第15章 燃える門の向こう
1. 崩れる検疫
真壁の二段分けは、三十秒も持たなかった。
内側では、歩ける者を待機させ、重症者と子どもを先に外縁へ出す。
言葉にすれば、それだけの手順だ。
だが、現場には手順より速く恐怖が走る。
担架。車椅子。毛布を被った母親。黄判定のタグを首から下げた子ども。点滴スタンドを押す検疫班。酸素チューブを鼻に入れた老人。誰かの名前を呼び続ける男。
その全部が、白いフェンスの前で一つの塊になっていた。
「走るな!前を見るな、足元を見ろ!」
真壁の声が飛ぶ。
命令ではなく、流れを折らないための杭だ。
外周ゲートの検疫レーンには、まだ色分けの表示が残っている。緑、黄、赤、黒。さっきまで人間を分類していた色が、煙の下でぼやけていた。
検疫班の一人が遮断バーを支えながら叫ぶ。
「重症者だけ先に出してください!黄判定の再確認がまだです!」
「再確認している時間はない!」
真壁が返す。
「赤判定者が混ざれば、外も終わります!」
正しい。
火が背後から迫っていなければ。
薄い灰色だった煙が、いまは黒を混ぜ始めていた。喉の奥に薬品の臭いが張りつく。俺は呼吸をしていない。それでも、身体は咳を思い出す。
七瀬さんが俺の袖を掴んだ。
「右、ざらざらします」
「感染者か」
「たぶん。人の怖い音に、別の音が混ざってます」
彼女の顔色は悪い。
左前腕の包帯は白いままだが、白いから安全とは言えない。血清処置は治療ではない。進むはずだった線を、少しずらしただけだ。
「見なくていい」
「見ないと、分かりません」
「無理をするな」
「無理しないと、分からないです」
返しが早かった。
強がりではない。怒ってもいない。ただ、自分の役割を見つけてしまった声だった。
俺は答えを遅らせた。医者として止めるべきか。同行者として頼るべきか。保護者のように隠すべきか。
どれも違う。
今、七瀬さんは患者であり、情報源でもある。
その両方を間違えれば、彼女を壊す。
「三秒だけだ」
俺は言った。
「見たら、目を閉じろ」
七瀬さんは小さく頷いた。
車両搬入口の陰で、人が倒れた。
倒れた人間に、別の人間が覆いかぶさる。
悲鳴が遅れて上がった。
「赤!赤判定!」
検疫班の声が裏返る。
その一言で、二段に分けたはずの流れが壊れた。
前の人間が止まる。後ろの人間が押す。車椅子の車輪が斜めに滑り、担架の角がフェンスに当たる。
ガンッ。
金属音が響いた。
子どもが泣く。老人が息を詰まらせる。点滴スタンドが倒れ、透明なバッグが床を打った。
「止まるな!」
俺は声を張った。自分の声が、思ったより通った。
「赤判定を避けて、左へ流せ!倒れた人間に集まるな!押すな、押される側を作るな!」
検疫班が俺を見た。
誰だ、という顔。
真壁が叫んだ。
「九条先生の指示を通せ!」
その一言で、迷いが半分消えた。
半分で十分だった。
「黄判定は左!歩ける者は左!担架は中央!赤判定は囲むな、距離を取れ!」
真壁の指示が重なる。
セクターAの分類が、ここで初めて人を逃がすために使われた。
だが、遅すぎる。
倒れた男が顔を上げた。
瞳が濁っている。
完全なウォーカーではない。まだ身体が迷っている。逃げたいのか、噛みたいのか、本人にも分かっていないような動きだった。
その迷いが一番危ない。
生きている側が、まだ人だと思って近づく。
変わった側が、まだ人だった記憶で手を伸ばす。
「近づくな!」
今度は、俺が叫んだ。
男の手が、近くの避難者の足首を掴んだ。避難者が転びかける。
俺の身体が動いた。
近づきすぎるな。
そう思うより先に、足が出ていた。
俺は男の手首を踏み、足首から引き剥がす。骨が折れる感触はない。まだ筋力は人間の範囲だ。
「行け!」
避難者が這うように離れる。
男が俺を見た。
濁った目。開いた口。唾液。血ではない。
それでも、俺の腹の奥がわずかに鳴った。
