第13章 淡い光の目
1. 戻らない未感染
隔離棟奥の高熱反応アラートが、ビッ、ビッ、と二度鳴ってから、三分が過ぎた。
三分。
救命の現場なら、短い。
隠蔽の現場なら、長すぎる。
榊原は端末を二台並べていた。
一台は隔離棟ラボの端末。
もう一台は医療区側の古い記録端末。
ケーブルが床を這い、処置台の脚に引っかかっている。
カチカチ、と榊原の爪がキーを叩く。
音だけは冷静だった。
指は震えている。
笹川は七瀬さんの包帯を巻き直していた。
左前腕。
器材台の角が裂いた傷。
感染疑い血液を浴びた傷。
今は、ただの裂創として扱われようとしている。
「痛む?」
笹川が聞いた。
「……痛い、です」
七瀬さんの返事は薄い。
だが、返事はある。
名前。年齢。自我。
それらはまだ、かろうじて残っている。
問題は、残っているものではない。
増えたものだ。
七瀬さんは目を閉じたまま、顔だけを壁の方へ向けた。
「……月島さん」
笹川の手が止まる。
「月島さんがどうした」
俺は聞いた。
「壁の向こうにいます」
「見えたのか」
「直接は見えてません」
「音か」
「音でもないです」
七瀬さんは眉を寄せた。
「ざらざらしてます。薄くて、紫っぽい」
月島奈穂。
彼女が能力を行使した時、瞳孔の周囲に滲む色。
七瀬さんには、壁の向こうは見えていない。
それでも拾った。
未感染者には戻っていない。しかし、ウォーカー化は逸れた。
だが、元の七瀬結衣ではない。救命は成功ではなく、分岐だった。
「こちらに向かっているか」
「……いえ、離れていきました」
俺は処置台から二歩離れたまま立っている。
近づきすぎれば危ない。
離れすぎれば守れない。
この距離が、今の俺の診療範囲だった。
部屋の隅で、短い電子音が鳴った。
榊原の端末。
ピッ。
一度だけ。
爪の音が止まる。
榊原の顔から、血の気が引いた。
その小さな音で、処置スペースの空気が固まった。
2. 淡い線
「しょ、照会です」
榊原が言った。
声が細い。
「どこから」
「隔離棟ラボ。か、片桐先生の端末経由です」
笹川が顔を上げた。
「早すぎる」
「自動照会です。検体番号と処置時刻の不一致」
榊原は端末をこちらへ向けた。
小さな画面に、記録の穴が並んでいる。
七瀬結衣。再確認対象。検体番号付与待ち。処置室入室。採血記録なし。創部処置ログなし。急変アラートなし。
なのに、感染指標だけが更新されている。
「隠せてないな」
「隠す前提のシステムじゃありません」
榊原は早口になった。
「検体は追えるように作られていて、処置ログを消せば、け、消したことが残ります。残さなければ、残さなかったことが残ります」
「便利だな」
「便利なものばっかり使うと、先生もいいように使われますよ」
俺は笑わなかった。
笑える状況ではない。
「……片桐は気づくか」
「もう、違和感は拾っているはず」
「例えば?」
「七瀬さんの感染指標が、ウォーカー化の曲線から外れたこと。九条先生の残余サンプル照会が、同じ時間帯に再検索されていること。あと」
榊原の指が止まった。
「あと、なんだ」
「……不明血液反応」
画面の文字が、俺の目に入った。
分類不能。溶血なし。凝固反応不一致。細胞破綻なし。修復因子様反応。
俺は息を吸おうとした。
吸う必要のない動作だけが、喉で止まる。
「……俺の血か」
「はい」
「どこまで残った」
「完全には消せません。遠心機の使用ログ、抗凝固剤の在庫変動、血液バッグの廃棄記録。ぜ、全部を消すと逆に目立つ」
笹川が唇を噛んだ。
「私の端末で黄判定観察に偽装します。創部処置は、器材事故による裂創。感染血液曝露は」
「書くな」
俺は言った。
「書けば七瀬さんは終わる」
「書かなければ、医療記録としては破綻します」
