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第6章 セクターAの灯

1. 投光器の夜


光は、近づくほど白くなった。


遠くから見たときは、夜に浮かぶ希望のように見えた。停電した街の中で、そこだけがまだ人間の側に残っている。そう錯覚できるだけの明るさがあった。


だが、距離が縮まるにつれて、俺の中の錯覚は剥がれていった。


あれは朝ではない。救いでもない。投光器だ。


強い光で闇を押し返し、近づくものを照らし出し、隠れる場所を奪うための光だった。


北部運動公園へ続く道は、途中から車が減った。代わりにバリケードが増える。倒した道路標識。工事用フェンス。土嚢。横倒しにされた軽トラック。誰かが意図を持って積んだ障害物だ。


七瀬さんは三歩後ろを歩いている。


あの車列を抜けてから、距離はほとんど縮まっていない。


当然だ。


俺は彼女の目の前で、人間を止めた。


必要だった。正しかったかどうかは分からない。だが、必要だったことだけは確かだ。


その確かさは、彼女にとって何の慰めにもならない。


「先生」

「何だ」

「明るいですね」

「ああ」

「安心するはずなのに」


彼女は言葉を探すように、投光器の方を見た。


「なんか、見張られてるみたいです」

「実際、見張るための光だ」

「……ですよね」


小さな返事だった。


道路脇のフェンスに、古い横断幕が絡まっていた。


S市北部総合運動公園。


その下に、あとから貼られた白い紙がある。


北部広域避難センター。


さらにその上から、黒いスプレーで別の文字が書かれていた。


セクターA。


正式名称より、落書きのほうが生き残ることがある。


風が吹いた。


腐敗臭は車列より薄い。代わりに、煙と消毒薬と人間の汗の臭いが混ざっている。人が集まっている臭いだ。都市が死んでも、人間が集まれば、そこには別の汚れが生まれる。


遠くで拡声器が鳴った。


『ゲート前に留まらないでください。検査対象者は白線の内側で待機してください。咬傷、発熱、意識混濁のある方は申告してください』


声は女だった。


録音か、生の放送かは分からない。


『虚偽申告は、本人および同行者の入所資格を取り消します』


七瀬さんの足音が止まった。


俺も止まる。


村瀬忠志の顔が、脳裏をかすめた。


母さんだけは、置いていけない。


あの男の嘘は、ここへ向かうための嘘だった。


その嘘が、誰かを殺す。


だが、嘘をつかなければ、誰かを置いていくことになる。


「行きましょう」


七瀬さんが言った。


声は硬い。


だが、止まる声ではなかった。


俺は頷いた。


「外縁までだ。ゲートにはまだ近づかない」

「はい」


俺たちは光の端へ向かった。


2. ゲートの外側


セクターAの外縁には、もう一つの避難所があった。


避難所と呼ぶには、あまりにも粗末だった。


ブルーシート。段ボール。割れたベンチ。公園の案内板を外して屋根代わりにしたもの。車のドアだけを立てかけた風除け。焚き火の煙。火にくべるものが足りないのだろう。煙は細く、すぐに途切れる。


人間は三十人ほど。


もっといるかもしれない。闇の奥に、こちらを見ている目がある。咳。寝返り。子どもの泣き声を押し殺すような音。誰も大きな声を出さない。大きな声は、感染者だけでなく、ゲートの向こう側にも届く。


