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第4章 夜明けの往診

1. 夜明けの裏道


コンビニを出ると、空はもう黒ではなかった。


東の低いビル群の輪郭が、薄い灰色に縁取られている。夜明けと呼ぶには冷たすぎる光だった。送電網が死んだ都市では、朝ですらどこか停電しているように見える。


三歩後ろで、七瀬結衣の靴音がした。


一定ではない。


早くなり、遅くなり、時々止まりかける。俺との距離を測り続けている音だ。近づきすぎれば怖い。離れすぎればもっと怖い。その中間を、彼女はまだ探している。


「歩幅、合わせたほうがいいか」


俺が言うと、後ろで小さく息を呑む気配があった。


「いい。大丈夫」

「大丈夫の声ではない」

「じゃあ、あんまり大丈夫じゃない」

「正確だ」

「先生、そういう返しばっかりするんですか」

「癖だ」

「嫌われますよ」

「もう死んでいるから、社会的評価は低い」


沈黙。


それから、七瀬さんが小さく笑った。笑いというより、喉に引っかかった息が少しだけ柔らかくなった音だった。


良い兆候だ。


恐怖は消えていない。消えるはずがない。俺は彼女の前で感染者を殺し、心拍も呼吸もないと告げた。正気を保っているように見える死体と歩く十四、五歳の少女。状況だけ抜き出せば、救助ではなく誘拐に近い。


だが、会話はできている。


会話ができるなら、まだ俺は人間の側に立っている。


腹の奥で、冷たい鼓動が鳴った。


原因は分かっている。


七瀬さんの体温だ。


俺の背後三歩。衣服越しでも、生者の熱は分かる。血液が動く音、皮膚の下の微細な脈動、呼吸で湿る空気。医学知識ではなく、もっと低いところで身体が拾っている。


食べろ、とまでは言わない。


ただ、そこに栄養がある、と告げてくる。


俺は左手を白衣のポケットに入れ、舞のナースウォッチに触れた。止まった針。冷えた金属。あの手首にあった体温は、もうない。


「先生?」

「何でもない」

「何でもない、は怪しいです」

「腹が減った」


七瀬さんの足音が止まった。


俺も止まる。振り返りはしない。


「言ったほうが安全だ。隠せば、俺が自分を信用していることになる」

「信用してないんですか。自分のこと」

「していない。だから規則を作った」


少し間が空いた。


「じゃあ、今は」

「制御できている」

「本当に?」

「本当に」

「嘘だったら?」

「君は走れ。俺は追わないよう努力する」

「努力って何ですか」

「死者の精一杯だ」


今度は、七瀬さんが一歩だけ近づいた。


「じゃあ、私も努力します」

「何を」

「逃げる準備」

「いい判断だ」

「それ、褒めてます?」

「事実を言っている」

「やっぱりそればっかり」


会話の端が、少しだけ日常の形をしていた。


俺たちはコンビニの裏道を抜けた。道路には、横倒しになった軽トラックが一台。荷台には空の段ボール箱。側面にスーパーのロゴ。運転席の窓は内側から割れており、シートには黒く乾いた血痕が残っている。


感染者の姿はない。


いない、という事実もまた不気味だった。どこかへ移動したのか。音に釣られたのか。あるいは、まだ建物の中で止まっているのか。


俺は耳を澄ませた。


風。遠くの金属音。看板が揺れている。七瀬さんの呼吸。俺自身の呼吸は、ない。


「北へ行く」


俺は言った。


「セクターA?」

「その可能性が高い。雫のメッセージとも方向が重なる」

「妹さん?」

「ああ」

「生きてるといいですね」


簡単な言葉だった。


だが、簡単だから刺さることがある。


「そうだな」


俺は短く答えた。


夜明けのS市で、死者の往診は二人になった。


問題は、往診先がまだ生きているかどうかだった。


2. 閉じた住宅街


住宅街は、生活の途中で時間だけを抜き取られたようだった。


門扉の開いたままの家。干しっぱなしの子ども服。倒れた自転車。玄関先に置かれた宅配ボックス。中身はおそらく腐っている。窓ガラスの割れた二階から、レースカーテンが舌のようにはみ出していた。


