表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/17

第12章 血の処方箋

1. 検体番号の少女


白い通路の先で、検疫班が待っていた。


さっきの二人ではない。


防護マスク。記録端末。採血トレイ。赤い搬送票。


「医療区で再評価すると」


笹川が前に出た。


「更新されています」


それだけだった。


言葉より端末の方が速い施設では、言葉は消耗品だ。


七瀬さんは俺の隣にいた。


肩は強張っている。

だが、逃げようとはしていない。

その強さが嫌だった。


強い子どもは、大人に便利に使われる。


「先生」

「何だ」

「行ったら、戻れますか」


嘘をつくなら、今だった。


戻れる。

大丈夫だ。

採血だけだ。


どれも、医者が使ってはいけない麻酔だった。


「戻す」


俺は言った。


「戻れる、じゃなくて?」

「俺が戻す」


七瀬さんは、少しだけ目を細めた。


「先生、そういうところ、ずるいです」

「自覚はある」

「じゃあ、ちゃんとずるくいてください」


その声は震えていなかった。


震えていないことが、やはり怖かった。


笹川が小さく言う。


「九条先生。入ったら、私の権限だけでは止められません」

「分かっている」

「榊原さんも、長くは誤魔化せない」

「それも分かっている」


検疫班の女が端末を掲げた。


七瀬結衣。

再確認対象。

検体番号付与待ち。


俺はその表示を見た。


もう見ないふりはできない。


「七瀬さん」

「はい」

「名前で返事をしろ」


七瀬さんは一瞬だけ俺を見た。


それから、端末ではなく検疫班の女を見た。


「七瀬結衣です」


声は細い。

だが、番号ではなかった。


俺たちは隔離棟側の扉をくぐった。


扉が閉まる音は、思ったより軽かった。


軽い音で、人は戻れなくなる。


2. 鎮静のほころび


隔離棟処置エリアは、病棟ではなかった。


ベッドも、点滴台も、モニターもある。だが、それらは治療のためというより、観察を続けるために配置されていた。


ベッドの横には番号。壁にはカメラ。端末には経過時間。


患者の名前より、発症から何分経ったかの方が大きく表示されている。


「再確認は三番処置室です」


検疫班の女が言った。


「眼球所見、皮膚温、血液指標、感覚反応の再現確認」


「感覚反応?」


七瀬さんの声が小さくなる。


「説明は検査後に」

「説明を先にしろ」


俺が言うと、女は俺を見た。


目に苛立ちはない。

ただ、急いでいる人間の冷たさがある。


「九条先生。あなたは同席を認められていますが、手順の変更権限はありません」

「医師の同席を認めるなら、医師の質問にも答えろ」

「緊急時運用です」


また、それだ。


言葉を返そうとした時、三番処置室の扉の向こうで金属音がした。ベッド柵が何かに叩きつけられる、高い音だった。


次に、誰かの叫び声。


「離して!」


子どもの声だった。


七瀬さんが反応した。


「澪ちゃん……」


月島奈穂が、三番処置室の扉から出てきた。


薄紫の輪が、瞳孔の周囲に滲んでいる。


前に見た時より濃い。おそらく鎮静を使っている。


それでも、処置室の中は静かになっていなかった。


扉は完全には閉まっていない。月島の背後の細い隙間から、中の配置が見えた。


手前には小児用の観察ベッドがあり、細い腕をベルトで固定された相沢澪が上体を起こしている。奥には透明パネルで区切られた隔離ベッドがあり、そこに大人の男が固定されていた。


あれは確か、昨夜搬送された内藤だ。


黄から赤へ変更され、妻を通路の手前に残して隔離棟へ運ばれた男。

昨夜はまだ会話が成立していたし、俺の袖を掴む力も人間の焦りの範囲だった。


今は違う。片腕をベッド柵に拘束されたまま上体をねじり、外れかけた片足のベルトを引きずって、床の器材台を何度も蹴っている。痛みを避ける動きがない。筋肉の使い方が雑だ。


