第17章 用心棒の選択
1. 残った金属
壬生玲央奈は、開いたフェンスを閉じなかった。
閉じれば、秩序は戻る。
少なくとも、そう見える。
だが、目の前にあるのは秩序ではなかった。煙を吸って咳き込む老人。黄判定タグを握りしめた女。子どもを抱えたまま足を止められない父親。焦げた毛布。落ちた水筒。割れたヘルメット。誰かの靴。
人の流れは、もう線ではない。
圧だ。
押し寄せて、曲がって、詰まって、戻ろうとして、また押される。
その圧を、壬生は金属で割っていた。
外周ゲートのフェンスは三枚。中央の歩行者用、左の搬入口、右の車両ゲート。鎖と南京錠を外しただけでは足りない。人が寄ればフェンスは歪む。歪めば蝶番が噛む。蝶番が噛めば、流れが止まる。
止まれば、人が潰れる。
壬生は右手を開いた。
ギギ、とフェンスが鳴る。
泣き声に似た金属音だった。
「中央、詰まらせるな! 歩ける者は右へ回せ! 担架は左だ、左へ流せ!」
真壁修一の声が飛ぶ。
声は嗄れていた。それでも、まだ折れていない。自衛隊の隊員が二人、真壁の指示を受けて人の列へ身体を入れる。押し返すのではない。流れの向きを変える。
壬生はその動きに合わせて、右の車両ゲートをさらに開いた。
ジャラ、と鎖が地面を擦る。
その音に、近くの自警団員が振り向いた。
「壬生さん、開けすぎです! 外の連中まで入ってきます!」
「入れるために開けてるんじゃない」
壬生はフェンスから目を離さずに言った。
「ぶつけないために開けてる」
「でも、検査が」
「検査する場所が燃えてる」
自警団員は黙った。
反論できないからではない。
反論している時間がなかったからだ。
左の搬入口で、担架が斜めに引っかかった。金属フレームがフェンスの支柱を噛む。担架の上の男が呻き、運んでいた二人が同時に足を止めた。
そこで止まるな。
言葉より早く、壬生の指が動いた。
キン、と担架のフレームが鳴る。
ほんの少しだけ浮かせる。持ち上げるのではない。重さを抜く。支柱に噛んだ角度を外す。
「今!」
運んでいた隊員が押した。
担架が抜ける。
ガン、とフェンスが戻った。
壬生の指先に痺れが走る。
さっきから、細かい金属が多すぎる。南京錠。鎖。担架。車椅子。銃器。警棒。点滴スタンド。折れたフェンス。避難者のベルト金具。落ちた鍵。
全部が耳の中で鳴っていた。
その中で、一番重い音だけは近くにある。
黒田岳の呼吸だ。
呼吸というより、焼けた胸から漏れる圧だった。黒田は右ゲートの柱の横に立ち、左腕をだらりと下げている。冷却材はもう効いていない。焼けた皮膚の匂いが、煙の匂いに混ざっていた。
それでも、黒田は倒れない。
倒れないだけで、周りの自警団員はまだ動く。
「右、押せ!」
黒田が怒鳴る。
声だけで人が退いた。
壬生は横目で見た。
「左腕」
「使ってねえ」
「今、動いた」
「風だ」
「便利な風だね」
黒田が舌打ちした。
いつもなら、言い返すか睨むかする。
今はそれだけだった。
壬生は一瞬、黒田の左腕から目を逸らした。見続ければ、止めたくなる。止めれば、ここが詰まる。
九条なら止めるだろうか。
そう思って、腹が立った。
医者なら止める。
患者だと言って、黒田の腕を使わせない。
だが、その医者はもう外へ出た。七瀬結衣を連れて、記録ケースを持って、大学方面へ向かった。
行かせたのは誰だ。
壬生の指が、わずかに強張る。
フェンスがギィ、と余計な音を立てた。
「壬生!」
真壁の声が飛んだ。
「右、戻すな!」
「分かってる!」
壬生は右手を開き直す。
銀青色の光が、視界の端を細く走った。
フェンスが止まる。
今は考えるな。
金属を見る。
流れを見る。
どこが噛むか。どこが折れるか。どこが人を潰すか。
自動扉も、搬送コンベアも、シャッターも、壊れる前には必ず音が変わる。父が咳き込んだ夜も、母が台所で皿を落とした朝も、恋人の拓海がシャッターの向こうで爪を立てた時も、壬生は音を聞いていた。
聞いていたのに、戻せなかった。
ガシャン!
