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第16章 首輪の音

1. 燃える門の背後


セクターAの灯は、振り返らなくても分かった。


背中の皮膚が、熱を記憶している。


俺の身体は低体温のままだ。心拍もない。肺も、呼吸のためには動いていない。


それでも、火の近くにいた身体は火を覚える。焦げた樹脂、消毒液、濡れた毛布、焼けた木材、避難者の汗。混ざった臭いは、風が変わるたびに薄くなり、また戻ってきた。


道路脇には、逃げる途中で落とされた物が続いている。片方だけの靴。割れたスマートフォン。泥を吸ったタオル。黄判定のタグ。水の切れたペットボトル。子どものものらしい赤いリュック。


分類され、運ばれ、置き去りにされたもの。


人間も、物も、同じように散っていた。


「先生」


七瀬さんの声が、少し後ろからした。


歩幅が合っていない。


セクターAを出てから、俺は無意識に速く歩いていたらしい。四キロという距離は、生者には短くない。まして、血清処置後の十四歳に歩かせる距離ではない。


俺は足を止めた。


「休むか」

「大丈夫です」

「大丈夫かどうかを聞いていない。休むか、と聞いた」


七瀬さんは唇を結んだ。


顔色は白い。左前腕の包帯は、袖の下で少し膨らんで見える。創部からの出血は止まっているはずだ。発熱、悪寒、意識混濁、振戦しんせん。通常感染なら観察すべき兆候はいくつもある。


だが、七瀬さんは通常感染者ではない。


未感染者にも戻っていない。


その中間に名前をつけるには、俺はまだ情報を持っていなかった。


「二分」


俺は道路脇のガードレールを指した。


「座れ」

「二分だけですか」

「今は」

「先生の二分、短そうです」

「医療現場の二分は長い」

「じゃあ、長く休めますね」


そう言って、七瀬さんはガードレールに腰を下ろした。軽口の形をしているが、肩が落ちている。足首にも力がない。


俺は榊原から受け取った記録ケースを膝の上に置いた。


黒い樹脂製の小型ケース。


角に擦り傷がある。留め具の片側は歪んでいた。外周搬出路で回収班に追われながら渡された時、榊原の指は震えていた。震えていたのに、手放す瞬間だけは迷わなかった。


中身は答えではない。


紙片、端末コピー、印字の乱れたログ、数字、略号、音声マーカー、施設名。


UNIV-LAB-EAST。

LZ-04。

KUJO S.


それらは、雫の名前を示しているのかもしれない。


違う誰かを示しているだけかもしれない。


医療記録なら、俺は断定しない。


所見が足りない。検査が足りない。本人確認が足りない。音声の一致だけで、生死や所在を結論づける医者はいない。

だが、兄としてなら。


胸の奥で、止まったはずの何かが動きそうになる。


俺は白衣のポケット越しに、舞のナースウォッチへ触れた。


冷たい金属の縁が、布越しに指へ当たる。


時計は動かない。

音もしない。

それでも、一秒だけ、針が進んだような錯覚があった。


「それ」


七瀬さんが言った。


「また、見てます」

「記録か」

「時計です」


俺は手を離した。


「癖だ」

「小林…舞さんのですか」

「ああ」


七瀬さんはそれ以上聞かなかった。


風が吹く。


背後の煙が、道路の上を低く流れた。アスファルトのひびに沿って黒い筋が伸び、すぐに薄くなる。


セクターAはまだ燃えている。


笹川千尋は、あの中にいる。


榊原周も戻った。


真壁は外周で流れを押さえているはずだ。壬生は金属フェンスを動かし、黒田は負傷した腕をかばいながら怒鳴っているかもしれない。相馬春人は、まだ熱の中心にいるのか。相馬理恵は、生きているのか。