それでも、完全に沈んではいない。濁った目の奥に、誰かを探すような焦点がまだ残っている。


「下がってください」


月島は言った。


柔らかい声。


命令の形をした声。


「再確認対象は三番へ」

「中で何が起きている」

「観察対象の興奮です」

「患者だろう」


月島の目が、ほんの少しだけ動いた。


「保護対象です」

「ベッドに縛っているのに?」


答えはなかった。


処置室の中で、また金属が鳴った。今度は低い。器材台の脚が、床を削る音だ。


手前の澪。奥の内藤。二人のあいだに、採血済みの検体容器を載せた器材台がある。


近すぎる。


消毒液の匂いに、血の匂いが混じった。


空腹が、腹の奥で冷たく鳴った。


俺は奥歯を噛む。


七瀬さんの指が、制服の袖を握った。


「先生」

「見るな」

「でも……」


そう言った瞬間、ガンッ、と内藤の足が器材台を強く蹴った。


台は透明パネルの下の隙間を抜け、手前へ滑り出した。


「澪ちゃん!」


七瀬さんが月島の横をすり抜けた。俺が手を伸ばすより早かった。


器材台はガラガラと床を走り、澪のベッドにぶつかった。採血管と検体容器がまとめて床へ落ち、ガシャン、と割れる。


赤黒い血液が跳ねた。


同時に、台の鋭い金属角が澪の胸元へ向かった。


「七瀬さん、止まれ」


俺の声は間に合わなかった。


七瀬さんは澪の前に出て、澪に当たるはずだった器材台を左腕で受けた。


金属の角が、七瀬さんの左前腕を裂く。浅くない。開いた皮膚から血が出たところへ、床から跳ねた赤黒い液がかかった。


容器のラベルには、内藤の検体番号。


感染血液。


創部曝露ばくろ


世界から音が消えた。


一秒。

二秒。


俺は動いた。


3. 受傷から七分


「笹川、扉を閉めろ」


俺は七瀬さんの腕を掴んだ。


「榊原を呼べ。今すぐ」


笹川の顔が白くなった。


だが、動きは速かった。


扉が閉まる。


検疫班が何かを叫ぶ。


月島が感染疑い者へ手を伸ばす。


俺は見ない。


今見るべき患者は一人だ。


七瀬結衣。


左前腕裂創。

創部に感染疑い血液。

出血量は中等量。

動脈性ではない。

腱損傷は不明。


だが、そんなことは二番目だ。


「痛むか」

「痛い、です」

「しびれは」

「分かりません」

「指を動かせ」


七瀬さんは動かそうとした。


親指、人差し指、中指は動く。

薬指が遅れ、小指は震えている。


恐怖か。

感染初期か。

判断する時間がない。


「先生」


七瀬さんが俺を見た。


「これ、まずいですよね」

「まずい」

「やっぱり」

「嘘をつく時間がない」


俺は傷口の周囲を洗浄した。


生理食塩水。

足りない。


それでも流す。

擦らない。

押し込まない。

血液を外へ出す。

中へ入れない。


だが、入ったものはもう戻らない。


「受傷時刻」


笹川が端末の時刻を見た。


「二十三時四十一分」


俺は胸ポケットのナースウォッチに触れた。


舞の形見。

止まった針。

今の時間は刻めない。


それでも、あの時に間に合わなかったことだけは、手の中に残っている。


「受傷から一分」


俺は言った。


「七瀬さん。目を見る」

「はい」


瞳孔。

左右差なし。

対光反射あり。

虹彩に明確な変色はない。


だが、目の端に、薄いちらつきがあった。


気のせいならいい。

気のせいであってほしかった。


「寒いか」

「暑いです」

「吐き気は」

「少し」

「音は」


七瀬さんの顔が変わった。


「……近い」

「どこが」

「全部です」

「全部?」

「壁も、床も、人も。ざらざらして、重なって」


彼女は息を吸った。


「……澪ちゃんの音が、遠くなりました」


澪は、まだ処置室の奥にいた。


月島が感染疑い者を抑え込んでいる。


笹川が澪の拘束を外そうとしている。


俺は七瀬さんだけを見る。


見るべき患者を増やすな。

増やせば、今度は誰も救えない。


受傷から三分。


七瀬さんの皮膚温が上がる。

呼吸が浅くなる。


創部周囲に、黒い糸のような血管影。


通常感染の初期。


早い。

早すぎる。


創部曝露。


血液量は少ない。

それでも、彼女の反応は速い。


適応兆候者だからか。

未成年だからか。

ウイルスを待っていたのか。


答えはあとでいい。

あとがあれば。


「先生」


七瀬さんが言った。


「まだ、選べますか?」


舞の声が、耳の奥で鳴った。


助けて。


違う。