俺たちが近づくと、視線が集まった。


七瀬さんが少しだけ俺の後ろへ入る。


いい判断だ。


ここには感染者だけではなく、生きた人間がいる。


生きた人間は、たいてい感染者より複雑だ。


「止まって」


女の声がした。


三十代後半。痩せている。コートの袖が破れ、頬がこけている。だが目は濁っていない。右手には剪定せんていばさみ。武器としては頼りないが、近距離なら十分に危険だ。


「咬まれてる?」

「いいえ」


七瀬さんが答えかけ、俺を見た。


俺が頷く。


「私は咬まれてません」

「そっちの人は」


女の目が俺に向く。


「咬傷はない」

「熱は」

「低い」


女は眉を寄せた。


正直に言いすぎたかもしれない。


「低いって?」

「低体温気味だ」

「気味、ね」


剪定ばさみの先が下がらない。


七瀬さんが言った。


「この人、医者です」


その一言で、周囲の視線が変わった。


警戒が消えたわけではない。


別のものが混ざった。


期待だ。


俺はその期待が嫌いではない。


だが、今は少し重い。


「医者?」

「聖明中央医療センターの九条だ」


女の顔に、一瞬だけ反応が走った。


「病院、もう駄目だって聞いた」

「駄目だ」

「そう」


彼女は剪定ばさみを少し下げた。


相馬理恵そうまりえ。元教員。今は、まあ、ここの案内係みたいなもの」

「ここの管理者か」

「まさか」


相馬は乾いた笑いを漏らした。


「管理されてない人間の集まりに、管理者なんていない」


彼女は野営地の奥を顎で示した。


「火に近づくなら、手は見えるところ。食べ物は持ってない。水も分けられない。怪我人を診るなら、止めない」


「診る」


俺が答えると、七瀬さんがわずかにこちらを見た。


車列での言葉が、ここでも戻ってくる。


全員は無理だ。


だから、診る。


3. 戻らない隔離棟


野営地の怪我人は、ほとんどが軽症ではなかった。


軽症者なら、ここまで残らない。


発熱者。脱水。咳。足首を捻ったまま腫れ上がらせた老人。腹痛を訴える少年。感染ではなく、食あたりかもしれない。水が悪い。寒さも悪い。何より、ここには休める場所がない。


俺にできることは少ない。


少ないが、ゼロではない。


脱水の女に、口を湿らせる飲み方を教える。足首の老人には、動かすなとだけ言う。腹痛の少年には、腹膜刺激がないことを確認する。抗菌薬も輸液もない。診断はできる。治療は足りない。


医療崩壊とは、知識が無意味になることではない。


知識だけが残ることだ。


処置を終えるころ、相馬が俺に缶を差し出した。


中身は空だった。


「椅子代わり」

「助かる」

「医者に座られると、みんな期待するから。座らない方がいいかもね」

「もう遅い」


相馬は少しだけ笑った。


七瀬さんは焚き火の反対側に座っている。火から近すぎない。人からも近すぎない。三歩の距離を、場所が変わっても保っている。


「ゲートは」


俺は聞いた。


「あそこ」


相馬が光の方を指した。


木々の隙間から、フェンスが見える。二重。外側は仮設フェンス、内側は運動公園の金網を補強したもの。ゲート前には白線。待機列。自衛隊らしき迷彩服が二人。防護服が三人。


