第4章 夜明けの往診
1. 夜明けの裏道
コンビニを出ると、空はもう黒ではなかった。
東の低いビル群の輪郭が、薄い灰色に縁取られている。夜明けと呼ぶには冷たすぎる光だった。送電網が死んだ都市では、朝ですらどこか停電しているように見える。
三歩後ろで、七瀬結衣の靴音がした。
一定ではない。
早くなり、遅くなり、時々止まりかける。俺との距離を測り続けている音だ。近づきすぎれば怖い。離れすぎればもっと怖い。その中間を、彼女はまだ探している。
「歩幅、合わせたほうがいいか」
俺が言うと、後ろで小さく息を呑む気配があった。
「いい。大丈夫」
「大丈夫の声ではない」
「じゃあ、あんまり大丈夫じゃない」
「正確だ」
「先生、そういう返しばっかりするんですか」
「癖だ」
「嫌われますよ」
「もう死んでいるから、社会的評価は低い」
沈黙。
それから、七瀬さんが小さく笑った。笑いというより、喉に引っかかった息が少しだけ柔らかくなった音だった。
良い兆候だ。
恐怖は消えていない。消えるはずがない。俺は彼女の前で感染者を殺し、心拍も呼吸もないと告げた。正気を保っているように見える死体と歩く十四、五歳の少女。状況だけ抜き出せば、救助ではなく誘拐に近い。
だが、会話はできている。
会話ができるなら、まだ俺は人間の側に立っている。
腹の奥で、冷たい鼓動が鳴った。
原因は分かっている。
七瀬さんの体温だ。
俺の背後三歩。衣服越しでも、生者の熱は分かる。血液が動く音、皮膚の下の微細な脈動、呼吸で湿る空気。医学知識ではなく、もっと低いところで身体が拾っている。
食べろ、とまでは言わない。
ただ、そこに栄養がある、と告げてくる。
俺は左手を白衣のポケットに入れ、舞のナースウォッチに触れた。止まった針。冷えた金属。あの手首にあった体温は、もうない。
「先生?」
「何でもない」
「何でもない、は怪しいです」
「腹が減った」
七瀬さんの足音が止まった。
俺も止まる。振り返りはしない。
「言ったほうが安全だ。隠せば、俺が自分を信用していることになる」
「信用してないんですか。自分のこと」
「していない。だから規則を作った」
少し間が空いた。
「じゃあ、今は」
「制御できている」
「本当に?」
「本当に」
「嘘だったら?」
「君は走れ。俺は追わないよう努力する」
「努力って何ですか」
「死者の精一杯だ」
今度は、七瀬さんが一歩だけ近づいた。
「じゃあ、私も努力します」
「何を」
「逃げる準備」
「いい判断だ」
「それ、褒めてます?」
「事実を言っている」
「やっぱりそればっかり」
会話の端が、少しだけ日常の形をしていた。
俺たちはコンビニの裏道を抜けた。道路には、横倒しになった軽トラックが一台。荷台には空の段ボール箱。側面にスーパーのロゴ。運転席の窓は内側から割れており、シートには黒く乾いた血痕が残っている。
感染者の姿はない。
いない、という事実もまた不気味だった。どこかへ移動したのか。音に釣られたのか。あるいは、まだ建物の中で止まっているのか。
俺は耳を澄ませた。
風。遠くの金属音。看板が揺れている。七瀬さんの呼吸。俺自身の呼吸は、ない。
「北へ行く」
俺は言った。
「セクターA?」
「その可能性が高い。雫のメッセージとも方向が重なる」
「妹さん?」
「ああ」
「生きてるといいですね」
簡単な言葉だった。
だが、簡単だから刺さることがある。
「そうだな」
俺は短く答えた。
夜明けのS市で、死者の往診は二人になった。
問題は、往診先がまだ生きているかどうかだった。
2. 閉じた住宅街
住宅街は、生活の途中で時間だけを抜き取られたようだった。
門扉の開いたままの家。干しっぱなしの子ども服。倒れた自転車。玄関先に置かれた宅配ボックス。中身はおそらく腐っている。窓ガラスの割れた二階から、レースカーテンが舌のようにはみ出していた。
水道は死んでいる。
