第1章 死せる名医
1. 崩壊の序曲
黒いタグを結ぶ指先は、思ったより震えなかった。
トリアージ・タグは、手のひらより少し細長い紙片だ。赤、黄、緑、黒。四つの色で、救命の優先順位を示す。赤は直ちに処置すれば救える可能性が高い。黄は待てる。緑は歩ける。黒は、死亡、あるいは今ある資源では救えない。
紙片の端には細い針金が通っている。手首や足首、服のボタン穴に結べるようになっている。災害現場では、医師の言葉よりその色が速い。誰を運び、誰に酸素を回し、誰から手を離すかを、色だけで伝える。
午前一時四十二分。聖明中央医療センター救命救急センターは、すでに病院というより、巨大な喉だった。吐き出される悲鳴、吸い込まれるストレッチャー、床を滑る血液、消毒薬と吐瀉物と焦げたプラスチックの臭い。ありとあらゆる音が重なって、ひとつの低い唸りになっている。
俺は倒れた男の頸動脈に二本の指を置いた。
脈なし。瞳孔散大。下顎は外れかけ、喉元には咬創。呼吸音はない。心肺蘇生に人員を割けば、隣の赤タグ二人が死ぬ。
「黒」
そう言って、俺は男の手首に黒い紙片を結んだ。針金をひねる感触が、やけにはっきり指に残った。
言葉は短い。短くなければならない。理由を述べれば、その時間だけ誰かが死ぬ。納得を待てば、その間に救える命が落ちる。災害医療とは、命に順位をつける技術ではない。限界を数字に変える作業だ。
だが、数字にした瞬間、人間は人間でなくなる。
「蓮、こっち、赤二つ!」
小林舞の声が飛んだ。
振り返ると、舞が搬入口側のベッドで少年の大腿を圧迫していた。小柄な体格に見合わない力で、白いナース服の袖口が肘まで赤く染まっている。後ろで括った黒髪が、汗で首筋に張り付いていた。少年は中学生くらいだ。呼吸は荒い。右大腿部の裂創から拍動性の出血。大腿動脈までいっている可能性が高い。
「圧迫継続。駆血帯を」
「もう巻いた。時間は一時三十九分」
「優秀」
「褒めるなら生かしてからにして」
こういうときの舞は、俺より速い。
俺は処置台の上から止血鉗子を取り、少年の傷口を確認した。血の量は派手だが、まだ間に合う。赤タグ。救える。俺はその事実だけを拾い上げ、他を捨てた。
「手術室は?」
「三番が空く。でも麻酔科が足りない」
「局麻で繋ぐ。佐藤先生に回す」
舞が一瞬だけ俺を見た。マスク越しでも分かる。笑ったのだ。
「ほんと、最低の状況だと頼りになるよね」
「最高の状況でも頼ってくれていい」
「じゃあ今度、休みの日に」
休みの日。
その言葉が、現実味のない贅沢品みたいに聞こえた。
俺たちは来月、入籍する予定だった。式は落ち着いてから。旅行はさらに落ち着いてから。落ち着く、という言葉がまだ未来に存在すると信じていたころの話だ。
いま、未来は救急外来の自動ドアの向こうで、呻きながら群れている。
「九条」
佐藤健介センター長の声がした。
四十五歳。救命救急センター長。俺の師であり、俺より冷たい判断をする男だ。白衣は血と汗で重くなっているのに、目だけが冴えていた。
「赤を三番へ。黄色は処置室B。緑は廊下にまとめろ。歩ける者には歩かせろ」
「黒は?」
「増やせ」
答えは刃物みたいだった。
「救えない者に手を使うな。救える者を殺すことになる」
俺は頷いた。
医者になる前なら、残酷だと思ったはずだ。医者になった直後なら、反発したかもしれない。だが今の俺には、それが正しいと分かる。正しさは、ときどき人間の形をしていない。
外で何かが破裂した。
自動ドアのガラスが震え、待合にいた軽症者たちが一斉に悲鳴を上げた。警備員が無線に怒鳴る。返答はない。次いで、ドアの向こうから人影がぶつかった。