ナースウォッチの冷たい縁を、ポケットの中で握る。
「俺を見るな」
誰に言ったのか分からない。
男にか。自分にか。七瀬さんにか。
男が噛みつく前に、検疫班の防護盾が横から入った。
ドンッ。
男の身体がフェンスへ押しつけられる。
「拘束!」
真壁が叫ぶ。
「殺すな。首を固定しろ。噛ませるな」
俺の指示に、検疫班が一瞬だけ固まった。
黒田なら、潰せと言っただろう。
片桐なら、検体番号をつけたかもしれない。
俺は、まだ患者と呼んだ。
呼んでしまった。
「先生」
七瀬さんの声がした。
「左、通れます。でも、長くない」
「何が来る」
「人が、怖がってます。怖がりすぎて、同じ方へ寄ってます」
群集。
感染者より速く、人を殺すことがある。
俺は真壁を見た。
真壁もこちらを見ていた。
「左だけでは詰まる」
「分かっている」
「右を空けろ。囲む場所が必要だ。逃げる道と止める場所を分ける」
真壁は一秒だけ黙った。
その一秒で、背後の煙が濃くなる。
「壬生!」
真壁が叫んだ。
「開いた車両ゲートを押さえろ!歩行者は左、赤判定対応は右へ分ける!」
返事はなかった。
代わりに、車両ゲートのレールが鳴いた。
ギギギ。
壬生玲央奈が、煙の向こうで片手を上げていた。
顔は見えない。
銀青色の光だけが、赤い警報灯の中で細く浮いている。
門はもう開いている。
だが、開いたままにするには力が要った。
熱で歪んだ鉄枠が戻ろうとする。人の波が門を押す。外縁の野営地からも、中へ入ろうとする人間が押し返す。
内側から逃げる人間と、外側に残された人間。
二つの世界が、同じ門の前でぶつかろうとしていた。
「ここから先は」
七瀬さんが言った。
声が掠れている。
「外も、安全じゃないです」
「知ってる」
俺は答えた。
安全な場所へ出るのではない。
燃える檻から、別の地獄へ移るだけだ。
それでも、門は開いている。
なら、流れを止める理由にはならない。
「通すぞ」
俺は言った。
「まず、生きている人間を外へ出す」
2. 開かれた鉄
車両ゲートは、開いたまま悲鳴を上げていた。
歪んだレールが噛み、鉄枠が少しずつ内側へ戻ろうとしている。熱で曲がった金属は、正しい軌道を忘れていた。
壬生の指が震える。
銀青色の光が、彼女の虹彩の縁で細く揺れた。
「無理に押さえるな!」
自警団員が叫ぶ。
「黒田さんの指示はゲート維持だ!外へ流したら戻せなくなる!」
壬生は振り返らない。
「戻す場所が燃えてる」
声は大きくなかった。
だが、聞こえた。
自警団員が銃を持ち上げかける。
銃口は壬生へ向いていない。
まだ。
だが、そう見えた瞬間、周囲の空気が固まった。
俺は一歩前へ出た。
「撃つな」
「医者は黙ってろ!」
「ここで撃てば、群衆が潰れる」
俺の声は低かった。
怒鳴る必要はない。
怒鳴れば、今の群衆は音に押される。
「銃声一つで、左の歩行者レーンが崩れる。車椅子が倒れる。担架が詰まる。感染者対応もできなくなる。撃つなら、その全部を撃つ覚悟で撃て」
自警団員の指が止まった。
壬生がその一瞬を使った。
ガンッ。
噛んでいた固定具が弾け、地面を跳ねた。
「開ききらせる!」
壬生が叫んだ。
今度は、叫びだった。
ゲートが動く。
ギギギギ、と金属が長く鳴く。
壬生は左手でレールを引き、右手で歪んだ枠を押さえている。磁力で動かしているのに、動かされているのは彼女の身体の方にも見えた。肩が震え、足が滑る。
黒田岳が、彼女の横へ来た。
左腕には焼けた包帯。防護ベストの肩は焦げ、顔色は悪い。それでも、立っているだけで周囲の自警団員が黙る。
「壬生」
低い声。
壬生の手が止まりかけた。
黒田は歯を見せなかった。
笑っていない。
怒っているのでもない。
「そこじゃねえ」
黒田は歪んだ鉄枠を掴んだ。
「こっちへ逃がせ」
壬生が目を見開く。
一瞬だけ、彼女は子どものような顔をした。
すぐに消えた。
「合わせて」
「指図すんな」
