第2章 冷たい往診
1. 死者のバイタル
最初に確認したのは、呼吸だった。
胸郭は動かない。鼻先に手をかざしても、気流はない。口腔内に血液の残留はあるが、咳嗽反射は起きない。
次に脈を診た。
頸動脈、なし。橈骨動脈、なし。大腿動脈、なし。聴診器はなかったが、胸壁に掌を当てても心尖拍動は触れない。心肺停止。医学的には、俺はそこに分類される。
だが、思考はある。
思考があるという事実だけが、すべての診断名を拒絶していた。
俺は廊下の壁にもたれ、床に散らばったガラス片を拾った。割れた薬品棚の扉だろう。薄い破片に自分の顔が映った。
血に汚れた白衣。白くなった唇。焦点の合っている瞳。
死体にしては、目がうるさすぎる。
「所見」
声に出すと、喉が擦れた。
「自発呼吸なし。心拍なし。意識清明。発語可能。体温低下。疼痛反応、鈍麻」
俺は首筋に指を滑らせた。
噛まれたはずの傷は閉じていた。皮膚の表面に赤黒い線が残っているだけだ。肩口も同じ。筋肉ごと持っていかれた感覚があるのに、可動域に問題はない。
解剖学的に正しい再建。
そう表現するしかなかった。
再生、という雑な言葉では足りない。裂けた組織がただ埋まったのではない。筋線維の走行、血管の位置、神経の通り道。人体が本来そこにあるべき構造へ戻っている。
誰が戻している?
俺か。
ウイルスか。
それとも、俺とウイルスのどちらでもないものか。
考えた瞬間、手の中のナースウォッチが冷たく鳴った気がした。
舞。
俺は手術室三番へ戻った。
ドアを開けるまでに、何度も指が止まった。中にいるのは遺体だ。俺がそうした。脳幹を破壊した。蘇生はしない。感染者にもならない。医学的には、目的を達成している。
医学的には。
手術台の上で、舞は静かだった。
眠っているようだ、とは思わなかった。そんな都合のいい表現は、医者には許されない。死者は眠らない。眠りは戻るための状態で、死は戻らないための状態だ。
俺は彼女の手首に結んだ黒タグを見た。
不処置群。救命不能。処置対象外。
その言葉が、俺の喉の奥で乾いた音を立てた。
「舞」
返事はない。
「俺は、死んだらしい」
返事はない。
「なのに、まだ喋っている」
返事はない。
俺は彼女の髪を整え、血で固まった頬を湿らせたガーゼで拭いた。感染対策としては最悪だ。個人防護具も足りない。だが今さら感染も何もない。俺はすでに、感染の向こう側にいる。
手術室の時計は止まっていた。
舞のナースウォッチも止まっていた。
時間まで死んだのかと思った。
そんな馬鹿な感傷が浮かんだことに、自分で少し驚いた。まだ感傷は残っている。なら、まだ完全な感染者ではない。
俺は器械台の上にあった手術記録用紙を一枚取り、ボールペンを探した。ペン先は血で滑ったが、書けた。
症例名。
九条蓮。
年齢。
二十八歳。
状態。
死亡後再起動。
分類。
未定。
俺はしばらく考えてから、欄外に書き足した。
カテゴリー・ゼロ。
死者。
2. 一週間のカルテ
四月十五日、Day 8。
首都圏で食人事案が同時多発した夜をDay 0とするなら、八日目。聖明中央医療センターが終わった翌日。俺が死者として目を開けてから、最初の朝だった。
病院は大きな棺だった。
夜明けを過ぎても、救急車のサイレンは戻らなかった。院内放送もない。電子カルテの端末は大半が落ち、非常電源に繋がった一部のモニターだけが、誰も見ていない波形を表示し続けていた。
俺はまず、生き残りを探した。
ER、処置室、廊下、スタッフステーション、薬剤部の入口。呼びかける。反応なし。時折、床に倒れた感染者がこちらへ顔を向けた。音に反応する。視覚は鈍い。体温への反応は、俺に対しては弱い。
俺の体温が低いからだ。
これは利点であり、欠陥でもある。
利点。感染者に見つかりにくい。
欠陥。俺が人間から離れた証拠である。
残存感染者は、脳幹を破壊すれば止まった。首を切るだけでは駄目だ。頸動脈を裂いても、心臓を潰しても、数十秒から数分は動く。延髄を含む中枢を断つ。医師としての知識が、もっとも効率よく人型のものを停止させる方法に変わっていた。
気分は最悪だった。
手順は正確だった。
Day 9。
体温を測った。
水銀体温計は割れていたので、非接触型の予備を使った。額で二十八・九度。頸部で三十・一度。機器のエラーを疑い、三回測ったが大きくは変わらない。
低体温というより、死体温だ。
ただし、傷を作ると変化する。
左前腕に浅い切創を入れた。血は出た。粘度が高い。色は暗い。痛みは遠い。切創は十三秒で閉鎖した。その間、創部周辺だけが熱を持った。再生時に局所的な発熱が起きている。
エネルギー源は不明。
食事を摂っていない。水も飲んでいない。尿意も便意もない。呼吸もしていない。通常の代謝ではない。
なら、何を燃やしている?