一人ではない。
十人、二十人。もっと。
顔面を血で濡らした人間たちが、ガラスに額を打ちつけていた。中には患者衣の者もいる。片腕が妙な角度で垂れている者、腹部から腸を引きずっている者、首の半分が欠けている者。
それでも歩いていた。
歩いて、こちらを見ていた。
いや、見ているのではない。聞いている。嗅いでいる。生きているものの音と熱を探している。
佐藤先生が、低く言った。
「ゾーニング失敗だ」
その瞬間、自動ドアが内側へ砕けた。ガシャン、という破砕音が、喧騒を一瞬だけ塗り替えた。
2. 決壊
最初に喰われたのは、警備員だった。
彼は最後まで職務に忠実だった。警棒を抜き、患者たちを下がらせ、割れたドアの前に立った。だから最初に腕を掴まれた。だから最初に喉を裂かれた。
血が噴いた。
それを見た感染者たちの動きが変わった。鈍い足取りが、一斉に前へ傾く。音に集まるだけではない。血だ。血の臭いが、奴らの中の何かを起こした。
「全員、奥へ!」
俺は叫んだ。
叫びながら、少年のストレッチャーを蹴るように押した。舞が反対側につく。車輪が血で滑り、床の上に赤い弧を描く。
待合は破裂した。
軽症者が走る。足をもつれさせて転ぶ。転んだ者に別の者がつまずく。感染者はそこに覆いかぶさる。悲鳴が短く切れる。噛む音は、思っていたより湿っていた。
「九条、舞、隔離区画へ走れ!」
佐藤先生が処置室の入口で酸素ボンベを倒していた。彼の足元には、赤タグの患者が二人。意識はある。動けない。床には割れた消毒用アルコールのボトルが転がり、カーテンとガーゼが濡れている。
「先生も!」
「俺はここで止める」
佐藤先生は迷わなかった。
その迷わなさが、俺の足を止めそうにした。
「九条」
彼は俺を見た。
「死してなお医者であれ」
意味が分からなかった。
いや、分かりたくなかった。
佐藤先生は酸素ボンベのバルブを開けた。白いガスが床を這う。酸素そのものは燃えない。だが火を太らせる。アルコールを吸った布とガーゼがそこにある。感染者が彼へ向かう。先生はライターを取り出した。どうして救急センター長がライターを持っているのか。禁煙外来のポスターを貼らせたのは先生自身だったはずだ。
「行け」
舞が俺の腕を引いた。
俺は少年のストレッチャーを押し、廊下へ走った。背後で炎が生まれた。爆発というほど大きくはない。だが酸素に煽られた火は濡れたカーテンを一気に舐め、青白く膨らんで感染者の群れを押し返した。
佐藤先生の姿は見えなくなった。
廊下には非常灯だけが残っていた。赤い光が一定間隔で点滅し、壁に貼られた感染対策ポスターを不気味に浮かび上がらせる。手洗い、マスク、三密回避。数週間前まで世界の中心だった言葉が、いまは冗談みたいだった。
「舞、後ろ!」
振り向いた瞬間、影が横の処置室から飛び出した。
患者衣の女。片目が潰れている。下顎から泡と血を垂らしながら、舞に掴みかかった。
俺は処置台から掴んだままのメスを抜いた。
普段から白衣にメスを忍ばせているわけではない。そんな医者がいたら危険人物だ。だが今は、処置室から手術室へ患者を運ぶ途中で、器械台から使えそうなものを拾っていた。止血鉗子、ガーゼ、そして滅菌パックを破ったばかりのメス。
首では駄目だ。頸動脈を切っても止まらない。肺も心臓も意味が薄い。運動を止めるなら脳幹。延髄。
だが、舞の肩が先に噛まれた。
「っ、あ」
舞が息を詰めた。
俺は女の後頭部を掴み、壁に叩きつけた。ガンッ、と鈍い衝撃音が廊下に響く。そのまま頸椎の隙間へメスを突き込んだ。抵抗。骨。角度を修正。さらに奥。手応えが変わる。