側溝に水音がない。庭の散水ホースは乾き、先端から泥だけが垂れている。電力もない。太陽が昇りかけているのに、家々の中は黒い箱のままだ。
「ここ、人が住んでたんですよね」
七瀬さんが言った。
「十五日前までは」
「十五日で、こんなになるんだ」
「都市は、維持され続けることで都市に見える。止まれば、ただの構造物だ」
「先生って、たまにひどいことを普通に言いますよね」
「ひどいか」
「ひどいです」
七瀬さんは、民家の前に落ちていた赤いランドセルを見ないようにしていた。
俺は見た。
見るのが仕事だった。見ないことで保てる感情はある。だが、見なければ危険は拾えない。ランドセルの近くに血痕はない。引きずり跡もない。持ち主の行方は不明。感染者の待ち伏せ痕もなし。
安全。
その判定に、俺は少しだけ嫌悪を覚えた。
「七瀬さん」
「はい」
「家の中から物音がしても、すぐに近づくな」
「生きてる人かもしれないのに?」
「生きている人間も危険だ。感染者はもっと危険だ。感染しかけの人間は、その両方だ」
「……分かりました」
分かってはいない声だった。
それでいい。
十四、五歳の人間が、災害医療の倫理をすぐに飲み込む必要はない。むしろ、すぐに飲み込むほうが危険だ。
俺たちは車一台分ほどの道幅の路地を進んだ。アスファルトには細かなガラス片が散っている。足音を殺すには不向きだ。七瀬さんの靴底が、ときどき小さく鳴る。そのたびに彼女は肩を跳ねさせた。
「音は出していい」
「え」
「完全な無音は無理だ。無理なことに集中すると、周囲を見落とす」
「でも、音に寄ってくるって」
「大きな音だ。ガラス片を一つ踏んだ程度で群れは来ない。来たら、そのとき考える」
「そのとき考えるって、怖いんですけど」
「未来の全危険を今処理しようとすると、人間は動けなくなる」
「先生は?」
「死者だから動ける」
「またそれ」
言いながら、七瀬さんは少しだけ歩き方を変えた。足を置く前に地面を見る。踏む場所を選ぶ。呼吸を浅くしすぎない。
学習が早い。
その事実に、俺は安堵した。同時に、嫌な想像もした。この世界で学習の早い子どもは、生き残る。生き残るために、早く子どもではなくなる。
曲がり角に差しかかったとき、七瀬さんが俺の白衣の裾を掴んだ。
反射的に、俺は止まった。
「何だ」
「今、声」
俺は耳を澄ませる。
風。看板。遠くの金属音。どこかで落ちる瓦。
その下に、かすれた音があった。
「……たすけ」
人間の声。
弱い。肺活量が落ちている。発声に湿りがある。喀血か、脱水か、単純な疲弊か。
感染者の声ではない。
感染者は助けを求めない。
「聞こえた」
俺は言った。
七瀬さんの手が、白衣から離れない。
「行くんですか」
「行く」
「罠かも」
「その可能性はある」
「感染してるかも」
「その可能性もある」
「じゃあ」
「それでも声がした」
七瀬さんは黙った。
俺はポケットの中でメスの位置を確認した。治療器具と武器の境界が、この世界では曖昧になっている。
声は、右手の戸建てからだった。白い外壁。門柱に表札。庭には枯れかけたシマトネリコ。玄関扉は半開きで、内側に靴が散らばっている。
血痕はある。
新しい。
俺は七瀬さんに手で合図した。
「ここにいろ。扉の正面に立つな」
「先生は」
「往診だ」
自分で言って、少しだけ可笑しかった。
救急外来でも、病室でも、手術室でもない。
死んだ街の戸建て住宅。
だが、助けを求める声があるなら、そこが診察室だ。
3. 助けを呼ぶ声
玄関の中は、荒れていた。
靴箱の扉が外れ、床には割れた陶器の破片。廊下の壁に血の手形が三つ。高さから見て成人男性。手形の流れ方は下向き。立ったまま壁にすがり、体重を支えきれず滑った痕だ。
俺は声を低くした。
「医師だ。入る」
返事はなかった。
代わりに、奥から何かが床を擦る音がした。
感染者なら、声ではなく音に反応する。生存者なら、医師という言葉に反応する。沈黙はどちらにもあり得る。
廊下を三歩進む。
居間の入り口に、男が倒れていた。
