第3章 深夜のコンビニ
1. 灯りのない売り場
コンビニの中は、かつて日常だったものの残骸で満ちていた。
レジ前の床には、割れた栄養ドリンクの瓶が散らばっている。雑誌棚は倒れ、弁当の棚からは腐敗臭が漂っていた。冷蔵ケースは沈黙し、ガラスの内側に白い曇りを残している。揚げ物用の什器には、黒く縮んだ何かが貼りついていた。
普通の夜なら、ここには明るすぎる蛍光灯と、意味のない店内放送があったはずだ。
いまは暗闇と、腐った油の臭いだけがある。
俺は割れた自動ドアの内側で足を止めた。
感染者は一体。
レジ奥の通路にいる。コンビニ店員の制服を着ていた。名札は血で読めない。頭部は右へ傾き、顎が半開きになっている。こちらを見てはいない。いや、見えていない。音を待っている。
俺は呼吸していない。
だから、息を殺す必要がない。
それがひどく便利で、ひどく不愉快だった。
床を見る。
血痕。古い。黒い。感染者が引きずった跡と、人間が歩いた跡が混じっている。バックヤードへ向かう通路だけ、ガラス片と商品が端に寄せられていた。意図的だ。通るために、誰かが片づけた。
その誰かはまだいる。
俺はペンライトを点けた。
細い光が、通路の奥を切った。床に、水の空きボトルが転がっている。ラベルが剥がれかけている。近くに、包帯の包装紙。さらに奥に、学生鞄のストラップらしきものが一瞬だけ見えた。
生存者。
腹の奥で、冷たい鼓動が鳴った。
俺は左手首の包帯を握った。強く。骨が軋むほど。
これは救助対象だ。
食料ではない。
救助対象だ。
何度も言葉にしなければ、身体が別の結論を出しそうだった。
レジ奥の感染者が首を動かした。
俺の靴底が、菓子袋を踏んだ音に反応したのだ。感染者は顔をこちらへ向け、喉の奥で湿った音を鳴らした。
バックヤードのほうで、息を呑む気配がした。
小さい。
子どもか、女性か。少なくとも成人男性ではない。
俺は感染者から視線を外さず、声を低くした。
「そこにいる人。聞こえるか」
返事はない。
当然だ。暗いコンビニに、血まみれの白衣を着た男が入ってきて、低い声で話しかけている。俺なら通報する。通報先が生きていればの話だが。
「俺は九条蓮。医者だ」
バックヤードの奥で、何かがわずかに動いた。
感染者も動いた。
優先順位を決める。
一、感染者を刺激しすぎない。
二、生存者に敵意がないことを示す。
三、俺自身の空腹感を制御する。
どれも簡単ではない。
医療現場では、簡単なことから先にやる。
俺は白衣の胸ポケットから医師免許証を出し、ペンライトの光で照らした。
「見えるか。医師免許証だ。近づかない。扉も開けない。まず声だけでいい」
数秒の沈黙。
その後、扉の向こうから、細い声が返ってきた。
「……嘘」
少女の声だった。
「医者なら、なんで」
そこで止まる。
続きは分かる。
なんで血まみれなのか。
なんでこんな夜に一人で動いているのか。
なんで生きている人間の音がしないのか。
「説明はできる」
俺は言った。
「信じられる説明かは、分からない」
2. バックヤードの少女
バックヤードの扉は、内側から棚と台車で塞がれていた。
いい判断だ。扉そのものは薄いが、重さをかければ時間を稼げる。感染者は取っ手を回す知能をほとんど持たない。押す、叩く、噛む。それだけだ。
だが、人間相手には別だ。
俺なら開けられる。
そう思った瞬間、自分が相手にとってどれほど危険かを理解した。
「開けなくていい」
俺は扉から三歩下がった。
「名前だけ教えてくれ」
「……言ったら、どうするの」
「呼びやすくなる」
「それだけ?」
「それだけだ」
沈黙。
扉の向こうで、少女は考えていた。恐怖で固まっているだけではない。質問を選び、相手の返答を測っている。声は震えているが、頭は動いている。