分からないことばかりだ。


それなのに、俺はここにいる。


「戻りたいですか?」


七瀬さんが聞いた。


前にも、似たことを聞かれた。


その時と同じ答えを、もう一度出すだけでいい。


今は戻らない。


だが、同じ言葉でも、歩くほど重くなる。


「……戻りたい」


俺は言った。


七瀬さんが顔を上げた。


「だが、戻らない」

「どうしてですか」

「戻れば、君を火の中へ連れていく。記録ケースを失う。大学東研究棟へ向かう線も切れる」

「私だけなら」

「それは理由にならない」


少し強く出た。


七瀬さんは黙った。


俺は声を落とす。


「君を守るためだけに大学へ行くわけじゃない。雫のためだけでもない。榊原が渡した記録が、本当に患者へ繋がっているなら、今行く意味がある」


「……患者」


七瀬さんが、小さく繰り返した。


「雫さんも、患者ですか?」

「分からない」

「妹さんなのに」

「妹でも、所見がなければ分からない」


言ってから、自分で冷たいと思った。


けれど、そう言わなければならなかった。雫が生きていると決めれば、俺は走る。死んでいると決めれば、足が止まる。


どちらも診断ではない。


願望だ。


「でも」


七瀬さんは膝の上で指を握った。


「行くんですよね?」

「行く」

「じゃあ、二分終わりです」


立とうとして、七瀬さんの膝が一度落ちた。


俺は反射的に腕を伸ばした。

触れる直前で止める。


血の匂い。


包帯の下の、まだ若い傷。

俺の腹の奥で、飢えが小さく鳴った。


七瀬さんは、その一瞬を見逃さなかった。


「先生」

「立つな」

「今、何か」

「立つな」


今度は命令になった。


七瀬さんはガードレールに座り直した。


俺は数歩離れた。距離を取る。手袋越しに自分の掌を握る。爪が皮膚を破り、すぐに塞がる感覚があった。


便利な身体だ。

便利すぎて、嫌になる。


「血の匂い……ですか?」


七瀬さんが言った。


「君が気にすることではない」

「気にします」

「患者は医者の空腹を気にしなくていい」

「じゃあ、私はまだ患者ですか」


その問いは、まっすぐだった。


逃げ道のない言葉だ。


セクターAの外周でなら、即答できた。


今もできる。


「経過観察中だ」

「患者ってことですね」

「そうだ」


七瀬さんは、少しだけ目を伏せた。


落胆ではない。

納得でもない。

ただ、何かを先送りにした顔だった。


「分かりました」

「不満か」

「不満です」

「正直だな」

「先生も正直だったので」


その返しに、少しだけ呼吸を忘れそうになった。


いや、もともとしていない。


俺は記録ケースを持ち上げた。


「三分休んだ」

「二分じゃなかったですか」

「医療現場の二分は長い」

「便利な答えですね」

「便利ではない」


七瀬さんは、今度はゆっくり立った。膝は落ちなかった。顔色は悪いままだが、目は前を向いている。


道路の先に、傾いた標識がある。


研究学園通り。


北東四キロ。


その文字の下で、信号機が死んでいた。赤でも青でもなく、ただ黒い。


俺たちは歩き出した。


背後の炎は、少しずつ小さくなる。


前方の大学は、まだ見えない。


見えるのは、廃車列と、ひび割れた道路と、住宅地へ下りる細い脇道だけだった。


その脇道の奥から、チリン、と小さな音がした。


金属が、軽く触れ合う音。


七瀬さんの足が止まった。


「今の」


俺は周囲を見る。


感染者の足音ではない。人間の靴音でもない。


もう一度、チリン、と鳴った。


七瀬さんの虹彩の縁に、淡い光が滲む。


「線が」


彼女は、煙の薄い道路脇を見た。


「一本、ぼやけてます」


2. 首輪の音


「線?」

「はい。でも、人のじゃないです」


七瀬さんは細い脇道を見たまま言った。


住宅地へ下りる道だ。両側のブロック塀はところどころ崩れ、路面には枯れ葉と灰が溜まっている。奥には低い屋根の家が並び、そのさらに先に小さな緑が見えた。


感染者の群れが潜むには、道が狭い。


逃げるには、もっと悪い。


「大学へ向かう道ではない」

「分かってます」

「今の体調で寄り道はさせない」

「確認だけです」


その言い方を、俺は知っている。


患者が「少しだけ」と言う時、少しで済むことは少ない。痛くない、歩ける、気にしないでいい。そういう言葉の裏には、大抵、症状か我慢が隠れている。


ただ、今の七瀬さんの目には別のものがあった。


恐怖ではない。

期待でもない。


失くしたものが、急に目の前へ戻ってきた時の、信じていいか分からない顔だ。


「何を感じ取った」


俺は聞いた。


七瀬さんは喉を鳴らした。


「音です」

「……首輪か」

「たぶん」

「猫か……犬か」

「たぶん……」


そこで、またチリン、と鳴った。


小さな金属音。鍵でも、薬莢でも、工具でもない。もっと軽い。薄い輪が、短く揺れた音。


七瀬さんの指が、無意識に制服の裾を握った。


「コタローかもしれません」


名前が出た瞬間、声の底が変わった。


セクターAでも、隔離棟でも、血清処置の後でも、七瀬さんは何度も怖がった。怒った。耐えた。


だが、この声はそれとは違う。


年相応の子どもが、家の鍵を見つけたような声だった。


俺は脇道の奥を見た。


気配は薄い。感染者特有の擦るような足音も、腐敗臭も、現時点ではない。風向きが悪いせいで断定はできない。


「犬はウォーカー化しない」


俺は言った。


「そうなんですか?」


「少なくとも、俺が見た範囲では人間と同じ死後再起動は起こしていない。Vウイルスの神経侵襲は、人間の前頭前野ぜんとうぜんやと行動抑制に強く出る。犬や猫で同じ症状が成立するとは限らない」


