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第18話:迷えるヒヨコのお悩み相談室!〜お年玉を配った後は、みんなでワイワイあったか年越そば〜その2

あの朝の手荒な「洗礼」から、およそ二週間が経過した。


 十二月も下旬に差し掛かり、相良の谷底は連日、骨の髄まで凍りつくような冷気に包まれていた。牧之原台地から吹き下ろす北風は、まるで目に見えない無数の氷の刃となって谷底を駆け抜け、外に置かれた鉄製の工具を素手で触れば、皮膚がそのまま張り付いて剥がれなくなるほどの過酷な気候である。


 だが、屋根だけの吹き晒しである「航空機解体場ジャンクヤード」の熱気だけは、少しも衰えることがなかった。


 私は日々の政務や軍務の報告を処理する傍ら、執務室の窓越しに、あるいは副官の乾中尉からの詳細な報告を通じて、特操出身の若者たちの「再生」の過程を静かに見守り続けていた。


 最初の数日間、彼ら三人の少尉たちは、まさに地獄の底を這いずり回るような有様だった。相良分院という、清潔なシーツと女性たちの同情に守られた温室から、油と泥と怒声が飛び交う修羅場へと放り込まれたのだ。無理もないことだった。


 中でも、一号機の後席に乗っていた佐藤誠少尉のトラウマは、目を覆うほどに深刻だった。


 帝大で仏文学を専攻していたという彼は、元来が極めて繊細で知的な青年である。彼の心は、七月のあの墜落の瞬間に、完全に縫い留められたままだった。


 乾の報告によれば、佐藤はニコイチのベースとなる一番機のフレーム、親友である小林勇司少尉が死んだ、まさにその前席周りの清掃と計器の取り外しを命じられていた。


 だが、微かに残る血の錆びた匂いを嗅ぐたびに、佐藤は顔を蒼白にして過呼吸を起こし、その場にうずくまってしまっていたという。


無理からぬことだ。

 あの日、一号機が着陸に失敗して地面に激突した際、小林は即死したわけではなかった。

機首が凄まじい衝撃でひしゃげ、へし折れた操縦桿が、前席の小林の腹部に深々と突き刺さった。内臓破裂による、内部の大量出血。後席で足が挟まって身動きが取れなかった佐藤は、親友が血の海の中で悶え苦しむ姿を、数十センチの距離でただ見つめ続けるしかなかったのだ。


『佐藤……すまない……』


 夜の兵舎の暗闇の中で、佐藤はその時の小林の声が耳にこびりついて離れず、幾度も悲鳴を上げて跳ね起きた。


 口から大量の血の泡を吹きながら、小林は最後の力を振り絞って後席の佐藤を振り返ろうとした。


『俺が……しくじった……。お前は……生きろ……』


 その言葉を最後に、小林の口からドバッとどす黒い血が溢れ出し、事切れた。ほんの数分間の出来事だったという。だが、その数分間は、佐藤の精神を永遠の檻に閉じ込めるには十分すぎるほどの地獄だった。



 スパナを握る佐藤の手は小刻みに震え、ネジ一本満足に外すことができない。計器盤に付着した黒い染みを見るたびに、彼は声を押し殺して嗚咽を漏らしていた。


 二番機に乗っていた伊藤正男少尉と、田中慎一少尉もまた、それぞれ重すぎる業に押し潰されかけていた。


 真面目すぎる性格の伊藤少尉は、二号機の操縦桿を握っていた己を激しく呪っていた。


「私が未熟だったばかりに、一号機を巻き込むような事故を起こしてしまった。小林少尉を殺したのは私だ」という強迫観念に近い自責の念が、彼から一切の生気を奪っていた。


 彼は電装・計器班の作業に回されたが、手元が定まらず、細かな部品を何度も床に落とした。

そんな伊藤の指導に当たったのは、銀座の高級時計職人の息子である電装・計器班長の寺本理軍曹と、アマチュア無線の知識を買われた通信整備の三ノ輪誠伍長だった。


「伊藤少尉。あなたのその手の震えは、この高度計の誤差をコンマ五ミリ広げます」


 分厚い瓶底眼鏡を押し上げながら、寺本軍曹が冷徹な声で言い放つ。彼の作業台の上には、手製の極小工具と時計油が理路整然と並べられていた。


「空でのコンマ五ミリの誤差は、濃霧の中ではパイロットの死を直結して意味します。過去を悔やむあなたの感情など、この精密な歯車の世界には何一つ不要です。命を落としたくないのなら、ただ無になりなさい」