今の声は舞ではない。


七瀬結衣だ。


「選べる」


俺は言った。


「なら、私」

「言うな!」

「でも……」

「最後まで聞いたら、俺が迷う」


七瀬さんは泣きそうな顔をした。


泣かなかった。


「ずるいです」

「今はそれでいい」


受傷から七分。


俺は通常処置を捨てた。


捨てた、というより、間に合わないと診断した。


「榊原」


俺は振り返った。


扉の隙間から、榊原周が入ってきた。


息が上がっている。


気弱そうな顔に、恐怖が張りついていた。


だが、手には抗凝固剤と採血セットがある。


「作れるか」


榊原は首を横に振った。


「つ、作れません」

「最低限は」

「賭けなら、で、できます」


十分だった。


4. 作れない血清


隔離棟ラボの隣には、使われていない処置スペースがあった。


使われていない、というのは正確ではない。


記録に残しにくい処置のための部屋だ。


小型遠心機。冷却庫。簡易モニター。処置台。


壁の端末はオフライン表示。


それでも、電源は生きている。


ここでは人間より検体のための電力が優先される。


七瀬さんを処置台に寝かせた。


彼女の意識はある。

あるが、目の焦点が揺れている。


「寝るな」

「寝てません」

「返事が遅い」

「先生が早いんです」


まだ返せる。

まだ七瀬結衣だ。


笹川が傷口の洗浄と圧迫を続ける。


榊原は器材を並べた。

指先が速い。

震えているのに、迷いはない。


「九条先生の血液を、全血で入れるのは危険です」

「分かっている」

「赤血球成分は避けたい。血漿側、または上清じょうせいに近い部分だけ。分離は不完全になります」

「溶血は」

「あり得ます。ABO不適合も。急性反応も。暴走適応も」

「全部言え」


榊原は一瞬、俺を見た。


「治らない可能性が高い。助かっても、元には戻らない可能性がある。助けたつもりで、別の経路へ押し込むだけかもしれない」


笹川の手が止まった。


「同意は」


医師として、当然の問いだった。


今の七瀬さんに、どこまで判断能力が残っているか。


未成年で、感染進行中で、恐怖の中にいる。


同意など、成立しない。


それでも、彼女は目を開いた。


「先生」

「話すな」

「話します」


声は弱い。


だが、言葉は七瀬さんのものだった。


「私が私じゃなくなる前に、選べるって、言いました」


俺は何も言えなかった。


「選びます」

「何を……」

「先生が、一番嫌な顔をしてる方」

「それはたいてい正解じゃない」

「でも、先生が迷う時は、誰かを助ける時です」


笹川が目を伏せた。


榊原は端末を見ているふりをした。


「だから、お願いします」


お願いします。


舞と同じ言葉。


意味は違う。


舞は終わらせてほしかった。


七瀬さんは、終わらせないでほしいと言っている。


俺は胸ポケットに手を入れた。


ナースウォッチ。

小林舞の形見。

銀色の針。

止まったままの針。


あの時、間に合わなかった時間で止まっている。


今、間に合わせるための時間。


「判断は俺が引き受ける」


俺は言った。


「記録には残すな」


笹川が顔を上げる。


「九条先生!」

「医師としての判断だ。未完成プロトコルを、感染進行阻止目的で緊急使用する」

「そんな書き方、通りません!」

「通すために書くんじゃない」


俺は七瀬さんを見た。


「俺が逃げないために言っている」


榊原が小さく息を吸った。


「採血します」

「俺がやる」

「じ、自分で?」

「他人に刺されると、たぶん反射で避ける」

「笑えません」

「……俺もだ」


榊原は駆血帯くけつたいを差し出した。


「死体に駆血帯が効くかは、し、知りません」

「俺も知らない」


榊原は、短く頷いた。


「い、嫌な実験で、お、終わらせないでください」


それは検査技師の言葉ではなかった。


人間の言葉だった。


5. 死者の採血


針を自分の肘窩ちゅうかへ入れる。


痛みは鈍い。

生者の痛みではない。

だが、血管に触れた感覚はある。


暗い血がチューブへ上がった。


赤い。


普通の血に見える。

それが一番不気味だった。


俺の心臓は動いていない。

呼吸も必要ない。

体温も低い。


それでも血は流れる。


流れるように、身体が作り替えている。


死体を、医者として使える形に保つために。


「さ、採血量は」


榊原が聞いた。


「必要最小限だ」

「数字でください。ぼ、僕が分離量を決められません」