「合わせて!」
黒田の右腕が膨らむ。
壬生の瞳に銀青色の光が走る。
力と磁力が、同じ方向を向いた。
ギギギ。
歪んだレールが悲鳴を上げる。
次の瞬間、ゲートが一気に開ききった。
ガァンッ。
鉄の扉が外側のストッパーにぶつかり、低い音が腹に響いた。
外が広がる。
広がったのに、救いには見えなかった。
外縁の野営地にいた人々が、こちらを見ている。中へ入りたい人間と、外へ逃げたい人間が、門を挟んで向かい合っていた。
「入れるな!」
自警団員が叫んだ。
「外の連中を入れたら、もう選別できない!」
「選別は終わった」
真壁が言った。
「今は流す」
「命令系統は」
「俺が持つ」
「黒田さんは」
黒田が自警団員を睨んだ。
「聞こえなかったか」
その声で、男は黙った。
完全な服従ではない。
ただ、今だけは逆らうだけの理由を失った顔だった。
壬生が俺を見る。
「そっちの医者」
「九条だ」
「名前は知ってる」
「なら、そう呼べ」
壬生の目が少しだけ細くなる。
笑ったのかもしれない。
この状況で笑う人間ではないと思っていた。
「九条先生。左の流れ、持つ?」
「三分は持たせる」
「短い」
「火は待たない」
「でしょうね」
彼女はゲートの外へ目を向けた。
外の人間が押し返そうとしている。内から出る人間を見て、希望ではなく恐怖を見つけた顔だ。感染者が混ざっているかもしれない。火を持ち出すかもしれない。中の地獄が外へ来るかもしれない。
「外側、私が止める」
壬生が言った。
「止めるな。押し返すな」
「じゃあ?」
「割れ」
「……何を」
「人の流れを二つに割れ。中へ入ろうとする人間と、外へ出る人間を正面からぶつけるな」
壬生は一秒だけ考えた。
「金属フェンスを動かす」
「できるか」
「さっきよりは簡単。燃えてないから」
その返答に、黒田が鼻で息を吐いた。
壬生が手を振る。
外側の仮設フェンスが、ギギ、と横へずれた。
細い通路ができる。
外の人間がそちらへ逃げる。内から出る避難者が、真壁の隊員に誘導されて別の流れへ乗る。
完璧ではない。
だが、正面衝突は避けられた。
「行け」
黒田が俺に言った。
「お前は」
「命令すんな」
「質問だ」
「ここを押さえる」
黒田の左腕から、まだ煙の匂いがする。
その身体で、押さえると言う。
「死ぬぞ」
「医者が言うと縁起悪いな」
「医者だから言う」
黒田は俺を睨んだ。
「俺を患者扱いするな」
「患者だ」
「殴るぞ」
「右腕だけにしておけ。左は使うな」
壬生が短く息を漏らした。
笑いか、呆れか。
分からない。
真壁が俺の肩越しに言った。
「九条先生、ここは持たせる。物資倉庫裏へ回れ」
「榊原か」
「追われている。医療区側には戻すな」
俺は七瀬さんを見た。
「行けるか」
「行けます」
顔色は悪い。
だが、目は外れていない。
俺たちは開かれた鉄の横を抜け、物資倉庫裏へ回った。
3. 残る白衣
医療区退避口で、笹川千尋は無線の雑音を聞いていた。
外周ゲートが開いた。
真壁の声。
黒田岳の怒号。
壬生玲央奈の短い返答。
九条蓮の声は、遠く、低く、必要な時だけ混じった。
七瀬結衣の声は聞こえない。
それでいい。
聞こえないということは、少なくとも今は叫んでいないということだ。
「先生!」
検疫班の一人が呼んだ。
笹川は無線から耳を離す。
床には患者が並んでいる。煙を吸った老人。足を挫いた子ども。黄判定のタグを握りしめた妊婦。酸素ボンベを空にしたまま眠ろうとする男。
分類は必要だった。
だが、もう入れるためでも、弾くためでもない。
誰から動かすか。誰を寝かせないか。誰をここに残すか。
そのための分類だ。
「咳が強い人を壁側へ。座れる人は座位。寝かせないで。酸素は残量を見て、動けない人から」
自分の声が、思ったより落ち着いている。
落ち着いているのではない。
感情を置く場所がないだけだ。
「外へ出しますか」