「入れるのか」

「入れる人はね」

「入れない人は、ここに残るのか」

「そう」


相馬は火を見た。


「最初は、順番待ちだった。検査が混んでるから、外で待てって。次に、再検査待ちになった」

「感染していなくてもか」

「噛まれてない人間でも、入れないことはある」


相馬は自分の腕を見た。


傷の確認ではない。


血管の場所を、覚えている人間の目だった。


「医療区の薬が足りないって。私の場合は、インスリンがね。中に入れても継続して出せない。だから外で待てって」

「糖尿病か」

「一型。子どもの頃から」

「外で待てる病気じゃない」

「知ってる」


相馬は短く笑った。


笑いになっていなかった。


「向こうも知ってる。だから、たぶん入れなかった」


少しの沈黙が流れた。


「入れる人は?」

「熱があったり、血液の数字が変だったり、目が変だったり……」

「目……」


七瀬さんが顔を上げた。


相馬は自分の目元を指した。


「ライトを当てる。虹彩こうさいを見る。色が変わってないか、瞳孔どうこうが変じゃないか。詳しいことは知らない。ただ、目を見られる」


笠原の話と一致する。


体温。血液。目。


噂が、別の口から同じ形で出てきた。


七瀬さんは黙った。


俺は彼女の目を見ないようにした。


今はまだ、普通の人間の目だ。


だが、彼女はすでに普通の人間より早く危険を拾う。


「血液検査は」


「指先から採る人もいる。腕から採られる人もいる。紙に色が出るやつと、小さい機械に入れるやつ。赤とか黄とか、そういう札をつけられる」


「緑、黄、赤、黒」


俺が言うと、相馬の目が細くなった。


「知ってるんだ」

「医者だからな」

「じゃあ、黒が何かも知ってる?」


焚き火が小さく鳴った。


俺は答えなかった。


相馬も、答えを求めてはいないようだった。


「夫は赤だった」


彼女は言った。


声が平らだった。


平らにしないと、崩れるのだろう。


「発熱と、血液の数字がおかしいって。隔離棟で経過を見るって言われた。二日で戻るって」

「戻ったのか」

「戻ってない」


相馬は火を見たまま、指先を握った。


「戻った人を、私は見てない」


噂。


状況証拠。


不安に押し潰された人間の解釈。


そう切り捨てることはできる。


だが、同じ話を何人もが口にするなら、それは単なる不安ではない。少なくとも、不安を生む構造がある。


「隔離棟では何をしている」

「治療って言ってる」

「実際は」

「知らない」


相馬は即答した。


「知らないから怖い。死んだなら死んだって言えばいい。感染したなら感染したって言えばいい。でも、重症化した、転送した、経過観察中、説明は毎回違う」


七瀬さんが膝の上で手を握っていた。


「能力者って呼ばれてる人たちの話は聞いたか」


俺が聞くと、相馬は俺を見た。


「中では、適応者って呼ぶらしいね」

「外では?」

「能力持ち。目が光る人。選ばれた人。化け物。言い方はいろいろ」


彼女の声には、羨望と嫌悪が同じ量だけ混ざっていた。


「強い人は、中でいい暮らしをしてるって。食料も薬も優先。警備にも出る。カテゴリとかレベルとか、そういう分類で呼ばれるって聞いた」

「誰から」

「一度だけ、内側の作業班が外に出た。瓦礫を運ぶ手伝いに、ここの若い子が呼ばれた。その子が聞いたって」

「信頼できる話か」

「信頼できる話なんて、ここにはない」


相馬は笑わなかった。


「でも、嘘だって言えるほど、私たちは何も知らされてない」


4. 管理された光


俺と七瀬さんは、野営地を離れてゲートを見下ろせる植え込みの陰へ移動した。


相馬は止めなかった。


「見すぎると、向こうも見るよ」


それだけ言った。


ゲート前は、外縁野営地とは別の世界だった。


白線がある。


番号札がある。


発電機の音がある。


投光器に照らされた防護服が、まるで清潔なものに見える。実際には、汚れた外側を光が飛ばしているだけだ。秩序は、暗い場所より明るい場所の方が残酷に見えることがある。


待機列には十数人。


全員、手を上げさせられている。防護服の一人がライトで顔を見る。次に袖をまくる。首筋。手首。耳の裏。咬傷の確認だ。別の検査員が非接触体温計を額へ向ける。


発熱者が列から外された。


男が何かを言う。


自衛隊員が一歩前へ出る。


銃口は下を向いている。


だが、下を向いている銃も、銃だ。


「あれ」


七瀬さんが囁いた。


検査員が、小型ライトを入所希望者の目に当てていた。右。左。数秒。相手が瞬きをすると、顎を掴んで固定する。


「眼球確認だ」

「本当にやってるんだ」

「噂より、実物のほうが嫌だな」

「先生も、あれをされるんですよね」

「通常の手順なら」


列の奥で、別の男が指先を出した。検査員が針を刺し、血を小さな試験紙に落とす。もう一人が機械に何かを差し込む。


検査結果を待つ時間は短い。


短すぎる。


精密検査ではない。簡易判定だ。だが、人間を分けるには十分な顔をしている。


緑の札を渡された女が、ゲートの内側へ入った。


黄の札を渡された少年は、別のテントへ連れて行かれる。


赤の札をつけられた老人は、担架に乗せられた。


隔離棟の方角へ。


老人の同行者らしい女が追おうとした。自衛隊員が止める。女は膝をついた。声は投光器の下で白く潰れて、こちらまでは届かない。


七瀬さんの呼吸が浅くなる。


「先生」

「何だ」

「あそこ、助けてくれる場所なんですよね」

「助ける機能はある」

「それ、嫌な言い方です」

「嫌な場所だからな」


俺はゲートの内側を見た。


スタジアムの外壁。仮設テント。発電機。給水タンク。巡回する迷彩服。腕章をつけた民間人。医療スタッフらしき白衣。


そして、一般区とは別の明るい建物。


体育館かクラブハウス。


管理区。


そこだけ光が安定している。


セクターAは生きている。


ただし、生きるために何かを切り捨てている。


5. 通れない身体


ゲートから離れ、廃屋の陰に入った。


元は公園管理事務所か、売店だったのだろう。シャッターは半分降り、棚には空のペットボトルと古いパンフレットだけが残っている。俺たちは床に座らず、壁際に立ったまま息を潜めた。