「分離に必要な下限はお前が決めろ」

「投与量の判断は」

「俺が決める」


榊原は一瞬だけ不満そうな顔をした。


だが、反論しなかった。


「採れすぎれば、あ、あなたが危険です」

「すでに危険だ」

「……そういう意味ではあ、ありません」


血液バッグに、俺の血が溜まっていく。


チューブの中を、暗い赤が音もなく進む。


その匂いが、部屋を満たした。


血の匂い。


七瀬さんの血。

俺の血。

感染疑い者の血。


全部が混ざる。


腹の奥で、冷たい鼓動が鳴った。


一拍。


強い。


処置台はすぐ横にある。


俺は採血側の椅子に座ったまま、七瀬さんの手首に触れられる距離にいた。


皮膚の熱が、血の匂いと一緒に届く。


脈が速い。


恐怖と発熱で、血が熱い。


食え。


言葉ではない。

衝動でもない。

命令に近い。


俺はナースウォッチを握った。


銀色の縁が掌に食い込む。


舞。


俺はお前を救えなかった。


終わらせることしかできなかった。


だから、今度は。


「……九条先生」


笹川の声が遠い。


「顔色が」

「死体に顔色を求めるな」

「冗談を言える状態じゃありません!」

「冗談じゃない」


俺は針を抜いた。


圧迫。

止血。

傷はすぐ塞がろうとする。


採血痕が、薄い赤紫の線になって閉じていく。


榊原がそれを見た。

目が揺れる。

恐怖ではない。


検査値の向こうに、実物を見てしまった人間の目だ。


「……やっぱり」

「言うな」

「い、言いません」


榊原は血液を遠心機へ入れた。


小さな機械が回る。

音が低く唸る。


時間が削られていく。


「か、完全には分離しません」

「分かっている」

「赤血球成分が残れば溶血リスクがあ、上がります」

「分かっている」

「投与量を誤れば」

「榊原」


俺は言った。


「全部分かっている。だから、全部怖い」


榊原は黙った。


遠心機の音だけが続く。


七瀬さんの呼吸が乱れた。


笹川がモニターを見る。


「体温、上がっています。脈も速い」

「意識は」

「薄い」


処置台の上で、七瀬さんが身じろぎした。


俺の指先が、彼女の手首に触れた。


熱い。

脈が速い。


生きている熱だ。


食人衝動が、また鳴る。


ナースウォッチを握る。


止まった針。頭で数える。


一秒。

二秒。

三秒。


医者でいろ。


死者でも。


怪物でも。


今だけは。


遠心機が止まった。


榊原がチューブを取り出す。


完全ではない。

透明でもない。

淡く濁った赤。


治療薬には見えなかった。


当たり前だ。


これは薬ではない。

処方箋でもない。


俺の死体から切り出した、猶予のかけらだ。


「い、入れます」


榊原の声が引っかかった。


「少量。ゆっくり。反応を見ながら」


俺は頷いた。


「……投与開始」


笹川が言った。

声が震えていた。


医師が震える時は、手を止めてはいけない。


震えたまま、正しい手順を選ぶ。


それが現場だ。


6. 淡い光


最初の一分、何も起きなかった。


それが一番怖い。


失敗した処置は、すぐには失敗と分からない。


患者だけが、静かに遠ざかっていく。


七瀬さんの瞼が震える。


呼吸が浅い。


創部周囲の黒い血管影は、広がりを止めていないように見えた。


「反応なし」


榊原が言った。


「まだだ」


俺はモニターを見る。


数字は荒れている。


発熱。

頻脈。

酸素飽和度低下。

感染進行。

適応反応。


どちらにも見える。

どちらでもないようにも見える。


「追加は」


笹川が聞いた。


「まだだ」

「待てる状態じゃない」

「入れすぎれば死ぬ」


自分の声が冷たかった。

嫌になるほど、医者の声だった。


七瀬さんの唇が動く。


「先生」

「ここにいる」

「音が」

「近いか?」

「違います」


彼女は苦しそうに眉を寄せた。


「……遠いのに、見えます」

「何が」


「澪ちゃん。笹川先生。榊原さん。月島さんも。壁の向こうに、熱いところがあって」


言葉が途切れる。

俺は息を止めた。

いや、止める息はない。


「七瀬さん。俺は」

「先生は」


彼女の目が、薄く開いた。

虹彩の縁に、淡い光があった。

青でも緑でもない。

黄色にも近い。

信号のような色ではない。

夜の水面に、遠い街灯が揺れるような光。


「先生は、音がしない……」


部屋が静かになった。


笹川も、榊原も、何も言わない。