若い検疫班員が聞いた。
目が揺れている。
少し前まで、その目は数字を見ていた。体温、SpO2、血液検査、タグの色。今は、患者の顔を見てしまっている。
「全員は出せません」
笹川は言った。
言葉が硬い。
硬くしないと、崩れる。
「歩ける人を外周へ。動かすと悪化する人はここで処置を続けます。煙が濃くなったら、次の部屋へ移します」
「次の部屋も危ないです」
「ここも危ないです」
検疫班員は黙った。
そう。
もう安全な場所を選ぶ段階ではない。
危険の種類を選ぶ段階だ。
無線が鳴る。
ノイズの向こうで、誰かが榊原周の名前を呼んだ。
追跡。記録。片桐主任。
断片だけが聞こえる。
笹川は目を閉じた。
榊原は行った。九条先生も行った。七瀬さんも、外へ向かっている。
ここに残っているのは、置いていかれた人間ではない。
置いていかないと決めた人間だ。
「記録用紙をください」
「今ですか?」
「今です」
「燃えます」
「燃えにくい場所へ移します」
自分で言って、少しだけ笑いそうになった。さっき九条先生に似たようなことを言った気がする。
「名前を残します。タグ番号だけじゃなくて、名前を」
検疫班員が頷く。
今度は、迷わなかった。
笹川はペンを取った。
煙で目が痛む。それでも、一人目の名前を書く。人を番号にする施設で、最後まで名前を書く。
それが、今ここで彼女にできる抵抗だった。
4. 記録を抱える検査技師
物資倉庫裏へ回る通路は、煙で白く濁っていた。
視界は十メートルもない。
床にはこぼれた消毒液、割れたケース、散った包帯、誰かが落とした靴がある。火より先に、避難そのものが場所を壊していた。
端末が鳴る。
ピッ。
榊原からの位置情報だった。
外周搬出路。
近い。
「榊原!」
俺は声を張った。
返事はない。
代わりに、棚の向こうで何かが倒れた。
ガシャン。
七瀬さんが肩を跳ねさせる。
「人です」
「榊原か」
「二つ。ひとつは怖い。ひとつは、追ってます」
片桐の回収班。
言葉にしなくても分かった。
棚の陰から、榊原周が飛び出してきた。
白衣の前は煤で汚れ、黒縁メガネはずれている。胸に抱えた端末ケースを、両腕で押さえ込んでいた。
「く、九条先生!」
「走れるか」
「走ってます!」
「見れば分かる。続けられるか」
「無理です!」
正直だった。
榊原の後ろから、黒い防護服の男が二人現れる。
検疫班ではない。
装備が違う。
医療区の人間でもない。
片桐の回収班。
「榊原周」
一人が言った。
「記録媒体を返却しろ。片桐主任の命令だ」
榊原の喉が鳴った。
「返却したら、消されます」
「記録管理上の処理だ」
「人もそうやって処理するんですか」
声が震えていた。
だが、言った。
榊原はケースを俺へ押しつけた。
「全部は見られてません。時間がなかった。でも、これだけは」
「今渡すな。追われる」
「もう追われてます!」
それも正しい。
榊原は端末を開き、画面を俺に向けた。
赤い警告表示。
同期失敗。
権限照会。
その下に、細い文字列が並んでいる。
K-REN / N-YUI / SERUM-UNVERIFIED / LZ-04 / SEIMEI-B2 / UNIV-LAB-EAST
俺の目が止まった。
UNIV-LAB-EAST。
大学東研究棟。
雫のメッセージにあった言葉。
音声の後ろで、彼女は確かに研究棟と言っていた。
そこに行けば、何かがある。
雫本人か。雫の痕跡か。あるいは、彼女が逃げ込んだ先の死体か。
分からない。
だが、セクターAは繋がっていた。
聖明中央医療センター地下 LZ-04 と、大学研究棟と、片桐の隔離棟記録。
点が線になる。線になった瞬間、追う理由になる。
「九条先生」
榊原が言った。
「大学東研究棟の参照があります。LZ-04と同じ索引に入っていました」
「なぜ俺に見せる」
「K-REN と N-YUI も、同じ索引にあります。血清処置の記録と一緒に」