 無機質で厳しい寺本の言葉に、伊藤は唇を噛み締めながら頷くしかない。

その隣では、人と目を合わせるのが苦手な三ノ輪伍長が、ズタズタに断線した機体の配線を、回路図も見ずに手作業で繋ぎ合わせながらボソリと呟く。


「……断線しています。少尉の心と、同じです。でも……正しい場所に繋げば、電気は必ず通ります。機体は、直ります。だから……ハンダを、お願いします」


 三ノ輪のどこか朴訥とした、しかし機械に対する絶対の信頼を込めた言葉に、伊藤は震える手でハンダゴテを握り直し、基盤に向かい合おうと必死に足掻いていた。



 一方、二番機の後席に押し込まれていた元ラガーマンの田中慎一少尉は、発動機班での重労働に回されていた。


 法政大学のラグビー部で鳴らした屈強な肉体を持つ田中は、本来ならば、小柄な伊藤に代わって自分が前席(操縦席)に座るべきだったのだと、己の無力さを激しく責め立てていた。


 彼を容赦なくしごいたのは、東京の町工場出身である発動機班長の荒木鉄男曹長と、大阪の自動車修理工場の倅である坂本健太軍曹だった。


「おいおい田中少尉殿! そんなへっぴり腰じゃ、この星型エンジンのシリンダーは持ち上がらへんで! 大学で鍛えたラガーマンの意地見せえや!」


 坂本軍曹が、気さくだが容赦のない関西弁でゲキを飛ばす。


 田中は顔を真っ赤にして重さ数十キロのシリンダーブロックを持ち上げようとするが、腕の古傷の痛みと、精神的な重圧で力が抜け、ガチャンと派手な音を立てて床に落としてしまった。


「……す、すみません! 俺が、俺が前席に乗っていれば、こんなことには……っ」


 田中がたまらず泣き言を漏らし、その場に膝をついた。温厚で陽気だった青年の面影はどこにもない。

だが、発動機班の男たちに同情は一切なかった。


 荒木曹長が、油にまみれた太い腕で田中の胸ぐらを掴み、強引に引き起こした。


「泣く暇があったら手ぇ動かせ、少尉殿。この鉄の塊は、お前がいくら泣いても軽くはならねぇんだよ」


 荒木は無口な職人だが、その言葉には実戦を生き抜いてきた絶対的な重みがあった。


「俺たちが弄ってるのは、明日空を飛ぶための心臓だ。死んだ奴の言い訳を聞かせるためにエンジンを組んでるわけじゃねぇ。……持てねぇなら、持てるまで筋肉をちぎって踏ん張れ」


 解体場から響く荒木や鳶沢たちの容赦ない怒声は、連隊本部の私の執務室にまで幾度となく届いた。

彼らは若者たちを「可哀想な患者」として扱うことを徹底して拒絶した。親友の死に涙を流す暇があるなら、油にまみれて機体のボルトを締めろ。それが、生き地獄を這いずり回ってきた古参兵たちが、壊れた若者たちに与えた唯一の処方箋だった。


 決定的な夜が訪れたのは、配属から一週間が過ぎた、骨まで凍るような冷え込みの厳しい夜のことだった。


 私は夜間の警備状況の見回りに出た際、解体場の隅のドラム缶ストーブに、赤々とした明かりが灯っているのを見つけた。


 近づいてみると、火を囲むようにして、飛行隊長の如月大尉、整備班長の鳶沢特務曹長、そして一番機偵察員の高木特務曹長と、二番機偵察員の中田軍曹ら古参兵が、田中、伊藤、佐藤の若者三人を座らせて車座になっていた。


 彼らの手には、野営用の飯盒はんごうで熱燗にされた貴重な配給の酒と、小さな氷砂糖の欠片があった。


「……飲め。アルコールは凍った頭の芯を溶かしてくれる」

如月が、ブリキのコップを佐藤たちに乱暴に手渡した。


 酒が喉を通った瞬間、これまで張り詰めていた佐藤の心の糸が、プツリと切れたようだった。


 佐藤はコップを両手で握り締め、ガタガタと震えながら、堰を切ったように泣き崩れた。


「……小林は、内臓が破裂してるのに、血を吐きながら俺に謝ったんです!」


 静かな冬の夜空に、佐藤の悲痛な叫びが響き渡った。鼻水と涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、彼は胸の内に溜め込んでいた地獄を吐き出した。


