第11章 隔離棟の検体
1. 再検査までの猶予
隔離棟へ続く通路は、白かった。
患者に安心を与えるための白ではない。
血液、吐瀉物、体液、爪の跡。人間が人間でなくなっていく途中でこぼすものを、すぐ見つけるための白だ。
俺は七瀬さんと並んで、その白い通路を歩いていた。
走らない。
目立たない。
だが、急ぐ。
医者の基本だ、と言いたいところだが、正確には違う。必要な時に必要なだけ急ぎ、それを周囲に悟らせないことだ。
この施設では、白衣が走ると人が消える。
「先生」
七瀬さんが声を落とした。
「さっきから、見られてませんか」
「見られている」
「否定してほしかったです」
「事実の否定は専門外だ」
「医者って、もっと励ましてくれるものじゃないんですか」
「励ましで血液検査の値は下がらない」
「最低です」
「よく言われる」
軽口は、呼吸の代わりになる。
七瀬さんは笑わなかった。だが、肩の力がわずかに抜けた。
それでいい。
俺は通路の壁に貼られた掲示を横目で見る。
赤、黄、緑。
入所者の移動区分。
感染疑い者の搬送経路。
検体回収時の注意。
その下に、小さな紙が一枚追加されていた。
再確認対象者一覧。
七瀬結衣。
俺は視線を止めなかった。
止めれば、見たことになる。
見たことになれば、反応したことになる。
反応したことになれば、理由を問われる。
「今、私の名前、ありましたよね」
「あった」
「やっぱり否定してほしかったです」
「名前を見間違える医者は信用しない方がいい」
「今、信用が少し減りました」
「元が高すぎた」
「そんなに高くないです」
その言い方だけ、少し日常に近かった。
医療区の処置スペースへ入る手前で、笹川千尋が待っていた。
黒髪を後ろでひとつに束ね、白衣の袖を肘までまくっている。黒縁メガネの奥の目は、昨日よりも疲れていた。頬は削げ、目の下には濃い隈がある。
それでも、視線だけは眠っていない。
「遅い」
「一時間稼いだと言われた」
「もう五十分使ってる」
「残り十分もある」
「救急医みたいな計算をしないで」
「感染症科だ」
「なお悪い」
笹川は七瀬さんを見た。
一瞬で医師の顔になる。
顔色。呼吸。意識。歩行。目の動き。
その全部を、一秒未満で拾う顔だ。
「七瀬さん、気分は」
「悪くないです」
「悪い時の言い方」
「……ちょっと、音が近いです」
「音?」
七瀬さんは首を横に振った。
説明できない。
それは彼女のせいではない。体験に言葉が追いついていないだけだ。
笹川の視線が俺へ移る。
俺は小さく首を振った。
今ここで掘るな。
記録するな。
笹川は唇を結んだ。
「再検査の命令が変わった」
笹川は処置棚からガーゼの箱を取るふりをしながら言った。
「医療区での再問診じゃない。隔離棟側の採血に回される」
「誰の指示だ」
「月島の所見に、片桐先生の確認がついた」
片桐宗一郎。
隔離棟の記録に何度も出てきた名前。
感染分岐観察。
検体採取。
適応者候補。
その言葉の奥で、患者の顔だけが消えていく。
「止められるか」
「十分なら」
「十分で何ができる?」
「見るべきものを見る」
笹川はメガネの位置を指先で直した。
「隔離棟ラボに、検査担当がいる。榊原周。澪ちゃんの記録を残していた人」
「信用できるのか」
「分からない」
「分からない相手に会わせるのか」
「分かる相手だけ選べる状況なら、あなたに頼ってません」
返す言葉がなかった。
その通りだ。
2. 澪の記録
隔離棟裏手の連絡通路は、医療区よりさらに静かだった。
静かすぎる。
患者の声がない。
ナースコールもない。
代わりに、冷却庫の低い唸りと、遠くの金属音だけがある。
曲がり角の先で、車椅子が止まっていた。
相沢澪。