三十代半ば。痩せ型。ワイシャツの上に市役所の防災ベスト。胸元に名札が残っている。
笠原祐介。
S市危機管理課。
右下腿に深い裂創。ガラスか金属片による切創だ。ズボンの布が血で張りついている。出血量は多いが、噴き出すような拍動性ではない。動脈本幹は外れている可能性が高い。顔色は悪い。唇は乾燥。意識はあるが、混濁しかけている。
咬傷は。
俺は距離を保ったまま視線を走らせた。
前腕、頸部、肩、顔面。見える範囲に咬創なし。衣服の破れは下腿中心。発熱の有無は触れなければ分からない。
「笠原さん、聞こえるか」
男の瞼が震えた。
「……医者?」
「九条。感染症科医だ。傷を見る」
「感染……してない。噛まれてない」
最初にそれを言う。
この十五日で、人間が何を恐れるようになったかが分かる。
「確認する。動くな」
俺は膝をつき、まず周囲を見た。居間の奥に感染者はいない。窓は割れている。床には血のついた写真立て。台所の方から腐敗臭。人間の死臭ではなく、冷蔵庫の中身が腐った臭いだ。
七瀬さんが玄関から覗き込んでいる。
「入るな」
「でも」
「君は外を見ていろ。感染者が来たら、俺より先に気づけ」
彼女は一瞬だけ唇を結び、それから頷いた。
良い。
恐怖で固まるより、役割を与えたほうが人間は動ける。
俺は笠原の下腿を露出させた。布を裂く。皮膚は冷えているが、死体の冷たさではない。血圧低下と外気によるものだ。創部は脛の外側から後方に走っている。深さはある。筋膜が見える。だが骨折はなさそうだ。
「痛みは」
「ある……」
「いい反応だ。痛いなら、まだ神経は生きている」
「それ、慰めか?」
「医学的事実だ」
俺はバッグから包帯、消毒薬、止血鉗子、縫合セットを出した。
病院から持ち出した道具は限られている。ここで縫合までやるべきか。感染リスク、時間、周囲の安全、本人の体力。
結論。
洗浄、圧迫止血、簡易縫合、固定。
搬送先はない。ならば歩ける状態に近づけるしかない。
「七瀬さん」
「はい」
「外に感染者は」
「見えない。音も、たぶんない」
「そのまま見ていろ」
俺は消毒薬を開けた。
笠原が俺の手元を見て、かすかに笑った。
「ほんとに医者なんだな」
「疑っていたのか」
「白衣の化け物かと」
「半分は当たっている」
「冗談か」
「診療中は冗談を言わない」
俺は創部に消毒薬をかけた。
笠原が歯を食いしばる。声を殺した。叫べば感染者を呼ぶと分かっている。訓練ではない。恐怖が彼に規律を与えている。
俺は止血点を押さえ、創部を確認した。
救える。
赤ではない。黄に近い。だがこの世界で、黄を放置すればすぐ赤になる。ここで処置する価値はある。
俺は針を持った。
その瞬間、腹の奥が鳴った。
血の臭い。
新鮮な人間の血。
笠原の傷から流れる鉄の匂いが、俺の頭蓋の内側を叩いた。視界の端が、わずかに暗くなる。
俺は舞のナースウォッチに触れた。
誰かを助けて。
あの声は、まだ消えていない。
「続ける」
誰にともなく言い、俺は針を入れた。
4. 冷たい手の処置
縫合は雑でいい。
綺麗な傷跡を作る場所ではない。出血を止め、創縁を寄せ、歩行時の再裂開を減らす。それが目的だ。俺は最小限の針数で創部を閉じ、圧迫をかけた。
問題は、俺の指先だった。
冷たい。
自分では感じない。だが、生きている人間には分かる。笠原の皮膚が、俺の手に触れるたびにわずかに強張った。
「あんた」
笠原が言った。
「手、冷たいな」
「低体温だ」
「低体温ってレベルじゃない」
「診療に支障はない」
「呼吸も、してないように見える」
針を結ぶ手を止めなかった。
「見る余裕があるなら、まだ大丈夫だ」
「答えになってない」
「……答える義務はない」
言い方が硬くなった。
自覚はある。
だが、ここで柔らかくすれば、嘘になる。俺は人間ではない。彼が恐れるのは正しい。正しい恐怖を否定してまで信頼を得ようとすれば、それは医師ではなく詐欺師だ。