中央ゲートの鎖が跳ねた。
現実が戻る。
避難者の一人が転び、後ろの列が波のように揺れた。壬生は左手を振る。落ちた鎖を地面へ縫い止める。足首に絡む前に、平たく押さえる。
「足元! 鎖を踏むな!」
真壁の部下が叫ぶ。
人の波が、ぎりぎりで割れた。
壬生は息を吐いた。
吐いた瞬間、腰の無線が鳴った。
ザザ。
短いノイズ。
外周の通常回線ではない。
隔離棟側の、細い、嫌な周波数。
壬生はフェンスを押さえたまま、無線へ視線だけを落とした。
ザザッ。
男の声が混ざる。
「……記録ケースを確認。対象、外周搬出路から北東へ移動」
壬生の指先が止まった。
北東。
大学方面。
「対象 K-REN、N-YUI。回収班、追跡継続」
フェンスが、また鳴った。
今度は、壬生のせいだった。
2. 無線の向こう
壬生は、右の車両ゲートを真壁の隊員へ預けた。
預けた、というほど綺麗なものではない。
「ここ、持てる?」
「何分ですか!」
「一分」
「短い!」
「長い方」
隊員の顔が引きつる。
壬生は右手を開いたまま、車両ゲートの蝶番を少しだけ戻した。完全に任せれば、歪んだフェンスは人の圧で戻る。戻れば閉じる。閉じれば詰まる。
だから、戻らない角度を作る。
金属は、一度癖をつければ少しだけ言うことを聞く。
人間よりは素直だ。
「壬生!」
黒田の声が飛んだ。
「どこ行く」
「すぐ戻る」
「戻らねえ奴の言い方だ」
「あんたに言われたくない」
壬生は振り返らなかった。
振り返ると、黒田の左腕を見る。
見れば、止めたくなる。
止めれば、ここが落ちる。
腰の無線がまた鳴った。
ザザッ。
「外周搬出路、黒防護二名。対象、記録媒体を保持」
片桐回収班。
セクターA検疫班の声ではない。自警団の荒い符丁でもない。温度のない声だ。人の数や傷の状態ではなく、対象と媒体だけを数えている。
壬生はフェンス脇の車両ゲートを抜け、物資倉庫の裏へ走った。
走るたび、腰の鍵束が鳴る。
チャ、チャ、と短い音。
その音の下に、別の金属音が重なっていた。警棒。拘束具。端末ホルダー。無線機の留め金。
距離はまだある。四十メートルより遠い。正確には掴めない。ただ、黒い点のような硬さが、煙の向こうにいくつかあった。
壬生は舌打ちした。
「遠い」
倉庫裏の壁に沿って進む。壁面の配管が熱で膨らみ、固定具が半分外れていた。踏めば鳴る。鳴れば、近くの避難者が振り返る。
壬生は配管を避け、崩れた棚の隙間を抜けた。
左手の指先が、勝手に痺れる。
さっきから使いすぎている。
鎖。南京錠。担架。フェンス。ゲート。今度は回収班の装備。
工具箱の中身を全部同時に浮かせるような感覚だった。できる。できるが、長くは持たない。
無線がまた割れた。
「記録媒体を返却しろ。片桐主任の命令だ」
男の声。
近い。
別の声が混ざる。
聞き覚えがある。
九条蓮。
壬生は足を止めた。
壁の向こう、倉庫裏の搬出路。煙と車両の陰で、姿は見えない。
だが、金属は見える。
見える、というより、骨に響く。
回収班の腰にある拘束具が二つ。短い警棒が二本。端末ホルダーが一つ。金属バックル。ブーツの先芯。榊原周が抱えているケースの留め具。九条が持っている、ケースの金属縁。
七瀬結衣の金属は少ない。
包帯の留め具か、鞄の小さな金具くらいだ。
そこだけ、軽い。
壬生は無線の送信ボタンを押した。
「金属、持ってる?」
返事はすぐ来ない。
当然だ。
あの医者は、こういう時に一瞬だけ考える。