「記録より患者だ」
笹川は一瞬だけ目を伏せた。
「分かっています」
分かっている。
そう言えるところまで、彼女は来てしまった。
検疫医としての線を越えた。
俺が越えさせた。
「……先生」
七瀬さんの声がした。
「何だ」
「線みたいなのが、見えます」
俺たちは一斉に彼女を見た。
七瀬さんは処置台の上で、右手を少し持ち上げた。
指先が震えている。
「どこに」
「床」
床には何もない。
白い樹脂床。
血は拭き取られている。
洗浄液の跡が、光を薄く反射しているだけだ。
「具体的には」
「細くて、淡いです。こっちから、あっちへ」
彼女の指は、壁際の端末から扉の方へ動いた。
「人が通った後、みたいな」
「足跡か」
「足跡じゃないです。もっと、薄い。音の残りみたいな」
榊原が小さく呟いた。
「……行動痕跡?」
七瀬さんは目を細めた。
「笹川先生は、細い線です。速い。榊原さんは、点が多い」
「点?」
榊原が自分の胸を押さえた。
「いっぱい考えてる感じ?」
「……それ、見られるのい、嫌ですね」
「先生は……」
七瀬さんの声が小さくなった。
「先生の線だけ、ぼやけてます」
部屋が静かになった。
遠くで空調が低く唸っている。
その音だけが、やけに近い。
「でも、消えてるわけじゃない」
「どう見える」
「輪郭が合わないです。そこだけ、焦点がずれるみたいに」
俺は自分の手を見る。
死者。
心拍も呼吸もない。
体温も足音も、生者のそれとは違う。
七瀬さんの感覚は、俺を生者として拾わない。
「怖いか」
俺は聞いた。
「……怖いです」
七瀬さんは即答した。
「正直だな」
「先生が正直にしろって言いました」
「そうだったな」
「……でも」
彼女はゆっくり呼吸した。
「そこにいるのは分かります」
その言葉が、胸の奥に沈んだ。
沈んで、動かなくなる。
俺は医者でいたい。
人間でなくても。
患者に、そこにいると分かってもらえるなら。
まだ、そこにいられる。
端末がまた鳴った。
ピッ。
今度は二度。
榊原の顔色が変わった。
「……照会が増えました」
「……片桐か」
「はい、か、片桐先生本人の認証です」
3. 消えないログ
榊原は端末を抱え、処置スペースの奥へ移動した。
壁際の古い端末にケーブルを挿す。
カチッ。
小さな音が、部屋に刺さった。
「何をしている」
「ログの時間をず、ずらします」
「消すんじゃないのか」
「消せません。だから、情報を変えます」
榊原の指が走る。
気弱そうな顔に似合わない速度だった。
「七瀬さんの処置を、医療区の黄判定観察に寄せ、創部は器材事故。発熱は再確認後のストレス反応。血液指標は……」
「嘘をつけ」
「はい」
「迷うな」
「迷っています。でも、やります」
それでいい。
迷わない人間に、患者を任せる方が怖い。
笹川は七瀬さんの包帯を確認している。
圧迫は保たれている。
出血は滲む程度。
感染指標は、まだ荒れている。
「九条先生」
笹川が小さく言った。
「七瀬さんを医療区へ戻すのは危険です」
「隔離棟に置く方が危険だ」
「ええ」
彼女は頷いた。
「だから、非常通路を使います。医療区ではなく、管理区境界の物資搬入口側へ」
「そこまで知っているのか」
「知りたくなくても、患者を運ぶ時に覚えます」
黒縁メガネの奥の目が、赤い。
泣いたわけではない。
泣く時間がないだけだ。
「榊原」
「は、はい」
「移動できるまで、どれくらい稼げる」
「長くて十分」
「十分で何ができる?」
「逃げる準備ならで、できます。隠す準備は無理です」
端末の画面が切り替わる。
片桐宗一郎。
認証名だけで、部屋の温度が下がった気がした。
直接の声はない。
文字だけだ。
それでも、人間の手がそこにある。