俺と七瀬さん。
片桐が追っている記録。
つまりこれは、俺たちに関わる索引だ。
「ほかには」
「初期検体搬送、音声照合ログ、聖明中央B2。完全な記録ではありません。断片です」
音声照合。
雫のメッセージの背後で鳴っていた、あの警告音。
「九条雫という名前に聞き覚えは?資料にあるか」
「今見えている範囲には、あ、ありません」
榊原は即答した。
「でも、LZ-04を追うなら、このケースは持っていくべきです」
「データはこのケースに?」
「はい」
回収班が前へ出る。
「そこまでだ」
俺はケースを受け取らなかった。
受け取れば、俺が追われる。
受け取らなければ、榊原が捕まる。
選ぶ時間はない。
七瀬さんが小さく息を呑んだ。
「左」
俺は動いた。
回収班の一人が伸ばした腕を、左へ避ける。
次の瞬間、壬生の声が無線に混ざった。
「金属、持ってる?」
俺は一瞬だけ理解が遅れた。
回収班の腰。
警棒。拘束具。端末ホルダー。
全部、金属だ。
ギン、と小さな音がした。
回収班の拘束具が勝手に跳ね上がり、男の手首へ絡んだ。
「なっ」
もう一人の警棒が床へ落ちる。
カラン。
榊原が目を丸くした。
「壬生さん?」
無線の向こうで、壬生が言った。
「借り。返しただけ」
誰への借りかは言わなかった。
九条か。七瀬か。笹川か。それとも、自分が今まで閉じ込めてきた人間たちか。
榊原がケースを俺へ押しつける。
今度は受け取った。
重い。
ただの端末ケースではない。次の場所へ行く理由の重さだった。
「榊原、お前は」
「戻ります」
即答だった。
「なぜ」
「ラボにまだ、消せない記録があります。相沢澪の記録も」
「捕まるぞ」
「走ります」
「無理だ」
「さっきより軽いです。ケースを渡したので」
理屈は通っている。
身体は通っていない。
それでも、彼は戻る顔をしていた。
「死ぬな」
俺は言った。
「はい」
「返事が軽い」
「重くすると、は、走れなくなります」
榊原はそう言って、少しだけ笑い、煙の中へ戻った。
回収班の一人が拘束を外そうともがく。
時間は長くない。
「行くぞ」
俺は七瀬さんに言った。
「榊原さんは」
「戻ると言った」
「戻したんですか」
責める声ではない。
ただ、痛かった。
「全員は連れて行けない」
俺は言った。
「分かってます」
七瀬さんは頷いた。
「でも、分かるのと、嫌じゃないのは別です」
その通りだった。
俺たちはケースを抱え、外周道路へ向かった。
5. ざらつく道
外周道路は、セクターAの外でありながら、まだセクターAの影の中だった。
白いフェンスの向こうから、煙が流れてくる。投光器の光が昼の中でまだ点いていて、役に立たない明るさだけを地面に落としていた。
廃車列が道を塞いでいる。
救急車。軽トラック。横転したバス。窓を割られた乗用車。荷台に毛布を積んだまま放置された自衛隊車両。
その隙間を、避難者が抜けようとしている。
「こっちだ!」
誰かが叫ぶ。
別の誰かが逆を叫ぶ。
「そっちは感染者がいる!」
「戻れないだろ!」
声がぶつかる。人がぶつかる。正しい方向など、誰にも見えていない。
七瀬さんが足を止めた。
「左は、ざらざらします」
「右は」
「怖い。すごく怖い。でも、人です」
「正面は」
彼女は目を閉じた。
肩が震える。
包帯の巻かれた左腕を、右手で押さえる。
「穴があります」
「感染者か」
「違う。音がない。先生みたいに、でも、もっと薄い」
俺みたいに。
その言葉が、一瞬だけ胸に刺さった。
死者。あるいは、ほとんど死んだ感染者。
「見なくていい」
「見えます」
「なら、言葉にしろ」
「正面の廃車の影。動いてないけど、近づいたら動くと思います」
待ち伏せ。
感染者がそこまで考えているのか。
それとも、ただ止まっているだけなのか。
今は違いに意味はない。
「右へ抜ける」
俺は言った。
「怖い方です」
