第10章 管理区の影
1. 記録された違和感
眠れなかった。
物資庫の奥に敷かれた薄い毛布は、身体を休めるには十分だったのかもしれない。
だが、死者の身体に休息は来ない。
あるのは、静止だけだ。
俺は段ボール箱にもたれたまま、薄い扉の向こうの足音を数えていた。
一分に三回。
医療区の通路を巡回する検疫員。
二分に一回。
担架を運ぶスタッフ。
五分に一回。
外周側から聞こえる金属音。
ゲートか。あるいは拘束具か。
セクターAの夜は、音でできている。
誰かが咳をし、誰かが泣き、誰かが名前を呼ばれる。
そして呼ばれた誰かは、だいたい戻ってこない。
七瀬さんは、段ボール箱の陰で膝を抱えて眠っていた。
いや、眠っているふりに近い。
呼吸は浅い。肩に力が残っている。夢の中でも、きっと逃げている。
「九条先生」
扉の外で、小さな声がした。
笹川医師だった。
俺は七瀬さんを起こさないように立ち上がり、扉を少しだけ開けた。
廊下の白い照明が、細い隙間から物資庫へ流れ込む。
笹川医師は、昨日よりさらに顔色が悪かった。
黒髪を後ろでまとめた首筋に、疲労の影が落ちている。白衣の袖口には乾いた消毒液の跡が残り、目の下の隈だけが夜を越えた証拠みたいに濃い。
「早いですね」
「寝ていません」
「医師の鑑だ」
「褒められている気がしません」
「正解です」
軽口は、まだ出る。
それだけで、俺の中の何かが少しだけ人間に戻る。
笹川医師は、手に持っていた薄い紙束を俺へ差し出した。
「これ、今朝の再確認リストです」
俺は受け取った。
上から順に名前が並んでいる。
発熱。咬傷疑い。意識混濁。血液指標再検。
その下に、小さく書かれた名前があった。
七瀬結衣。
備考欄。
知覚反応疑い。
隔離棟スタッフ立会い推奨。
俺は紙の端を指で押さえた。
破らない程度に。
「早いな」
「月島さんの記録が上がりました。片桐先生の承認印も入っています」
「医療区で再評価すると言ったはずだ」
「言いました。でも、こちらの言葉より隔離棟の記録のほうが強い」
笹川医師の声は低かった。
怒りを抑えている。怒り慣れていない人間の声だ。
「時間は」
「朝の点呼後。検疫第三テント」
「隔離棟スタッフ立会い推奨、か」
俺は備考欄を見た。
推奨。
便利な言葉だ。命令ではない。だが、拒めば理由を聞かれる。
従えば連れていかれる。
この施設では、言葉が柔らかいほど逃げ道がない。
「消せますか」
「端末上の記録は無理です。紙の回覧なら遅らせられます」
「どれくらい」
「一時間。長くて二時間」
「十分だ」
「十分ではありません」
「今の俺たちには、十分だ」
笹川医師は俺を見た。
何かを言いかけて、飲み込む。
医師の顔だった。
患者に嘘をつけない顔。
同時に、患者を守るためなら少しだけ規則を曲げる顔。
「九条先生」
「はい」
「七瀬さんは、ただの中学生です」
「知っています」
「でも、この施設では、ただの中学生ではいられなくなります」
「だから連れて逃げる」
「逃げるだけなら、今すぐ外へ」
「外には感染者がいる。中には選別がある」
「どちらも地獄です」
「なら、地獄の構造を見てから選ぶ」
笹川医師は、短く息を吐いた。
「医者の言い方じゃありません」
「死にかけの医者の言い方です」
「九条先生は、まだ死んでいません」
俺は答えなかった。
その言葉を否定するには、俺はあまりに冷たすぎる。
肯定するには、まだ人を助けようとしすぎている。
七瀬さんが、物資庫の奥で身じろぎした。
「先生」
声がかすれている。
起きていたらしい。
「私の名前、ありましたか」
俺は紙束を折りたたんだ。