自分が何を持っているかではなく、こちらが何をしようとしているかを考える。
面倒な男だ。
壬生は返事を待たず、右手を握った。
遠い。
だから、全部は無理だ。
狙うものを絞る。
拘束具。
警棒。
銃器はない。少なくとも、今手に出ている金属の重さではない。
なら、殺す道具ではなく縛る道具を止める。
その方が、今の回収班らしい。
ギン、と音がした。
壁の向こうで、拘束具が跳ねる。
手首へ絡む感触が、指の骨に返ってきた。
人間の肉は操れない。
だが、金属の輪が肉を巻けば、肉の動きは止まる。
「なっ」
無線越しに、男の声が割れた。
壬生は左手を開く。
もう一人の警棒を落とす。
カラン。
音が軽い。
成功。
榊原の声が入る。
「壬生さん?」
榊原周。
まだ生きている。
壬生は息を吐いた。
「借り。返しただけ」
誰への借りか。
言う必要はない。
九条にか。七瀬にか。笹川にか。フェンスの前で押し潰されずに済んだ避難者にか。
たぶん、全部だ。
それでも、回収班の足は完全には止まっていない。
拘束具を絡めたのは一人。
警棒を落としたのは一人。
二人なら、数秒で立て直す。
壬生は壁から離れ、搬出路へ向かった。
その時、無線に別の声が入った。
「外部捕捉班へ通達。大学方面へ向かう可能性あり。記録媒体、N-YUI、K-REN、三対象を優先」
外部捕捉班。
大学方面。
壬生の足が止まる。
今の二人だけではない。
九条たちが逃げても、その先に別の手がある。
「……面倒」
壬生は小さく言った。
嫌な音がする。
回収班の拘束具より、フェンスの悲鳴より、ずっと嫌な音だ。
人を助けるための通路を、人を回収するための線に変える音。
壬生は走った。
九条たちはもう動き出している。
直接追うには、まだ早い。
先に、口を拾う。
動けなくした回収班の口を。
3. 回収班の口
物資倉庫裏の搬出路は、煙で白く濁っていた。
火の色は見えない。
だが、熱で膨らんだ棚の金属が、壁の向こうで細く鳴っている。キィ、キィ、と一定ではない音。建物がまだ壊れ続けている音だ。
その音の中に、人間の金属が混じっていた。拘束具。警棒。端末ホルダー。倒れた回収班員のベルト金具。
壬生は角を曲がった。
黒い防護服の男が、倉庫裏の壁にもたれている。右手首には自分の拘束具が絡み、もう一人は警棒を拾おうとして膝をついていた。
二人。
榊原周の姿はもうない。
白衣の煤の跡だけが、薄く床に擦れていた。九条たちもいない。記録ケースの金属縁も、もう感知の外へ抜けかけている。
早い。
あの医者は、逃げる時だけは迷わない。
「壬生玲央奈」
壁際の男が言った。
声に痛みが混じっている。
だが、怯えはない。
「回収業務への妨害は、反逆行為に該当する」
「所属、違うんだけど」
壬生は近づいた。
男の腰の端末ホルダーが震える。逃げようとしたわけではない。壬生が震わせた。
男の目が、フェイスシールドの奥で細くなる。
「触るな」
「触ってない」
壬生は右手の指を曲げた。
カチ、と端末ホルダーの留め金が外れる。黒い小型端末が半分だけ浮き、男の胸の前で止まった。
「金属の留め具、便利だよね」
「返せ」
「返すかは中身次第」
男が身体を起こそうとした。
壬生は左手を軽く下げる。
ジャラッ。
拘束具が締まった。
男の肩が壁へ戻る。
「質問」
壬生は言った。
「大学方面の捕捉班って、何人?」
男は答えない。
もう一人が床で動く。警棒へ手を伸ばした。
壬生は見ない。
床の警棒だけを滑らせる。
カラン、と警棒が遠ざかった。