笠原は黙った。
俺は包帯を巻いた。圧迫の強さを調整する。強すぎれば末梢循環を落とす。弱すぎれば再出血する。
途中で、俺の左手の甲が裂けていることに気づいた。
いつ切った。
おそらく玄関のガラス片だ。痛覚が鈍いせいで見落とした。傷は浅い。だが、赤黒い血が一筋、手袋の破れから滲んでいる。
その血が、包帯の端に触れた。
わずかだ。
俺はすぐに手を離し、別のガーゼで拭った。
「先生、血」
玄関から七瀬さんの声。
「問題ない。俺のだ」
「それが問題なんじゃ」
「感染性は不明だ。触るな」
俺は自分の手の甲を見た。
裂創はもう閉じかけている。皮膚が赤黒い線を残して寄っていく。再生。何度見ても不快なほど正確だ。
それより、笠原の創部が気になった。
圧迫していたガーゼの下で、出血が妙に落ち着いている。止血そのものは成功している。そう判断していい。だが、早い。創縁の赤みが、処置直後にしては静かすぎる。
圧迫が効いた。
そう考えるのが妥当だ。
他の仮説を立てるには、材料が足りない。
俺は包帯を結び、添え木代わりに玄関の傘を一本折って固定した。見栄えは悪い。機能は足りる。
「立つな。まず座位で一分。めまいがなければ、壁伝いに移動しろ」
「どこへ」
「この家は長く保たない。血の臭いがある。感染者が来る」
「セクターAへ、行けってことか」
「……行きたいなら」
笠原は笑った。
笑いはすぐ咳になった。
「行きたい奴だけが入れる場所じゃない」
その言葉に、七瀬さんが反応した。
「どういうことですか?」
笠原は玄関のほうを見た。
そこで初めて、彼は七瀬さんをはっきり見た。学生鞄。汚れた制服。小柄な体。死んでいない目。
「あんたら、セクターAに行くのか」
「そのつもりだ」
「やめとけ」
笠原は即答した。
助けられた直後の人間が、助けた相手の目的地を否定する。
情報価値は高い。
「理由を聞こう」
「あそこは避難所じゃない。いや、看板は避難所だ。S市北部広域避難センター。俺も最初は、名簿を作ってた。配給の列を整理して、家族の照合をして、泣いてる老人に毛布を渡してた」
市職員。
名札と一致する。
「今は」
「検査場だ」
笠原は言った。
「人を入れる場所じゃない。分ける場所だ」
5. 感謝と恐怖
俺は笠原に水を渡した。
コンビニから持ち出した最後の未開封ペットボトルの一本だ。七瀬さんが一瞬だけ目を向けたが、何も言わなかった。
笠原はキャップを開ける手に苦労した。握力が落ちている。俺が開けようとすると、彼は反射的に身を引いた。
恐怖。
さっきまで傷を縫わせていた相手に対する、正しい恐怖。
「すまん」
笠原が言った。
「助けてもらったのに」
「謝る必要はない」
「あんた、何なんだ」
「医師だ」
「医師は息をする」
「例外もある」
「ないだろ、普通」
「普通は死んだ」
笠原の顔が歪んだ。
冗談として受け取るには、俺の声が平坦すぎたのだろう。
七瀬さんが一歩、俺の横に出た。
「先生は、人を襲いません」
俺は彼女を見た。
七瀬さんは俺を見返さない。笠原を見ている。怖いくせに、俺の前に立とうとしている。
危険な行動だ。
だが、胸のどこかが痛んだ。心臓は動いていないのに、痛む場所だけは残っている。
笠原は水を飲み、息を整えた。
「セクターAのゲートでは、まず噛み傷を見る。次に熱。熱が高い奴は隔離。熱が低すぎる奴も隔離。血を採られる。簡易検査だって言ってたが、数字の意味は俺には分からない」
「低体温も見るのか」
「見る。最初は発熱だけだった。途中から低すぎる奴も止めるようになった。再起動後の感染者に、体温が低い個体が多いからだとか」
俺は自分の手を見た。
平常時の体温は、通常の生存者とは比較にならない。検査を通れば、赤か黒。少なくとも緑ではない。
「他には」
「目だ」
七瀬さんが瞬きした。
「目?」
「ライトで見る。瞳の色とか、奥の光り方とか。能力者は、力を使うと目が変わるって噂がある」
能力者。
「能力者……?」