水道は死んでいる。


側溝に水音がない。庭の散水ホースは乾き、先端から泥だけが垂れている。電力もない。太陽が昇りかけているのに、家々の中は黒い箱のままだ。


「ここ、人が住んでたんですよね」


七瀬さんが言った。


「十五日前までは」

「十五日で、こんなになるんだ」

「都市は、維持され続けることで都市に見える。止まれば、ただの構造物だ」

「先生って、たまにひどいことを普通に言いますよね」

「ひどいか」

「ひどいです」


七瀬さんは、民家の前に落ちていた赤いランドセルを見ないようにしていた。


俺は見た。


見るのが仕事だった。見ないことで保てる感情はある。だが、見なければ危険は拾えない。ランドセルの近くに血痕はない。引きずり跡もない。持ち主の行方は不明。感染者の待ち伏せ痕もなし。


安全。


その判定に、俺は少しだけ嫌悪を覚えた。


「七瀬さん」

「はい」

「家の中から物音がしても、すぐに近づくな」

「生きてる人かもしれないのに?」

「生きている人間も危険だ。感染者はもっと危険だ。感染しかけの人間は、その両方だ」

「……分かりました」


分かってはいない声だった。


それでいい。


十四、五歳の人間が、災害医療の倫理をすぐに飲み込む必要はない。むしろ、すぐに飲み込むほうが危険だ。


俺たちは車一台分ほどの道幅の路地を進んだ。アスファルトには細かなガラス片が散っている。足音を殺すには不向きだ。七瀬さんの靴底が、ときどき小さく鳴る。そのたびに彼女は肩を跳ねさせた。


「音は出していい」

「え」

「完全な無音は無理だ。無理なことに集中すると、周囲を見落とす」

「でも、音に寄ってくるって」

「大きな音だ。ガラス片を一つ踏んだ程度で群れは来ない。来たら、そのとき考える」

「そのとき考えるって、怖いんですけど」

「未来の全危険を今処理しようとすると、人間は動けなくなる」

「先生は?」

「死者だから動ける」

「またそれ」


言いながら、七瀬さんは少しだけ歩き方を変えた。足を置く前に地面を見る。踏む場所を選ぶ。呼吸を浅くしすぎない。


学習が早い。


その事実に、俺は安堵した。同時に、嫌な想像もした。この世界で学習の早い子どもは、生き残る。生き残るために、早く子どもではなくなる。


曲がり角に差しかかったとき、七瀬さんが俺の白衣の裾を掴んだ。


反射的に、俺は止まった。


「何だ」

「今、声」


俺は耳を澄ませる。


風。看板。遠くの金属音。どこかで落ちる瓦。


その下に、かすれた音があった。


「……たすけ」


人間の声。


弱い。肺活量が落ちている。発声に湿りがある。喀血かっけつか、脱水か、単純な疲弊か。


感染者の声ではない。


感染者は助けを求めない。


「聞こえた」


俺は言った。


七瀬さんの手が、白衣から離れない。


「行くんですか」

「行く」

「罠かも」

「その可能性はある」

「感染してるかも」

「その可能性もある」

「じゃあ」

「それでも声がした」


七瀬さんは黙った。


俺はポケットの中でメスの位置を確認した。治療器具と武器の境界が、この世界では曖昧になっている。


声は、右手の戸建てからだった。白い外壁。門柱に表札。庭には枯れかけたシマトネリコ。玄関扉は半開きで、内側に靴が散らばっている。


血痕はある。


新しい。


俺は七瀬さんに手で合図した。


「ここにいろ。扉の正面に立つな」

「先生は」

「往診だ」


自分で言って、少しだけ可笑しかった。


救急外来でも、病室でも、手術室でもない。


死んだ街の戸建て住宅。


だが、助けを求める声があるなら、そこが診察室だ。


3. 助けを呼ぶ声


玄関の中は、荒れていた。


靴箱の扉が外れ、床には割れた陶器の破片。廊下の壁に血の手形が三つ。高さから見て成人男性。手形の流れ方は下向き。立ったまま壁にすがり、体重を支えきれず滑った痕だ。


俺は声を低くした。


「医師だ。入る」


返事はなかった。


代わりに、奥から何かが床を擦る音がした。


感染者なら、声ではなく音に反応する。生存者なら、医師という言葉に反応する。沈黙はどちらにもあり得る。


廊下を三歩進む。


居間の入り口に、男が倒れていた。


三十代半ば。痩せ型。ワイシャツの上に市役所の防災ベスト。胸元に名札が残っている。


笠原祐介かさはらゆうすけ


S市危機管理課。


右下腿うかたいに深い裂創れっそう。ガラスか金属片による切創だ。ズボンの布が血で張りついている。出血量は多いが、噴き出すような拍動性ではない。動脈本幹は外れている可能性が高い。顔色は悪い。唇は乾燥。意識はあるが、混濁しかけている。