「二回目からは、指ごと挟む」
床の男の動きが止まる。
壁際の男は、まだ黙っている。
壬生は端末を空中で回した。
画面は割れていない。
表示はロックされている。
暗証番号など知らない。
だが、端末そのものを読む必要はない。
無線はまだ生きている。
背中の小型無線機。胸元の送信ボタン。腰の予備バッテリー。全部、金属の位置で分かる。
壬生は無線機の端子を軽く鳴らした。
ピ、と短い音。
「外部捕捉班へ」
壬生は男の声色を真似ない。
そんな器用なことはしない。
ただ、送信状態にする。
男の無線機が勝手に開いた。
ザザ。
「こちら外部。北東路、旧市街入口へ配置済み」
返った。
壬生の視線が男へ戻る。
「配置済みだって」
男の表情は動かない。
だが、顎の筋肉が硬くなった。
「何人?」
沈黙。
「何人?」
壬生はもう一度聞いた。
今度は、男の拘束具の金属をほんの少しだけ捻る。
骨は折らない。
だが、痛みは通る。
男が息を詰めた。
「……四」
「装備」
「拘束具。射出器。非致死警棒」
「銃は」
「現場判断」
曖昧な言い方。
持っている、という意味だ。
壬生は舌打ちした。
「対象は記録ケースだけじゃないね」
男は答えない。
「N-YUI」
その識別名を言った瞬間、男の視線がわずかに動いた。
当たり。
「七瀬結衣。未成年。血清処置後観察対象」
壬生は男の表情を見た。
「それを、回収って呼ぶんだ」
「管理だ」
「便利な言葉」
男は黙る。
壬生は続けた。
「K-RENは」
男の呼吸が、そこで変わった。
回収班の中でも、そこだけ扱いが違う。
「九条蓮は医療協力者だろ」
「違う」
即答だった。
「死亡記録あり。死亡後自我維持。再生反応。未分類血液。K-RENは最重要観察対象だ」
死亡記録。
壬生の指が止まった。
煙の向こうで、フェンスが遠く鳴っている。
九条の足音を思い出す。
生きている音が薄い身体。血の気のない顔。医者みたいなことを言いながら、自分を人間の側へ置き切れない目。
ああ。
そういうこと。
「死んでる医者を回収して、十四歳も回収して、記録ケースも回収」
壬生は端末を男の胸元へ戻した。
「忙しいね、片桐の犬」
床の男が顔を上げる。
「主任を侮辱するな」
「主任本人が来れば聞く」
壬生は壁際の男の拘束具を、床の金属棚の脚へ繋いだ。
ガチン。
厚い音がした。
「五分は外れない。無理に引けば手首が削れる」
「お前は戻れない」
男が言った。
「自警団にも、検疫班にも」
壬生は一瞬だけ黙った。
その通りだ。
ここで線を越えた。
とっくに越えていたのかもしれない。
「戻る場所が燃えてる時に」
壬生は言った。
「戻れるかどうか聞かれても困る」
無線機を切る。
ザザ、という音が途切れた。
静かになったわけではない。
遠くで人が叫ぶ。
フェンスが鳴る。
黒田が怒鳴る。
真壁の命令が飛ぶ。
全部、まだ残っている。
壬生は振り返った。
北東。
九条たちが向かった方角。
その先に、四人。
戻れば、ゲートが少し楽になる。
追えば、ゲートは少し苦しくなる。
「……最悪」
壬生は呟いた。
選べる時ほど、ろくな選択肢がない。
4. 残る理由
外周ゲートへ戻る道は、さっきより狭くなっていた。
人が増えたわけではない。
壬生が、一度そこを離れたからだ。
金属の音が違う。
右の車両ゲートが、少し戻っている。真壁の隊員が二人がかりで押さえていたが、蝶番が人の圧に負け始めていた。
「壬生!」
真壁がこちらを見た。
怒鳴るというより、確認だった。
まだいるか。