「じゃあ、安全?」

「いや」


言い切る。


七瀬さんの目が少し揺れた。


「感染しないことと、安全なことは別だ。飢えた犬は噛む。群れになれば、もっと危険になる。噛傷は感染症の入口になるし、転倒すれば君の傷も開く」

「でも」

「それに、首輪の音がコタローとは限らない」


七瀬さんは黙った。


正論であることは分かっている顔だった。


正論で止まれるなら、人は大事なものを失くさない。


「先生は」


七瀬さんは、脇道を見たまま言った。


「雫さんかもしれない線があったら、確認しませんか」


返せなかった。

ずるい問いだ。

そして、正しい問いだ。


俺は記録ケースを握り直した。ケースの角が手袋越しに当たる。


大学東研究棟へ急ぐ理由はある。記録の鮮度、回収班の追跡、七瀬さんの体調。すべてが「寄り道するな」と言っている。


一方で、ここで無理に連れていけば、七瀬さんの中に別の傷を作る。


医学的に命に関わらない傷は、記録に残りにくい。


だが、人を動けなくすることがある。


「五分」


俺は言った。


七瀬さんがこちらを見た。


「確認だけだ。走らない。触らない。俺の許可なく近づかない」

「はい」

「犬が複数いる場合は引く」

「はい」

「感染者の気配があれば引く」

「はい」

「コタローでなくても、俺を責めるな」


そこで、七瀬さんは少しだけ笑った。


「そこは責めません」

「そこは?」

「五分が短かったら責めます」

「医療現場の五分は長い」

「便利な答えです」


俺は返さなかった。


脇道へ入る。


アスファルトの色が変わった。幹線道路の黒から、住宅地の灰色へ。割れた植木鉢。倒れた自転車。玄関先に干されたままの子ども用の傘。郵便受けから溢れたチラシ。


生活が止まった場所だ。


セクターAのような大きな破壊ではない。


もっと静かで、もっと個人的な崩壊だった。


七瀬さんは俺の半歩後ろを歩いている。


「線は」

「見えます。けど、はっきりしません」

「方向は」

「あっち」


彼女が指した先に、小さな公園があった。


住宅地の角に挟まれた、遊具が二つだけの公園だ。滑り台。砂場。低いフェンス。名前の消えかけた看板。


フェンスの向こうで、カサ、と音がした。


俺は七瀬さんを手で制した。


「止まれ」


砂場の縁で、何かが動いた。


茶色い背中。

小さく立った耳。

首の下で、金属の輪が揺れる。


チリン。


七瀬さんの息が止まった。


「コタロー……」


声は、ほとんど音になっていなかった。


3. 犬たちの小さな場所


柴犬は、すぐには近づいてこなかった。


砂場の縁に前足をかけたまま、こちらを見ている。茶色の毛は灰をかぶってくすみ、首輪の赤も汚れていた。けれど、立った耳と巻いた尾は、記憶の中の形を失っていない。


七瀬さんが一歩、前に出ようとした。


俺は手で止める。


「まだだ」

「でも」

「尾を見ろ」


柴犬の尾は、完全には振られていない。


巻いた尾の先が、小さく揺れている。喜びだけではない。警戒。迷い。こちらへ行きたい衝動と、後ろへ戻る理由が拮抗している。


七瀬さんは息を飲んだ。


「コタロー」


今度は、少しだけ声になった。


柴犬の耳が動く。


チリン、と首輪の金具が鳴る。

だが、犬は走ってこない。


砂場の奥で、別の音がした。


カリ、カリ、と乾いた爪がプラスチックを引っかく音。


俺は視線をずらした。


滑り台の下に、犬がいた。

一匹ではない。


白い小型犬。痩せた雑種。片目の周りが黒い中型犬。毛の長い老犬。遊具の影、ベンチの下、植え込みの向こう。公園の小さな面積に、十匹近い犬が散っている。


どの犬も、こちらを見ていた。

吠えない。

それが、かえって嫌だった。


通常の感染者なら、音に反応して寄ってくる。生者なら、助けを求めるか、隠れるか、攻撃するかだ。犬たちは、そのどれとも違う。


ここを場所として守っている。


「下がれ」


俺は低く言った。

七瀬さんは動かなかった。


「七瀬さん」

「あの子たち」

「下がれ」

「痩せてます」

「だから危険だ」


言葉を切る。


白い小型犬が、低く唸った。

グルル、と喉の奥で音が揺れる。


七瀬さんの肩が震えた。

柴犬が振り向いた。

それだけで、唸りが止まる。


「……コタロー?」


七瀬さんの声に、疑問が混じった。


柴犬は砂場の脇へ戻り、口元で何かをくわえ直した。


そこで初めて気づく。


潰れた菓子パンの袋。


中身は半分ほど残っている。賞味期限も保存状態も、今さら意味を持たない。犬が食べるには悪くない。人間が食べても腹を壊すかどうかは運次第だ。


柴犬は袋を引きずり、滑り台の下へ運んだ。


老犬が顔を上げる。

柴犬は、袋をその前へ置いた。


「……持ってきたんだ」


七瀬さんが言った。

俺は答えなかった。


観察する。


柴犬は自分では食べない。老犬が袋に鼻を入れるのを待ち、それから周囲を見た。小型犬が近づきすぎると、短く唸って止める。噛みつかない。追い払わない。ただ、順番を守らせている。


群れの中心ではない。


だが、役割がある。


食料を探して戻る個体。


弱い犬に先に渡す個体。


「コタローは」


七瀬さんは、言葉を探していた。


「家にいる時、食いしん坊で。お母さんが落とした唐揚げとか、すぐ取って怒られてました」

「犬としては正常だ」

「今、食べてないです」

「役割を覚えたんだろう」

「誰が教えたんですか」

「誰も教えていないかもしれない」


社会が壊れると、人間は役割を失う。


逆に、別の生き物は役割を作る。


餌を探す。眠る場所を守る。弱い個体を内側に置く。外敵を遠ざける。


倫理ではない。


生存だ。


それでも、七瀬さんの目には、別のものとして映っているはずだった。


「コタロー」


七瀬さんが、膝を折った。


「私だよ」


柴犬の耳がまた動く。


今度は、首がこちらへ向いた。

鼻がひくつく。

俺の臭いも届いているはずだ。


死体に近い身体。血。薬品。煙。生者ではないもの。

犬がどう判断するかは分からない。


柴犬は一歩、こちらへ出た。

七瀬さんの顔が明るくなる。


次の瞬間、柴犬は止まった。


滑り台の下から、老犬が咳き込むような音を立てた。


ゴホ、ではない。


ケホ、ケホ、と乾いた音。


柴犬は振り返る。


七瀬さんの表情が、その動きで変わった。


再会の喜びから、理解へ。

理解から、痛みへ。


「あの子」

「高齢か、脱水か、気道に何かあるか」

「診られますか」

「犬は専門外だ」

「でも、見られますか」


獣医ではない。


だが、呼吸状態を見ることはできる。歩様ほようを見ることも、外傷の有無を見ることもできる。噛まれればこちらは再生するが、七瀬さんは違う。


俺は公園内を見回した。


犬の配置。

出口。

俺と七瀬さんの距離。

背後の道路。


逃げ道は一つ。フェンスは低いが、七瀬さんが飛び越えるには危険だ。小型犬は問題になりにくい。中型犬が二匹。柴犬を含めれば三匹。噛まれれば、普通の人間なら裂傷になる。