「俺が前席に座っていれば……俺が死んでいればよかったんだ! 俺は、あいつの血の匂いが頭から離れないんです! 目をつぶれば、あいつの血走った目が俺を見てる……っ! 俺たちに、もう空を飛ぶ資格なんてない!」


 隣で聞いていた伊藤も田中も、耐えきれずに歯を食いしばり、ボロボロと涙をこぼしてうつむいた。

ストーブの薪が、パチンとはぜる音がした。


 古参兵たちは、誰一人として佐藤を止めず、その凄惨な吐露を最後まで黙って聞いていた。


「……いいか、佐藤」

やがて如月が、アルコールで少し赤くなった顔で、静かに、だが冷徹な声で口を開いた。


「お前が泣こうが喚こうが、腹をかっさばいて詫びようが、死んだ小林は絶対に戻ってこねぇ」

如月は煙草に火を点け、紫煙を夜空に深く吐き出した。


「自分だけが生き残った意味なんざ、いくら帝大の賢い頭で考えたって答えは出ねぇよ。戦争ってのはそういうもんだ。理不尽に死ぬ奴がいて、運良く生き残る奴がいる。それだけだ」


「じゃあ……俺はどうすればいいんですか...! このまま、あいつの亡霊を引きずって生きていけって言うんですか!」


 佐藤が血を吐くような声で叫んだ時、それまで火箸でドラム缶の灰を突いていた高木特務曹長が、顔を上げて低い声を発した。


「……少尉殿。俺はな、複葉機の時代からずっとこの後席に座り続けて、前席の若い操縦士が何人も何人も死んでいくのを、背後から見送ってきたんだ」


 明治末期生まれの貧農の三男坊から、腕一本で特務下士官にまで登り詰めた歴戦の偵察員、高木。彼の日焼けした深い皺の刻まれた顔には、佐藤とは比べ物にならないほどの、数え切れない死線と喪失の記憶が刻み込まれていた。


「前席の奴が機銃で蜂の巣にされても、俺は後席で操縦桿を握って逃げるしかなかった。あんたの気持ちは痛いほど分かる。生き残るってのは、死ぬよりしんどい業だ」


高木は火箸を置き、佐藤の目を真っ直ぐに見据えた。

「だがな。生き残った後席の人間が泣き言を言って機体を降りちまったら、死んだ前席の奴は、本当にただの犬死にになっちまうんだよ」


「犬死に……」


「そうだ。だから俺は飛ぶ。何度死にかけても、また飛ぶ。……少尉殿、泣く暇があったら、明日俺たちが乗る機体の風防を、血の涙を流してでもピカピカに磨け。お前らが磨いた風防のおかげで、俺たちは敵を見つけ、生き残って帰ってこれるんだ。……俺たちの命を繋ぐこと、それが今のあんたの仕事だ」


 高木の静かで重い言葉に、佐藤は言葉を失い、ただ嗚咽を漏らした。


 そこへ、中田軍曹が懐から古びた写真の切れ端を取り出し、炎に照らし出しながら口を挟んだ。

「俺の実家は、浅草の写真館でしてね。死にゆく兵隊の家族写真を何枚も撮ってきました」


 大正末期生まれで、航空カメラの撮影と爆撃照準器の操作において右に出る者のいない中田軍曹は、少しシニカルな笑みを浮かべた。


「写真ってのは、その一瞬を切り取って残せる魔法ですが、しょせんはただの紙切れです。死んだ人間の記憶を本当に残せるのは、生き残った人間の『目』だけなんですよ。……佐藤少尉。あんたが空を飛んで、新しい世界を見続ける限り、あんたの目ん中にいる小林少尉も一緒に空を飛び続けることができる。俺はそう思ってカメラのシャッターを切ってますよ」