「人なら、まだ話が通じる」
「通じなかったら?」
「その時は、俺が通す」
七瀬さんが俺を見た。
「今の、ちょっと黒田さんみたいでした」
「あんな筋肉はない」
ほんの少しだけ、彼女が笑った。
笑えた。
それだけで、右を選ぶ理由が増えた。
俺たちは廃車列の右側へ回った。
人の恐怖が濃い。
外縁野営地の人間たちが、内側から出てきた避難者を見て後ずさっている。タグを持つ者と持たない者。中に入れた者と入れなかった者。守られた者と捨てられた者。
その境界が、今さら同じ道路に押し出されていた。
「入ってた奴らだ!」
男が叫んだ。
「お前らだけ逃げるのか!」
避難者の一人が言い返す。
「中も燃えてるんだよ!」
「知るか! 俺の娘は入れてもらえなかった!」
怒りは正しい。
相手を間違えている。
だが、怒りの最中で相手を選べる人間は少ない。
男が避難者につかみかかった。
俺は間に入った。
「どけ!」
「どかない」
「医者か?なら娘を診ろよ!今さら出てきて、何が医者だ!」
反論はなかった。
今さらだ。本当に、今さらだ。
「診る」
俺は言った。
男の目が揺れる。
「どこにいる」
「……テントだ」
「歩けるか」
「熱がある。水もない」
「連れてこい。ここでは診ない。右の車両の陰に座らせろ。煙を避ける」
男は一瞬、俺を疑った。
次に、七瀬さんを見た。
少女を連れた医者。信用する理由としては弱い。
だが、今は弱い理由でも人は動く。
男は走り、すぐに戻ってきた。
抱えていたのは、小学校低学年くらいの女の子だった。唇が乾き、髪が額に貼りついている。呼びかけても目の焦点が遅い。
俺は右の車両の陰に膝をついた。
「名前は」
「美玖」
「美玖。聞こえるか」
まぶたが少し動く。
呼吸は浅い。首筋に汗は少ない。脈は速いが、触れる。咬傷はない。皮膚は熱い。
感染ではない。
少なくとも、今は。
「脱水と熱中症だ。服を緩めろ。口を湿らせる程度に水を。飲ませすぎるな。吐く」
男の顔が歪んだ。
「助かるのか」
「ここを離れれば、助かる可能性はある」
俺は女の子の手首を父親へ戻した。
「抱いて運べ。走るな。右の列に入れ」
「先生」
七瀬さんが言った。
「……また拾いました」
「まだ拾ってない」
「拾う顔です」
「顔を見る余裕があるなら歩け」
彼女は頷いた。
二歩進む。
三歩目で、膝が折れた。
俺はケースを片腕に抱え直し、彼女の肩を支えた。
近い。
近すぎる。
彼女の体温が、布越しに分かる。血の匂いは薄い。それでも、腹の奥が反応する。
「離れて」
七瀬さんが言った。
「無理だ」
「先生が」
「今は俺の問題だ」
「でも」
「三十秒だけ支える。数えろ」
七瀬さんは唇を噛んだ。
「一」
歩く。
「二」
廃車の隙間を抜ける。
「三」
後ろで、セクターAの方から爆発音がした。
ドンッ。
群衆が振り返る。
「見るな!」
俺は叫んだ。
「足を止めるな!」
七瀬さんが続けた。
「四」
彼女の声は震えている。
それでも、数えた。
俺たちは廃車列の先へ出た。
煙が少し薄くなる。
風がある。
冷たいわけではない。
だが、閉じ込められた熱ではない。
七瀬さんが二十七まで数えたところで、俺は手を離した。
彼女は倒れなかった。
「三十まで、いけました」
「二十七だ」
「端数は切り上げです」
「医学では切り上げない」
「数学では?」
「状況による」
彼女は笑おうとした。
今度は、少しだけ笑えた。
6. 燃える門の向こう
外縁の道路から振り返ると、セクターAはまだ明るかった。
明るいのに、希望には見えない。
投光器の白。警報灯の赤。煙の黒。炎の橙。避難者の服の色。黄判定タグの色。
色が多すぎる。
どれも、人を救う色ではなかった。
無線が鳴った。
ノイズ。
それから、笹川の声。
「ザザッ……九条先生、聞こえますか」
俺は端末を取った。
「聞こえる」
「外へ出ましたか?」
「出た」
短い沈黙。