小さな体をベルトで固定され、薄い毛布をかけられている。目は開いているが、焦点は合っていない。隣には月島奈穂がいた。
「微弱反応、継続。鎮静は維持」
月島の声は柔らかい。
柔らかいのに、言葉だけが冷たい。
「検体M-09、搬送します」
澪の名前は出なかった。
七瀬さんの足が止まる。
「澪ちゃん」
小さな声だった。
澪の目が、ほんの少しだけ動いた。
聞こえたのか。
それとも、ただ刺激に反応したのか。
分からない。
月島がこちらを見る前に、笹川が俺たちを壁際へ押した。
「今は出ないで」
「でも」
「今出れば、七瀬さんも同じことになる」
七瀬さんは息を呑んだ。
俺は車椅子の背面に貼られたラベルを見た。
相沢澪。
微弱S反応。検体継続。適応者血漿反応なし。鎮静下観察。
患者の状態ではない。
実験の進捗だ。
月島たちが去ると、通路には冷たい匂いだけが残った。
七瀬さんは拳を握っていた。
「あの子、名前で呼ばれてませんでした」
「ああ」
「私も、そうなるんですか」
「させない」
「先生がそう言うと、少し安心します」
「少しだけか」
「安心したら、先生が無茶します」
分かっている。
この子は、俺よりも俺の扱いに慣れ始めている。
笹川が低く言った。
「澪ちゃんの記録を、医療区側から見える位置に残した人がいる」
「榊原か」
「ええ」
「なぜ」
「たぶん、見てほしかったから」
「誰に」
笹川は答えなかった。
黒縁メガネの奥で、目だけがわずかに揺れた。
答えは、たぶん彼女自身だ。
3. ラボの男
榊原周は、ラボの前で血液バッグを数えていた。
いや、数えているように見えた。
実際には、ラベルを見ている。
番号。採取時刻。凝固の有無。分離予定。
その視線は速いが、雑ではない。
年齢は三十代前半。薄いグレーの検査着に、防水エプロン。背は俺より少し低い。痩せていて、肩が内側へ入り気味だ。前髪が少し目にかかり、初対面なら押せば引きそうな印象を受ける。
気弱そうな男。
だが、指先だけが違った。
ラベルをめくる動きに迷いがない。
数字を追う速度に、余分な感情がない。
「榊原さん」
笹川が声をかける。
榊原の指が、一瞬だけ止まった。
「さ、笹川先生」
出だしだけ、言葉が引っかかった。
すぐに彼は血液バッグへ視線を戻す。
「医療区の搬入口は二つ手前です」
「知ってます」
「なら、迷子ではない」
「用があって来ました」
「用がある人間は、だいたいそう言います」
声は低い。
弱そうな見た目に反して、返しは鋭い。
笹川の頼みだから緩む、という顔でもない。
「九条先生」
笹川が俺を示した。
「聖明中央の感染症科。医療区の臨時協力者です」
榊原の手が止まった。
初めて、俺を見る。
目つきは悪い。
疲れているからではない。
数字以外を信用しない目だ。
「し、知っています」
「会ったことはない」
「検査値は見ました」
その言い方で、背中に冷たいものが走った。
入所時採血。
あの時点で、俺はごまかし切れていない。
心拍がない。
体温がない。
生きている人間の血液ではない。
にもかかわらず、俺は歩き、話し、処置をしている。
矛盾は、数値の上に残る。
「話が早いな」
俺は言った。
榊原は首を横に振った。
「早くしない方がいい話もあります」
「七瀬結衣の再検査が隔離棟側へ回った」
榊原は即座に答えた。
「Level 0相当のSまたはM反応疑い。月島記録、片桐先生確認待ち。医療区側では黄。隔離棟側では再評価」
七瀬さんの肩が強張る。
「私は、患者です」
声は震えていたが、引いてはいなかった。
「番号じゃないです」
榊原は七瀬さんを見る。
長い沈黙。
「番号をつけないと、ここでは消えます」
「え」