「ななせ」
やがて、彼女は言った。
「七瀬、結衣」
「分かった。七瀬さん。怪我は」
「ない……です」
嘘だ。
声の張りが弱い。口腔内乾燥、脱水気味。呼吸は浅い。長く隠れている。精神的にも限界に近い。
「水は」
「あります」
これも嘘に近い。
「食べ物は」
「……あります」
沈黙の長さが答えだった。
俺は通路に置かれた空のペットボトルを見た。携帯食の包装紙もある。床には中学校指定らしい学生鞄のストラップが覗いていた。残りは少ないだろう。
「いつからここに」
「分かんない」
「日付で言うなら、今日は四月二十二日だ」
扉の向こうで、息が止まった。
「そんなに……」
「少なくとも、俺の端末ではそうなっている」
「……外は」
その二文字の中に、彼女が見たくないものが全部入っていた。
「悪い」
俺は正直に答えた。
「でも、ここに残るよりは動いたほうがいい」
「誰と?」
「俺と」
「……無理」
当然だ。
俺は頷いた。
「無理だと思う。その判断は正しい」
「じゃあ、帰って」
「それはできない」
「なんで……」
「店内に感染者がいる」
レジ奥の感染者が、また喉を鳴らした。俺の声に反応している。じわじわ近づいている。
扉の向こうで、七瀬さんの声が小さくなった。
「……知ってる」
「一体か」
「二体いた。ひとりは、昨日から動かなくなった」
「脳幹は」
「のう、かん?」
「いや、いい」
専門用語を投げて安心するのは、医者の悪癖だ。声の幼さと、通路に見えた学生鞄からして、相手は中学生くらいだ。恐怖の中にいる。
「残り一体は俺が処理する。音がするかもしれないが、扉は開けるな」
「処理って……」
「止める」
「殺すってこと?」
俺は一瞬、答えに詰まった。
感染者は死者か。
なら、殺すとは何か。俺自身は、どちら側か。
「動けなくする」
逃げた答えだ。
七瀬さんは、逃げたことに気づいただろう。
でも追及しなかった。
その代わり、彼女は小さく言った。
「……来る」
「何が」
「そいつ。今、来る!」
俺は振り返った。
感染者が、通路の角を曲がっていた。
音はほとんどなかった。
七瀬さんには見えていないはずだ。
なのに、当てた。
3. 棚の向こうの食欲
感染者は元店員だった。
年齢は二十代前半。右頬が大きく裂け、制服の襟元に黒い血が固まっている。歩行は不安定だが、獲物を見つけた瞬間だけ動きが鋭くなる。
俺を獲物と認識しているのかは微妙だった。
奴は一度、俺の前で止まった。
顔を近づけ、臭いを嗅ぐように鼻を動かす。体温が低い。心拍がない。呼吸もない。生きている人間としての情報が欠けている。
だが、俺の中にはウイルスがいる。
同類と誤認しているのか。
あるいは、同類ではない何かとして警戒しているのか。
その迷いが、数秒の猶予を生んだ。
俺はメスを抜いた。
大きく振らない。派手に切らない。力任せに殴らない。相手は痛みを感じない。出血で止まらない。必要なのは一点。
延髄。
俺は左手で感染者の顎を押さえ、右手のメスを耳の後ろから差し込んだ。角度が浅い。骨に当たる。感染者の手が俺の肩を掴む。爪が皮膚を裂く。痛みは遠い。
修正。
さらに奥。
抵抗が消えた。
感染者の身体から力が抜け、俺に覆いかぶさるように倒れた。
血の臭いがした。
死んだ血。
それだけなら、空腹感は薄い。
だが、バックヤードの向こうに生きた血がある。
少女の心拍。呼吸。体温。恐怖で加速する代謝。
分かってしまう。
分かりたくないのに、身体が情報として拾ってしまう。
冷たい鼓動が、腹の奥で鳴った。
一拍。
二拍。
俺はメスを床に置いた。
刃物を持ったまま生存者に近づくな。
規則を追加する。