咬傷は。


俺は距離を保ったまま視線を走らせた。


前腕ぜんわん、頸部、肩、顔面。見える範囲に咬創なし。衣服の破れは下腿中心。発熱の有無は触れなければ分からない。


「笠原さん、聞こえるか」


男の瞼が震えた。


「……医者?」

「九条。感染症科医だ。傷を見る」

「感染……してない。噛まれてない」


最初にそれを言う。


この十五日で、人間が何を恐れるようになったかが分かる。


「確認する。動くな」


俺は膝をつき、まず周囲を見た。居間の奥に感染者はいない。窓は割れている。床には血のついた写真立て。台所の方から腐敗臭。人間の死臭ではなく、冷蔵庫の中身が腐った臭いだ。


七瀬さんが玄関から覗き込んでいる。


「入るな」

「でも」

「君は外を見ていろ。感染者が来たら、俺より先に気づけ」


彼女は一瞬だけ唇を結び、それから頷いた。


良い。


恐怖で固まるより、役割を与えたほうが人間は動ける。


俺は笠原の下腿を露出させた。布を裂く。皮膚は冷えているが、死体の冷たさではない。血圧低下と外気によるものだ。創部は脛の外側から後方に走っている。深さはある。筋膜が見える。だが骨折はなさそうだ。


