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第8章 医療区の白衣

1. 臨時協力者


医療区に入って最初に渡されたのは、白衣ではなかった。


薄いビニール製のガウン。

使い古しのフェイスシールド。

片方だけサイズの合わない手袋。


そして、油性ペンで「臨時」と書かれた腕章。


「白衣のままだと目立ちます」


笹川千尋は、そう言って俺に腕章を渡した。


彼女の声は平坦だったが、目だけが忙しく動いていた。処置台、薬品棚、搬入口、俺の手首の黄色いタグ、七瀬さんの顔色。どれも一秒以上は見ない。見続ければ、次の患者を見落とすからだ。


「臨時協力者、ですか」

「正式登録ではありません」

「何度も言われると、安心できる」

「安心させるために言っていません」


笹川医師はフェイスシールド越しに俺を見た。


目の下の隈は、近くで見るとさらに濃い。だが、視線の芯だけは折れていない。


「九条先生。ここでは、できることだけしてください」

「できないことは」

「言わなくても山ほどあります」


いい返答だ。


医療区の処置室は、処置室というより、体育館の一角を無理やり病院に似せた場所だった。


床には養生シート。

壁際には段ボール箱。

簡易ベッドの間隔は狭く、プライバシーはほぼない。

点滴台の代わりに、モップの柄へ輸液バッグを吊るしている場所まである。


清潔と不潔が、テープ一本で分けられていた。


平時なら、監査で即座に止まる。


だが今は、それでも止めれば人が死ぬ。


「黄判定、裂傷」


スタッフが叫んだ。


俺はそちらへ向かう。


患者は二十代の男。左大腿外側の裂創。出血はすでに弱いが、ガラス片が残っている可能性がある。発熱なし。咬傷なし。恐怖で過換気かかんき気味。


「名前は」

「……野口」

「野口さん。足を見ます。痛いが、叫ばなくていい。叫ぶと周りが不安になる」

「す、すみません」

「謝る必要はない。痛いのは正常だ」


正常。


昨日、自分で信用できないと言った言葉を、俺はまた使っている。


だが患者には必要な言葉だった。


俺は傷を確認した。


深さは筋膜きんまく手前。動脈性出血なし。感染予防は必要だが、抗菌薬の在庫がどれだけあるか。


「生理食塩水は」

「残り少ないです」


若い看護師が答えた。


「水道水は」

「煮沸したものなら」

「それで洗浄。異物を確認して、縫合よりステリストリップ優先。縫合糸は温存したほうがいい」


看護師が一瞬驚いた顔をした。


「縫わないんですか」

「この傷なら閉じすぎないほうがいい。ここは清潔な手術室じゃない」


言いながら、俺は自分の言葉に少しだけ嫌悪した。


清潔な手術室じゃない。


それは事実だ。


だが、その事実で患者に与えられる治療を下げていく。下げて、下げて、それでもまだ治療と言い張る。


野口の処置が終わる頃には、別のベッドから呼ばれた。


高齢女性の息切れ。

喘息持ちの子ども。

発熱はないが、脱水で立てない妊婦。

糖尿病の薬が三日切れている男。


医療区は、感染者だけの場所ではなかった。


むしろ感染者ではない人間が、少しずつ壊れていく場所だった。


「九条先生、手際いいですね」


笹川医師が、記録用紙を抱えて言った。


「場数だけはある」

「聖明中央の感染症科でしたよね」

「ああ」

「感染症科の先生が、外傷も慢性疾患も妊婦も見るんですか」

「見る医師がいないなら見る」

「便利ですね」

「褒め言葉には聞こえない」

「褒めていません。助かってはいます」


その違いが、いかにも彼女らしかった。


七瀬さんは処置室の隅で、邪魔にならないよう立っていた。


彼女の手首には黄色いタグ。


見るたびに、胸のどこかが沈む。


保護対象。

短期観察。

黄寄り。


言葉を変えれば柔らかくなる。


だがタグの色は変わらない。


「先生」


七瀬さんが小さく手を上げた。


「私、何かできますか」

「今は、倒れないことが仕事だ」

「それ、仕事って言います?」

「重要任務だ」

「じゃあ、座ってます」


彼女は折りたたみ椅子に腰を下ろした。


その直後、隣のベッドの子どもが泣き出した。


喘息の吸入器を怖がっている。


七瀬さんは少し迷ってから、椅子ごと近づいた。


「それ、変な音するけど、痛くないよ」

「ほんと?」

「たぶん」

「たぶん?」