俺は感染者の死体を通路の端へ引きずり、棚に背を預けて座った。左手首の包帯を噛み、さらに締める。
「終わった」
扉の向こうへ言う。
返事はない。
「七瀬さん」
「……ほんとに?」
「本当だ。だが、すぐには出なくていい」
「なんで」
「俺が落ち着くまで」
言ってから、自分の言葉の危うさに気づいた。
扉の向こうが静かになる。
正しい反応だ。
「落ち着くって、何」
彼女の声が硬い。
俺は逃げなかった。
「俺は、普通の人間じゃない」
笑い声のような、息のような音が扉の向こうで漏れた。
「知ってる」
「知ってる?」
「足音が変だった。呼吸も、してない」
観察していたのか。
恐怖で固まっていたわけではない。彼女は扉の向こうで、俺を測っていた。
「それでも話したのか」
「話さなかったら、もっと怖かった」
いい判断だ。
俺は白衣の胸元を見た。血、汚れ、破れ。医師免許証だけが場違いに硬いカードとして残っている。
「水を渡す。扉の前に置く。俺は下がる」
「毒とか」
「この状況で毒を使うほど、俺は上品じゃない」
沈黙。
わずかに、笑った気配があった。
俺は店内を探し、レジ裏に隠されていた未開封の水を一本見つけた。誰かが取っておいたのだろう。たぶん、彼女だ。勝手に使う形になるが、本人へ返すなら問題はない。
扉の前に置く。
三歩下がる。
さらに二歩下がる。
扉の内側で、棚が少し動いた。
4. 心音のない医者
バックヤードの扉を細く開け、まず片目だけを出した。次に手。最後に身体。学生鞄を胸の前に抱え、制服の上に薄いパーカーを羽織っている。髪は乱れ、唇は乾き、目の下には濃い影があった。
七瀬結衣は、思っていたより小柄だった。
それでも、目は死んでいない。
俺を見て、感染者の死体を見て、床のメスを見て、もう一度俺を見る。
順番が正確だ。
危険度を測っている。
「水」
俺は顎で示した。
「少しずつ飲め。一気に飲むと吐く」
「……命令?」
「指示」
「同じじゃん」
「医療現場では違う」
彼女は水を拾い、キャップを開けた。手が震えている。俺は近づかなかった。近づけば、たぶん彼女は水を落とす。
七瀬さんは一口だけ飲んだ。
喉が動く。
その動きに、俺の腹の奥が反応した。
俺は視線を外した。
「怪我を見せてくれ。近づかない。自分で袖をまくれるか」
「医者っぽいこと言えば、信用すると思ってる?」
「思っていない」
「じゃあなんで」
「医者だからだ」
七瀬さんは眉を寄せた。
俺は自分でも、かなり面倒な答えをしたと思った。
彼女はしばらく迷ってから、左腕の袖をまくった。擦過傷がいくつか。化膿はしていない。深い咬創なし。首、手首、足首に目立つ出血はない。
「大きな傷はなさそうだ」
「見ただけで分かるの?」
「ある程度は」
「触らないの?」
「触っていいのか」
「……やだ」
「なら触らない」
彼女は少しだけ黙った。
そして、俺の手を見た。
「その手……」
血で汚れている。
冷えている。
指先が、普通の人間の色をしていない。
「手袋、ないの?」
「ある」
「して」
「分かった」
俺は白衣のポケットからニトリル手袋を出し、装着した。彼女のためというより、彼女に選択権があることを示すためだ。
七瀬さんはまだ俺を見ていた。
「ほんとに、息してない……?」
「していない」
「心臓は?」
「……動いていない」
「死んでるの?」
「医学的には……」
「医学的じゃなかったら?」
俺は少し考えた。
「かなり困っている」
七瀬さんは、水のボトルを握ったまま固まった。
笑うか、泣くか、逃げるか。どれを選ぶか分からない顔だった。
結局、彼女は怒った。
「ふざけないで!」
「すまない」
「怖いんだけど……」
「当然だ」
「当然って言わないで」