女の身体から力が抜けた。
舞の肩から、血が流れていた。
赤い。鮮明な赤だ。噛創は深い。皮膚が裂け、筋層までいっている。俺の脳は勝手に評価を始める。洗浄。デブリードマン。抗菌薬。狂犬病ならワクチン。だがこれは違う。これは、すでにそういう医学の外側にある。
「蓮」
舞が笑おうとした。
できていなかった。
「大丈夫って、言って」
俺は言えなかった。
言えない医者は、最低だ。
3. 慈悲のメス
手術室三番は、まだ清潔区域の形を残していた。
俺は舞を手術台に座らせ、ドアを内側から塞いだ。少年は廊下の途中で別の看護師に引き継いだ。生きているかは分からない。分からないものを抱え込む余裕は、もうなかった。
舞の呼吸は速い。
体温は上がっている。額に触れると、熱が指先に刺さった。瞳孔はまだ正常。会話も成立している。だが咬創の周囲から、黒い静脈のようなものが広がっていた。皮下出血ではない。血管に沿って、何かが走っている。
「時間、測ってる?」
舞が言った。
「測ってる」
俺は時計を見た。受傷から七分。
「職業病」
「患者が優秀だからな」
「患者って言わないでよ」
舞はそう言って、少しだけ唇を尖らせた。
その仕草が、あまりにいつも通りだった。
俺は滅菌水で傷を洗った。意味がないと分かっていても、手が止まらなかった。医者は手順にすがる。手順があれば、まだ世界が壊れていないふりができる。
「蓮」
舞の声が変わった。
低く、湿っていた。
「私、どれくらい?」
「……分からない」
「嘘」
「分からない」
同じ言葉を繰り返した。二度目のほうが、明らかに嘘だった。
舞は俺の手首を掴んだ。力が強い。彼女の体格ではあり得ない握力だった。骨が軋む。
「私を、あれにしないで」
手術室の空調音が、やけに大きく聞こえた。
「舞」
「……お願い」
彼女の目から涙が落ちた。
「私が私のうちに、止めて」
俺は首を振った。
医者は患者を殺さない。
そんな言葉が浮かんだ。だが、すぐに砕けた。俺はさっき黒タグを結んだ。佐藤先生を置いてきた。救えない命を切り捨て、救える命を選んできた。ここでだけ綺麗な倫理を持ち出すのは、舞への侮辱だ。
彼女は患者ではない。
婚約者だ。
だからこそ、判断しなければならない。
「……脳幹を破壊する」
俺の声は、驚くほど平坦だった。
「苦痛は最小にする。正確にやる」
「うん」
「怖いか」
「……怖いよ」
舞は笑った。今度は少しだけ成功していた。
「でも、蓮がやってくれるなら、まだまし」
俺は器械台からメスを取った。いつも使っている道具だ。皮膚を開き、病変へ到達し、悪いものを取り除くための道具。人を生かすために磨かれた刃。
それを、人を人のまま終わらせるために使う。
舞の呼吸が乱れた。喉の奥で、獣のような音が混じる。黒い血管模様が首筋へ伸びている。時間がない。
「蓮」
「ここにいる」
「誰かを、助けて」
俺は答えられなかった。
答える代わりに、彼女の額に唇を当てた。熱い。生きている。まだ生きている。俺の脳がその事実を叫んでいる。
だが、俺の手は角度を探していた。
後頭下。頸椎。延髄。
舞が最後に言った。
「……愛してる」
俺はメスを入れた。
皮膚の抵抗。筋の抵抗。骨の硬さ。角度を変える。奥へ。さらに奥へ。
手応えが、消えた。
舞の身体から力が抜けた。
俺はしばらく、そのまま動けなかった。
手術室には、心電図の音がなかった。アラームもない。彼女の死を告げる機械は沈黙していた。だから俺が告げるしかない。
「死亡確認」
時刻を言おうとして、声が出なかった。
