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第5章 黒タグの街

1. 車列の墓標


コン、コン、コン。


遠くで聞こえた音は、車列に近づくほど小さくなった。


音量が落ちたわけではない。周囲にある死の気配が濃くなりすぎて、その規則正しさだけが逆に細く聞こえるのだ。


俺は白衣の袖をまくったまま、北へ向かう幹線道路へ足を踏み入れた。


車は数珠つなぎになっていた。乗用車、軽トラック、配送車、救急車、観光バス。すべてが同じ方向を向き、どこにも行けないまま止まっている。フロントガラスには乾いた血。車内には腐った食料。ドアの隙間からは、排泄物とガソリンと腐敗の臭いが混じって流れてきた。


七瀬さんが口元を押さえる。


「……ここを通るんですか」

「通れる場所を探す」

「助けを呼んでる人は」

「診る」


さっき答えた言葉を、もう一度だけ口にした。


全員は無理だ。


だから、診る。


俺は車列の隙間を見た。右のセダンには、運転席でシートベルトに吊られた感染者。まだ動く。左の配送車の下には、片脚だけが見えている。動かない。前方の軽自動車では、後部座席から爪がガラスを叩いていた。


コン、コン。


音はその向こうから来ている。


白いミニバンだった。前輪が縁石に乗り上げ、左側面をバスの車体に押しつぶされている。スライドドアは半分だけ開き、そこから手が出ていた。


男の手だ。


四十代。爪は割れ、指先は血で汚れている。だが黒ずんではいない。少なくとも、今すぐ食人衝動に支配された手ではない。


「先生」


七瀬さんが小さく言った。


「俺の後ろにいろ。俺だけを見るな。車の窓、下、奥。音の位置を拾え」

「はい」


返事は硬いが、足は止まらない。


いい。


恐怖で止まらない人間は危うい。恐怖を抱えたまま動ける人間は、強い。


左手のセダンから喉音がした。


感染者が窓に額をぶつける。ガン、と鈍い音。次に爪。ガリガリとガラスを掻く音。


「急ぐ」


俺はミニバンに近づき、半開きのドアへ声をかけた。


「医者だ。聞こえるか」


中から掠れた声が返る。


「母を……母を、先に」


その時点で、俺の頭の中ではもう順位が組み上がり始めていた。


2. 即席トリアージ


ミニバンの中には二人いた。


一人は、ドアに腕を差し出していた男。四十代前半。痩せている。左額に浅い裂創。右上腕じょうわんにガラスによる切創。脱水、疲労、過呼吸。意識は清明。歩行はおそらく可能。


もう一人は、後部座席に横たわる老女。七十代後半。口唇こうしんチアノーゼ。呼吸は浅く、右胸の動きが弱い。肋骨ろっこつ骨折。血胸けっきょう気胸ききょう。酸素なし、胸腔きょうくうドレーンなし、搬送先なし。


救命可能性は低い。


低い、という言葉は便利だ。ゼロと言い切らずに済む。


だが、現場では同じ意味になることがある。


「母さんを、お願いします」


男が言った。


「名前は」

村瀬むらせ……忠志ただし

「村瀬さん。咬まれたか」

「咬まれてない」


返答が速すぎた。


俺は目だけで彼の全身を追う。首。耳の後ろ。前腕。手首。ズボンの裾。見える範囲に明確な咬傷はない。だが右手首にタオルが巻かれている。止血にしては位置が低い。


今は剥がさない。


優先順位がある。


「熱は」

「分からない。ずっと暑くて、寒い」

「いつから」

「車が止まってから。水もなくて」


脱水でも説明はつく。


感染でも説明はつく。


俺は後部座席の老女へ手を伸ばした。頸動脈は弱い。呼吸は努力性。胸郭きょうかくの動きが左右で違う。背中側まで確認したいが、車内が狭すぎる。しかも周囲には感染者がいる。