「名前だけの人間は、記録から消える。番号がある人間は、少なくとも検索できる」
ひどい言葉だ。
だが、完全な冷酷ではない。
この男は、壊れた制度の中で、壊れた道具を使って人を残そうとしている。
「榊原さん」
笹川が言った。
「澪ちゃんの記録、私に見えるところへ残したの、あなたですよね」
「ろ、ログのアクセス権限の管理ミスです」
「わざと」
「管理ミスです」
「なら、もう一度ミスして」
榊原は笹川を見た。
一瞬だけ、目が泳いだ。
好意。
その単語を使うには薄い。
だが、笹川の言葉だけが彼の呼吸を乱す。
「笹川先生は」
榊原は小さく息を吸った。
「正しいことを言う時、いつも危ないです」
「知ってます」
「知っていて言うから、もっと危ない」
「それでも頼んでる」
榊原は困ったように眉を下げた。
弱そうに見える。
だが、次の声は冷えていた。
「何を見たいんです」
「七瀬さんの再評価理由」
俺は言った。
「それと、片桐先生の未完成プロトコル」
空気が止まった。
笹川すら、俺を見る。
榊原は血液バッグをケースへ戻した。
「それを知っている時点で、あなたは危ない」
「元からだ」
「冗談ではありません」
「俺も冗談ではない」
榊原は俺を見たまま、ゆっくりと言った。
「あなたの入所時採血の残余サンプルが残っています」
笹川の顔色が変わる。
「廃棄されてないの」
「異常値が多すぎた。再測定扱いです」
「誰が見た」
「い、今のところ、僕だけです」
今のところ。
その言葉は期限を持っていた。
「片桐には」
「上げていません」
「なぜ」
榊原は答えるまで少し時間を置いた。
「患者として扱うべきか、検体として扱うべきか、判断がつかなかった」
「俺を?」
「あなたと、彼女を」
榊原の視線が七瀬さんへ移る。
「七瀬結衣の反応は、相沢澪に近い。ただし、澪より強い」
七瀬さんが黙る。
「このまま再評価に乗れば、隔離棟です」
「止められるか」
「僕には無理です」
「何ならできる」
「見ること」
榊原はラボの扉に手をかけた。
「数字と血液は、嘘をつくのが下手です」
扉が開く。
冷たい薬品の匂いが流れ出した。
血液。消毒薬。プラスチック。冷却庫の低い唸り。
そこは治療室ではなかった。
患者から切り出されたものが、患者より長く保存される場所だった。
4. 合わない血
隔離棟ラボは狭かった。
だが、設備だけは揃っている。
小型遠心機。冷却庫。検体ラック。血液ガス分析装置。古い顕微鏡。ラベルプリンタ。壁際の端末。
電力は不安定なはずなのに、ここだけは生きている。避難者の居住区よりも、血液を冷やす機械の方が優先されている。
セクターAの思想が、そのまま配線になっていた。
「手袋を」
榊原が言った。
「いらない」
「必要です」
「俺は」
「あなたが何であれ、ここでは必要です」
俺は黙って手袋を受け取った。
弱そうに見える男に、妙な迫力で押し切られた。
ラボのルールは、ラボの人間が守らせる。
それは医療現場では正しい。
榊原は端末にログインし、複数のウィンドウを開いた。
七瀬結衣の再評価票。
相沢澪の観察記録。
そして、九条蓮。
俺の名前だった。
「これが入所時採血」
榊原は画面を指す。
「体温記録は低すぎる。測定エラーとして補正されている。心拍も問診時の自己申告と合わない。血液の炎症指標は通常感染者の初期と似ているが、凝固系が噛み合わない」
「噛み合わない?」
笹川が聞く。
「死後変化に近い部分がある。でも、細胞破綻の仕方が死体ではない」
榊原は冷却庫から小さなチューブを取り出した。
ラベルには、俺の検体番号が印字されている。
自分の名前より、その番号の方が気味が悪かった。
「普通、ここまで保存状態が悪ければ溶血が進む。成分も崩れる。なのに」