再確認対象 N-YUI-暫定。感染指標曲線 異常。処置ログ欠落。担当者確認。
榊原の喉が鳴った。
「……返信します」
「何と」
「医療区側の端末不調。担当医確認中」
「子どもの嘘だな」
「大人の嘘はログが残ります」
「それもそうだ」
笹川が端末を受け取った。
「担当医は私です」
画面に短く入力する。
医療区担当 笹川千尋。裂創処置中。再確認延期。
送信音が鳴る。ピッ。軽い音で、重い嘘が送られた。
返答はすぐ来た。
延期理由不十分。
隔離棟ラボへ移送。
笹川の指が止まる。
「はぁ、やっぱり」
「予想通りだ」
「ええ」
「七瀬さん」
俺は処置台へ視線を戻した。
「動けるか」
「動きたくはないです」
「それは分かる」
「でも、動けます」
彼女は上体を起こそうとした。
笹川が支える。
七瀬さんの顔から血の気が引いた。
「無理をするな」
「先生に言われたくないです」
「今は言われておけ」
「……はい」
その時、壁の向こうで警報が鳴った。
さっきの照会音ではない。
低い。
長い。
施設全体のどこかで、何かが閾値を越えた音だった。
ブウウ、と壁が震える。
七瀬さんが顔を上げた。
「熱い」
「発熱か」
「違います」
彼女は扉の向こうを見ていない。
見ていないのに、そちらを向いた。
「奥です」
「隔離棟の奥か」
「もっと、重い。鉄の箱みたいなところ」
榊原が端末を叩く。
「……高熱反応」
「火災か」
「い、いえ。まだ火災判定ではありません。能力反応です」
画面に赤い表示が出る。
管理区深部。熱反応上昇。対象 H-SOMA。
相馬春人。
相馬理恵が言っていた、戻らない夫。
4. 熱の檻
非常通路は、治療のための道ではなかった。
患者を人目から外すための道だ。
細く、白く、窓がない。
壁の中を、配管の音が走っている。
カン、カン、と遠くで金属が鳴る。
熱で伸びた配管が、どこかに当たっている音だった。
七瀬さんは笹川に支えられながら歩いた。
左腕は胸元に固定している。
顔色は悪い。
それでも、足は止めない。
俺は少し離れて歩く。
近づきすぎない距離。
守るには遠い。
食わないためには近い。
矛盾した距離だった。
「……H-SOMA」
俺は榊原に聞いた。
「相馬春人だな」
「はい。Level 5候補。発火・熱操作系」
「どこで管理されている」
「管理区深部。隔離棟と物資倉庫の間にある強化区画です」
「患者か」
「記録上は、保護対象です」
「便利な言葉だ」
月島と同じ言葉。
保護。
守るために縛る。守るために家族から切り離す。守るために、本人の意思を消す。
「なぜ今熱反応が上がる」
榊原は答えなかった。
代わりに端末を見せる。
そこには断片的なログが流れていた。
外縁搬送者。相馬理恵。重篤。インスリン欠乏疑い。脱水。意識混濁。処理済み。
最後の一語で、俺の足が止まった。
処理済み。
死亡ではない。
治療済みでもない。
搬送完了か。
隔離済みか。
記録から外しただけか。
この施設では、どれも同じ言葉で塗り潰される。
「これを相馬春人が見たのか」
「わ、分かりません」
榊原は言った。
「でも、管理区深部の端末照会履歴に、この記録があります。誰かが見せたか、聞かせたか、あ、あるいは」
「……本人が拾った」
「可能性はあります」
七瀬さんが小さく呻いた。
笹川が支える手に力を入れる。
「七瀬さん?」
「熱い、です」
「体温か」
「いえ。あっち」
彼女は通路の奥を指した。
「たぶん、怒ってます」
俺は息を止めた。
止める息はない。
それでも、身体がそうしようとする。
「誰が」
「分からない。でも、ずっと閉じ込められてて」
七瀬さんの声が震えた。
「声が、焼けてる?」
「声?」
「名前を呼んでるみたいです」