「先生」


七瀬さんが老女を見ていた。


「まだ、息してます」

「そうか」

「じゃあ」

「ここでは……救えない」


七瀬さんの顔が強張った。


俺は言葉を足しすぎないようにした。足せば、ときどき言い訳に聞こえる。


「酸素がない。胸を抜く器具がない。運べる担架がない。ここで処置を始めれば、音で感染者が寄る」


「でも」


「今できるのは、呼吸しやすい姿勢にすることだけだ」


俺は老女の上体を少し起こし、潰れたシートベルトを外した。骨折部に負担をかけない角度を探す。老女の喉が鳴り、ほんの少しだけ空気が通った。


村瀬が泣きそうな顔でこちらを見る。


「助かるんですか」

「この車列の中では……助からない」


言った瞬間、七瀬さんが俺を見た。


その視線が痛い。


だが、曖昧に言えば村瀬は母親を抱えて動こうとする。動けば、彼も母親も七瀬さんも死ぬ。


「村瀬さん。あなたは歩ける。水と止血が必要だ。セクターAまで自力で行ける可能性がある」


「母さんは」

「……連れていけない」

「ふざけるな!」


声が大きくなった。


左のセダンで感染者が窓を叩く。


ガン。


村瀬が口を閉じた。


世界が説得してくれることがある。最悪の形で。


俺は村瀬の上腕を処置した。ガラス創。出血は少ない。包帯を巻きながら、右手首のタオルを見る。


「その手首は」

「擦っただけです」


また速い。


七瀬さんも気づいた。


彼女の肩がわずかに強張る。


俺はまだ剥がさなかった。


村瀬の目は母親から離れない。タオルを剥がすなら、彼の逃げ道も同時に断つことになる。順番を間違えれば、彼は叫ぶ。


そして、叫びはこの街では血と同じだ。


3. 結衣の反発


俺たちはミニバンから数メートル離れた配送トラックの陰へ移動した。


村瀬はついてきた。正確には、俺が腕を引いて連れてきた。彼を母親の横に残せば、無理に動かそうとする。動かせないと分かれば、叫ぶ。叫べば終わる。


七瀬さんは黙っていた。


沈黙は、怒鳴り声より扱いにくい。


「先生」

「何だ」

「さっきの言い方、ひどいです」

「……そうだな」

「そこで認めるんですか」

「否定はできない」

「まだ生きてる人に、助からないって言うのが医者なんですか」

「言わなければ、もっと危険になる時がある」

「そういうの、正しい言い方に聞こえるだけです」

「そうかもしれない」


七瀬さんは唇を噛んだ。


怒っている。


いい。


怒りは、まだ人間の形を残している。


「先生は」


彼女は声を落とした。


「前にも、そうやって誰かを見捨てたことがあるんですか」


村瀬がこちらを見た。


俺は一瞬だけ、舞のナースウォッチに触れそうになった。


触れなかった。


「……ある」

「誰を」

「感染した婚約者を……自分の手で終わらせた」


七瀬さんの呼吸が止まる。


村瀬の顔からも色が引いた。


言わないほうがよかったのかもしれない。


だが、ここで隠せば、俺はただ冷たい医者に見える。冷たいだけの医者なら、彼女は俺から離れればいい。俺が怖いのは、そのほうが正しいと思われることだった。


「自我が残っているうちに、本人に頼まれた」

「それでも」

「それでも……俺が殺した」


七瀬さんは俯いた。


彼女が何かを理解したわけではない。理解しなくていい。十五歳の人間が、そんな判断をすぐに飲み込む必要はない。


村瀬が震える声で言った。


「じゃあ、先生」


嫌な予感がした。


「俺の母さんも、そうするんですか」

「しない」


即答した。


村瀬が目を見開く。


「あなたの母親は、今まだ人間として呼吸している。苦痛を減らす処置はする。だが、感染者ではない人間に俺が刃を入れる理由はない」

「じゃあ、置いていくんですか」

「……今は」

「今って何だよ」

「戻れる可能性があれば戻る」


約束ではない。


可能性だ。


それでも、村瀬はその言葉に縋った。


人は確率では動かない。縋れる形をした言葉で動く。


俺はその弱さを利用した。


医療行為ではない。


統制だ。


その事実が、自分の中で重く沈んだ。