「私はやったことないから。でも痛かったら、あの先生がもっと嫌な顔してる」


子どもが俺を見た。


俺は、なるべく嫌ではない顔を作った。


子どもは少しだけ笑った。


笹川医師が、その様子を横目で見ていた。


記録用紙に何かを書きかけ、やめる。


報告するべきか。

ただの年上の子どもとして扱うべきか。


その迷いが、彼女の指先に見えた。


2. 足りないもの


医療区の午前は、時間の感覚を奪っていった。


薬品棚を確認すると、足りないものばかりだった。


抗菌薬。

鎮痛薬。

輸液。

消毒薬。

インスリン。

降圧薬。

吸入薬。


足りているものは、記録用紙と分類テープだけだ。


「インスリンは」


俺は棚を見ながら言った。


笹川医師の手が止まる。


「残りわずかです」

「糖尿病患者が複数いる」

「知っています」

「外縁にもいる」


相馬理恵の顔が浮かんだ。


咬傷はない。

感染者ではない。


それでも、医療区へ入れなければ死ぬ。


笹川医師は、棚の扉を閉めた。


「知っています」


二度目の同じ言葉。


だが、意味は違った。


最初は情報として。


二度目は、言い訳として。


「大槻さんが、在庫を絞っています」

「物資管理担当か」

「ええ。医療区だけ見れば足りない。でも施設全体で見れば、全部足りない。だから優先順位をつける」

「誰の」

「防衛任務に戻れる人。感染拡大を防ぐために必要な人。子ども。妊婦。重症化リスクが高い人」

「そして、適応者」


笹川医師は答えなかった。


答えないことが、答えだった。


3. スタジアムの生活


昼前、俺は搬送補助という名目で、医療区の外へ出た。


七瀬さんも同行を許された。


条件は、黄色いタグを隠さないこと。


医療区から一般区へ向かう通路は、金属フェンスで区切られていた。フェンスのこちら側は医療区。向こう側はスタジアムの観客席とフィールドを使った一般区。


入った瞬間、匂いが変わった。


消毒薬が薄れ、人の生活の匂いが濃くなる。


汗。

湿った毛布。

煮た米。

簡易トイレ。

眠れていない人間の体臭。


フィールドには、テントが並んでいた。


家族単位。

町内会単位。

知らない者同士を無理やりまとめた区画。


赤ん坊の泣き声。

老人の咳。

誰かを呼ぶ声。


生きている。


だが、守られているというより、保管されているように見えた。


「医療区の先生?」


声をかけてきたのは、四十代前半くらいの女性だった。


ふくよかな体格で、髪を後ろで雑にまとめている。目元には疲れがあるが、声は柔らかい。派手さはない。だが、彼女の周りだけ、人の流れが少し落ち着いていた。


この人を中心に、一般区の空気が回っている。


そんな印象だった。


「臨時です。九条」

森下佳乃もりしたよしのです。こっちで、まあ、揉め事係みたいなことをしています」

「揉め事係」

「正式な役職じゃありませんよ。正式じゃない仕事のほうが、ここでは多いんです」


森下は苦笑した。


七瀬さんを見て、少し表情を柔らかくする。


「あなたも黄?」

「はい」

「そっか。怖かったね」


七瀬さんは、すぐには答えなかった。


たぶん、怖かったと言われて初めて、自分が怖かったことに気づいたのだ。


「……はい」


森下は頷いた。


「座れる場所ならあるよ。きれいとは言えないけど」


「ありがとうございます」


森下に案内された区画には、子どもが数人いた。


段ボールで作った盤面に、ペットボトルの蓋を並べて遊んでいる。


食料の配給表が、柱に貼られていた。


白米。

缶詰。

水。

粉ミルク。


数字は、少ない。


「管理区と違いますね」


七瀬さんが、ぽつりと言った。


森下は笑わなかった。


「見たの?」

「少しだけ。明るかったです」

「あっちは電気が長くついてる。防衛会議とか、適応者の休憩とか、理由はいろいろ」

「ここは」

「夜は暗いよ。子どもが泣くくらいには」


森下は淡々と言った。


怒鳴らない。

泣かない。


怒りを長く使うために、薄く伸ばしている人間の声だった。


「外より安全なんですよね」


七瀬さんが言った。


「そうだね」

「でも、助かってる感じがしない」

「助かるって、一回だけのことじゃないから」


森下は、子どもたちのほうを見た。