答えは、考えたくなかった。
Day 10。
最初の空腹感が来た。
胃ではない。
喉でもない。
内臓のさらに奥、あるはずのない場所で、冷たい心臓が一拍だけ鳴ったような感覚だった。
それは空腹に似ていた。だが、俺が知っている空腹はもっと人間的だ。血糖値が下がり、胃が収縮し、食物を要求する。これは違う。食物ではない。熱だ。血だ。生きている組織が持つ、湿った電気のようなものを求めている。
俺は薬剤部の床に座り込んだ。
近くに、停止させた感染者の遺骸があった。元は患者だろう。胸に入院用のリストバンドが残っている。名前は読めなかった。
そいつの血を見たとき、空腹感はほとんど反応しなかった。
死んだ血では駄目なのだ。
生きているもの。
その推測が成立した瞬間、俺は自分の手を縛った。包帯で両手首を巻き、薬剤棚の支柱に結びつけた。意味は薄い。俺の再生力なら、いざとなれば千切れるかもしれない。それでも、手順が必要だった。
人を襲わない。
襲いそうになったら、まず自分を拘束する。
それでも駄目なら、脳幹を破壊する方法を探す。
医者が患者に出す指示としては最低だ。
だが、俺は俺の最初の患者だった。
Day 11。
舞を安置した。
遺体安置室にはもう空きがなかった。電源も不安定で、冷却機能は死にかけていた。俺は手術室三番を清掃し、彼女を白いシーツで包んだ。黒タグは外さなかった。
外せなかった。
ナースウォッチは俺が持つ。ペアリングは彼女の指に残す。俺の指輪は血と一緒に固まり、外れなくなっていた。ちょうどいい。死者にも契約は残る。
俺は彼女の前で、観察記録を読み上げた。
心肺停止。自我維持。超速自己再生。低体温。生体成分への飢餓反応。
聞かせる意味はない。意味がない行為を、人は儀式と呼ぶ。読み上げ終えても、舞は何も言わなかった。
当然だ。
当然なのに、俺は数秒だけ返事を待っていた。笑ってくれ、とまでは思わない。ただ、いつもの調子で「記録、長い」と呆れてほしかった。そうすれば、この紙に並んだ異常値のどれか一つくらいは、冗談として処理できたかもしれない。
返事はない。
俺は記録用紙を折り、白衣の内ポケットに入れた。症例としての俺と、遺族としての俺を、同じポケットにしまった。
Day 12。
病院の地図を確認した。
聖明中央医療センターは、表向きには都市型の大規模総合病院だ。救命救急、感染症科、外科、集中治療、検査部、薬剤部。どこにでもある巨大病院の、少し金のかかった版。
だが、地図には空白があった。
地下三階以降。
職員用端末では「高度精密機器倉庫」「予備廃棄物処理場」と表示される。だが動線が合わない。エレベーターが一本、地図上では存在しない階へ伸びている。非常階段の下に、空調系統だけ独立した区画がある。
俺は記録した。
病院は、患者を隠していたのではない。
何かを飼っていた可能性がある。
Day 13。
冷気を見つけた。
3. 地下からの冷気
非常階段は地下二階で一度途切れる。
正確には、途切れているように見える。通常の職員ならそこで引き返す。扉には「関係者以外立入禁止」とあり、その先は廃棄物処理区画へ続く表示になっていた。
だが、床の埃が不自然だった。
人の出入りは少ない。少ないが、ゼロではない。幅の狭いキャスター跡がある。医療廃棄物の搬送台車にしては規則的すぎる。
俺は扉を開けた。
奥に、もう一枚の扉があった。
こちらは病院の設備ではない。
厚い金属扉。生体認証パネル。非常電源の小さなランプが、暗闇の中で緑に点滅している。壁面には警告表示。英語と日本語。感染性物質。陰圧管理区域。無許可進入禁止。
その隙間から、冷たい空気が漏れていた。
病院全体が死んでいるのに、ここだけが生きている。
俺はパネルに触れた。反応なし。指紋か静脈か虹彩か、いずれにせよ俺に権限はない。強引に破る手段もない。仮に開いたとして、中に何があるか分からない。
分からないものを開けるな。
佐藤先生ならそう言うだろう。
いや、あの人なら先に言う。
開けるなら、閉じ方を決めてからにしろ。
俺は笑った。
内なる声まで冷たい。
扉の前にしゃがみ、携帯端末で写真を撮った。圏外。クラウド同期不能。だが端末内には残る。バッテリーは四十七パーセント。充電の手段は限られている。
警告表示の一部に、黒いテープで隠された識別名があった。
LZ-04。
読めたのは、それだけだ。意味は分からない。だが、通常の病院設備に貼られる管理番号ではない。