「すまない」
謝罪は便利だが、万能ではない。彼女の恐怖は消えない。俺の状態も変わらない。
だから、事実を並べる。
「俺は感染した。死んだ。だが、自我が残っている。人を襲わないための規則も作った」
「規則?」
「人を襲わない。助けられる者を見捨てない。判断不能になったら自分を拘束する」
「それ、自分で決めただけでしょ」
「そうだ」
「破ったら?」
「……君が逃げる」
「逃げられなかったら?」
俺は床のメスを見た。
七瀬さんも見た。
「……俺を止める方法を教える」
彼女の顔から血の気が引いた。
言いすぎたかもしれない。
だが、嘘よりましだ。
「……脳幹だ」
俺は言った。
「延髄を破壊すれば、感染者は止まる。おそらく俺も」
「そんなの……」
「今すぐ覚えなくていい。ただ、俺が君を襲いそうになったら、逃げろ。逃げられないなら、首の後ろを狙え」
七瀬さんは震えていた。
それでも、目を逸らさなかった。
「医者って、変」
「よく言われる」
「ゾンビの医者は、もっと変」
「それは初めて言われた」
彼女は水をもう一口飲んだ。
少しだけ、呼吸が落ち着いた。
5. 避難所への地図
コンビニの事務所スペースには、小さな丸椅子が二つあった。
俺は入口側に座り、七瀬さんはバックヤードの奥に座った。距離は三メートル。間に段ボール箱と倒れた台車。彼女が逃げようと思えば、搬入口へ抜けられる配置だ。
俺がそう座ったことに、彼女は気づいた。
「逃げ道、空けてるの」
「閉じる理由がない」
「変なの」
「二回目だ」
「何が?」
「変と言われた」
七瀬さんは少しだけ口元を動かした。
笑いにはならなかったが、恐怖だけでもなかった。
彼女の持ち物は少なかった。学生鞄。充電の切れかけたスマートフォン。家族写真。空の水ボトル。携帯食の包み紙が二つ。ホイッスル。小さな絆創膏の箱。
「家族は……」
聞くべきか迷った。
だが、同行するなら必要な情報だ。
七瀬さんは写真を鞄に押し込んだ。
「お父さんは、もういない」
そこで止まった。
「私が生まれてすぐに……」
俺は黙って頷いた。
「お母さんと逃げてた」
「あと、犬がいたの」
「犬」
「コタロー。柴犬。途中ではぐれた。お母さんが戻ろうとして、その時、人がいっぱい来て」
七瀬さんは写真を押さえる指に力を入れた。
「お母さんが、避難所へ逃げてって。私だけ」
言葉は続かなかった。
俺は頷いた。
「無理に話さなくていい」
「聞いたくせに」
「必要なところだけでいい」
「……北の運動公園」
彼女はそう言った。
「そこに避難所があるって、警察の人が言ってた。セクターAって呼んでた」
セクターA。
北部総合運動公園。
雫のメッセージにあった北の避難所と一致する。
「警察官は」
「途中まで一緒だった。でも、橋のところで人がいっぱい来て。変な人たちも来て。叫んで、みんな逃げて……」
「それでここへ」
「うん……」
七瀬さんは膝を抱えた。
「最初は、すぐ誰か来ると思ってた。警察とか、自衛隊とか。テレビで、ちゃんと避難してくださいって言ってたし」
テレビ。
もう遠い言葉だ。
「でも、誰も来なかった」
「よく生きていた」
「褒めてる?」
「事実を言っている」
「それ、褒めるより恥ずかしい」
彼女は視線を落とした。
その瞬間、急に顔を上げた。
「……来る」
俺は動きを止めた。
「何が」
「外。たぶん、二つ。いや、もっと」
俺にはまだ聞こえない。
だが数秒後、駐車場のほうで何かが車にぶつかる音がした。次いで、爪がガラスを擦る音。感染者だ。
もう一つ、別の音が重なった。
冷蔵ケースの奥で、何かが腐敗ガスに押されて破裂した。甘く酸っぱい臭気が店内に広がる。血と腐敗臭と音。感染者を呼ぶ条件が、狭い箱の中で揃っていく。