隠しても意味はない。
彼女は、もう自分が見られていることを知っている。
「あった」
「ですよね」
七瀬さんは立ち上がった。
寝癖のついた髪を手で押さえ、まだ幼さの残る顔で、無理に落ち着こうとしている。
その姿は、病室で検査結果を待つ患者と同じだった。
名前を呼ばれる前から、自分の番が来ると分かっている顔。
「逃げますか」
「まだ逃げない」
「どうして」
「君を連れて逃げるだけならできるかもしれない。でも、追われる理由を知らないままになる」
「理由なら、変だからじゃないですか」
「変、という言葉は曖昧だ」
俺は紙束を白衣の内側へ入れた。
「ここでは変なものに名前をつける。名前をつけて、番号を振って、置き場所を決める」
「私にも」
「そうだ」
「先生にも」
その言葉だけ、廊下の照明より冷たかった。
俺は一瞬、返事を忘れた。
七瀬さんは続ける。
「私が見つかったら、先生も見つかります。きっと」
「鋭い指摘だ」
「嬉しくないです」
「俺も嬉しくない」
笹川医師が、扉の外へ目を向けた。
「点呼が始まります。検疫班がここへ来る前に移動してください」
「行き先は」
「管理区の境界に、医療区の物資受け渡し窓口があります。大槻さんの配給記録が一部そこに残っているはずです」
「管理区へ入るのは」
「危険です」
「知っている」
「壬生さんがいます」
「もっと知っている」
「それと、自衛隊側の現場指揮官が境界にいることがあります。真壁修一三佐です」
「自警団寄りですか」
「逆です。必要だから組んでいるだけで、黒田さんたちの権限拡大は危ぶんでいます」
金属を従える女。
壬生玲央奈。
俺の白衣には、もう鋏も鉗子もない。
それでも、この施設には金属が多すぎる。
扉。鍵。棚。フェンス。銃。
人を守るためのものは、人を閉じ込めるためにも使える。
「笹川先生」
俺は言った。
「もし検疫班に聞かれたら、七瀬さんはどこにいることになっている」
「黄判定者の追加問診前に、医療区内で待機」
「俺は」
「外部医師として処置補助」
「完璧だ」
「嘘が増えていきます」
「嘘で守れる命もある」
笹川医師は、苦く笑った。
「それ、医者が一番言ってはいけない言葉です」
「だから小声で言いました」
七瀬さんが、ほんの少しだけ笑った。
笑えるなら、まだ大丈夫だ。
大丈夫にする。
俺たちは物資庫を出た。
2. 再検査の呼び出し
医療区の朝は、夜より白かった。
蛍光灯の光。消毒液の匂い。水で薄めた粥の匂い。熱のある子どもの泣き声。包帯を巻き直す音。
そして、スピーカーから流れる声。
『黄判定者の再確認を行います。対象者は検疫第三テント前に集合してください。呼び出しを受けた方は、医療スタッフの指示に従ってください』
七瀬さんの指が、俺の白衣の裾をつかんだ。
反射だ。
本人はすぐ離そうとした。
俺はその前に歩き出した。
つかんだままでいい、とは言わない。
だが、離せとも言わない。
検疫班の二人が、通路の向こうから来た。
一人は若い男。
もう一人は、眼鏡をかけた女性。
手にはタブレット。
視線は、探している。
「七瀬結衣さん」
呼ばれた。
七瀬さんの指に力が入る。
俺は立ち止まった。
「何か」
「追加確認です。隔離棟側からの依頼で、眼球確認と問診を」
「今は無理です」
男の検疫員が眉を寄せた。
「理由は」
「低血糖様症状。昨夜から睡眠不足。今ここで負荷をかけると、問診結果が汚れます」
「汚れる?」
「医学的に意味のないデータになる、という意味です」
眼鏡の女性がタブレットを見た。
「記録では、知覚反応疑いと」
「だからこそ、睡眠と栄養を入れてから再評価すべきだ」