俺は自分の身体を、検査項目に分けて考えた。


咬傷。

目立つものはない。再生により塞がっている。だが古い傷跡が不自然に少なすぎる。


体温。

低い。低すぎる。発熱者ではないが、通常の生存者でもない。


心拍。

ない。


呼吸。

ない。


血液。

おそらく最悪だ。炎症反応、凝固ぎょうこ、ウイルス関連指標。何が出るか予測できない。少なくとも、緑にはならない。


眼球。

平常時に適応者のような虹彩変化はない。だが、再生が働く瞬間に赤黒い揺らぎが走る。検査中に傷を作られれば、露見する可能性がある。


「無理ですか」


七瀬さんが聞いた。


「普通に受ければ無理だ」

「赤?」

「赤か黒」


彼女は黙った。


病院で人を分けていた色が、ここでは門の前で人を分けている。


「私は」

「君は未感染に見える。体温も心拍も呼吸もある。咬傷もない」

「目は」


彼女が自分の目元に触れた。


「今は普通だ」

「今は」

「そうだ」


嘘はつかなかった。


七瀬さんは視認前に危険を拾う。まだ能力とは呼べない。呼ぶべきでもない。だが、セクターAがそういう兆候を探しているなら、彼女も安全とは言い切れない。


「じゃあ、私だけなら入れるかもしれないんですね」

「可能性はある」

「先生は?」

「弾かれる」

「じゃあ、だめです」


即答だった。


俺は彼女を見た。


「君だけ入る選択肢もある」

「ないです」

「安全は増える」

「先生がいない場所が安全か、まだ分かりません」


彼女の声は震えていなかった。


怒りでもない。


判断だった。


「それに」


七瀬さんは続けた。


「先生は妹さんを探すんですよね」

「ああ」

「だったら、入らないと」

「そうだ」

「でも普通には入れない」

「そうだ」

「じゃあ……嘘をつくしかない」


その言葉を、彼女が言った。


俺ではなく。


十四、五歳の少女が、避難所へ入るために嘘を選ぶ。


世界は、ずいぶん早く子どもから子どもを奪う。


6. 嘘を選ぶ


夜が深くなるにつれて、ゲートの列は短くなった。


セクターAの光は弱まらない。


外の野営地の火は、ひとつ消えた。


俺たちは廃屋の陰から、もう一度ゲートを見た。


「医者として入る」


俺は言った。


「医者として?」

「感染疑い者としてではなく、外部から来た医療協力者として接触する。聖明中央医療センターの医師。感染症科。現場対応経験あり。内部にとって、使える人材だ」

「信じてもらえますか」

「信じさせる」

「どうやって」

「相手が欲しい情報を持っているふりをする」

「ふり?」

「完全な嘘ではない。俺は病院地下で、LZ-04という識別名を見た。V-ウイルスの情報も断片的には持っている。聖明中央の生き残りという肩書きは、向こうにとって無視しにくい」


七瀬さんは俺を見た。


「先生、そういうの得意なんですか」

「苦手だ」

「じゃあ」

「だから、準備する」


俺は自分の左手首を見た。


脈はない。


だが、白衣はある。医師免許証も、病院のIDも、まだポケットに入っている。世界が壊れても、肩書きはしばらく死なない。使える死体なら、使う。


「検査は」

「避ける。少なくとも、最初のゲートでは受けない。医療班に直接つなげる必要がある」

「そんなこと、できますか」

「普通は無理だ」

「普通じゃないから?」

「ああ」


七瀬さんは少しだけ笑った。


疲れた笑いだった。


「先生、たまに自分が普通じゃないことを便利に使いますよね」

「便利ではない。選択肢が少ないだけだ」

「それ、便利って言いません?」

「言わない」


会話が少しだけ戻った。


車列に入る前と同じではない。


同じには戻らない。


それでも、完全には切れていない。


「七瀬さん」


「はい」


「君は保護対象として通す。未成年、未感染、同行者なし。俺が保護していると説明する」


「同行者なしじゃないです」

「書類上の話だ」

「嘘ですね」

「嘘だ」


彼女は投光器を見た。


「嘘ついてまで入る場所なんですね」

「そうだ」

「希望っぽかったのに」

「希望は、遠くから見るとたいてい綺麗だ」

「近づくと?」

「検査がある」


七瀬さんは黙ったあと、小さく言った。


「それでも、行くんですね」

「行く」

「妹さんのため?」

「それもある」

「他にも?」


俺はセクターAの明かりを見た。


隔離棟。


戻らない人間。


適応者。


検査値で分けられる命。


そして、俺のような例外。


「あの中で何が起きているのか、医者として見なければならない」

「死者の医者として?」

「そうだ」


七瀬さんは今度こそ笑わなかった。


ただ頷いた。


「じゃあ、私も行きます」

「危険だ」

「知ってます」

「離れるなら、今だ」

「離れません」


即答だった。


その速さに、俺は少しだけ困った。


「理由は」

「先生が嘘をつくの、下手そうだから」

「否定しにくい」

「あと」


彼女は自分の胸元を押さえた。


「中に入ったら、また変な感じがするかもしれない。そしたら、言います」


まだ能力ではない。


だが、彼女はそれを役割として使おうとしている。


俺は頷いた。


「分かった」


投光器の光が、フェンスの上で白く揺れていた。


セクターA。


そこへ入るには、明日の朝、嘘が必要になる。


医師としての嘘。


保護者としての嘘。


生者のふりをする、死者の嘘。


俺は白衣の襟を正した。


夜明けまで、あと数時間。


希望に着いたはずなのに、俺たちはまず、どんな嘘をつくかを選んでいた。


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