4. 隠された咬傷


車列を抜けるには、通れる隙間を選び続けるしかなかった。


俺が先頭に立つ。七瀬さんを中央に置く。村瀬は後ろ。母親のところへ戻ろうとするたび、俺が止める。


「少しだけ、少しだけ見てくる」

「今戻れば全員死ぬ」

「でも、母さんが」

「戻るなら、感染者を片づけてからだ」


村瀬は黙る。


黙って、右手首のタオルを左手で押さえた。


その動作を、七瀬さんが見た。


俺も見た。


次に、彼女は道路の奥を見た。


「先生」


声が変わった。


「何だ」

「いる」

「どこに」

「分からない。でも、近いです」


音はまだない。


だが、彼女の目は一点を追っていない。周囲全体を嫌がっている。コンビニで見た反応に似ていた。


「止まれ」


俺は言った。


七瀬さんは止まった。


村瀬は止まらなかった。


「村瀬さん」

「母さんのところへ戻る」

「止まれ!」

「あんたに何が分かる!」


彼が右手を振った。


タオルが緩む。


歯型。


手首の外側。深い。出血は一度止まりかけているが、周囲が赤黒く腫れている。咬傷としては明瞭すぎる。


七瀬さんが一歩引いた。


「村瀬さん」

「違う」


村瀬は反射的に言った。


そして、自分でもその言葉が弱すぎると分かったのだろう。顔が崩れた。


「違うんだ。さっきだ。ほんの少し前だ。母さんを車の中へ戻そうとして……隣の車から出てきた奴に掴まれて」

「何分前だ」

「分からない。三十分か、一時間か」


十分に危険な時間だ。


俺は村瀬の汗を見る。瞳孔。呼吸。手指の震え。脱水だけではない。感染初期。前頭前野ぜんとうぜんやの抑制が揺らぎ始めている。


「なぜ言わなかった」

「言ったら、俺はセクターAに入れない」


村瀬の声が震えた。


「俺が入れなきゃ、母さんを連れていけない。母さんは歩けないんだ。しゃべるのも苦しい。俺がいないと、ゲートで置かれる」


理屈は通っていた。


間違っている。


危険だ。


だが、彼の中では通っている。


「だから隠したのか」

「母さんだけなんだ」


村瀬が言った。


「母さんだけは……置いていけない」


その声に悪意はなかった。


悪意がないことが、かえって始末に悪い。


前方のバスの陰から、濡れた喉音がした。


七瀬さんが振り向く。


「来ます!」


今度は俺にも聞こえた。


前。右。後ろ。


囲まれつつある。


5. 黒の判断


最初に出てきたのは、前方のバスの陰からだった。


若い男の感染者。顎が外れ、肩口から黒い血を垂らしている。新しい。脚が速い。


俺は前に出た。


メスでは止まらない。止血鉗子を逆手に持つ。突進の線を半歩ずらし、顎を掴む。頸部を反らせる。脳幹の位置を作る。


刺す。


延髄。


抵抗が切れる。


男の身体が崩れた。


同時に、右の軽自動車のドアが内側から弾けた。閉じ込められていた感染者が這い出す。七瀬さんに近い。


「下がれ!」


七瀬さんは下がった。


よく見ている。


よく耐えている。


俺が二体目へ向かおうとした時、村瀬が動いた。


逃げたのではない。


母親の車へ戻ろうとした。


「村瀬!」


呼んだ瞬間、彼の足がもつれた。


発熱。呼吸の乱れ。唇の端に泡。


咬傷からの時間は短い。だが脱水、疲労、失血、恐怖。全部が悪い方向へ重なっている。


村瀬は転びかけ、反射的に七瀬さんの肩を掴んだ。


「母さんを」


言葉はまだ人間のものだった。


だが、指の力は違った。


七瀬さんが息を呑む。


村瀬の口が開く。


歯が鳴る。


ここから先は速い。


「村瀬さん!」


俺は名前で呼んだ。


最後の一瞬、名前が人を引き戻すことがある。


彼の焦点が、かすかに戻った。


「……置いて、いけない」


それが最後だった。


俺は踏み込んだ。


左手で顎を押さえ、七瀬さんから引き剥がす。右手の鉗子を首の角度に合わせる。


短く。


深く。


脳幹。


村瀬忠志は崩れ落ちた。


七瀬さんの肩には、爪で掠った赤い線が残っていた。皮膚表面だけ。出血は細い。


浅い。