彼はチューブを光にかざした。
暗い赤。
生きている人間の血液より、重く見える。
「分離が変です。赤血球が沈むでもなく、血漿が綺麗に上がるでもない。壊れているのに、壊れ切らない」
「詩的だな」
「検査技師への侮辱です」
「すまない」
榊原は本当に少しだけ不機嫌そうにした。
気弱そうに見えるが、引くところと引かないところがはっきりしている。
「あなたの血液を、感染者検体の反応液に少量混ぜた記録があります」
「誰がやった」
「ぼ、僕です」
笹川が息を呑む。
「榊原さん、それ」
「規則違反です」
「分かってるなら」
「分かっています」
榊原は笹川を見た。
「でも、笹川先生が言っていた。患者が消える前に、せめて理由を残せと」
笹川は言葉を失った。
自分の正義感が、別の誰かを規則違反へ踏み込ませた。
その重さに気づいた顔だった。
榊原はすぐ端末へ視線を戻す。
「正義感だけでは患者は残りません。記録も、番号も、検体も必要です。でも、番号だけでは患者ではなくなる」
切れのある言葉だった。
この男は、笹川の正しさに惹かれているように見えた。
同時に、その正しさが現場で砕ける音も知っている。
榊原はグラフを表示した。
V-ウイルス活動指標。
神経侵襲マーカー。
炎症反応。
凝固異常。
専門外の人間には意味のない線だ。
だが、俺には読める。
読めてしまう。
感染が進むはずの曲線が、一箇所だけ鈍っていた。
治ってはいない。
下がってもいない。
ただ、進行が引っかかっている。
流れの中に指を突っ込んで、数分だけ止めたような形だ。
「これは」
「治療ではありません」
榊原は先に言った。
「抑制とも言い切れない。一時的な干渉です。再現性も低い。検体量も少ない。統計にもならない」
「だが、止まっている」
「数分です」
「感染分岐では数分が命になる」
俺の声は、自分で思ったより低かった。
榊原の目が、俺を見る。
「医者ですね」
「今さらか」
「今、そう思いました」
数分。
たった数分。
だが、感染後の分岐はその数分に宿る。
自我が崩れる前。
前頭前野が沈む前。
摂食衝動が人格を塗り潰す前。
そこを止められるなら。
「先生」
七瀬さんが俺の袖を掴んだ。
「顔、怖いです」
「元からだ」
「さっきと同じ返しです」
「便利だからな」
「便利なものばっかり使うと、先生もいいように使われますよ」
その一言に、ラボの空気が変わった。
便利なものは使われる。
医者も。
適応者も。
検体も。
死者の血液も。
榊原はチューブをラックへ戻した。
「九条先生」
「何だ」
「あなたは、生きているんですか」
笹川が凍りついた。
七瀬さんも動かない。
俺は榊原を見る。
彼の目に好奇心はある。
恐怖もある。
だが、一番強いのは観察だった。
この男は、見たものから逃げない。
「医師免許上は生きている」
「冗談ではありません」
「だろうな」
俺は手袋をした自分の指を見る。
白いニトリル越しでも、指先の体温がないことは分かる。
「俺にも完全には分からない」
「心拍は」
「ない」
笹川が目を伏せた。
七瀬さんは、俺の袖を掴んだまま離さなかった。
「呼吸も、たぶん不要だ。体温も低い。だが、考えることはできる。患者を診ることもできる。傷は塞がる。空腹はある」
「食人衝動」
「言葉を選ばないんだな」
「け、検査値は選んでくれません」
「……ある。食人衝動は、確かにある」
榊原は、初めて目を伏せた。
「死体に近い生命徴候のまま、細胞活動と修復反応だけが維持されている」
彼は独り言のように言った。
「通常感染者ではない。通常適応者でもない。死亡後の再起動個体とも違う。だとすれば」
「そこまででいい」
俺は遮った。
「今、名前をつけるな」