まだ持つか。
まだこちら側か。
壬生は右手を上げた。
ギギギ、と車両ゲートが元の角度へ戻る。
隊員の一人がその場に座り込んだ。
「助かりました……」
「休むな。座ったら踏まれる」
「はい!」
隊員が慌てて立ち上がる。
壬生はフェンスを押さえ直した。
指先の痺れが深くなる。
今なら分かる。
あと十分も同じ出力は続かない。
細かく使えばもう少し持つ。大きく動かせば、もっと短い。
黒田が近づいてきた。
左腕は下げたまま。
右手だけで避難者を押し戻し、道を作る。
「どこ行ってた」
「倉庫裏」
「見りゃ分かる」
「なら聞かないで」
「聞かねえと殴る理由がなくなる」
「左腕で?」
黒田の眉が動いた。
殴られはしなかった。
壬生はフェンスの向こうを見た。
煙。
人。
赤い警報灯。
昼なのに、全部が夕方みたいに濁っている。
「大学方面に回収班がいる」
壬生は言った。
黒田の顔が変わる。
真壁も近づいてきた。
「何人だ」
「四。装備は拘束具、射出器、警棒。銃は持ってる可能性あり」
真壁が低く舌打ちする。
「九条先生たちの方か」
「そう」
黒田が鼻で笑った。
「あの医者なら死なねえだろ」
「死んでるらしいよ」
黒田が黙った。
真壁の視線も、わずかに動いた。
壬生は続ける。
「死亡記録あり。死亡後自我維持。再生反応。未分類血液。回収班の言い方」
「……化け物ってことか」
黒田が言う。
壬生は、すぐには返さなかった。
九条の顔が浮かぶ。
扉の前で、患者だと言った顔。
七瀬を後ろへ下げる手。
黒田の腕を見て、使うなと言った声。
化け物。
便利な言葉だ。
「分かんない」
壬生は言った。
「でも、回収班に渡すよりは、あいつの方がまし」
黒田がこちらを見る。
「お前、追う気か」
「まだ決めてない」
嘘だった。
半分は。
真壁が壬生の手元を見る。
「ここも持たない」
「分かってる」
「君が抜ければ、右ゲートが不安定になる」
「分かってる」
「それでも追う理由は」
壬生はフェンスを見た。
開いたフェンス。
外へ逃げる人。
中へ入ろうとして、入れずに押し戻される人。
どちらも、線の上で削れている。
自分は、その線を動かしてきた。
鍵を開けるため。
拘束具を締めるため。
人を通すため。
人を止めるため。
「私が見逃した」
壬生は言った。
黒田が眉をひそめる。
「何を」
「九条と七瀬。何度も」
検査テントで。
管理区境界で。
フェンスの前で。
無線の向こうで。
完全に止める機会はあった。
完全に通す機会もあった。
どちらもしなかった。
中途半端に、線をずらした。
その結果、今、回収班が追っている。
「見逃して、あと知らないって顔をしたら」
壬生は笑った。
笑えなかった。
「それ、ただの管理側じゃん」
黒田は黙っていた。
真壁が息を吐く。
「一人で追うのか」
「一人で十分」
「嘘だな」
壬生は真壁を見た。
真壁は、九条みたいなことを言う。
腹が立つ。
「十分じゃない。でも、ここから出せる人間はいない」
真壁は答えなかった。
答えないことで、肯定した。
黒田が右手でフェンスを掴んだ。
ギシ、と金属が鳴る。
「行け」
壬生は黒田を見た。
「いいの?」
「いいわけねえだろ」
黒田の声は荒い。
「戻ってこなかったら、次会った時に殴る」
「左腕治してからにして」
「右で殴る」
「患者は安静」
「お前まで医者みてえなこと言うな」
壬生は少しだけ笑った。
真壁が短く言う。
