自分から隔離と言いますか」

「合理的だ」

「合理的すぎる人は、信用しにくい」

「医者はよく言われる」


笹川医師は、ほんの一瞬だけ唇を歪めた。


笑いかけて、失敗した表情。


「七瀬さん」


彼女は七瀬さんへ向き直る。


「目を見ます。ライトを当てるだけ」

「はい」


七瀬さんは椅子に座った。


ペンライトの白い光が、彼女の瞳を照らす。


瞳孔反射は正常。


虹彩の色素変化なし。


少なくとも、平常時には。


だがライトが当たった瞬間、七瀬さんの肩が微かに震えた。


俺には分かった。


光ではない。外の騒ぎでもない。白い通路の奥。隔離棟へ続く方向。


彼女の感覚が、そこへ引っかかった。


笹川医師も、完全には見逃さなかった。


「気分が悪い?」

「少し」

「吐き気は」

「ないです」

「頭痛」

「ないです」

「耳鳴りは」


七瀬さんが止まった。


答えに詰まった。


俺は口を挟む。


「低血糖気味だ。昨日からまともに食べていない」

「本人に聞いています」


笹川医師の声が、少し硬くなった。


七瀬さんは俺を見ない。


偉い。


俺に助けを求めれば、不自然になる。


「少し、します」

「いつから」

「ゲートに近づいてから」


正直すぎる。


だが、嘘を重ねるよりはいい。


笹川医師は記録用紙に何かを書いた。


黄寄り。


観察。


その単語が、まだ書かれていなくても見える。


「七瀬さんは短期観察。ただし九条先生の同行者として、当面は医療区で待機」

「ありがとうございます」


七瀬さんは頭を下げた。


俺は、安堵しなかった。


当面。


それは期限付きの猶予だ。


笹川医師は俺へ向き直る。


「九条先生。あなたは医療区で臨時協力者。正式登録は保留。追加検査は後で行います」

「了解した」

「逃げようとした場合」


壬生玲央奈が、台の上の鉗子を指先で浮かせた。


彼女の瞳に、銀青色の輪が薄く浮かぶ。


いや、浮かせたように見えた。


実際には、金属が磁力に引かれ、わずかに立ち上がったのだろう。


「止める」

「分かっている」


俺は答えた。


分かっている。


この門を越えることは、自由になることではない。


檻の外から、檻の中へ移るだけだ。


だが、檻の中にしか見えないものがある。


笹川医師が通行証の代わりに、黄色の細いタグを差し出した。


「仮登録。外さないでください」


俺はそれを手首に巻いた。


紙と樹脂でできた、軽い輪。


それなのに、ひどく重い。


七瀬さんの手首にも、同じ黄色が巻かれる。


彼女はそれを見て、ぽつりと言った。


「黄色って、助かる色なんですか」


笹川医師は答えなかった。


俺も、すぐには答えられなかった。


緑なら一般区。

赤なら隔離棟。

黒なら門の外。


黄は、その間だ。


助かるかもしれない。

助からないかもしれない。


まだ決められていない命の色。


「少なくとも」


俺は言った。


「今は、中へ入れる色だ」


七瀬さんは頷いた。


納得した顔ではなかった。


それでいい。


納得してはいけない場所だ。


6. 内側の空気


検査テントの奥のビニールカーテンが開いた。


内側から、別の空気が流れてくる。


消毒薬。

汗。

薬品。

古い血。

煮詰まった人間の疲労。


外より安全な匂いではない。


ただ、管理された匂いだった。


搬入口には、簡易ベッドが並んでいる。


点滴台。

折りたたみ椅子。

段ボール箱。

汚れた毛布。


その向こうに、白い腕章をつけた医療スタッフが走っていた。


誰かが叫ぶ。


「黄判定、二名追加! 片方は脱水、片方は裂傷れっしょう!」

「医師は?」

「笹川先生、ゲートです!」

「じゃあ誰が見るんだよ!」


声が重なる。


秩序はある。


だが、余裕はない。


セクターAの内側。


そこは、清潔な安全地帯ではなかった。


崩壊を、白い布とテープで何とか縛りつけている場所だった。


笹川医師が俺を見た。


「九条先生」

「何だ」

「手が空いているなら、使います」

「空いている」


嘘ではない。


俺の手は、まだ医者の手だ。


ただし、死者の手でもある。


七瀬さんが隣で小さく言った。


「先生」

「大丈夫だ」

「だから、それ信用できないんですって」

「では訂正する」


俺は医療区の奥を見た。


隔離棟へ続く白い通路は、まだ遠い。


だが、見える。


「大丈夫ではない。だから、見る」


七瀬さんは一瞬黙り、それから頷いた。


俺たちは門を越えた。


希望の中へ入ったのではない。


検査と分類と沈黙でできた、白い檻の中へ入った。


そしてその檻の中で、俺はもう一度、白衣の袖をまくった。


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