榊原は俺を見た。
「名前をつけないものは、管理できません」
「管理されたくない」
「そ、そうですけど……」
榊原は反射的に同意しかけ、すぐに口を噤んだ。
「片桐先生に渡せば、あなたは最重要検体です」
「だろうな」
「僕が黙っていても、長くは持ちません」
「それも……だろうな」
笹川が言った。
「榊原さん。あなた、どうするつもり」
榊原は答えなかった。
ただ、笹川の方を見た。
気弱そうな顔に、短い迷いが浮かぶ。
それでも端末のログを閉じる手は速かった。
5. 未完成の血清
片桐宗一郎の記録は、端末の奥にあった。
正式な治療プロトコルではない。
臨床研究計画でもない。
断片。
メモ。
検体番号の羅列。
血漿反応。適応者由来成分。自我崩壊遅延。副作用。溶血。暴走適応。
榊原は、いくつかのファイルを開き、すぐに閉じた。
「全部は見せられません」
「なぜ」
「見れば、あなたは使う」
俺は否定しなかった。
「使えるなら使う」
「そう言うと思いました」
「患者が目の前にいればな」
榊原は端末から目を離さない。
「片桐先生は、適応者血漿に含まれる何かが、通常感染者の神経侵襲を一時的に鈍らせる可能性を見ています」
「抗体か」
「違う、と思います。少なくとも現実の回復者血漿療法とは別物です」
「適応因子」
俺が言うと、榊原がこちらを見た。
「その言葉はか、片桐先生も使っています」
「嫌な一致だ」
「医学は時々、嫌な人間同士を同じ結論に連れていきます」
笹川が苦い顔をした。
「それで、完成してるの?」
「していません」
即答だった。
「適応者血漿を通常感染者へ投与した例は、失敗が多い。自我崩壊を数分遅らせても、最終的にはウォーカー化する。まれに異常な発熱、痙攣、急激な変異が出る」
「暴走適応」
「仮称です」
「ひどい名前だ」
「げ、現象の方がひどい」
榊原は別の記録を開いた。
適応者由来血漿、反応弱。
ABO不適合による溶血疑い。意識混濁。投与中止。死亡処理。
その四文字が、やけに軽く見えた。
死亡処理。
人間が死ぬのではない。
処理が完了する。
「九条先生の血液は、適応者血漿とは反応が違う」
榊原は言った。
「治すのではなく、壊れる速度を鈍らせる。少なくとも、僕の手元の検体ではそう見えます」
「なぜ」
「分かりません」
「仮説は」
「あなた自身のゔ、V-ウイルスが、宿主の破壊より修復を優先しているから。あるいは、死体に近い状態でウイルス活動を抑え込んでいるから」
「つまり」
「あなたの血液は、感染者の中で暴れているV-ウイルスに、一瞬だけ別のめ、命令を混ぜるのかもしれない」
別の命令。
壊せ、ではなく。
戻せ。
食え、ではなく。
止まれ。
それは俺の能力の本質に近い気がした。
身体を解剖学的に正しく戻し続ける力。
死体を、死体として崩れさせない力。
その一部が血液に乗るなら。
「投与できるか」
笹川が鋭く言った。
「九条先生!」
「今すぐではない。可能かどうかを聞いている」
榊原は首を横に振った。
「つ、作れる、とは言えません」
「最低限の手順は」
「採血。抗凝固。分離。赤血球成分を極力避ける。少量投与。反応を見る。ABO不適合、溶血、急性反応、感染分岐の暴走。全部リスクです」
「設備は」
「あ、あります」
「時間は」
「あ、ありません」
その言い方は、まるで未来を見ているようだった。
いや。
この施設では、時間がない患者ばかり見ているのだ。
榊原はそれを知っている。
「もし、感染直後の患者に使うなら」
七瀬さんの体が小さく震えた。
榊原は彼女を見ない。
残酷な優しさかもしれない。
「通常の処置では間に合いません。隔離棟へ入れば観察対象です。発症まで記録される」