「今日助かっても、明日の薬がなければ困る。明日の薬があっても、明後日の水がなければ困る。ここは、毎日ちょっとずつ助かって、毎日ちょっとずつ削られてる」


七瀬さんは黙った。


その言葉は、彼女には重かったはずだ。


外にいた時は、生きるか死ぬかが分かりやすかった。


ここでは違う。


生きながら、削られていく。


俺は配給表を見た。


右下に小さな印がある。


大槻。


物資管理担当の承認印。


その隣に、別の紙が貼られていた。


管理区任務者向け追加配給。


防衛任務。

外周偵察。

適応者自警団。

Level 3以上、任務後優先補給。


紙は淡々としている。


だからこそ、冷たい。


「これ、いつからですか」


俺が聞くと、森下は肩をすくめた。


「適応者の人たちが、外の群れを止めるようになってから」

「反対は」

「ありますよ。でも、あの人たちがいなかったら外周が破られる。それも本当です」

「本当が複数あると、厄介だ」

「先生、医者でしょ。慣れてるんじゃないですか」

「慣れない」


森下は、初めて少し笑った。


「慣れない先生のほうが、まだ信用できます」


4. 管理区から来た男


その時、医療区の方から怒鳴り声が聞こえた。


低く、太い声。


人をどかすことに慣れた声だった。


森下の表情が変わる。


「黒田さんだ」


名前だけで、周囲の人間が視線を伏せた。


俺は七瀬さんを見る。


彼女も、もう立ち上がっていた。


医療区へ戻ると、入口の空気が変わっていた。


そこに立っていたのは、大柄な男だった。


百九十近い身長。

厚い首。

異様に広い肩。

黒い防護ベストが、身体の上で窮屈そうに見える。


短い髪。浅黒い肌。古い傷の残る拳。


腕には、深くない裂傷が一本。


それだけの傷で、医療スタッフが三人も周囲に集められていた。


黒田岳くろだがく


笹川医師が、低く言った。


「自警団のリーダーです」


黒田は、俺を見た。


視線だけで、体重がある。


「見ない顔だな」

「臨時協力者の九条です」

「医者か」

「一応」

「じゃあ縫え」


黒田は腕を差し出した。


傷は浅い。


洗浄と被覆ひふくで十分。縫合の優先度は低い。


「縫う必要はない」


俺が言うと、周囲のスタッフが息を呑んだ。


黒田の眉が動く。


「何?」

「浅い。可動部でもない。洗浄して閉鎖しすぎずに保護すればいい」

「俺は二時間後に外周へ出る」

「なら、なおさら縫合で動きを制限する必要はない」


黒田は笑った。


笑ったが、目は笑っていない。


「医者は理屈が多い」

「傷は理屈で治る」

「力で塞がることもある」


彼の腕の筋肉が、わずかに盛り上がった。


傷口の出血が、目に見えて弱くなる。


血管収縮。

筋緊張。

あるいは、もっと直接的な身体制御。


この男は、ただ身体が大きいだけではない。


傷の浅さではなく、存在そのものが優先されている。

施設が、彼を患者ではなく戦力として扱っている。


「だったら、俺の出番は少ない」


俺は洗浄の準備をした。


「だが感染は力では防げない。座れ」


一瞬、場が止まった。


黒田岳に命令した。


その事実が、医療区の空気を固くする。


黒田は俺を見下ろした。


七瀬さんが、少し後ろで息を止める。


笹川医師は、何も言わない。


黒田は数秒後、椅子に座った。


椅子が軋む。


「おもしろい医者だ」

「よく言われる」

「嘘だな」

「ああ」


黒田は声を出して笑った。


その笑いに、医療区のスタッフが少しだけ息を戻す。


だが、安心はできない。


黒田が機嫌を損ねなかっただけだ。


彼が許したから、処置が続いている。


それは医療ではなく、権力関係だった。


洗浄をしながら、俺は聞いた。


「外周は厳しいのか」

「昨日、北側で群れを散らした。早瀬晃はやせあきらが音を使ってな」

「早瀬」

「音出すガキだ。使えるが、すぐ頭痛でへばる」


笹川医師の顔がわずかに曇った。


適応者も、消耗する。


それでも任務に出される。


黒田は続けた。


小神透真おがみとうまは夜目が利く。あいつは斥候向きだ。足音も拾う」


俺は手を止めなかった。


小神。

暗視・超聴覚。

足音。

呼吸音。


俺の呼吸がないことに気づく可能性がある。


面倒な名前を聞いた。


「防衛戦力が多い」

「多くない。足りないから優先される」


黒田は言った。


「守ってる連中を食わせなきゃ、ここは落ちる」