「俺だけ入る」

「私も」

「駄目だ」

「コタローが怖がります」

「俺が噛まれても問題ない」

「そういう言い方、嫌です」

「事実だ」

「それでも……」


短い拒絶だった。


俺は一度目を閉じる。


患者の希望と安全管理。

また同じ天秤だ。


「フェンスの外までだ」


俺は言った。


「それ以上は入るな」


七瀬さんは頷いた。


俺はフェンスの門へ近づいた。錆びた蝶番が、キ、と鳴る。

その音で、犬たちが一斉にこちらを見た。


チリン。


柴犬が、一歩前へ出る。


低く、短く鳴いた。


ワン、とも、グル、ともつかない音。


制止。


俺への警告ではない。

後ろの犬たちへ向けた音だ。


「コタロー」


七瀬さんの声が震えた。


柴犬は振り返らない。

俺の前に立ったまま、背中で彼女を隠すようにしている。


飼い犬の動きではない。

門番の動きだ。


俺はそこで止まった。


「分かった」


俺は柴犬に向けて、ゆっくり両手を下げる。


「入らない」


犬に言葉が通じるかは分からない。

だが、姿勢は伝わる。


俺はしゃがんで、視線を低くした。正面から目を合わせすぎない。手を伸ばさない。声を上げない。


老犬の呼吸を見る。


胸郭の動きは浅い。舌は乾いている。口角に白い泡はない。鼻汁も目立たない。感染症というより、脱水と疲労が強い。


「水が要る」


俺は言った。


七瀬さんがリュックを探る。


「少しあります」

「全部は出すな。皿になるものは」

「これ」


潰れたプラスチック容器を差し出す。


俺は受け取らず、顎で地面を示した。


「そこに置け。手で渡すな」


七瀬さんは容器をフェンスの外側に置き、水を注いだ。


水が薄く光る。


柴犬はそれを見た。

俺を見た。

七瀬さんを見た。


それから、容器をくわえて、公園の内側へ引き入れた。


金属の首輪が、また鳴る。


チリン。


老犬の前に、水が置かれる。


七瀬さんは、声を出さずに泣いていた。

涙が頬を伝っているのに、息を殺している。


犬たちを驚かせないためだ。

十四歳の子どもが、泣き方を選んでいる。

俺はそれを見て、何も言えなかった。


柴犬は老犬が水を舐めるのを見届けると、ようやくこちらへ戻ってきた。


フェンスの内側。

七瀬さんの手が届く、少し手前。

そこで座る。


チリン、と首輪が鳴った。


七瀬さんはフェンス越しに膝をついた。


「コタロー」


柴犬は、今度は逃げなかった。

鼻先を、フェンスの隙間から出す。

七瀬さんの指が、震えながら近づく。


「触るな」


俺は言った。


七瀬さんの手が止まる。


「傷がある。犬の口腔内細菌は軽くない」

「……はい」


返事はした。


だが、指は下がらない。


柴犬が、先に動いた。


鼻先で、七瀬さんの指の背を押した。


触れたのは一瞬。


舐めてもいない。噛んでもいない。


ただ、確認した。


その一瞬で、七瀬さんの顔が崩れた。


「生きてた」


声が震える。


「生きてたんだ」


柴犬は、首を傾ける。


チリン。


返事のように、金属が鳴った。

俺は公園の奥を見る。

犬たちは、まだこちらを警戒している。


けれど、最初の硬さは少しだけ解けていた。老犬は水を舐め、小型犬はパンの袋の端を噛み、片目の黒い中型犬はフェンスの外を見張っている。


小さな場所。

小さな群れ。


崩壊した街の隅に、誰かが作ったわけでもない秩序があった。


「七瀬さん」


俺は言った。


「コタローは、ここで生きている」


七瀬さんは、分かっている顔をした。


分かっているのに、まだ言葉にできない顔だった。


4. ここを守って


先に動いたのは、犬ではなかった。


公園の外、住宅地のさらに奥で、何かが倒れる音がした。


ガシャン、と金属が跳ねる。


倒れた自転車か、物干し竿か。


犬たちの耳が、一斉にそちらを向いた。

俺も振り向く。


風向きが変わった。

腐敗臭。

まだ薄い。だが、確かに混じっている。


「感染者か」


七瀬さんが聞いた。


「一体か二体。近い」

「見えるんですか?」

「臭う」


言った直後、路地の奥から人影が傾いて現れた。


中年の男だったもの。


片足を引きずっている。首は不自然に傾き、顎の下から黒い血が乾いていた。左腕は肘から先がない。噛み跡ではなく、何かに挟まれて潰れた痕だ。


生存者ではない。

ウォーカーだ。

その後ろに、もう一体。