浅いが、ゼロではない。


俺はその傷を見て、腹の奥が冷えるのを感じた。


二体目が這ってくる。


俺はその頭を踏みつけ、鉗子を差し込んだ。


沈黙。


風の音が戻る。


車の軋み。


七瀬さんの呼吸。


「先生」


彼女の声は掠れていた。


「今の、正しかったんですか」


答えはある。


感染者化が進んだ人間を止めた。七瀬さんを守った。周囲への拡散を防いだ。医学的にも、生存戦略としても、判断は間違っていない。


だが、正しいという言葉は軽すぎた。


村瀬は母親を置いていけなかった。


それだけだ。


その願いが、車列の中で噛み砕かれた。


俺は舞の手首を思い出した。


黒タグ。細い針金。


自分の指が、あの時と同じ形をしている。


「……分からない」


俺は言った。


七瀬さんがこちらを見る。


「でも……止めなければ君が死んでいた」

「それは、分かります」

「分かることと……納得することは違う」


彼女は唇を噛んだ。


泣かなかった。


泣く暇がないからだ。


「動けるか」

「……動けます」


俺は村瀬の遺体を一度だけ見た。


見て、それから離れた。


見なかったことにはしない。


だが、連れてはいけない。


黒とは、そういう色だ。


6. 遠い灯


車列を抜けたころには、日が傾いていた。


夕方の光は朝よりも残酷だった。影が長いぶん、置いてきたものまで引きずって見える。


高架下に入ると、空気が少しだけ冷えた。


七瀬さんは俺から三歩離れて歩いている。


朝より遠い。


当然だ。


俺は彼女の目の前で、助けようとした人間を止めた。必要だった。だが必要だったことは、傷を軽くしない。


「先生」

「何だ」

「私、まだ納得してません」

「……してはいけない」


彼女はしばらく黙った。


「でも」


足は止めずに続ける。


「村瀬さんが私を掴んだとき、来るって分かりました」

「音か」

「違う。音じゃなくて……空気が嫌な感じになったっていうか」


俺は前を向いたまま、少し考えた。


「そういえば、前にも似たことがあったな」

「コンビニで?」

「ああ」

「私、変なんですか?」

「変という言葉は雑だ」

「じゃあ何ですか」

「まだ分からない」

「先生でも?」

「分からないことのほうが多い」


七瀬さんは小さく息を吐いた。


安心したのか、余計に不安になったのかは分からない。


俺はそれ以上、名前をつけなかった。


違和感は、名前をつけた瞬間に別のものになる。今はまだ、彼女自身が感じたまま持っているほうがいい。


「先生」

「何だ」

「婚約者の人」


俺は足を止めなかった。


「名前、聞いてもいいですか」

「……小林舞」

「舞さん」


七瀬さんは、その名前を一度だけ繰り返した。


それだけだった。


慰めも、謝罪も、質問もなかった。


だから、その一度は重かった。


高架下を抜けると、北の空が白く滲んでいた。


夕焼けではない。


人工光だ。


夜へ向かう街の中で、そこだけが明るい。投光器。非常電源。フェンスの向こう側にある秩序。


セクターA。


七瀬さんも見上げた。


「あれが」

「たぶん」

「近いですか」

「外縁までは、今日中に行ける」

「入りたいですか」


妙な問いだった。


入るしかない、ではない。


入りたいか、だ。


「入りたくはない」


俺は答えた。


「だが、入る必要がある」

「同じようで、全然違いますね」

「君は賢い」

「それ、褒めてます?」

「事実を言っている」

「またそれ」


声はまだ硬い。


だが、完全には切れていない。


それで十分だった。


背後の車列は、影の中へ沈んでいく。


助けられなかった呼吸。隠された咬傷。母親を置いていけなかった男。正しい判断と、正しくても軽くならない罪悪感。


全部を置き去りにしているのに、何一つ軽くならない。


俺たちは北の光へ向かった。


希望にしては、冷たすぎる光だった。


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