「痛みは」

「ある……」

「いい反応だ。痛いなら、まだ神経は生きている」

「それ、慰めか?」

「医学的事実だ」


俺はバッグから包帯、消毒薬、止血鉗子、縫合セットを出した。


病院から持ち出した道具は限られている。ここで縫合までやるべきか。感染リスク、時間、周囲の安全、本人の体力。


結論。


洗浄、圧迫止血、簡易縫合、固定。


搬送先はない。ならば歩ける状態に近づけるしかない。


「七瀬さん」

「はい」

「外に感染者は」

「見えない。音も、たぶんない」

「そのまま見ていろ」


俺は消毒薬を開けた。


笠原が俺の手元を見て、かすかに笑った。


「ほんとに医者なんだな」

「疑っていたのか」

「白衣の化け物かと」

「半分は当たっている」

「冗談か」

「診療中は冗談を言わない」


俺は創部に消毒薬をかけた。


笠原が歯を食いしばる。声を殺した。叫べば感染者を呼ぶと分かっている。訓練ではない。恐怖が彼に規律を与えている。


俺は止血点を押さえ、創部を確認した。


救える。


赤ではない。黄に近い。だがこの世界で、黄を放置すればすぐ赤になる。ここで処置する価値はある。


俺は針を持った。


その瞬間、腹の奥が鳴った。


血の臭い。


新鮮な人間の血。


笠原の傷から流れる鉄の匂いが、俺の頭蓋の内側を叩いた。視界の端が、わずかに暗くなる。


俺は舞のナースウォッチに触れた。


誰かを助けて。


あの声は、まだ消えていない。


「続ける」


誰にともなく言い、俺は針を入れた。


4. 冷たい手の処置


縫合は雑でいい。


綺麗な傷跡を作る場所ではない。出血を止め、創縁そうえんを寄せ、歩行時の再裂開を減らす。それが目的だ。俺は最小限の針数で創部を閉じ、圧迫をかけた。


問題は、俺の指先だった。


冷たい。


自分では感じない。だが、生きている人間には分かる。笠原の皮膚が、俺の手に触れるたびにわずかに強張った。


「あんた」


笠原が言った。


「手、冷たいな」

「低体温だ」

「低体温ってレベルじゃない」

「診療に支障はない」

「呼吸も、してないように見える」


針を結ぶ手を止めなかった。


「見る余裕があるなら、まだ大丈夫だ」

「答えになってない」

「……答える義務はない」


言い方が硬くなった。


自覚はある。


だが、ここで柔らかくすれば、嘘になる。俺は人間ではない。彼が恐れるのは正しい。正しい恐怖を否定してまで信頼を得ようとすれば、それは医師ではなく詐欺師だ。


笠原は黙った。


俺は包帯を巻いた。圧迫の強さを調整する。強すぎれば末梢循環まっしょうじゅんかんを落とす。弱すぎれば再出血する。


途中で、俺の左手の甲が裂けていることに気づいた。


いつ切った。


おそらく玄関のガラス片だ。痛覚が鈍いせいで見落とした。傷は浅い。だが、赤黒い血が一筋、手袋の破れから滲んでいる。


その血が、包帯の端に触れた。


わずかだ。


俺はすぐに手を離し、別のガーゼで拭った。


「先生、血」


玄関から七瀬さんの声。


「問題ない。俺のだ」

「それが問題なんじゃ」

「感染性は不明だ。触るな」


俺は自分の手の甲を見た。


裂創はもう閉じかけている。皮膚が赤黒い線を残して寄っていく。再生。何度見ても不快なほど正確だ。


それより、笠原の創部が気になった。


圧迫していたガーゼの下で、出血が妙に落ち着いている。止血そのものは成功している。そう判断していい。だが、早い。創縁の赤みが、処置直後にしては静かすぎる。


圧迫が効いた。


そう考えるのが妥当だ。


他の仮説を立てるには、材料が足りない。


俺は包帯を結び、添え木代わりに玄関の傘を一本折って固定した。見栄えは悪い。機能は足りる。


「立つな。まず座位で一分。めまいがなければ、壁伝いに移動しろ」

「どこへ」

「この家は長く保たない。血の臭いがある。感染者が来る」

「セクターAへ、行けってことか」

「……行きたいなら」


笠原は笑った。


笑いはすぐ咳になった。


「行きたい奴だけが入れる場所じゃない」


その言葉に、七瀬さんが反応した。


「どういうことですか?」


笠原は玄関のほうを見た。


そこで初めて、彼は七瀬さんをはっきり見た。学生鞄。汚れた制服。小柄な体。死んでいない目。


「あんたら、セクターAに行くのか」

「そのつもりだ」

「やめとけ」


笠原は即答した。


助けられた直後の人間が、助けた相手の目的地を否定する。


情報価値は高い。


「理由を聞こう」


「あそこは避難所じゃない。いや、看板は避難所だ。S市北部広域避難センター。俺も最初は、名簿を作ってた。配給の列を整理して、家族の照合をして、泣いてる老人に毛布を渡してた」


市職員。


名札と一致する。


「今は」

「検査場だ」


笠原は言った。


「人を入れる場所じゃない。分ける場所だ」


5. 感謝と恐怖


俺は笠原に水を渡した。


コンビニから持ち出した最後の未開封ペットボトルの一本だ。七瀬さんが一瞬だけ目を向けたが、何も言わなかった。


笠原はキャップを開ける手に苦労した。握力が落ちている。俺が開けようとすると、彼は反射的に身を引いた。


恐怖。


さっきまで傷を縫わせていた相手に対する、正しい恐怖。


「すまん」


笠原が言った。


「助けてもらったのに」

「謝る必要はない」

「あんた、何なんだ」

「医師だ」

「医師は息をする」

「例外もある」

「ないだろ、普通」

「普通は死んだ」


笠原の顔が歪んだ。


冗談として受け取るには、俺の声が平坦すぎたのだろう。


七瀬さんが一歩、俺の横に出た。


「先生は、人を襲いません」


俺は彼女を見た。


七瀬さんは俺を見返さない。笠原を見ている。怖いくせに、俺の前に立とうとしている。


危険な行動だ。


だが、胸のどこかが痛んだ。心臓は動いていないのに、痛む場所だけは残っている。


笠原は水を飲み、息を整えた。


「セクターAのゲートでは、まず噛み傷を見る。次に熱。熱が高い奴は隔離。熱が低すぎる奴も隔離。血を採られる。簡易検査だって言ってたが、数字の意味は俺には分からない」