小柄な女だったものが、塀に肩を擦りながら歩いてくる。


犬たちが吠えなかった理由が分かった。


吠えれば寄せる。


この小さな場所は、音を立てずに生き延びてきたのだ。


白い小型犬が、低く唸った。


柴犬が前に出る。


チリン、と首輪が鳴った。


その音に、ウォーカーの顔が動いた。


まずい。


「七瀬さん、下がれ」

「犬たちは」

「下がれ」


俺はフェンスの門に手をかけた。


蝶番が錆びている。開ければ音が鳴る。閉じたままなら、俺はフェンスを越える必要がある。


低い。

越えられる。

だが、俺が中に入れば、犬たちの群れが崩れる。


ウォーカー二体より、混乱した犬十匹の方が七瀬さんには危険だ。


「先生」


七瀬さんの声が硬くなった。


彼女の虹彩の縁に、淡い光がまた滲んでいる。


「右から来ます」

「見えている」

「違います。犬が逃げる先です」


俺は公園の右側を見た。


低いフェンスの一部が外れている。犬なら抜けられる隙間だ。その先は住宅地の裏路地へ繋がっている。


ウォーカーは正面から来る。


犬たちは右へ逃げる。

だが、老犬は動けない。

コタローは老犬を置いていかない。


「分かった」


俺はフェンスの外側を走った。


ウォーカー二体の進路に入る。公園の正面ではなく、少し左へずらす。犬たちから引き離すためだ。


男のウォーカーが、こちらを向いた。

開いた口から、乾いた息が漏れる。

俺には体温がない。

呼吸もない。

それでも、動くものには反応する。


「こっちだ」


声を出す。


男のウォーカーが加速した。


遅い。

片足が潰れている。


俺は距離を詰め、近くの物干し竿を拾った。アルミ製。軽い。武器としては頼りないが、脳幹へ届く角度を作るには足りる。


ガンッ、と男の顎下へ竿を打ち込む。


頭が跳ね上がる。


そのまま踏み込み、折れた先端を眼窩の奥へ押し込んだ。


骨を抜ける感触。


抵抗が消える。

男の身体が膝から崩れた。


女のウォーカーが、俺ではなく公園の方へ向いた。


首輪の音に反応している。


「コタロー!」


七瀬さんが叫びかけて、途中で口を閉じた。


声を出せば、さらに寄る。

彼女は自分で気づいた。


コタローがフェンスの内側を走った。


老犬の前に立つ。


吠えない。

ただ、低い姿勢でウォーカーを見る。


守る気だ。


「駄目だ」


俺は女のウォーカーへ走った。


間に合う。


そう判断した直後、白い小型犬が飛び出した。


フェンスの隙間から抜け、女のウォーカーの足元へ走る。


噛むつもりではない。


追い払うつもりだ。

だが、体格が違いすぎる。


女のウォーカーの腕が落ちる。


「下がれ!」


叫んだ。

犬に通じるわけがない。


それでも、柴犬には通じた。

コタローが動いた。


チリン、と鳴る。


茶色い身体が、白い小型犬の横へ飛び込み、肩で押し出す。小型犬が転がる。女のウォーカーの手が、空を掴んだ。


その隙に、俺は女のウォーカーの背後へ回った。


物干し竿は使えない。先端が折れ、血と骨片で滑る。


俺は腰のメスケースへ手を伸ばす。

が、そこにメスはない。


セクターAで預け、戻ってきた器具は限られている。


舌打ちを飲み込む。


代わりに、倒れた自転車のスタンドを掴んだ。曲がった金属片を引き抜く。


ギギッ、と嫌な音を立てて外れた。


女のウォーカーが振り向く。


俺は一歩踏み込み、金属片を耳の後ろから入れた。


角度が浅い。

足りない。

ウォーカーの手が俺の肩にかかる。

食い込む。


ジワッと肉が裂ける。


「……っく」


痛みは鈍い。


俺は自分の肩を差し出したまま、金属片を押し込んだ。


ズ、と音が変わる。


脳幹に届く。


女のウォーカーの腕から力が抜けた。

崩れる身体を横へ倒す。

公園のフェンスから離す。

血がアスファルトに広がった。


犬たちは吠えなかった。白い小型犬は震えている。コタローは、その前に立っていた。


俺の肩はもう塞がり始めている。


七瀬さんが駆け寄ろうとして、フェンスの外で止まった。


約束を守った。

それだけで十分だった。


「怪我は?」

「俺はいい」


七瀬さんは反論しなかった。


視線は俺ではなく、コタローに向いている。


コタローは白い小型犬の首元を鼻で押し、フェンスの内側へ戻した。老犬の前へ行き、水の容器を確認する。それから、倒れたウォーカーの方を見た。