「……相馬、理恵か」
七瀬さんは答えなかった。
答えられないのだろう。
彼女の感覚は、まだ言葉になっていない。
線。
ざらつき。
熱。
ぼやけた線。
それらを、人間の言葉に無理やり変換している。
「歩けるか」
「歩きます」
「無理なら言え」
「先生も」
「俺は無理をしていない」
「嘘です」
俺は返事をしなかった。
通路の先で、赤いランプが回っている。
ウウ、と警報が低く続く。
その音に混じって、別の音がした。
ドン。
遠い衝撃。
壁の中を熱が走る。
手すりに触れた笹川が、すぐに手を離した。
「熱い」
「下がれ」
俺は手すりに触れた。
熱い。
だが、火傷するほどではない。
死者の皮膚は、生者より鈍い。
「まだ火災ではない」
「能力で配管が熱を持っています」
榊原の声が上ずる。
「このまま上がれば、物資倉庫側の消毒薬、酸素ボンベ、燃料に引火し……」
「ああ」
俺が呼応した
「燃えます!」
短い言葉だった。
十分だった。
5. 制圧命令
管理区境界へ近づくほど、空気が変わった。
消毒液の匂いに、焦げた樹脂の匂いが混じる。
まだ煙ではない。
熱で何かが変質し始めた匂いだ。
非常通路の扉の向こうから、人の声が重なって聞こえた。
「封鎖ラインを下げろ!」
真壁修一の声だった。
低く、通る。
命令に慣れた声。
俺は扉の細い窓から外を見た。
管理区境界の広い通路に、真壁が立っている。
自衛隊の古い戦闘服。肩に擦り切れた階級章。
その横で、壬生玲央奈が金属扉に手を向けていた。
短く切った髪。鋭い目。
指先の動きに合わせて、扉のロックバーがギギ、と軋む。
磁力操作。金属が泣く音だ。
通路の奥には、自警団員が数人。
その中に黒田岳の姿もあった。
大きな身体。厚い首。苛立った顔。
「開けろ!」
黒田が言った。
「中で暴れてるなら、潰す……!」
真壁が振り向く。
「待て」
「待って燃えたらどうする!」
「制圧と避難誘導を分ける。お前は一般区側を押さえろ」
「俺に逃げろって言ってんのか」
「守れと言っている!」
黒田の顔が歪む。
その時、奥の強化扉が赤く光った。
光ではない。
熱だ。
鉄の表面が、内側から赤黒く焼けている。
壬生が舌打ちした。
「ロックが膨張してる。曲げにくい」
「壬生、下がれ!」
真壁が言う。
「下がったら閉じなくなる」
「手が焼けるぞ!」
「もう熱い!」
それでも壬生は手を下げなかった。
金属がギィ、と長く鳴る。
高い音ではない。
歯の奥に響くような、嫌な音だ。
七瀬さんが耳を押さえた。
「だめ……!」
「どうした」
「押さえるほど、熱い」
「壬生のことか」
「扉の向こう」
彼女の目が、淡く光った。
「中の人、閉じられる音を聞いてます」
俺は扉の向こうを見る。
見えるはずがない。
それでも、想像できた。
強化区画。拘束具。家族から切り離された男。妻の記録に「処理済み」と書かれた端末。
そして、外では制圧命令。
「真壁!」
俺は扉を開けた。
笹川が息を呑む。
榊原が小さく「ま、待って」と言った。
待てない。
今出なければ、次は火災だ。
真壁がこちらを見た。
「九条先生!」
壬生も振り向く。
その目が、俺の後ろの七瀬さんを捉えた。
一瞬だけ、何かが揺れる。
管理区境界で一度だけ見せた、あの迷いと同じ揺れ。
「その子を連れてここへ来る場所じゃない!」
真壁が言った。
「それは分かっている」
「なら下がれ!」
「中の対象は相馬春人か」
黒田が前へ出る。
「対象?」
「患者だ」
黒田の目が細くなる。
「あれは火種だ」
「火種になる前に診る」
「寝言言ってんじゃねえ!」
黒田の足が床を踏む。
ドン、と重い音。
通路の空気が揺れた。
「あいつが開いたら、ここが燃える。患者だの何だの言ってる暇はない」