「守られている連中は」

「生きてるだろ」


森下の言葉が、脳裏に戻った。


毎日ちょっとずつ助かって、毎日ちょっとずつ削られている。


黒田にとって、それは甘えなのだろう。


黒田の処置が終わると、彼は立ち上がった。


「九条」

「何だ」

「医療区にいるなら、使える医者でいろ。使えなくなったら、ここは置いていかない」

「医療区が?」

「セクターAが」


そう言って、黒田は去った。


背中が大きい。


廊下が狭く見える。


七瀬さんが小さく息を吐いた。


「怖い人ですね」

「怖いだけなら、まだ楽だ」

「違うんですか」

「正しいことを半分言う人間は、厄介だ」


5. 消えるカルテ


午後、笹川医師は俺を記録室へ連れていった。


記録室と呼ばれているが、実際にはロッカールームの一角だ。


ノートパソコンが二台。

紙のカルテが箱に詰められている。

壁には患者分類の一覧。


緑。

黄。

赤。

黒。


人間が色に分けられている。


「見せていいものだけです」


笹川医師が言った。


「見せられないものがある」

「あります」

「隔離棟か」


彼女は答えない。


俺は黄判定から赤へ変更された患者の一覧を見た。


発熱。

咬傷疑い。

意識混濁。

血液指標異常。

眼球所見あり。


そこまでは分かる。


問題は、その先だ。


赤判定後の転帰欄。


経過観察中。

転送済み。

重症化。

死亡確認。


日付が抜けている。

署名がない。

同じ文言が、機械的に並んでいる。


「これは追跡できない」

「私たちも、できません」


笹川医師の声は小さかった。


「隔離棟に入った後は、別系統の記録になります」

「医療区の患者なのに」

「赤になった時点で、医療区の患者ではなくなります」


言葉の切断。


患者が変わったわけではない。


記録の所属が変わっただけだ。


だが、書類上はそれで人間の扱いが変わる。


俺は一枚の紙を見た。


黄から赤。

血液指標異常。

眼球所見、軽度。

隔離棟へ。


転帰、空欄。


「家族への説明は」

「医療区では分かりません」

「分からないまま、説明するのか」

「そうです」


笹川医師は両手を握った。


手袋越しでも、指先の力が分かる。


「九条先生。ここでは、分からないことを分からないと言い続けると、列が止まります」

「だから嘘をつく」

「曖昧にします」

「同じだ」

「同じです」


彼女は認めた。


その正直さが、かえって痛かった。


6. ざわつく通路


夕方。


医療区の裏手へ、廃棄物の搬出補助に出た。


感染性廃棄物の袋を運ぶだけのはずだった。


だが、その通路の先に白い渡り廊下が見えた。


他の区画より新しいビニールで覆われ、入口には二重のゲート。


隔離棟へ続く連絡通路。


七瀬さんが、そこで立ち止まった。


顔色が変わる。


「七瀬さん」

「……音」

「耳鳴りか」

「分からないです。音っていうか、ざらざらする」


彼女は自分の耳を押さえた。


「感染者が来る時の感じと違う。でも、あっちに何かいます」


あっち。


隔離棟。


俺は通路の奥を見た。


白いビニールの向こうで、人影が動く。


遠い。


声は聞こえない。


だが、七瀬さんの呼吸だけが浅くなる。


「戻るぞ」

「見ないんですか」

「今は見ない」

「先生」

「今ここで近づけば、君が見つかる」


七瀬さんは唇を噛んだ。


怖がっている。


だが、逃げたがっているだけではない。


隔離棟へ送られた誰か。

戻らない人間。

外縁に残された相馬理恵。

黄色いタグを巻かれた自分。


それらを結びつけるように、彼女の視線が揺れていた。


俺は通路の奥をもう一度見た。


治療施設。

観察施設。

あるいは、選別の終着点。


まだ断定はできない。


だが、記録は消えている。


家族への説明は曖昧にされる。


そして結衣の感覚は、あの方向に引っかかっている。


「戻る」


俺は言った。


「戻って、調べる」


七瀬さんは小さく頷いた。


医療区の白いガウンが、夕方の光を鈍く反射している。


外より安全な場所。


そう呼ばれる施設の内側で、俺たちは初めて、見てはいけない扉の形を知った。


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