「片桐先生の指示です」
その名前が出るだけで、通路の空気が少し硬くなる。
隔離棟の名前。
戻らない患者たちの奥にいる医師。
「片桐先生は、患者本人を診たのか?」
二人は答えない。
「診ていない患者に、検査だけを追加する。いいですね。記録にはそう書きます」
男の検疫員が、一歩前へ出た。
「こちらも規則で動いています」
「俺も医師として動いています」
「外部協力医師ですよね」
「だから便利に使えばいい」
俺は自分の声が冷えていくのを感じた。
体温は最初から低い。
だが、声が冷えるのは別の現象だ。
「一時間後、医療区で俺が立ち会う。その場に笹川医師も呼ぶ。眼球確認、問診、バイタル再測定までなら応じる。隔離棟への移動は、その結果を見てからだ」
眼鏡の女性が迷った。
男は面白くなさそうに舌打ちをした。
「上に確認します」
「どうぞ」
「逃げないでください」
「患者を連れて散歩する趣味はない」
嘘だ。
今から散歩する。
しかも、かなり悪い趣味の場所へ。
検疫班が離れると、七瀬さんが息を吐いた。
「先生、喧嘩強いですね」
「口だけなら」
「口だけじゃないと思います」
「それは買いかぶりだ」
「でも、怖くなかったんですか」
「怖い」
「見えません」
「心拍が上がらないからな」
言ってから、少し失敗したと思った。
七瀬さんは俺の横顔を見た。
何かを聞きたそうにして、聞かなかった。
いい判断だ。
今は答えられない。
3. 管理区の境界
俺たちは医療区の端を抜け、管理区との境界へ向かった。
空気が変わる。
まず、匂いが変わった。
一般区や医療区には、汗、消毒液、血、湿った毛布、古い食事の匂いが混ざっている。
管理区に近づくと、それが薄くなる。
代わりに、温かい飯の匂いがした。
米。味噌。焼いた缶詰の油。
七瀬さんの喉が、小さく鳴った。
本人は恥ずかしそうに俯く。
責める気にはなれない。飢えは、倫理より正直だ。
通路の先に、金属製のフェンスがあった。同じ施設内なのに、そこだけ別の国境みたいだった。
フェンスの向こうには、体育館の入口が見える。
発電機の音。延長ケーブル。充電中の無線機。乾いた床。折りたたみベッド。湯気の立つカップ。
それから、笑い声。
医療区の笑い声とは違う。
ここでは、笑っても誰かに怒られない。守られている側ではなく、守っている側の笑い声だ。
フェンスのこちら側では、一般区から来たらしい母親が、配給袋を抱えて職員に頭を下げていた。
袋は薄い。
向こう側のテーブルには、厚い。
数の差ではない。
価値の差だ。
「露骨ですね」
七瀬さんが言った。
「分かりやすい制度は、反発も分かりやすい」
「分かりにくかったら」
「もっと長く続く」
フェンスの前に、大柄な男がいた。
黒田岳。
遠目でも分かる。
肩幅が、周囲の人間と別の縮尺でできている。
黒い防護ベストの下で、首から肩にかけての筋肉が獣みたいに盛り上がっていた。短い髪、浅黒い肌、古い傷の残る拳。彼が通路に立つだけで、そこが検問になる。
黒田は、迷彩服の男と向かい合っていた。
男は四十代前半くらいに見えた。
迷彩服の袖を肘までまくり、疲れた顔で書類を持っている。頬は削げ、顎には剃り残しがあり、それでも背筋だけはまっすぐだった。
姿勢は崩れていない。
目だけが、何日も眠っていない兵士の目をしていた。
笹川医師が言っていた、真壁三佐だろう。
「外周東側の人員を減らすのは認められん」
真壁が言った。
「減らせなんて言ってない」
黒田は笑った。
「こっちに回せって言ってるんだ。管理区の警備が薄い」
「一般区の配給列が荒れている。物資倉庫もだ」