戦い方を知っているわけではない。


だが、守る順番を知っている。


「コタロー……」


七瀬さんがフェンス越しに呼ぶ。

今度は、柴犬が近づいてきた。


フェンスの内側で座り、七瀬さんを見上げる。


首輪の金具が小さく揺れる。


チリン。


「一緒に……」


七瀬さんは、そこまで言って止まった。


言えば、犬は来るかもしれない。

来てしまうかもしれない。


その顔だった。


俺は何も言わなかった。

言えば、俺の判断になる。


これは七瀬さんが決めなければならない。


彼女はフェンス越しに、指を伸ばした。


今度は俺も止めなかった。


傷のない右手。


コタローは鼻先で、その指に触れた。


七瀬さんは笑った。

泣きながら、笑った。


「あの時、迎えに戻れなくて、ごめんね」


コタローは首を傾ける。


「お母さんのところにも、コタローのところにも、戻れなかった」


チリン。


「でも、コタローも、戻らなかったんだね」


公園の奥で、老犬が水を舐める音がした。

白い小型犬が、コタローの後ろに隠れる。

片目の黒い中型犬が、路地の奥を見張っている。


ここには、ここで生きているものがいる。


七瀬さんは、ゆっくり息を吸った。


「ここを守って……」


声は震えていた。

だが、はっきりしていた。


「……私、行くから」


コタローは動かなかった。


追ってこない。


それが答えだった。


七瀬さんはもう一度だけ、フェンス越しに指を差し出した。


コタローは鼻先を当てた。


チリン。


その音が、短く鳴って消える。


「……行きましょう」


七瀬さんが言った。

俺は頷いた。


「歩けるか」

「少しなら」

「少しずつでいい」


同じ会話を、また繰り返す。

だが、七瀬さんの声は少し違っていた。


喪失を抱えたまま、前を向く声だった。


俺たちは小公園を離れた。


背後で犬たちは吠えない。


ただ一度だけ、首輪の音が鳴った。


チリン。


それは呼び止める音ではなかった。


5. 回収班


住宅地の脇道を抜ける頃には、七瀬さんの歩幅がまた落ちていた。


泣いた後の疲労は、出血と似ている。


外から見えにくい。


本人も、どれだけ失ったかをすぐには分からない。


「休むか」

「大丈夫です」

「却下」

「まだ何も言ってません」

「言った」

「大丈夫です、は駄目ですか」

「今は駄目だ」


七瀬さんは少しだけ笑ったが、反論はしなかった。


俺たちは小公園から二本先の路地で足を止めた。住宅地の角に、潰れた自動販売機がある。前面のガラスは割れ、中の缶はほとんど抜かれていた。


俺は七瀬さんを壁際に寄せる。


「三十秒」

「短い」

「医療現場の三十秒は」

「それはもういいです」


先に言われた。


俺は黙った。

その沈黙の中で、別の音が聞こえた。


遠い。


だが、規則的だ。


靴音。


感染者の引きずる足ではない。避難者の乱れた走り方でもない。歩幅を揃え、速度を抑え、こちらの位置を探りながら進む音だ。


一人ではない。


二人。


いや、三人。


俺は記録ケースを持つ手に力を入れた。


「七瀬さん」


声を低くする。


「今から大学方面へ戻る。走らない。俺の左後ろを歩け」

「感染者ですか」

「違う」


七瀬さんの顔が強張った。

彼女も、もう分かっている。


感染者ではない危険の方が、説明を必要とする。


「回収班?」

「可能性が高い」


俺たちは路地を出た。


幹線道路へ戻ると、空が広がる。セクターAの煙は後ろで薄くなり、代わりに大学方面の建物群が遠くに見え始めていた。


まだ研究棟ではない。


旧市街の手前に、立体駐車場がある。非常時に車を置いて逃げたのだろう。入口には車両が斜めに詰まり、上階のスロープは黒い口のように空いている。


隠れる場所が多すぎる。

待ち伏せに向いている。


「道路の中央へ」


俺は言った。


七瀬さんが小さく頷く。


壁際は危険だ。車列の陰、建物の入口、植え込み。人間が潜むなら、端から来る。


中央は目立つ。


だが、見える。


見える危険の方が、まだ処理できる。


カツ、と音がした。


立体駐車場の入口。


黒い防護服の男が一人、車両の陰から出てきた。


顔は透明のフェイスシールドで覆われている。胸に所属章はない。セクターA検疫班の白や灰ではなく、黒。装備は軽いが、腰に拘束バンド、右手に短い警棒。背中には小型の無線機。