「助ける方法は」
「方法ではなく、賭けです」
「賭けなら嫌いじゃない」
「医者の言葉ではありません」
「死者の言葉だ」
笹川が俺を睨んだ。
「自分を雑に扱わないで!」
「雑に扱っているのは俺だけじゃない」
「だからって……」
「笹川先生」
七瀬さんが静かに言った。
「私が感染したら、ここでは観察されるんですよね」
笹川は答えられなかった。
七瀬さんは榊原を見る。
「それで、先生の血を使えば、助かるかもしれない」
「かもしれない、です」
榊原は言った。
「助かる、ではありません。別の形に変わるだけかもしれない」
「今より悪くなることも?」
「あります」
「でも、私が私じゃなくなるよりは、ましかもしれない」
十四、五歳の少女が、こんな選択肢を口にしていいはずがない。
世界が壊れるというのは、そういうことだ。
大人が選ぶべき言葉を、子どもが先に覚える。
「今は決めるな」
俺は言った。
「まだ感染していない」
「はい」
「感染させない」
「はい」
「それでも必要になったら、俺が判断する」
「先生が?」
「俺が」
その言葉は重かった。
なぜなら、俺は自分の血を使うことの意味を理解し始めていたからだ。
それは救命ではない。
告白だ。
俺が何であるかを、世界に差し出す行為だ。
榊原は端末を閉じた。
「片桐先生の照会が入っています」
画面の隅に、通知が点滅していた。
検体番号。七瀬結衣。再確認。隔離棟採血。
「早いな」
俺は言った。
「五分を超えました」
笹川が苦々しく返す。
交渉は成立していなかったらしい。
6. 検体番号七瀬結衣
ラボを出た時、通路の空気はさっきより重かった。
隔離棟の奥から、金属を擦るような音がした。
遠い。
まだ近くはない。
だが、確かにある。
七瀬さんが眉を寄せる。
「また、音」
「澪の方か」
「違います。もっと奥。熱い感じの音」
熱い音。
普通なら意味の通らない表現だ。
だが、セクターAでは通る。
管理区で見た記録が、脳裏をよぎる。
Level 5候補。
特別管理。
家族面会、責任者承認制。
高熱反応。
記録上は、まだ高熱反応の段階だ。
「そっちは今、見るな」
俺は言った。
「七瀬さん」
「はい」
「自分の音だけ聞け」
「そんなのできません」
「だろうな」
「でも、やってみます」
強い子だ。
強すぎる。
俺はそれが怖い。
強い子どもは、大人に利用される。
この施設では特に。
連絡通路の角を曲がると、検疫班の二人が立っていた。
防護マスク。記録端末。簡易採血セット。
そして、黄色いタグではなく赤い搬送票。
笹川の足が止まる。
「何の指示ですか」
検疫班の一人が端末を掲げた。
「七瀬結衣さんの再確認です。隔離棟側採血、片桐先生の確認待ち」
「医療区で再評価すると伝えてあります」
「更新されています」
「私が担当医です」
「担当変更です」
その言葉は、あまりに簡単だった。
担当変更。
一人の患者から、医師を引き剥がす。
数文字で。
笹川の手が震えた。
怒りではない。
たぶん、無力感だ。
俺は一歩前に出る。
「九条です。医療区の臨時協力医として、七瀬さんの状態は俺も確認している。採血の必要性を説明してもらえますか」
検疫班の男は俺を見た。
目が一瞬だけ揺れる。
聖明中央の医師という肩書きは、まだ少し効力があるらしい。
「記録上、Level 0相当のS反応疑い。月島さんの所見と片桐先生の指示です」
「所見内容は」
「開示権限がありません」
「患者本人への説明は」
「検査後に」
「順序が逆だ」
「緊急時運用です」
便利な言葉だ。
緊急時。運用。
その二つを並べれば、だいたいの倫理は薄くなる。
ここで押し切るか。
笹川はもう一歩前へ出た。