「だから俺たちが守ってる」
「守る対象を選ぶな」
黒田の笑みが消えた。
空気が一段重くなる。
「選ばなきゃ全員死ぬ。あんたも分かってるだろ、三佐」
「分かっているから、線を引くなと言っている」
「線なら、もう引いてある」
黒田はフェンスを拳で叩いた。
ガジャン、と金属音が通路に響く。
七瀬さんが肩を震わせた。
「こっちが生き残らせる側だ。向こうは、生き残らせてもらう側だ」
「それを口に出すな」
「口に出さないから腐るんだよ」
俺は会話の途中で、フェンス脇に立つ壬生玲央奈を見つけた。
黒田の影に隠れているわけではない。
むしろ、彼女は影を作る側だった。
短い髪。銀色のピアス。身体に沿う黒いジャケット。細い腰の横に吊られた鍵束と、金属製の警棒。
そのすべてが、彼女の周囲で静かに息をしているように見える。
壬生の視線が、こちらへ来た。
俺と七瀬さん。
白衣。黄色いテープ。隠しきれない緊張。
彼女は何も言わない。
ただ、指先だけがわずかに動いた。
フェンスに括りつけられた南京錠が、かちりと鳴る。
警告。
あるいは挨拶。
どちらにしても、心臓に悪い。
俺には心臓がないが。
「外部の先生じゃないか」
黒田がこちらを見た。
「朝から社会見学か」
「患者の動線確認です」
「患者……ね」
黒田の視線が七瀬さんに落ちる。
「その子、再検査じゃなかったか?」
七瀬さんの体が固まった。
俺は半歩、前へ出た。
「低血糖様症状で延期中です」
「便利な症状だな」
「便利な言葉を使う施設なので」
黒田は笑った。
今度は、本当に面白がっている顔だった。
「あんた、度胸あるな」
「医師はだいたい鈍いんです」
「鈍いだけじゃ生き残れない」
「ここでは、そうらしい」
黒田の後ろで、壬生が俺を見ていた。
冷たい目。
だが、さっきより少しだけ違う。
俺が七瀬さんの前に立ったことを、見ていた。
黒田への返答ではなく、患者を背中に隠す動きとして。
「壬生」
黒田が言った。
「その先生、金属持ってるか」
「今は少ない」
壬生が答える。
「少ない?」
「預かった分はこっち」
彼女は腰のポーチを軽く叩いた。
俺の鋏と鉗子。
返す気は、まだなさそうだ。
「変な動きは?」
「してない」
「ならいい」
黒田は真壁へ向き直った。
「話は後だ。三上さんも呼べ。配給の数字をごまかすなら、せめて俺たちに先に見せろ」
「ごまかしているのは誰だ」
真壁の声が低くなった。
その瞬間、壬生の指先がまた動いた。
フェンスの蝶番が、微かに震える。
真壁の部下が銃に手をかけた。
壬生の虹彩の縁に、銀青の細い光が走る。
一瞬。
照明の反射ではない。
金属が彼女の視界に入った時、世界のほうが彼女に従う。
「やめろ」
真壁が部下に言った。
「ここで銃を抜くな」
黒田は鼻で笑った。
「分かってるじゃないか」
この場所では、銃は力ではない。
壬生の前では、銃は奪われる金属だ。
俺は七瀬さんの肩に手を置き、ゆっくり歩き出した。
通り過ぎる直前、壬生が小さく言った。
「その子、顔色悪いよ」
「知っています」
「再検査、逃げるの?」
「診察を先にするだけです」
「同じに聞こえるけど」
「違います」
俺は足を止めた。
「検査は、施設のためにする。診察は、患者のためにする」
壬生の表情は変わらなかった。
だが、指先の動きが止まった。
フェンスの震えも止まる。
「……きれいごと」
「医者の特技です」
「役に立つ?」
「時と場合による」
「ここでは?」
俺はフェンスの向こうを見た。
厚い配給袋。発電機。鍵。南京錠。管理区。
「……試しているところです」
壬生は何も言わなかった。