七瀬さんが聞き返した。
知らない言葉を怖がっている、というより、知ってはいけない言葉に触れたような声だった。
「俺も詳しくは知らない」
笠原は水のボトルを握ったまま言った。
「感染しても、ああいう化け物にならない奴がいるって話だ。暗闇でも見える奴。金属を曲げる奴。手も触れずに火をつける奴。半分は作り話だろうが、セクターAはそれを探してる」
外側の人間には、そういう雑な言葉で伝わっている。
「それで入所を拒否されるのか」
「拒否とは言わない。再検査。短期観察。隔離棟。言い方はいろいろだ。でも、戻ってこない奴がいる」
笠原の指が震えた。
「俺は名簿を作ってたから、名前を見た。入ったはずの家族が、一般区の名簿に出てこない。隔離棟に移されたって記録だけ残る。問い合わせても、治療中、転送済み、重症化。答えは毎回違う」
「あなたは、なぜ外に」
俺が聞くと、笠原は口元を歪めた。
「怖くなった。いや、違うな。逃げた」
「何から」
「自分が、あそこに慣れていくことから」
七瀬さんが黙った。
俺も少しだけ黙った。
笠原は悪人ではない。英雄でもない。崩壊した行政の端で、名簿を持たされた普通の男だ。普通の男が、普通のまま耐えられる量を世界が超えた。それだけの話だ。
「戻るつもりは」
「この足で?」
「処置はした。歩行は可能だ。ただし走れない」
「戻れば隔離される」
「理由は」
笠原は俺を見た。
見て、視線を逸らした。
「俺は、熱が出た。二日前に。今は下がった。でも向こうじゃ、その履歴だけで黄か赤だ。下手すりゃ隔離棟行きだ」
俺は彼の額を見た。
汗はある。だが現時点での高熱所見は薄い。咬傷は見えない。感染の可能性はゼロではないが、即座に処分する根拠はない。
「先生」
七瀬さんの声が硬かった。
「笠原さんは、大丈夫なんですか」
「今この場では、感染者化の所見はない」
「今この場では」
「未来は保証できない」
笠原が低く笑った。
「正直な医者だな」
「嘘をつく余力がない」
「じゃあ、俺も正直に言う」
笠原は壁にもたれたまま、俺の顔を見た。恐怖は消えていない。だが、その奥に別の感情があった。
感謝。
警戒。
そして、哀れみ。
「あんたは、あそこに入れない。入ったら見つかる。熱も、血も、目も。何より、あんたは生きてる人間の匂いがしない」
七瀬さんが息を止めた。
俺は頷いた。
「有益な情報だ」
「怒らないのか」
「事実に怒っても仕方がない」
「便利な性格だ」
「死後に改善された」
笠原は今度こそ、少し笑った。
その直後、遠くで金属が倒れる音がした。
俺は立ち上がった。
七瀬さんも、ほとんど同時に振り向いた。
「感染者か」
「分からない。でも、ここに長くいる理由はなくなった」
俺は笠原に包帯の余りと水を半分渡した。
「二十分はここを動くな。その後、北へ行くなら壁伝いに進め。南へ戻るなら、血の跡を残すな」
「あんたらは」
「北へ行く」
「言っただろ。入れない」
「入れないなら、入る方法を考える」
笠原は俺を見た。
今度は恐怖より、呆れが勝っていた。
「医者ってのは、みんなそうなのか」
「まともな医者はもう少し慎重だ」
「あんたは」
「死んでいるから、少し無理が利く」
七瀬さんが小さくため息をついた。
「先生、その言い方やめたほうがいいです」
「なぜ」
「心臓に悪いから」
「俺には効かない」
「私に効くんです」
それは、反論できない指摘だった。
6. 北へ続く車列
住宅街を抜けるころには、朝の光が道路の割れ目まで届いていた。
明るくなったぶん、街は余計に死んで見えた。夜は隠してくれる。朝は隠さない。倒れた自転車も、窓に残った血の飛沫も、玄関先の片方だけの靴も、すべて輪郭を持ってしまう。
七瀬さんはしばらく黙っていた。
俺も話しかけなかった。
笠原祐介。
S市職員。セクターA初期運用関係者。発熱歴あり。右下腿切創。咬傷なし。処置後の歩行可能性あり。感染者化の即時所見なし。
情報を並べる。