「閉じ込めて燃やせば、もっと燃える」
「医者は黙ってろ」
真壁が片手を上げた。
黒田は不満そうに舌打ちしたが、止まった。
「九条先生」
真壁は俺を見た。
「中の状況を医学的に落とせるのか」
「保証はできない」
「なら、制圧が先だ!」
「制圧で悪化する可能性が高い」
「根拠は」
俺は端末を見せた。
相馬理恵。重篤。処理済み。
真壁の表情がわずかに変わった。
「誰がこれを」
「分からない」
「彼が見たなら」
「家族を殺されたと思っている」
真壁は黙った。
壬生が低く言う。
「あの人、奥さんのことだけはずっと聞いてた」
黒田が苛立つ。
「だから何だ」
「だから、閉じる音がまずい!」
七瀬さんが言った。
全員が彼女を見る。
七瀬さんは笹川に支えられたまま、白い顔で立っていた。
「扉を閉める音が、燃料みたいになってます!」
「何を言ってる!」
黒田が吐き捨てる。
「分からないなら黙ってて」
七瀬さんの声は弱かった。
だが、まっすぐだった。
黒田が目を剥く。
俺は一歩前に出た。
近づくな。
自分に言う。
七瀬さんにではない。
黒田にでもない。
俺の空腹にだ。
「真壁」
俺は言った。
「封鎖は維持しろ。ただし、音を立てるな。金属を締め上げるな。避難導線を先に作れ」
「指揮権は俺にある」
「だから頼んでいる」
真壁の目が細くなる。
「頼む顔じゃない」
「医者の顔だ」
壬生が小さく笑った。
笑いではない。
息が漏れただけだ。
「……真壁さん」
壬生は言った。
「ロック、押さえるだけにします。曲げない」
「できるか」
「熱いけど」
「できるか」
「やります」
真壁は短く頷いた。
「黒田。一般区側の人を下げろ。揉めたら力を使っていい。ただし殴るな」
「面倒くせえ」
「命令だ」
黒田は舌打ちして、背を向けた。
その背中が通路を塞ぐように大きい。
完全な味方ではない。
だが、今だけは同じ方向へ動いた。
強化扉の向こうで、また衝撃音がした。
ドン。
今度は近い。扉の赤が濃くなる。
七瀬さんが膝を折りかけた。笹川が支える。
「もう限界です」
彼女は言った。
「誰が」
「中の人も。私も」
6. 患者か、火種か
非常通路へ戻ると、七瀬さんの呼吸は乱れていた。
顔色が悪い。
額に汗。
瞳の淡い光は、強くなっている。
強くなればいい、というものではない。
発熱が上がれば、炎になる。
能力も同じだ。
制御できない強さは、ただの症状だ。
「座れ」
俺は言った。
笹川が壁際に彼女を座らせる。
榊原が端末を抱えたまま周囲を見ている。
追跡。
熱反応。
血清ログ。
全部が同時に来る。
「九条先生」
笹川が言った。
「このまま逃げるべきです」
「分かっている」
「分かっている顔じゃありません!」
「医者の顔は厄介だな」
「今の先生は、患者の顔もしています」
正しい。
俺は患者だ。
死者で、怪物で、医者で、患者だ。
「春人を放置すれば燃える」
「近づけば、先生も七瀬さんも捕まります」
「それも分かっている」
「じゃあ」
「分かっていても、診なければならない患者がいる」
笹川は目を閉じた。
怒りを飲み込んだ顔だった。
「そういうところが、ずるいんです」
「最近よく言われる」
「言われる理由があります」
七瀬さんが小さく笑った。
笑いにはならなかった。
咳になった。
「話すな」
俺は言った。
「話します」
「お前たちはどうしてそうなんだ」
「先生の周りにいるからじゃないですか」
反論できない。
七瀬さんは右手で胸元を押さえた。
「あの人」
「春人か」
「たぶん」
彼女は通路の奥を見る。
「火だけじゃないです。人の形が、まだあります」
「見えるのか」
「見える、とは違う。でも、真ん中に冷たいところがある」