ただ、視線を外した。
それは通行許可ではない。
見逃しに近い。
今は、それで十分だった。
4. レベルの値段
物資受け渡し窓口は、管理区のフェンスに沿って設けられていた。
窓口、と言っても、折りたたみ机と金属棚を並べただけだ。
だが、そこに積まれた台帳は、医療区のカルテより重く見えた。
人間の命は、時々、紙の厚みに負ける。
大槻源二は、そこで配給袋を数えていた。
五十代半ば。
丸い背中。
汗で額に貼りついた薄い髪。
人のよさそうな顔をしているのに、手元の数だけは一つも間違えない目をしている。
「医療区の追加分ですか?」
俺が言うと、大槻は顔を上げた。
「笹川先生から聞いてます。外部の先生」
「九条です」
「医者はいいですね。名前で呼ばれる」
「物資担当も、名前で恨まれます」
「それは嫌な名前の売れ方だ」
大槻は苦笑した。
机の下から、薄いファイルを出し、小声で言う。
「……医療区の分はこれ。見てもいいですが、写しは取らないでください」
「なぜ俺に」
「笹川先生が言うからです」
「それだけで」
「あの人、嘘が下手でしょう」
大槻は配給袋の口を縛りながら言った。
「嘘が下手な人が、何か隠している時は、だいたい本当にまずい」
俺はファイルを開いた。
中には、日付ごとの配給一覧があった。
一般区。医療区。管理区。自衛隊。適応者任務協力者。
文字だけなら、ただの分類だ。
数字を見ると、分類は刃物になる。
管理区の一人当たりカロリーは、一般区の一・六倍。
医薬品優先順位。外傷処置優先。発電機利用枠。温水使用枠。
そして、別紙。
適応者レベル別補給基準。
Level 0〜1。
観察対象。医療区または隔離棟で管理。任務配給なし。
Level 2。
軽任務協力。追加食一単位。
Level 3。
防衛・探索任務。管理区居住候補。
Level 4。
重要戦力。管理区居住。医療優先。
Level 5。
特別管理。単独判断による移動禁止。家族面会、責任者承認制。
俺は最後の行で指を止めた。
家族面会。責任者承認制。
相馬理恵の顔が浮かんだ。
インスリンがなければ死ぬと分かっていて、外に戻された女性。
夫が戻らないと言っていた。
戻らないのではない。
戻されなかったのかもしれない。
「この基準、誰が承認を」
大槻は一枚の紙を抜き出した。
承認欄。
三上誠司。
伊丹怜子。
片桐宗一郎。
そして、確認欄に黒田岳。
行政。医療。研究。暴力。
きれいに並んでいる。
「真壁三佐の名前がない」
「自衛隊は外周防衛の基準だけです。中の分類には、口を出さないことになっている」
「本当に?」
大槻は答えなかった。
答えない人間が多い施設だ。
5. 抑え込まれた火
「Level 5は、今いるんですか?」
七瀬さんが小さく聞いた。
大槻の手が止まった。
聞くべきではなかった、という顔。
しかし、聞いてしまった。
「……噂です」
「噂でいい」
俺は言った。
「医者は噂も鑑別に入れる」
「便利ですね、医者」
「あまり便利ではありません」
大槻は窓口の奥を見た。
管理区のさらに奥。
隔離棟へ続く搬入口の方向。
「火の人がいるそうです」
七瀬さんが息を止めた。
「火?」
「近づいた看護師の手袋が溶けたとか、金属ベッドの柵が熱で曲がったとか。誰もはっきり見てません。見た人は、次から配置を変えられる」
「名前は」
「知りません」
大槻は言った。
言い方が早い。
嘘か、恐怖か。
たぶん両方だ。
「ただ、隔離棟の裏に焦げ跡があります。燃料じゃない。電気でもない。あれは、内側から焼けた跡です」
相馬理恵の夫の影が、そこに重なった。