「北東路は廃車が多い。外周道路から旧市街入口へ抜けるなら、車両痕を追える。無線は混線しているが、捕捉班は短距離通信を使うはずだ」
「助言?」
「現場情報だ」
「ありがと」
壬生はフェンスから手を離した。
一瞬、ゲートが戻りかける。
黒田が右腕で押さえる。
ガンッ、と金属が鳴った。
真壁の隊員が二人、すぐ横へ入る。
壬生が抜けた穴を、人間が埋める。
完璧ではない。
すぐ崩れるかもしれない。
それでも、今は持つ。
壬生は背を向けた。
「壬生!」
黒田が呼んだ。
振り返らない。
「死ぬなよ」
「あんたもね」
それだけ言って、壬生は北東へ走った。
5. 追う女
外周道路に出ると、音が変わった。
セクターAの中では、金属は常に鳴っている。フェンス、扉、ベッド、棚、銃器、発電機、配管。人が作った箱の中で、人が作った金属が人を管理している。
外は違う。
金属が散っている。
廃車。ガードレール。折れた標識。放置された自転車。道路に落ちた鍵。割れたスマートフォン。車椅子の片輪。小さな缶詰。
全部、持ち主から離れている。
それでも、痕跡にはなる。
壬生は走りながら、回収班の車両痕を探した。
タイヤの跡だけではない。
車体の下で擦れた金属片。バンパーの傷。急停止した時に落ちたネジ。無線機の短いノイズ。
北東。
旧市街入口。
真壁の言った通り、廃車が増えていく。
移動は速くない。
壬生の能力は、自分の身体を飛ばすためのものではない。車を丸ごと浮かせることもできない。だが、邪魔な金属を少しだけ動かせば、通れる場所は増える。
倒れた自転車を足元から弾く。
カン。
曲がった標識を横へ滑らせる。
ギィ。
廃車のドアを半分だけ開け、隙間を抜ける。
バコン。
音が出る。
出さない方がいい。
だが、急ぐ方が先だ。
指先が痛む。
視界の端に銀色のノイズが散る。
使いすぎ。
分かっている。
それでも、止まれない。
腰の無線がまた鳴った。
「外部捕捉班、旧市街入口で待機。対象が道路中央を選ぶ可能性あり」
壬生は走りながら笑った。
「読むねえ」
九条なら中央を選ぶ。
見える危険を選ぶ。
あの男は、見えないものを嫌う。嫌うくせに、自分のことは見せない。
「対象 N-YUI は疲労状態。必要なら先に確保」
壬生の笑いが消えた。
七瀬。
あの子は、まだ歩けているのか。
壬生は知らない。
知っているのは、フェンス前で、彼女が泣きそうな顔で生きていたことだけだ。セクターAを出た後で何があったかは知らない。
知らないから、急ぐ。
遠くで、金属が鳴った。
短い。
カチ。
警棒の電極か。
次に、鈍い音。
ゴキ。
骨か、関節か。
その後で、拘束具のワイヤーが空を切る音がした。
ジャラッ。
近い。
壬生は立体駐車場を見上げた。
二階の手すり。
鉄。
まだ使える。
一階の入口には黒い防護服が三人。背後にも一人いる。九条と七瀬は道路側。七瀬は白い車の陰に沈みかけている。
間に合っていない。
九条も。
壬生も。
「最悪」
二度目の言葉は、息と一緒に出た。
壬生は階段を使わなかった。
駐車場の外壁に残った手すり、非常灯の金具、車止めの鉄骨。掴める金属を順に引く。身体を引き上げるのではない。落ちる方向をずらす。足場へ身体を投げる。
膝が悲鳴を上げる。
それでも、二階の手すりに片足をかけた。
下で、四人目の拘束具が開く。
七瀬の腕へ向かう。
壬生は右手を突き出した。
キィン。
金属が止まる。
ワイヤーが震える。
間に合った。
ぎりぎりだ。
ぎりぎりは、間に合ったとは言わない。
壬生は手すりを踏み鳴らした。
ガンッ!!!