ノイズの向こうで、誰かの咳が聞こえた。
「……よかった」
「そっちは」
「忙しいです」
嘘ではない。
だが、全部でもない。
「患者は」
「います」
「それは分かっている」
「なら、聞かないでください」
少しだけ、笹川らしい返しだった。
七瀬さんが端末へ顔を近づける。
「笹川先生」
「はい」
「また、会えますよね?」
今度は、疑問符の形が声にあった。
笹川はすぐには答えなかった。
ノイズ。
遠くの叫び声。
それから。
「会えます」
さっきと同じ答え。
同じ嘘かもしれない。
それでも、七瀬さんは目を閉じた。
「はい」
無線が切れた。
俺は端末ケースを開いた。
中には携帯端末、薄い記録媒体、焦げた紙の束が入っている。榊原の字で、付箋が貼られていた。
「同期前断片。完全性なし。だが、消すよりましです。」
あの男らしい。
保証しない。断言しない。それでも、渡す。
俺は端末の画面を呼び出した。
表示されたのは、断片的な索引だった。
LZ-04 / SEIMEI CENTRAL B2 / UNIV-LAB-EAST / INITIAL CARRIER GROUP / KUJO S.
指が止まった。
KUJO S.
九条雫。
そう読みたくなる。
だが、断定してはいけない。
S は別人かもしれない。Sample の S かもしれない。Subject の S かもしれない。
医者は、都合のいい略語を患者名に変えてはいけない。
兄は、変えたくなる。
「雫さんですか」
七瀬さんが聞いた。
「分からない」
「でも」
「分からない」
二度目は、自分に言った。
画面の下には、搬送ログの断片があった。
UNIV-LAB-EAST / quarantine transfer / audio marker matched
音声マーカー。
雫のメッセージの背後で聞こえた警告音。
聖明中央医療センター地下で見た LZ-04。
セクターAの隔離棟。
大学東研究棟。
離れていたはずの場所が、一つの線に繋がっていく。
「次は」
七瀬さんが言った。
「大学ですか」
俺は燃えるセクターAを見た。
笹川がいる。榊原がいる。真壁がいる。壬生と黒田がいる。相馬春人がいる。
相馬理恵の安否は、まだ分からない。
置いていくものが多すぎる。
それでも、手元には記録がある。
記録は、死人を戻さない。
だが、次の患者へ辿り着く道になることがある。
「戻るんですか」
七瀬さんが聞いた。
俺は答えなかった。
戻りたい。
戻るべきかもしれない。
だが、今戻れば、結衣を連れて火の中へ入ることになる。榊原の記録を燃やすことになる。雫へ繋がる細い線を、自分の手で切ることになる。
全員は救えない。
何度言っても、楽にはならない言葉だ。
「今は戻らない」
俺は言った。
七瀬さんは頷いた。
責めなかった。
それが、少しだけ苦しかった。
道路の先には、大学方面へ続く標識が傾いていた。
北東四キロ。
研究学園通り。
その先に、東研究棟がある。
雫がいるかもしれない。
いないかもしれない。
答えは、そこへ行かなければ出ない。
「歩けるか」
「少しなら」
「少しずつでいい」
「先生は」
「俺は死んでる」
「それ、便利な返事にしないでください」
「便利ではない」
「じゃあ、ちゃんと答えてください」
俺は少しだけ黙った。
腹の奥では、まだ血の匂いが鳴っている。
身体は冷えている。
ナースウォッチは止まっている。
それでも、足は動く。
「歩ける」
七瀬さんは頷いた。
「じゃあ、行きましょう」
背後で、セクターAの灯が燃えていた。
希望だったもの。檻だったもの。病院ではなかった避難所。救えなかった人たち。まだ救えるかもしれない人たち。
俺は振り返るのをやめた。
前を見る。
大学東研究棟。LZ-04。九条雫。
線は細い。
だが、切れてはいない。
俺と七瀬さんは、燃える門の向こうへ歩き出した。