まだ、同じ人間だと決まったわけではない。
だが、火はある。
そして火は、閉じ込めるほど燃える。
ファイルの端に、別のメモが挟まっていた。
搬送者リスト。黄判定から赤判定へ変更。赤判定から適応兆候観察へ変更。適応兆候観察から管理区転属。
そして、別枠。
特別管理。面会制限。情緒不安定。高熱反応。
俺は紙を戻した。
今、これを持ち出せばすぐに見つかる。
記憶する。
それしかない。
死者の脳が、どこまで人間の記憶を保てるのか。
試すには、最悪のタイミングだ。
「大槻さん」
「はい」
「この分類は、いつから配給に使われている」
「最初は違いました」
「最初は?」
「感染リスクと医療優先度だけです。赤、黄、緑、黒。それだけだった。でも、適応者が出てから変わった」
「誰が変えた」
「誰も変えたとは言いません」
大槻は笑った。
乾いた笑いだった。
「必要になった、ということになっています」
必要。
この施設で一番強い言葉だ。
必要だから隔離する。
必要だから記録を隠す。
必要だから配給を分ける。
必要だから、人間に値段をつける。
「先生」
七瀬さんが、袖を引いた。
通路の向こうから、検疫班の男が来ていた。
さっきの男ではない。
二人。
その後ろに、自治体運営班の腕章をつけた男。
五十代前半。
痩せた頬に、妙に整った髪。
ワイシャツの襟は汚れているのに、ネクタイだけはきちんと締めている。行政という服を、崩壊した世界でも脱げない人間の姿だった。
さっき承認欄で見た名前。
三上誠司。
「九条先生」
三上は穏やかに言った。
「少しよろしいですか」
穏やかな声は、時々、命令より重い。
「患者の付き添い中です」
「その患者さんについてです」
七瀬さんが、俺の背中に隠れた。
三上の目が、それを見た。
見て、見なかったことにした。
行政の技術だ。
「七瀬結衣さんには、追加確認を受けていただきます。施設全体の安全に関わることです」
「医療区で一時間後に再評価します」
「隔離棟スタッフが立ち会います」
「必要ありません」
三上は困ったように笑った。
本当に困っているのだろう。
だが、困っている人間が善人とは限らない。
「必要かどうかは、施設として判断します」
「施設とは誰ですか」
「ここにいる全員です」
「なら、七瀬結衣も含まれる」
三上の笑みが、ほんの少しだけ固まった。
「もちろんです」
「本人の同意は」
「未成年です。保護者不在の場合、施設管理者が安全確保のために」
「便利な条文ですね」
「条文ではありません。非常時の運用です」
「もっと便利だ」
検疫班の一人が前へ出た。
その手には、細いライトと記録用端末。
眼球確認。
今ここでやる気だ。
俺は七瀬さんを下がらせた。
「ここではしない」
「医療区まで移動します」
「移動先が隔離棟なら断る」
三上が目を伏せた。
その沈黙だけで、答えは出た。
「九条先生」
彼は言った。
「あなたが医師として彼女を心配しているのは理解します。しかし、彼女に兆候があるなら、早く把握することが本人のためでもあります」
正しい。
言葉だけなら。
俺も同じことを言う。
検査は早いほうがいい。
異常は見逃さないほうがいい。
患者のために。
公衆衛生のために。
人類のために。
正しい言葉は、正しい形のまま人を縛る。
「把握したあと、どうする」
俺は聞いた。
三上は答えない。
「治療するのか。保護するのか。研究するのか。配給表のどこに置くのか」
「言葉を選んでください」
「そちらこそ、置き場所を選んでいる」
三上の背後で、検疫班が動いた。
七瀬さんの腕を取ろうとする。
俺が止めるより早く、金属音がした。