この病院は、最初から死者のための場所だったのかもしれない。
その推測は、喉の奥に金属の味を残した。
俺は扉に背を向けた。
いま開けるべき場所ではない。いま診るべき患者ではない。俺が診なければならないのは、この病院の外に広がっているはずの都市だ。
舞の言葉がある。
誰かを、助けて。
地下の冷気は、その言葉を凍らせるように俺の背中を撫でた。
4. 退院不能の街
Day 14、二十三時五十八分。
俺は聖明中央医療センターを出た。
持ち出したものは少ない。メス、止血鉗子、縫合セット、包帯、消毒薬、小型の注射器、ペンライト、予備電池、携帯端末。薬剤は抗菌薬を少量、鎮痛薬を少量。自分に効くかは分からない。だが、俺以外には効く。
白衣は捨てなかった。
血で汚れ、裂け、ところどころ焦げている。それでも白衣だ。人間が俺を見たとき、最初に見る記号になる。感染者か、医者か。判断に一秒でも迷わせられるなら、それだけで価値がある。
正面玄関の自動ドアは砕けたままだった。
外の空気は、病院より静かだった。
そして、ひどく広かった。
S市の夜は、停電で沈んでいた。高層ビル群は黒い壁になり、窓明かりはほとんどない。遠くで火災の赤だけが揺れている。道路には車が詰まっていた。バス、タクシー、配送トラック、乗用車。どれも途中で放棄され、ドアが開いたままになっている。
信号は消えていた。
コンビニの看板も、ドラッグストアの照明も、駅前の巨大モニターも死んでいる。
都市とは、電気で動く生き物だったのだと初めて分かった。
その生き物は、もう呼吸していない。
俺は道路へ降りた。
数十メートル先で、感染者が三体、車の間を歩いていた。こちらには気づかない。足音はある。だが体温が低いせいか、反応が鈍い。
試しに、金属片を投げた。
ガードレールに当たり、乾いた音が夜へ跳ねた。
三体が同時に顔を向けた。
音への反応は明確。視覚追跡は鈍い。体温の低い俺への関心は低い。
記録。
そう思った瞬間、少しだけ安心した。
観察している間は、俺は医者でいられる。
その安心が、ひどく危険なものだという自覚もあった。
俺は放置車両の間を歩いた。車内には荷物が残っている。チャイルドシート。買い物袋。開いたままのスマートフォン。助手席に落ちたマスク。現実の名残が、どれも持ち主を失っていた。
コンビニやスーパーは、ほとんど荒らされていた。ガラスは割れ、棚は倒れ、レジは開けられている。食料はない。水もない。アルコールと煙草だけが妙に残っていた。
Day 10までに略奪は終わった。
俺の推測は、街の噂話ではなく、死体検案に近かった。
死亡推定時刻。
都市機能、四月十日前後。
死因、多臓器不全。電力、物流、医療、治安、通信。
俺は笑いそうになった。
都市に死亡診断書を書く医者がいるなら、そいつはきっと俺だ。
そのとき、腹の奥で冷たい鼓動が鳴った。
一拍。
強い。
近くに生者がいるのかと思った。
俺は立ち止まり、周囲を見た。音はない。体温の気配も分からない。ただ、車の下に犬の死骸があった。まだ新しい。血が乾ききっていない。
空腹感が、そこには反応しなかった。
違う。
求めているのは、死肉ではない。
俺は吐き気の代わりに、喉の奥が凍るのを感じた。
5. 誰かを助けるために
携帯端末の画面は、ひび割れていた。
それでも、保存済みのメッセージは開けた。
雫。
九条雫。十九歳。医大生。俺の妹。
最後の受信はDay 6の夜、つまり四月十三日。病院が完全に崩壊する前日だ。
『兄さん、大学の研究棟に変な人たちが来てる』
『先生たち、地下のデータを消せって言われてる』
『これ、コロナじゃないかもしれない』
『もし連絡つかなかったら、北の避難所に行く』
最後に、短い音声ファイルが残っていた。
何度も再生した。
雑音。遠くの警報。雫の息。背後で誰かが叫んでいる。言葉はほとんど潰れているが、一つだけ聞き取れる。
助けて。
舞と同じ言葉だった。
同じ言葉なのに、意味は違う。舞の「助けて」は、彼女を彼女のまま終わらせる願いだった。雫の「助けて」は、生きているかもしれない場所から伸びてくる細い糸だ。
どちらも俺を動かす。
どちらも俺を壊す。
俺は道路脇の案内板を見た。北部総合運動公園。広域避難センター予定地。距離は直線で五キロ程度。道路は車両で塞がっている。徒歩なら行ける。夜明け前なら感染者の視認も避けられる。
問題は、生存者だ。
俺は生存者を探す。
だが、生存者を見つけたとき、俺は何を感じる?