ここは避難場所ではない。
餌場になる。
七瀬さんの顔は青い。
能力だとは思っていないだろう。本人にも、ただ怖い予感が当たっただけに見えているはずだ。
だが、二度目だ。
記憶する。
七瀬結衣。感染者接近を視認前に察知。
俺は立ち上がった。
「移動する」
「今?」
「今だ。集まり始めたら出られなくなる」
「でも、外」
「中に残れば、もっと悪い。食料は切れかけている。水も少ない。臭いと音で感染者が寄る。扉を塞いでも、朝まで持つ保証はない」
七瀬さんは鞄を抱えた。
「一緒に行ったら、助かるの?」
俺は答えに詰まった。
助かる保証はない。
俺といること自体が危険だ。
それでも、ここに残るよりは可能性がある。
「助かる確率は上がる」
「医者っぽい言い方」
「嘘をつくよりいい」
「うん」
彼女は小さく頷いた。
「じゃあ、行く」
全面的な信頼ではない。
妥協だ。
選択だ。
それで十分だった。
6. 夜明けの同行者
搬入口のシャッターは半分だけ開いた。
残りは歪んでいる。俺一人なら無理にこじ開けられるかもしれないが、音が出る。音は感染者を呼ぶ。七瀬さんの体力を考えると、争うより隙間を通るほうがいい。
「先に出る」
俺は言った。
「外を確認する。俺が合図するまで出ない」
「置いていかない?」
その質問は、思ったより深く刺さった。
「置いていかない」
「約束?」
「……約束だ」
言ってから、舞の声が脳裏をかすめた。
誰かを、助けて。
約束が増えていく。
死者には重すぎるほどに。
俺はシャッターの隙間から外へ出た。駐車場には感染者が三体。道路側に二体。まだこちらへ集中していない。夜明け前の空は灰色で、街は冷えている。
俺は戻り、七瀬さんへ手で合図した。
彼女は這うように隙間を抜けた。鞄が引っかかり、息を詰める。俺は手を伸ばしかけ、止めた。触れれば怖がらせる。彼女は自分で鞄を外し、外へ出た。
いい。
助けることと、奪うことは違う。
歩き出す前に、七瀬さんが俺を見た。
「どれくらい離れて歩けばいい」
「君が安心できる距離で」
「それ、難しい」
「俺から三歩後ろ。危ないときは、俺が前に出る」
「うん」
彼女は三歩後ろについた。
近すぎない。
遠すぎない。
信頼と恐怖の、ちょうど中間の距離だった。
俺たちはコンビニの裏手から、北へ向かう細い道に入った。道路の先には放置車両。さらに遠くに、黒い高層ビル群。空は少しずつ明るくなっている。
七瀬さんが小さく言った。
「九条先生」
先生。
その呼び方に、俺の足が一瞬だけ止まりそうになった。
「何だ」
「ほんとに、私を食べない?」
率直な質問だ。
残酷で、正しい。
俺は振り返らなかった。振り返ると、顔に何かが出そうだった。
「食べない」
「お腹空いたら」
「縛る」
「誰が」
「俺が」
「無理だったら」
俺は白衣のポケットに入れたメスの位置を確認した。
「そのときは……君が逃げる」
「またそれ」
「重要なことは繰り返す」
七瀬さんは黙った。
数歩あと、彼女が言った。
「じゃあ、逃げる練習もしとく」
俺は少しだけ笑った。
「いい判断だ」
「褒めてる?」
「事実を言っている」
「それ、さっき聞いた」
会話。
それはひどく小さくて、ひどく不格好だった。
だが、都市が死んでから初めて聞いた、生きている人間との会話だった。
腹の奥で冷たい鼓動が鳴る。
今度は、それを完全には嫌悪しなかった。
それは危険の警告であり、俺がまだ自分を監視できている証拠でもある。
北へ。
雫のメッセージが示した避難所へ。
セクターAという名前の、まだ見ぬ聖域へ。
俺は歩いた。
三歩後ろに、少女の足音がついてくる。
夜明けのS市で、死者の往診は二人になった。