検疫員の端末ストラップの金具が、横へ引かれた。
わずかに。
手元がずれ、伸ばした腕が空を切る。
壬生玲央奈が、フェンスの近くに立っていた。
いつからいたのか。
気配が薄い。
彼女の虹彩の縁に、銀青の光がまだ残っている。
「壬生さん」
三上が言った。
「何を」
「金具が引っかかっただけです」
壬生は平然と言った。
嘘が下手ではない。
だが、今の俺には分かった。
彼女は止めた。
止めるほどではない距離で。
言い訳できる強さで。
「危ないから、ここで揉めないで」
壬生は検疫員へ言った。
「この通路、金属多いし」
脅しだ。
優しい脅し。
三上は壬生を見た。
壬生は視線を逸らさない。
黒田の部下。
管理区の警備担当。
施設の支配構造を支える能力者。
その彼女が、ほんの数秒だけ、検疫班の動きを遅らせた。
理由は分からない。
分からないが、利用する。
「七瀬さん」
俺は低く言った。
「走るな。歩く」
「はい」
俺たちは大槻の机の横を抜けた。
検疫班が追おうとする。
その時、外周側でサイレンが鳴った。
短い警報。
一回。
二回。
感染者接近ではない。
内部警戒の音だ。
通路の奥から、自警団員が走ってくる。
「物資倉庫裏で煙!」
誰かが叫んだ。
「またかよ」
黒田の声。
怒りと苛立ち。
「火元は」
「分かりません。ただ、隔離棟側の搬入口近くです」
空気が変わった。
火。隔離棟。搬入口。赤で送られ、戻らなかった男。
相馬理恵の夫と重ねるには、まだ材料が足りない。
だが、火の痕跡は確かにある。
黒田が舌打ちをした。
「壬生、こっち」
壬生は俺たちを見た。
一瞬だけ。
その視線には、命令と迷いの間の細い線があった。
俺は小さくうなずいた。
感謝ではない。
約束でもない。
ただ、見た、という合図。
壬生は視線を外し、黒田の後を追った。
その背中に吊られた鍵束が、ひとつも鳴らなかった。
金属が、彼女に黙って従っている。
6. 隠れた往診
俺たちは医療区側の細い通路へ入った。
七瀬さんは走りたがったが、俺は手で制した。
走れば目立つ。
歩く。
息を荒げず。
焦らず。
死者らしく。
いや、人間らしく。
どちらでもいい。
今は捕まらないことがすべてだ。
通路の角を曲がり、古い器材庫へ滑り込む。
中は狭かった。
折りたたまれた担架。使われなくなった点滴スタンド。割れたモニター。錆びた工具箱。
金属だらけだ。
壬生が敵に回れば、ここは檻になる。
扉を閉めると、外の音が少し遠くなった。
七瀬さんが壁に背をつけ、ずるずると座り込む。
「私、やっぱり狙われてますね」
「そうだ」
「もう少し、違う言い方ありませんか」
「ある」
「じゃあ」
「施設側の関心が高まっている」
「もっと嫌です」
「正直でよろしい」
七瀬さんは、笑おうとして失敗した。
目が潤んでいる。
泣きたいのを我慢している顔。
俺はしゃがんだ。
彼女と目線を合わせる。
「七瀬さん」
「はい」
「君の反応は、感染者に対する予兆かもしれない。適応者の初期反応かもしれない。あるいは、まったく別の何かかもしれない」
「分からないんですね」
「分からない」
「先生でも」
「俺でも」
医師は、分からないと言う勇気を持たなければならない。
分からないものに名前をつけて、分かったふりをした瞬間、患者は制度の中へ落ちる。
「でも、一つだけ分かる」
「何が」
「君を今、隔離棟へ渡したら戻ってこない」
七瀬さんは唇を噛んだ。
「じゃあ、逃げましょう」
「逃げる」
「今?」
「その前に、隔離棟の中核を確認する」
「どうして」
「君を追う理由を消すには、理由を知らなければならない」