「低体温も見るのか」


「見る。最初は発熱だけだった。途中から低すぎる奴も止めるようになった。再起動後の感染者に、体温が低い個体が多いからだとか」


俺は自分の手を見た。


平常時の体温は、通常の生存者とは比較にならない。検査を通れば、赤か黒。少なくとも緑ではない。


「他には」

「目だ」


七瀬さんが瞬きした。


「目?」


「ライトで見る。瞳の色とか、奥の光り方とか。能力者は、力を使うと目が変わるって噂がある」


能力者。


「能力者……?」


七瀬さんが聞き返した。


知らない言葉を怖がっている、というより、知ってはいけない言葉に触れたような声だった。


「俺も詳しくは知らない」


笠原は水のボトルを握ったまま言った。


「感染しても、ああいう化け物にならない奴がいるって話だ。暗闇でも見える奴。金属を曲げる奴。手も触れずに火をつける奴。半分は作り話だろうが、セクターAはそれを探してる」


外側の人間には、そういう雑な言葉で伝わっている。


「それで入所を拒否されるのか」


「拒否とは言わない。再検査。短期観察。隔離棟。言い方はいろいろだ。でも、戻ってこない奴がいる」


笠原の指が震えた。


「俺は名簿を作ってたから、名前を見た。入ったはずの家族が、一般区の名簿に出てこない。隔離棟に移されたって記録だけ残る。問い合わせても、治療中、転送済み、重症化。答えは毎回違う」


「あなたは、なぜ外に」


俺が聞くと、笠原は口元を歪めた。


「怖くなった。いや、違うな。逃げた」

「何から」

「自分が、あそこに慣れていくことから」


七瀬さんが黙った。


俺も少しだけ黙った。


笠原は悪人ではない。英雄でもない。崩壊した行政の端で、名簿を持たされた普通の男だ。普通の男が、普通のまま耐えられる量を世界が超えた。それだけの話だ。


「戻るつもりは」

「この足で?」

「処置はした。歩行は可能だ。ただし走れない」

「戻れば隔離される」

「理由は」


笠原は俺を見た。


見て、視線を逸らした。


「俺は、熱が出た。二日前に。今は下がった。でも向こうじゃ、その履歴だけで黄か赤だ。下手すりゃ隔離棟行きだ」


俺は彼の額を見た。


汗はある。だが現時点での高熱所見は薄い。咬傷は見えない。感染の可能性はゼロではないが、即座に処分する根拠はない。


「先生」


七瀬さんの声が硬かった。


「笠原さんは、大丈夫なんですか」

「今この場では、感染者化の所見はない」

「今この場では」

「未来は保証できない」


笠原が低く笑った。


「正直な医者だな」

「嘘をつく余力がない」

「じゃあ、俺も正直に言う」


笠原は壁にもたれたまま、俺の顔を見た。恐怖は消えていない。だが、その奥に別の感情があった。


感謝。


警戒。


そして、哀れみ。


「あんたは、あそこに入れない。入ったら見つかる。熱も、血も、目も。何より、あんたは生きてる人間の匂いがしない」


七瀬さんが息を止めた。


俺は頷いた。


「有益な情報だ」

「怒らないのか」

「事実に怒っても仕方がない」

「便利な性格だ」

「死後に改善された」


笠原は今度こそ、少し笑った。


その直後、遠くで金属が倒れる音がした。


俺は立ち上がった。


七瀬さんも、ほとんど同時に振り向いた。


「感染者か」

「分からない。でも、ここに長くいる理由はなくなった」


俺は笠原に包帯の余りと水を半分渡した。


「二十分はここを動くな。その後、北へ行くなら壁伝いに進め。南へ戻るなら、血の跡を残すな」


「あんたらは」

「北へ行く」

「言っただろ。入れない」

「入れないなら、入る方法を考える」


笠原は俺を見た。


今度は恐怖より、呆れが勝っていた。


「医者ってのは、みんなそうなのか」

「まともな医者はもう少し慎重だ」

「あんたは」

「死んでいるから、少し無理が利く」


七瀬さんが小さくため息をついた。


「先生、その言い方やめたほうがいいです」

「なぜ」

「心臓に悪いから」

「俺には効かない」

「私に効くんです」


それは、反論できない指摘だった。


6. 北へ続く車列


住宅街を抜けるころには、朝の光が道路の割れ目まで届いていた。


明るくなったぶん、街は余計に死んで見えた。夜は隠してくれる。朝は隠さない。倒れた自転車も、窓に残った血の飛沫も、玄関先の片方だけの靴も、すべて輪郭を持ってしまう。