外周搬出路で榊原を追っていた連中と、同じ系統だ。


「九条蓮」


男が言った。


声は拡声器越しではない。

落ち着いている。


「記録ケースを地面に置いて、両手を見せろ」


俺は足を止めた。


七瀬さんを、半歩後ろへ下げる。


「所属は」

「答える必要はない」

「なら、従う理由もない」


男は警棒を軽く下げた。


カチ、と小さな音がする。


伸縮式ではない。


電極か。


俺には効きにくい可能性が高い。だが、七瀬さんには効く。


「七瀬結衣」


男は、今度は彼女の名前を呼んだ。


七瀬さんの肩が跳ねる。


「あなたも確保対象だ。抵抗しなければ、処置は最低限で済む」

「処置」


俺は繰り返した。


「診察ではなく、処置か」

「必要な管理だ」

「未成年だ」

「記録上は観察継続対象だ」


その言葉で、腹の奥が冷えた。


怒りではない。


診断に近い。


この男は、七瀬さんを人間として見ていない。患者としても見ていない。記録上の対象として見ている。


片桐の言葉を、現場用に短くした声だ。


「記録ケース」


男は繰り返す。


「それと七瀬結衣を引き渡せ。九条蓮、あなた自身も同行してもらう」

「三つとも断る」

「交渉ではない」

「医療同意もない」

「緊急保全だ」

「便利な言葉だな」


男の背後で、もう一人が出てきた。


左側の廃車の陰から三人目。


計三人。


さっきの足音と合う。


問題は、それだけかどうかだ。


俺は視界の端で、七瀬さんを見る。


顔色は悪い。

だが、目は閉じていない。

虹彩の縁に、淡い光が滲んでいる。


「先生」


彼女が小さく言った。


「後ろ、薄い線があります」


四人目。


背後を塞がれている。


俺は振り向かなかった。


振り向けば、前の三人が動く。


「距離は」

「近いです。車の向こう」

「分かった」


息をする必要はない。


だが、俺は息を吸う動作をした。


人間の身体は、動作の前に呼吸で準備する。


死んだ身体でも、癖は残る。


「七瀬さん」

「はい」

「合図したら、右の白い車まで下がれ。ドアの陰に入る」

「先生は」

「俺は前を処理する」

「後ろは」

「後で考える」

「それ、作戦ですか」

「応急処置だ」


男が一歩前へ出た。


警棒の先が、低く構えられる。


「最後の警告だ」

「俺も最後に確認する」


俺は記録ケースを左手に持ち替えた。


右手を空ける。


「七瀬結衣を、どう扱うつもりだ」

「観察対象」

「不正解だ」


俺は地面を蹴った。


先頭の男は反応した。

遅くはない。

訓練されている。


警棒が俺の右肩へ来る。骨を狙わず、筋肉と神経を止める角度。生きた人間なら腕が落ちる。


俺は避けなかった。


バチッ、と乾いた音が弾けた。


電流が肩へ入る。

筋肉が痙攣する。

だが、心臓は止まらない。


もともと動いていない。


俺は警棒を肩で受けたまま、男の手首を掴んだ。


「患者だ!」


手首を捻る。

骨が外れる音がした。

ゴキ、と鈍い。


男が声を漏らす。


俺は警棒を奪わず、男の身体ごと横へ押した。殺さない。脳幹も壊さない。人間だ。人間なら、止め方を選べる。


右の白い車へ、七瀬さんが下がる。


背後の四人目が動く音。

ザッ、と砂を踏む。


「伏せろ!」


今度は叫んだ。


七瀬さんが身体を沈める。


その頭上を、黒い拘束バンドが走った。


細い金属ワイヤー入りの捕縛具。


車のドアに当たり、ガンッ、と硬い音を立てる。


七瀬さんの髪が揺れた。


近い。


俺は前の二人目へ向き直る。


二人目は距離を取っていた。手には拳銃ではなく、短い射出器。麻酔か、拘束針か。


撃たせれば、七瀬さんに向く。


俺は先頭の男を押し込んだまま、盾にした。


「撃つな!」


三人目が叫ぶ。


仲間を撃てない。


それだけで、相手が完全な殺害部隊ではないと分かる。


目的は回収。


なら、こちらにも隙がある。


「記録ケースを捨てろ!」


三人目が怒鳴った。


「七瀬結衣を渡せば、お前の処遇は検討しよう!」

「医者を買収するなら、言葉を選べ!」

「お前は医者じゃない!」


その一言だけは、少し効いた。


肩の再生より遅れて、胸の奥に来る。


男は続ける。


「検体番号 K-REN。死亡後自我維持、再生反応、未分類血液。あなたは医療者ではなく、観察対象だ」


背後で、七瀬さんが息を呑んだ。


俺は顔を上げた。


「そうか」

「投降しろ」

「なら、なおさら駄目だ」

「何?」

「観察対象が、観察対象を引き渡す理由はない」


俺は先頭の男を突き飛ばした。

二人目の射線が一瞬塞がる。


その隙に、白い車の方へ走る。

七瀬さんを回収する。


逃げる。

それが最適だった。

だが、四人目が車の陰から出てきた。


黒い防護服。

手には拘束具。

距離は二メートル。

七瀬さんのすぐ横。


間に合わない。


「七瀬さん!」


俺の声と同時に、拘束具の金属が鳴った。


ジャラッ。


細いワイヤーが開く。


七瀬さんの腕へ向かう。

次の瞬間。


キィン、と高い音がした。


拘束具が、空中で止まった。

ワイヤーが震えている。

男の手も、途中で固まっていた。


銃ではない。

電流でもない。


金属だけが、見えない指で掴まれている。


6. 用心棒


四人目の男が、拘束具を引こうとした。


動かない。


ワイヤーは七瀬さんの腕の手前で止まり、細かく震えている。男の手首も同じように震えていた。引けば引くほど、拘束具の金属部分だけが空中に縫い止められる。


「何だ」


男が呻く。

答えは、上から来た。


ガンッ!!!