「それだけですか」
俺は答えに詰まった。
それだけではない。
相沢澪。
月島奈穂。
戻らない患者たち。
相馬理恵。
火の人。
雫の手がかり。
そして、俺自身。
死んだはずなのに動いている身体。
感染者でも、適応者でも、施設の分類に収まらない何か。
ここには、その答えの端がある。
「それだけじゃない」
俺は言った。
「隔離棟は、たぶん雫の手がかりにも繋がっている」
「先生の妹さん」
「ああ」
「じゃあ、行かなきゃ」
「君は逃げてもいい」
七瀬さんは、少し怒った顔をした。
「またそれですか」
「医師としては、患者を危険から遠ざけたい」
「私は患者なんですか」
「今は」
「じゃあ、先生は何なんですか」
問いが刺さった。
感染者。医師。死者。怪物。
カテゴリーのない異常例。
俺は答えを持っていない。
だから、いま言える言葉だけを選ぶ。
「往診中の医者だ」
七瀬さんは、少しだけ目を丸くした。
それから、小さく笑った。
「こんなところまで往診ですか」
「患者が戻ってこないからな」
「じゃあ、迎えに行くんですね」
「そういうことにしておく」
器材庫の外で、足音が走りすぎた。
検疫班。
自警団。
医療スタッフ。
セクターAの身体を流れる血液みたいに、人が動いている。
だが、その血流はすでに詰まり始めている。
配給で分けられた血。
レベルで分けられた血。
隔離棟へ送られ、戻らない血。
俺の中の血だけが、まだ別の意味を持っているのかもしれない。
相沢澪が反応した。
七瀬さんが反応した。
感染者が、俺に迷うことがある。
そして、俺の血が触れた傷は、時々、説明より早く塞がる。
偶然。
処置の効果。
そう言い続けるには、材料が増えすぎている。
「先生」
七瀬さんが言った。
「怖い顔してます」
「元からだ」
「元はもっと眠そうです」
「それは医者全般に対する偏見だ」
「笹川先生も眠そうです」
「反論しづらい」
七瀬さんは膝を抱えたまま、今度はちゃんと笑った。
短い。
小さい。
だが、笑いだった。
俺はそれを確認して、立ち上がる。
「一時間稼いだ」
「もう半分くらい使いましたよね」
「だから急ぐ」
「走らないんですよね」
「歩いて急ぐ」
「難しいです」
「医者の基本だ」
俺は器材庫の扉を少しだけ開けた。
通路の向こう、隔離棟側の搬入口へ続く廊下に、薄い煙の匂いが漂っていた。
焦げたプラスチック。
熱された金属。
消毒液が焼ける、嫌な匂い。
火はまだ小さい。
だが、施設全体が乾いている。
紙も、布も、人間の怒りも。
燃えるものには困らない。
俺は白衣の内側に手を入れた。
そこには何もない。
鋏も鉗子も、壬生に預けたままだ。
それでも、俺にはまだ手がある。
診るための手。
止血するための手。
脳幹を壊した手。
血を流せる手。
七瀬さんが立ち上がった。
顔色は悪い。
だが、目は逃げていない。
「行きましょう」
「怖くないのか」
「怖いです」
「なら」
「怖いまま行きます」
ああ。
それは、強い。
強化された筋肉でも、金属を従える瞳でも、火を生む手でもない。
ただの人間の強さだ。
俺はうなずいた。
「行こう」
扉を開ける。
白い通路の奥に、隔離棟へ続く影が伸びている。
セクターAは避難所ではない。
能力と感染を選別する檻だ。
なら、檻の鍵を探す。
壬生が持っている金属の鍵ではない。
片桐が持っている記録の鍵でもない。
もっと奥にある。
ウイルスが人間を何に変えるのか。
俺は何に変わったのか。
七瀬結衣を、何に変えようとしているのか。
その鍵を。
死者の身体で。
まだ人間のふりをしながら。
俺は、取りに行く。