「冷たい?」
「名前を呼んでるところ」
相馬理恵。
夫が戻らないと言っていた女性。
インスリンが足りず、セクターAへ入れなかった女性。
重篤搬送。安否不明。処理済み。
春人に届いたのがその断片なら、怒るなという方が無理だ。
だが、怒りは火になる。
火は人を焼く。
患者であることと、危険であることは両立する。
それを一番知っているのは、俺だ。
「く、九条先生」
榊原が言った。
「片桐先生の照会、止まりません。今度は九条先生の残余サンプルだけじゃない」
「何だ」
「七瀬さんの虹彩反応の再確認要求です。月島さんにも飛んでいます」
月島。
七瀬さんを記録した女。
澪を保護対象と呼んだ女。
彼女が来れば、七瀬さんはまた観察台に戻る。
「どれくらいで来る」
「分かりません。でも近いです」
遠くで足音がした。
複数。
硬い靴底が、白い床を叩く音。
カツ、カツ、カツ。
検疫班か。
月島か。
片桐本人ではない。
まだだ。
だが、近づいている。
「移動する」
俺は言った。
「どこへ」
笹川が聞く。
「相馬春人の区画を避けて、物資搬入口側へ抜ける」
「春人さんを診ると言ったばかりです」
「今は七瀬さんを守る」
「その後は」
「戻る」
笹川は深く息を吐いた。
「医者って、本当に面倒ですね」
「知っている」
七瀬さんが俺を見る。
「先生」
「何だ」
「春人さん、患者なんですよね」
「ああ」
「でも、火事になりますよね」
「なる」
「じゃあ」
彼女は苦しそうに息を吸った。
「患者を助けながら、火事も止めるんですね」
「簡単に言うな」
「先生がいつもやってることです」
俺は笑えなかった。
それでも、少しだけ口元が動いた気がした。
「違う」
「違います?」
「いつも失敗している」
「じゃあ、今回は」
足音が近づく。
警報が続く。
壁の向こうで、また熱が膨らむ。
ドン。
強化扉を叩く音。
いや、内側から熱が押している音だ。
七瀬さんの瞳に、淡い光が揺れた。
「今回は、まだ終わってません」
彼女は言った。
俺はナースウォッチを握った。
止まった針。
止まった時間。
それでも、俺たちは進まなければならない。
「榊原」
「はい」
「記録を持て。消せるものは消すな」
榊原が目を見開いた。
「え」
「消すから追われる。持って逃げる」
「そ、それは」
「片桐より先に、俺たちが読む」
榊原の喉が鳴る。
怖い顔だった。
だが、逃げる顔ではなかった。
「分かりました」
「笹川先生」
「はい」
「七瀬さんを頼む」
「九条先生は」
「俺は、まだ医者でいる」
笹川は何かを言いかけた。
言わなかった。
代わりに頷く。
遠くで、金属が悲鳴を上げた。
ギィィ、と長く歪む音。
壬生が押さえている扉か。
それとも、春人の熱に耐えきれなくなった壁か。
七瀬さんが目を閉じる。
「先生」
「何だ」
「火の中に、声があります」
「聞くな」
「聞こえます」
彼女の頬を、涙が一筋落ちた。
「助けて、じゃない」
「何だ」
「……返せ、って」
警報が一段高くなった。
赤いランプが回る。
白い通路が、薄く赤に染まる。
救命は終わりではなかった。
血清は処方箋ではなかった。
火災の前の、静かな発火点だった。
俺は非常通路の先を見た。
七瀬さんを逃がす道。
春人へ向かう道。
片桐から遠ざかる道。
片桐へ近づく道。
全部が、同じ白い通路の中で重なっている。
「行くぞ」
俺は言った。
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
七瀬さんに。
笹川に。
榊原に。
それとも、まだ医者でいようとする死者に。
足音が近づく。
熱が膨らむ。
淡い光が、七瀬さんの瞼の裏で揺れる。
俺たちは走り出した。