俺は黒いトリアージ・タグを取り出した。なぜ持っていたのか分からない。たぶん、廊下で拾ったのだろう。
舞の手首に結ぶ。
その瞬間、何かが俺の中で折れた。
4. 死と再生
手術室を出たとき、廊下は静かだった。
静かすぎた。
非常灯だけが赤く点滅している。遠くでスプリンクラーの水が落ちている。床には足跡がいくつも重なり、血の上をさらに血が塗りつぶしていた。
俺は舞のナースウォッチを握っていた。
持っていくべきではないと思った。遺体から物を取る行為は、医療者として正しくない。だが彼女はもう患者ではない。俺の婚約者で、俺が殺した人で、俺をまだ人間に繋ぎ止めている最後の証拠だった。
背後で音がした。
振り返るより早く、背中に重みが乗った。
肩口に歯が沈む。痛み。熱。次いで、喉元を掴まれた。俺は肘を後ろへ打ち込んだが、力が入らない。感染者は一体ではなかった。二体。三体。廊下の影から、音もなく寄ってきていた。
馬鹿だ。
俺は冷静にそう思った。
舞の死に集中しすぎた。周囲確認を怠った。救急医としては三流のミスだ。
床に倒される。
視界が赤くなる。頸部を噛まれた。総頸動脈か、内頸静脈か。どちらでもいい。出血量からして致命的だ。呼吸が浅くなる。手足が冷える。
感染者の顔が近い。
元は誰だったのだろう。患者か、家族か、職員か。分からない。分からないまま、そいつは俺の肉を噛みちぎった。
俺は天井を見た。
赤い非常灯が点滅している。
死ぬのか。
そう思った。
恐怖はなかった。たぶん、舞のところへ行けると思ったからだ。医者としては失格だが、人間としては自然な願望だ。
ただ、最後に佐藤先生の声がした。
死してなお医者であれ。
意味の分からない言葉だ。
俺は笑おうとした。
血が喉に詰まり、笑いにはならなかった。
意識が落ちた。
――――
次に目を開けたとき、世界は青かった。
午前何時かは分からない。非常灯はまだ点滅している。病院の電源は落ちかけているのか、天井の照明は死に、外から差し込む夜明け前の光だけが廊下を薄く染めていた。
俺は床に仰向けで倒れていた。
まず呼吸を確認した。
していない。
胸郭は動かない。息苦しさもない。頸動脈に指を当てる。脈なし。橈骨動脈もなし。心拍はない。
だが、思考はある。
俺は起き上がった。
首筋に触れる。傷は塞がっていた。皮膚の下で、何かが糸を編むように動いた感覚が残っている。肩口も同じだ。噛み裂かれたはずの筋肉が、解剖学的に正しい位置へ戻っている。
痛みは薄い。
体温は低い。
血は止まっている。
心臓は動いていない。
「……なるほど」
声が出た。
それが一番、気味が悪かった。
俺は立ち上がり、壁にもたれた。廊下の先には感染者の死体がいくつか転がっている。俺を喰った連中だろうか。どれも脳幹が壊れているようには見えない。なぜ倒れているのかは分からない。
ただ、俺は分かった。
俺は死んだ。
そして、戻ってきた。
人間としてではない。
医者としてでもない。
もっと悪い何かとして。
手の中には、舞のナースウォッチがあった。止まっている。針は、彼女を殺した時刻の少し後で止まっていた。
誰かを、助けて。
その声が、死んだはずの脳の奥で鳴った。
俺は笑った。
今度は、ちゃんと笑えた。
「分かった」
廊下の窓の向こうで、S市の夜明けが灰色に沈んでいた。サイレンはもう聞こえない。人の声もない。都市そのものが巨大な遺体になったみたいだった。
なら、診察しなければならない。
死体になった医者にできることが、まだ一つでも残っているなら。
俺は白衣の血を払った。
そして、誰もいない病院の奥へ歩き出した。