それでも、最後に残るのは医学ではなかった。
助けた人間に恐れられた。
当然だ。
当然だが、痛みがないわけではない。
「先生」
七瀬さんが言った。
「笠原さん、助かりますか」
「傷だけなら」
「傷だけなら?」
「感染、脱水、感染者、他の生存者、セクターAの検査。死因の候補が多すぎる」
「そういう言い方」
「悪い」
「謝れるんですね」
「機能としては残っている」
七瀬さんは、少しだけ笑った。
それから、自分の学生鞄の紐を握り直した。
「でも、先生が処置してるとき、ちょっと安心しました」
「俺が?」
「はい。怖いけど、手が迷ってなかったから」
「迷う時間がなかっただけだ」
「それでも」
彼女はそこで言葉を切った。
言い過ぎたと思ったのかもしれない。あるいは、自分が何を安心したのか、まだ言語化できなかったのか。
俺は彼女のほうを見ないまま言った。
「怖いなら、怖いままでいい」
「え」
「俺を信じようと急ぐな。判断を急ぐと、間違える」
「先生は、私に信じてほしくないんですか」
「信じてほしい」
今度は、俺が少し黙った。
「だが、信じさせるために危険を小さく見せる気はない」
七瀬さんの足音が、少し近づいた。
三歩だった距離が、二歩半になる。
小さな変化だ。だが、生者の体温が近づく。
腹の奥で冷たい鼓動が鳴る。
俺はそれを数えた。
一つ。
二つ。
三つ。
制御できている。
まだ。
「私も、急がないようにします」
「それでいい」
「でも、さっきの笠原さんの話」
「セクターAの検査か」
「目を見るって」
「その噂を拾うための確認だろう。虹彩や瞳孔周辺の変化を見る。精度は分からない」
「先生の目も、変わるんですか」
「俺は、その噂に出てくる人間とは違う」
「答えになってない」
「自分では見えない」
「じゃあ、変わったら言います」
「言わなくていい」
「言います」
強い声だった。
俺は少しだけ横目で見た。
七瀬さんの目は、まだ普通の人間の目だった。疲労と恐怖で赤い。だが、死んでいない。能力者の虹彩変化もない。少なくとも、今は。
彼女は自分が何を言ったか、分かっているのだろうか。
俺の異常を観察する、と言ったのだ。
恐怖の対象を、見る側に回る。
それは信頼ではない。
だが、信頼の一歩手前にある、もっと実用的な何かだった。
住宅街の終わりで、道が開けた。
北へ向かう幹線道路。
その手前で、俺たちは足を止めた。
車列があった。
数十台、いや、見える範囲だけでも百台近い。乗用車、軽トラック、バス、救急車、配送車。すべてが北へ向かう途中で止まっている。車間は詰まり、何台かは横転し、フロントガラスにひびが入っていた。
避難の痕跡。
失敗した避難の痕跡。
風が吹いた。
血と排泄物と腐敗の臭いが、朝の空気に混じって流れてきた。
七瀬さんが口元を押さえる。
俺は車列を見た。
動く影がある。
一つではない。
車内に閉じ込められた感染者。道路脇を彷徨う感染者。もしかすると、まだ生きている人間もいる。
トリアージ。
その言葉が、胸の奥で黒いタグのように揺れた。
「迂回しますか」
七瀬さんが聞いた。
「迂回路は住宅地を大きく戻る。時間がかかる。物資もない」
「じゃあ、通る?」
「通れる場所を探す」
「助けを呼ぶ人がいたら」
彼女はそこで言葉を止めた。
夜明けの往診は、もう次の問いを連れてきていた。
俺は答えた。
「診る」
「全員?」
「全員は無理だ」
七瀬さんは俺を見た。
俺は車列から目を離さなかった。
「だから、診る」
風がまた吹いた。
遠くで、車のボンネットを叩く音がした。
コン、コン、コン。
規則的で、弱い。
感染者の音ではない。
まだ生きている誰かの音だ。
俺は白衣の袖をまくった。手の甲の傷は、もう赤い線だけになっていた。
七瀬さんがそれを見る。
何か言いかけて、飲み込む。
俺も何も言わなかった。
死者の往診は、まだ終わらない。
北へ続く車列の中で、次の患者が俺たちを待っていた。