 中田の言葉は、帝大出身で文学肌の佐藤の胸の奥底に、静かに、しかし確実に染み込んでいったようだった。


 最後に、鳶沢特務曹長が、ゴツゴツとした油まみれの手で田中の背中を力任せに叩き、伊藤の肩を強く握った。


「大尉殿や高木さんの言う通りだぜ、少尉殿たち。俺たちゃ魔法使いじゃねぇ。お前さんたちの震える手がボルトを締め損ねたら、明日の俺たちを殺すかもしれねぇんだ」


 鳶沢の目は、職人としての厳しさと、戦友としての奇妙な温かさを帯びていた。


「過去を見て泣いてる暇があったら、目の前の鉄屑を睨みつけな。鉄は嘘をつかねぇ。お前らが汗と油を流した分だけ、確実に飛ぶ力に変わる。……俺たちが、必ずもう一度お前らを空に上げてやる。だから、それまで泣くのは我慢しろ」


それは、一見すると血も涙もない冷酷な言葉の連続だった。

「生き残った意味」などという、文学的で綺麗な慰めは一切ない。ただ、冷徹な物理法則と、他者の命を懸けた責任を彼らの両肩に無理やり背負わせるだけだ。

だが、私には痛いほど分かっていた。


 死に取り憑かれた若者たちに「今の仕事(日常)」を与え、生きる意味を無理やりにでも『現在』に繋ぎ止めるための、それが彼ら古参兵なりの、不器用で完全にずれた、しかし何よりも決定的な優しさなのだと。


 私は暗闇の中で密かに微笑み、音を立てないようにその場を離れた。


その夜を境に、若者たちの目から少しずつ絶望の色が消えていった。

 配属から二週間が経つ頃には、田中たちの顔からは病院特有の青白さがすっかり消え去り、代わりに洗っても落ちない機械油の黒い染みが深く刻み込まれていた。


 大柄な田中は、その持ち前の体力を活かし、荒木曹長や坂本軍曹の横で重いエンジン部品の運搬を率先して手伝うようになっていた。


「おっ、田中少尉殿、ええ腕っぷしや! その調子でこっちの予備シリンダーも頼むわ!」


「押忍! 任せてください、坂本軍曹!」


 坂本の陽気な声に、田中が汗を拭いながら、かつてのラガーマンらしい腹の底から出る快活な声で返事をする。その顔には、もう己の肉体を呪うような暗さはなかった。


 生真面目な伊藤は、寺本軍曹と三ノ輪伍長の細かな計器・電装作業の補佐に没頭していた。


「伊藤少尉殿、そのトルクのかけ方は雑です! 計器は壊れ物です、もっと神経を集中させなさい!」


「はっ! 申し訳ありません、やり直します!」


 寺本の小言を浴びながらも、伊藤の手の震えはいつの間にか止まっていた。目の前のコンマ一ミリの世界に没頭することで、彼は過去の幻影から逃れる術を身につけたのだ。


 そして佐藤は、写真館の息子である中田軍曹から、航空カメラの巨大なレンズの手入れや、爆撃照準器のプリズムの調整を教わり、夜遅くまで無言でレンズを磨き続けていた。


 布でガラスを拭き上げる佐藤の横顔は、まるで修行僧のように穏やかだった。彼が磨き上げた透明なレンズの向こう側に、親友の血の海ではなく、どこまでも広がる青い空を見出そうとしているのは明らかだった。


「……大佐殿。私の見立ては間違っていたようです」

 十二月下旬のある日の午後、執務室に医療部からの報告書の束を届けに来た雪江幸子が、窓から解体場を見下ろしながらポツリと漏らした。


 彼女の視線の先では、油まみれのツナギを着た田中たちが、鳶沢や如月と何やら大口を開けて笑い合いながら、一番機の主翼の取り付け作業を行っている姿があった。


「病院の白いベッドの上で、私たちがいくら言葉を尽くして慰めても、あの子たちの魂は死の淵から帰ってきませんでした。……でも、あの乱暴で無茶苦茶な人たちの輪の中で、あの子たちは確かに『生きて』います」


 雪江看護婦の言葉には、医療従事者としての敗北感よりも、若者たちが笑顔を取り戻したことへの純粋な安堵と喜びが滲んでいた。


「軍隊というのは、奇妙な家族のようなものだからな」

私は、新しい煙草に火を点けながら静かに答えた。


「彼らは彼らなりのやり方で、傷ついた若鳥の羽を乾かしているのさ。油と泥にまみれた、不器用な乾かし方だがね」


 私が答えると、雪江は窓の外の彼らを少しだけ眩しそうに目を細めて見つめ、小さく頭を下げて執務室を退出していった。




この項つづく

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