全員が上を見る。
視線が集まる。
その一瞬だけでいい。
壬生は息を吸った。
金属の位置を数える。
拘束具。警棒。射出器。車のボンネット。標識。廃車のドア。男たちのベルト金具。
多い。
でも、さっきのゲートよりは少ない。
「遅い」
九条が言った。
下から。
相変わらずだ。
壬生は口の端を上げた。
「助けに来た相手に言う台詞か、それ」
「まだ助かっていない」
「じゃあ、今から助ける」
壬生は飛んだ。
6. 用心棒が必要だろ
落ちる途中で、車のボンネットを引いた。
ベコン、と金属がへこむ。
衝撃が膝から逃げる。
着地は軽い。
軽く見えるだけで、身体の中は軽くない。
視界の端で、銀色のノイズがまた散った。
壬生は無視した。
四人目の拘束具を男の手首へ巻き返す。
ジャラッ。
膝が落ちる。
次。
三人目の警棒。
ホルスターごと跳ねさせる。
ガンッ、と脇腹へ入る。
次。
射出器。
これは危ない。
中に針か薬剤か、何かが入っている。曲げすぎれば暴発する。止めすぎれば撃たれる。
壬生は銃身を横へ逃がした。
ギギギ。
引き金の前で内部部品を噛ませる。
バチン。
小さな破裂音。
射出器が床に落ちた。
壬生は足元へ滑らせる。
支配範囲。
ここから先は、私の場所。
回収班員が叫ぶ。
「壬生玲央奈。これは反逆行為だ」
「反逆って、所属先がまだ生きてる時に使う言葉でしょ」
言ってから、胸の奥が少し痛んだ。
セクターAは、まだ生きている。
黒田がいる。
真壁がいる。
笹川も、たぶんまだいる。
フェンスを押さえる隊員も、担架を運ぶ避難者も、まだあそこにいる。
だから、今の言葉は嘘だ。
半分だけ。
「燃えてる場所で、まだ分類とか回収とか言ってる奴らの命令を、私が聞くと思う?」
今度は本当だ。
男は黙った。
壬生は九条を見る。
白衣は汚れている。
肩に電撃を受けた痕がある。
顔色は相変わらず悪い。いや、死んでいるなら、顔色という言葉も変か。
七瀬は白い車の陰で息を整えている。目は逸らしていない。怖がっているのに、見ている。
強い子だ。
そう思った。
口には出さない。
「で」
壬生は言った。
「用心棒が必要だろ?」
九条の目が細くなる。
疑っている。
当然だ。
疑われない方が気持ち悪い。
「必要ないと言ったら」
「嘘をつくな」
壬生は即答した。
「さっき間に合ってなかった」
九条は黙った。
それでいい。
認める男は、まだ扱いやすい。
「七瀬も歩けてない。あんたは記録ケース持ってる。大学方面にはこいつらの仲間がいる。あんた一人で守れるなら、今ここで四人に囲まれてない」
「正論だな」
「嫌い?」
「状況による」
「じゃあ今は?」
「嫌いだ」
壬生は笑った。
少しだけ、息が楽になった。
七瀬が困った顔をする。
壬生はその顔を見て、床の警棒を拾い上げた。
使うためではない。
回収班の手が届かない場所へ滑らせるためだ。
「私は同行する。あんたが断っても、同じ方向へ行く」
「目的は」
「大学方面の回収班を潰す」
「それだけか」
壬生は一拍だけ置いた。
黒田の声。
真壁の現場情報。
壁際の回収班員が言った死亡記録。
シャッターの向こうで爪を立てた拓海の音。
全部が、一瞬だけ混ざる。
「今はそれだけ」
嘘ではない。
全部ではない。
九条はそれを分かった顔をした。
面倒な男だ。
「七瀬は私の後ろ。あんたは前。記録ケースは真ん中」
「命令するな」
「用心棒の配置提案」
「言い換えれば通ると思うな」
「通るでしょ。今のは正しい」
九条は不満そうだった。
だが、否定はしない。
七瀬も、まだ立てる。
なら、動く。
止まれば、外部捕捉班の連絡が戻る。セクターA側から次が来る。大学方面の四人だけとは限らない。
回収班の一人が、腰の無線に手を伸ばした。
壬生は指を鳴らす。
パキン。
端子が折れた。
「連絡は後にしな」
無線の火が消える。
「こっちは先約がある」
九条が歩き出す。
七瀬がその後ろへ続く。
壬生は最後に、立体駐車場を振り返った。
回収班の四人。
壊した無線。
曲げた射出器。
締めた拘束具。
殺してはいない。
殺していないから、また追ってくる。
分かっている。
それでも、殺す理由にはならない。
そういう面倒な判断をする医者が、前を歩いている。
壬生は息を吐き、鍵束を鳴らした。
チャ、と小さな音。
足元の金属片が、それに応えるように震えた。
三人分の足音が、割れたアスファルトに重なる。
九条蓮の足音。
七瀬結衣の小さな足音。
壬生玲央奈の、金属を連れて歩くような硬い足音。
セクターAは背後で燃えている。
大学東研究棟は、まだ見えない。
戻る理由は、まだ背中にある。
それでも、壬生は前へ出た。
用心棒なら、前を見て歩くものだ。