立体駐車場の二階で、鉄製の手すりが鳴った。


全員の視線が一瞬だけ上がる。


黒いショートジャケット。


長い脚。


銀青色の光を虹彩の縁に宿した女が、手すりの上に片足をかけていた。


壬生玲央奈。


セクターAのゲートで、金属を支配していた女。


「遅い」


俺は言った。


壬生は口の端を上げた。


「助けに来た相手に言う台詞か、それ」

「まだ助かっていない」

「じゃあ、今から助ける」


壬生が手を振った。


キィン、と空気が細く鳴る。


四人目の拘束具が、男の手から剥がれた。ワイヤーが丸まり、逆に男の手首へ巻きつく。男が反射的に引くが、遅い。


ジャラッ、と金属が締まる。


「ぐっ」


男の膝が落ちた。


七瀬さんは白い車の陰に身を沈めたまま、目を見開いている。


壬生は二階の手すりから飛び降りた。


着地の直前、近くの車のボンネットがベコン、とへこんだ。衝撃を金属へ逃がしたのか、彼女の膝はほとんど沈まない。


着地音は軽い。


だが、周囲の金属が一斉に反応した。


廃車のドア。落ちた標識。回収班の警棒。拘束具。射出器の内部部品。


細い音が、四方から重なる。


チリ、キン、ギ、と。


小公園で聞いた首輪の音とは違う。


こちらは、刃物の気配を持った音だ。


「壬生」


三人目の回収班員が言った。


「貴様、命令違反だ!」

「誰の命令?」


壬生は歩きながら聞いた。


「隔離棟回収系統だ」

「黒田の命令じゃない」

「片桐主任の指示だ」

「じゃあ、私の上司じゃない」


壬生は右手を軽く握った。


三人目の警棒が、腰のホルスターごと跳ねた。


ガンッ、と男の脇腹に当たる。


男が体勢を崩す。


二人目が射出器を構えた。

壬生の目が細くなる。


「撃つなよ」

「止まれ!」

「撃つなって言った」


二人目の射出器が、手の中で軋んだ。


ギギギ、と嫌な音がする。


銃身が横へ曲がる。


引き金が引かれる直前、内部で何かが噛んだ。バチン、と小さな破裂音。二人目が射出器を落とす。


壬生はそれを蹴らなかった。


ただ、落ちた射出器を足元へ滑らせ、自分の影の中に置いた。


支配範囲。


そう言いたげな位置だった。


俺は七瀬さんの前へ移動する。


「立てるか」

「はい」

「俺の後ろ」

「壬生さんは」

「今は見なくていい」

「見ます」


七瀬さんは、俺の後ろに下がりながらも目を逸らさなかった。


壬生もそれに気づいた。


「生きてるじゃん、七瀬」

「……はい」

「よかったな」


その言い方は、軽い。


軽すぎる。


けれど、嘘ではなかった。


「壬生」


俺は呼んだ。


「何をしに来た」

「見て分かんない?」

「説明しろ」


壬生は肩をすくめた。


「あんたらは狙われてる」

「知っている」

「思ってるより多い」


その一言で、俺は黙った。


壬生は回収班の残りを見た。


「そいつらだけじゃない。大学方面にも回ってる。記録ケースと、七瀬と、あんた。優先度はその順じゃない。全部だ」

「どこで知った」

「拾った」

「何を」

「口」


尋問した、という意味だろう。


七瀬さんが息を呑む。


壬生はそれ以上言わなかった。

説明を削っている。

意図的に。


セクターA側で何があったのかを、今ここで全部話す気はないらしい。いや、俺には、彼女が何をどこまで知っているかも判断できない。


「黒田は」


俺は聞いた。


壬生の表情が、一瞬だけ動いた。


「生きてる」

「真壁は」

「怒鳴ってる」

「笹川は」

「見てない」

「榊原は」

「知らない」


短い返答。


余計な慰めはない。

その方が信用できた。


回収班の先頭の男が、外れた手首を押さえながら立ち上がろうとした。


壬生が視線だけを向ける。


男の腰の拘束具が、カチ、と鳴った。


「動くな」


壬生の声は低い。


「次は足を縛る」

「壬生玲央奈。これは反逆行為だ」

「反逆って、所属先がまだ生きてる時に使う言葉でしょ」

「セクターAは……燃えてる」


壬生は言った。


その声に、初めて重さが混じった。


「燃えてる場所で、まだ分類とか回収とか言ってる奴らの命令を、私が聞くと思う?」


男は黙った。

壬生は俺へ向き直る。


「で」

「で?」

「用心棒が必要だろ?」


言い方は軽い。


だが、目は軽くなかった。


銀青色の光がまだ残っている。能力の余熱か、怒りか、疲労か。判断はつかない。


「必要ないと言ったら」

「嘘をつくな」


即答だった。


「さっき間に合ってなかった」

「……事実だ」

「七瀬も歩けてない。あんたは記録ケース持ってる。大学方面にはこいつらの仲間がいる。あんた一人で守れるなら、今ここで四人に囲まれてない」

「正論だな」

「嫌い?」

「状況による」


壬生は笑った。


「じゃあ今は?」

「嫌いだ」

「気が合うじゃん」


七瀬さんが、少しだけ困った顔をした。


その表情を見て、壬生は警棒を拾い上げた。


自分で使うためではない。


回収班の手の届かない場所へ、磁力で滑らせる。


「私は同行する。あんたが断っても、同じ方向へ行く」

「目的は」

「大学方面の回収班を潰す」

「それだけか」

「今はそれだけ」


嘘ではない。

全部でもない。

俺はそう判断した。


「七瀬さん」


俺は振り返らずに聞いた。


「歩けるか」

「少しなら」

「走れるか」

「少しなら」

「嘘だな」

「はい」


正直でよろしい。


壬生が吹き出した。


「いい子じゃん」

「患者だ」


俺は言った。


「だから、巻き込むな」

「もう巻き込まれてる」

「さらにだ」


壬生は少しだけ黙った。


「分かった」


意外なほど素直だった。


「七瀬は私の後ろ。あんたは前。記録ケースは真ん中」

「命令するな」

「用心棒の配置提案」

「言い換えれば通ると思うな」

「通るでしょ。今のは正しい」


正しい。


それが腹立たしい。


俺は記録ケースを肩に掛け直した。


回収班の四人は、まだ動ける。だが、壬生の支配下にある金属装備を外さなければ追えない。数分は稼げる。


数分。


医療現場でも、戦場でも、逃走でも、数分は長い。


「行くぞ」


俺は言った。


「大学へ」


壬生が並んだ。


「案内は?」

「標識を辿る」

「雑」

「医者に地理を期待するな」

「死んでるのに?」

「便利な返しにするな」


壬生がまた笑った。


七瀬さんは、その後ろで小さく息を整えている。


背後で、回収班員の一人が無線に手を伸ばそうとした。


壬生が指を鳴らす。


パキン、と無線機の金属端子が折れた。


「連絡は後にしな」


壬生は振り返らずに言った。


「こっちは先約がある」


俺たちは立体駐車場の前を離れた。

セクターAは遠ざかった。

小公園も遠ざかった。


前方には、大学方面へ続く道がある。


三人分の足音が、割れたアスファルトの上に重なった。


俺の足音。


七瀬さんの小さな足音。


壬生玲央奈の、金属を連れて歩くような硬い足音。


大学東研究棟は、まだ見えない。

だが、追跡者はもう見えている。


そして、味方かどうか分からない用心棒が、一人増えた。


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