七瀬さんはしばらく黙っていた。


俺も話しかけなかった。


笠原祐介。


S市職員。セクターA初期運用関係者。発熱歴あり。右下腿切創。咬傷なし。処置後の歩行可能性あり。感染者化の即時所見なし。


情報を並べる。


それでも、最後に残るのは医学ではなかった。


助けた人間に恐れられた。


当然だ。


当然だが、痛みがないわけではない。


「先生」


七瀬さんが言った。


「笠原さん、助かりますか」

「傷だけなら」

「傷だけなら?」

「感染、脱水、感染者、他の生存者、セクターAの検査。死因の候補が多すぎる」

「そういう言い方」

「悪い」

「謝れるんですね」

「機能としては残っている」


七瀬さんは、少しだけ笑った。


それから、自分の学生鞄の紐を握り直した。


「でも、先生が処置してるとき、ちょっと安心しました」

「俺が?」

「はい。怖いけど、手が迷ってなかったから」

「迷う時間がなかっただけだ」

「それでも」


彼女はそこで言葉を切った。


言い過ぎたと思ったのかもしれない。あるいは、自分が何を安心したのか、まだ言語化できなかったのか。


俺は彼女のほうを見ないまま言った。


「怖いなら、怖いままでいい」

「え」

「俺を信じようと急ぐな。判断を急ぐと、間違える」

「先生は、私に信じてほしくないんですか」

「信じてほしい」


今度は、俺が少し黙った。


「だが、信じさせるために危険を小さく見せる気はない」


七瀬さんの足音が、少し近づいた。


三歩だった距離が、二歩半になる。


小さな変化だ。だが、生者の体温が近づく。


腹の奥で冷たい鼓動が鳴る。


俺はそれを数えた。


一つ。

二つ。

三つ。


制御できている。


まだ。


「私も、急がないようにします」

「それでいい」

「でも、さっきの笠原さんの話」

「セクターAの検査か」

「目を見るって」

「その噂を拾うための確認だろう。虹彩や瞳孔周辺の変化を見る。精度は分からない」

「先生の目も、変わるんですか」

「俺は、その噂に出てくる人間とは違う」

「答えになってない」

「自分では見えない」

「じゃあ、変わったら言います」

「言わなくていい」

「言います」


強い声だった。


俺は少しだけ横目で見た。


七瀬さんの目は、まだ普通の人間の目だった。疲労と恐怖で赤い。だが、死んでいない。能力者の虹彩変化もない。少なくとも、今は。


彼女は自分が何を言ったか、分かっているのだろうか。


俺の異常を観察する、と言ったのだ。


恐怖の対象を、見る側に回る。


それは信頼ではない。


だが、信頼の一歩手前にある、もっと実用的な何かだった。


住宅街の終わりで、道が開けた。


北へ向かう幹線道路。


その手前で、俺たちは足を止めた。


車列があった。


数十台、いや、見える範囲だけでも百台近い。乗用車、軽トラック、バス、救急車、配送車。すべてが北へ向かう途中で止まっている。車間は詰まり、何台かは横転し、フロントガラスにひびが入っていた。


避難の痕跡。


失敗した避難の痕跡。


風が吹いた。


血と排泄物と腐敗の臭いが、朝の空気に混じって流れてきた。


七瀬さんが口元を押さえる。


俺は車列を見た。


動く影がある。


一つではない。


車内に閉じ込められた感染者。道路脇を彷徨う感染者。もしかすると、まだ生きている人間もいる。


トリアージ。


その言葉が、胸の奥で黒いタグのように揺れた。


「迂回しますか」


七瀬さんが聞いた。


「迂回路は住宅地を大きく戻る。時間がかかる。物資もない」

「じゃあ、通る?」

「通れる場所を探す」

「助けを呼ぶ人がいたら」


彼女はそこで言葉を止めた。


夜明けの往診は、もう次の問いを連れてきていた。


俺は答えた。


「診る」

「全員?」

「全員は無理だ」


七瀬さんは俺を見た。


俺は車列から目を離さなかった。


「だから、診る」


風がまた吹いた。


遠くで、車のボンネットを叩く音がした。


コン、コン、コン。


規則的で、弱い。


感染者の音ではない。


まだ生きている誰かの音だ。


俺は白衣の袖をまくった。手の甲の傷は、もう赤い線だけになっていた。


七瀬さんがそれを見る。


何か言いかけて、飲み込む。


俺も何も言わなかった。


死者の往診は、まだ終わらない。


北へ続く車列の中で、次の患者が俺たちを待っていた。


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