救助対象か。
食料か。
その問いは、胸ではなく腹の奥から上がってきた。冷たい鼓動が、返事を待っている。
俺は白衣のポケットから包帯を出し、自分の左手首に巻いた。きつく。皮膚が凹むほど。痛みは薄いが、圧迫は分かる。
「規則を定める」
誰もいない道路で、俺は声に出した。
「一つ。人を襲わない」
声は夜に吸われた。
「二つ。助けられる者を見捨てない」
遠くで感染者が車のボディに爪を立てる音がした。
「三つ。判断不能になった場合、自分を拘束する」
舞のナースウォッチを握る。
「四つ。それでも駄目なら、俺を止める方法を探す」
最後の規則だけは、誰かに託すしかない。
その誰かを、これから探しに行く。
矛盾している。
だが、医療とはだいたい矛盾の上に立っている。患者を傷つけて治す。毒を薬にする。死を数えながら生を拾う。
俺が死者なら、死者なりの医療を始めればいい。
それが往診なら、最悪の往診だ。
夜のS市を、俺は北へ向かった。
6. コンビニの物音
コンビニを見つけたのは、Day 15に日付が変わってしばらくしてからだった。
病院から数百メートル。幹線道路沿いの小さな店舗だ。看板は消え、ガラスの自動ドアは半分割れている。駐車場には軽自動車が一台、斜めに突っ込んだまま止まっていた。
普通なら、見過ごす。
棚は荒らされているだろう。水も食料もないだろう。感染者が潜んでいる可能性も高い。効率だけ考えれば、近づく理由は薄い。
だが、違和感があった。
入口付近のガラス片が、一部だけ片づけられている。
風で動いたのではない。足場を作るために、手で寄せた跡だ。床の埃に細い線がある。靴底。新しい。サイズは小さい。成人男性ではない。
俺はしゃがみ込んだ。
血痕は古い。だが、バックヤードへ向かう通路の端に、水滴の跡がある。ペットボトルからこぼれたものか。乾ききっていない。
生存者。
その言葉が脳に浮かんだ瞬間、腹の奥で冷たい鼓動が鳴った。
俺は歯を食いしばった。
食いしばる必要はない。顎の力は過剰だ。歯が割れても再生するのかもしれない。そんな無駄な観察が浮かぶ。
違う。
観察ではない。
制御だ。
俺は白衣の袖をめくり、包帯をもう一度きつく締めた。舞のナースウォッチを触る。冷たい金属。止まった針。
誰かを、助けて。
「分かってる」
俺は小さく答えた。
店内を覗く。
暗い。冷蔵棚は停止し、腐敗臭が漂っている。床には菓子袋、割れた瓶、血の跡。レジ奥に感染者の影が一つ見えた。動きは鈍い。こちらには気づいていない。
その奥。
バックヤードの扉の向こうで、何かが鳴った。
小さな音だった。
段ボールが擦れる音。あるいは、誰かが息を殺しきれず、喉を鳴らした音。
感染者の音ではない。生きている人間の、音だ。
俺はメスを抜かなかった。
代わりに、ペンライトを左手に持った。光はまだつく。強い光ではない。だが、暗闇の中でこちらの意図を示すには足りる。
医者であること。怪物ではないこと。
少なくとも、今はまだ。
俺は割れた自動ドアを越えた。店内の感染者が顔を上げる。バックヤードの向こうで、息が止まる気配がした。
俺は声を低くした。
「誰かいるな」
答えはない。
それでいい。
答えられるだけの人間がいる。
俺は一歩、暗いコンビニの奥へ進んだ。