七瀬さんは俺を見ている。


「でも、そこにいるって分かります」


その言葉が、胸の奥に刺さった。


心臓はない。


それでも刺さる場所はある。


「自我崩壊は」


笹川が小さく言った。


「止まっています……!」


榊原が端末の数値を見る。


「感染指標の上昇が鈍った。か、完全停止ではありません。下がってもいない。でも」

「でも?」

「ウォーカー化の曲線からは、外れています」


外れた。


治った、ではない。

助かった、でもない。


ただ、最悪の線から逸れた。


それだけで、俺は膝から力が抜けそうになった。


抜けなかった。

抜けている暇はない。


「七瀬さん」

「……はい」

「名前を言え」

「……七瀬、結衣」


「年齢」

「……十四」


「俺の名前は」

「……九条。先生」


「職業は」

「……医者」


「俺の悪口を一つ」


笹川が俺を見た。

榊原も見た。


七瀬さんは、少しだけ口元を動かした。


「……ずるい」

「合格だ」


「あと、怖い」

「……1つでいい」


彼女は笑おうとした。

笑いにはならなかった。


それでも、自我はそこにあった。


俺は七瀬さんの手を取った。


熱い。

生きている。


だが、普通の熱ではない。


皮膚の下で、何かが組み替わっている。


ウイルスと、俺の血液と、彼女自身の何かが、まだ答えのない計算を続けている。


「……救えたんですか」


笹川が聞いた。


医者の問いではない。


人間の問いだった。


俺は七瀬さんの目を見る。

淡い光は、もう消えかけている。

だが、完全には消えていない。


「……分からない」


俺は言った。


「でも、終わらなかった」


榊原が端末を閉じた。


「この記録は、残せません」

「残さなくていい」

「残さないと、さ、再現できません」

「再現するな」


榊原は俺を見た。


「片桐先生は、必ず気づきます」

「だろうな」

「七瀬さんの検査値も、九条先生の血液も、か、隠しきれません」

「……それも、だろうな」


笹川が七瀬さんの髪を整えた。


黒縁メガネの奥の目が赤い。


「それでも、今は生きてる」

「……はい」


榊原は小さく頷いた。


「生きています。少なくとも、検査値はそう言っています」

「検査値以外は」

「分かりません」

「正直でいい」


俺は立ち上がろうとした。


視界が揺れた。


血を採りすぎた。

いや、量だけではない。


自分の中にあった何かを、外へ出した。


空腹が、腹の奥から上がってくる。


強い。

冷たい。


七瀬さんの血の匂いが、近すぎる。


俺は処置台から一歩離れた。


「……九条先生?」


笹川の声。


俺は答えない。


答えれば、口を開く。

口を開けば、匂いが入る。


ナースウォッチを握る。


まだ医者でいろ。


七瀬さんが、薄く目を開けた。


「……先生」


俺は見ない。


「こっち、見てください」


見れば、腹が鳴る。


それでも、俺は見た。


七瀬さんは、かすかに笑っていた。


「……まだ、選べますよね」


俺は笑えなかった。


「ああ」

「なら、先生も選んでください」


何を、と聞く必要はなかった。


食うか。


耐えるか。


怪物になるか。


医者でいるか。


俺はナースウォッチを握ったまま、処置台から離れた。


「……榊原」

「はい」

「扉を閉めろ。俺を七瀬さんに近づけるな」


榊原の顔が強張った。


それでも、彼は動いた。


「笹川」

「はい」

「七瀬さんを見ろ。俺を見るな」


笹川は一瞬だけ迷った。


それから、頷いた。


正しい。


医者は、今一番危ない患者を見る。


今、一番危ない患者は七瀬さんだ。


そして、次に危ないのは俺だった。


壁の向こうで、ビッ、ビッ、と短い警報音が二度鳴った。


榊原の端末に、赤い表示が走る。


隔離棟奥。

高熱反応アラート。


誰かが走る音。


片桐宗一郎の端末にも、きっと何かが届いている。


七瀬結衣の感染指標。

九条蓮の不明血液反応。

隠蔽された処置ログ。


俺たちは救命した。

同時に、証拠を作った。


七瀬さんの呼吸は続いている。

淡い光は、瞼の裏でまだ揺れている。


助かった。


そう言うには早すぎる。

それでも、終わらなかった。


俺は白い壁にもたれた。


血の匂いの中で。


死者の空腹を抱えたまま。


まだ医者でいるために。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