「七瀬さんは黄判定です。歩行可能で、発熱もない。隔離棟採血へ回す医学的根拠は薄い」
「微弱反応があります」
「微弱反応は診断ではありません」
「片桐先生の指示です」
「私は医師です」
「片桐先生も医師です」
同じ言葉が、違う意味で使われる。
医師。
患者を診る者。
検体を見る者。
どちらも医師だ。
だから厄介だった。
その時、榊原が後ろから言った。
「け、検体ラベルが間違っています」
全員の視線が彼へ向く。
榊原は端末を覗き込み、淡々と続けた。
「七瀬結衣の再確認票、採血セット番号が相沢澪の継続検体と重複しています。このまま採ると照合エラーになります」
検疫班の男が端末を確認する。
「そんな表示は」
「ラボ側の端末には出ています」
「確認します」
「確認してください」
榊原の声は平坦だった。
嘘か。
本当か。
分からない。
だが、時間は稼げる。
検疫班の二人が数歩離れ、端末で照会を始めた。
笹川が小さく言う。
「本当に重複してるの」
「い、今、しました」
「榊原さん」
「管理ミスです」
また、それか。
俺は笑いそうになった。
笑える状況ではない。
それでも、少しだけ笑いそうになった。
笹川は榊原を見た。
黒縁メガネの奥の目が、揺れている。
「……ありがと」
榊原は視線を逸らした。
「笹川先生が、また危ないことを言うからです」
「私のせい?」
「半分は」
「残り半分は」
「僕の管理ミスです」
切れのある逃げ方だった。
気弱そうな男が、規則の隙間を縫って立っている。
ただ者ではない。
七瀬さんが俺を見る。
「先生」
「走るな」
「歩いて急ぐ、ですか」
「覚えがいい」
「医者の基本ですから」
俺たちは歩き出す。
背後で検疫班が何かを言った。
笹川がそれに応じる声がする。
榊原の低い声も混じる。
俺は振り返らない。
七瀬さんを医療区連絡通路へ戻す。
その先に安全があるわけではない。
ただ、今この場で採血されるよりはましだ。
通路の角を曲がる直前、壁の端末に表示が出た。
一瞬だけ。
七瀬結衣。再確認対象。検体番号付与待ち。
患者名ではなかった。
検体番号付与待ち。
世界が、彼女をそう呼び始めている。
七瀬さんもそれを見た。
何も言わなかった。
ただ、歩幅が少し乱れた。
俺は彼女の横を歩く。
支えない。
まだ支えない。
彼女は自分の足で歩いている。
だが、倒れたら支える距離にいる。
それが今の俺にできる、ぎりぎりの医療だった。
「先生」
「何だ」
「もし、私が本当に検体になりそうになったら」
「ならない」
「先生」
「ならないようにする」
「もし、です」
彼女の声は震えていなかった。
震えていないことが、怖かった。
「私が私じゃなくなりそうだったら、その前に教えてください」
「何を」
「まだ選べるって」
俺は答えられなかった。
舞の声が、脳の奥で揺れる。
助けて。
あの時の助けては、終わらせて、だった。
七瀬さんの言う助けては、まだ選ばせて、だった。
どちらも重い。
どちらも、医者だけが背負える重さではない。
「約束する」
俺は言った。
「まだ選べる時に、必ず言う」
七瀬さんは、少しだけ頷いた。
連絡通路の先で、照明が一度だけ明滅した。
隔離棟の奥から、また金属の軋む音がした。
熱い音。
俺の血液は、感染分岐を数分だけ止めるかもしれない。
その数分で、人間は選べるかもしれない。
だが、そのためには俺自身を差し出す必要がある。
死者の血。
医者の判断。
患者の未来。
全部が、一本の細い管で繋がり始めていた。
助かる道は見えた。
だが、その道は治療室へ続いていない。
検体棚の奥へ続いている。
俺は白い通路を歩く。
七瀬さんの隣で。
人間のふりをした死者として。
まだ、医者であるために。




