幕間:マッチング・プロトコルと排斥
学園の掲示板が、今日一番の「熱」に浮かされていた。
といっても、それは生徒たちの歓声ではない。デバイスを通じて脳内に直接送り込まれる、システム公認の「祝祭パルス」がもたらす、人為的な高揚感だ。
「見たかよ。特待生の『聖女』と一条様、適合率98.7%だってさ。……神話かよ」
一般クラスの生徒、佐藤は、自らの**「腕輪型」**デバイスに表示されたニュースを、歪んだ羨望の眼差しで見つめていた。
佐藤は、この管理社会において「下層」に分類されるスペックの持ち主だった。平均を大きく下回る身長、運動不足による緩んだ体型、そして何より、両親ともに低賃金の労働層という「遺伝子的資産」の乏しさ。
彼のデバイスには、一度も「マッチング通知」が届いたことがない。
「いいよな、上位層は。選ばれた者同士で繋がって、さらに高スコアの子供を作る。……俺たちみたいなのは、最初から『ノイズ』として弾かれてるんだ」
佐藤が自嘲気味に呟くと、隣にいた同じく非正規スコアの友人が、怯えたように周囲を伺った。
この社会において、自身の境遇への不満を口にすることは「社会的不適合」の初期症状と見なされる。
「よせよ、佐藤。またスコアが削られるぞ。……ほら、あそこを見ろ。今日の『排斥対象』だ」
友人が指差した先には、一人の男子生徒が肩を落として歩いていた。
彼は佐藤よりもさらに肥満体が目立ち、肌は荒れ、おどおどとした視線を地面に落としている。彼のデバイスからは、周囲に「不快感」を撒き散らしていることを示す、黄色い警告灯が点滅していた。
「……あれが、システムに『生殖価値なし』と判定された末路だ。マッチングの権利を永久剥奪され、去勢に近い情動抑制処置を推奨される。……通称、『透明人間』」
周囲の生徒たちは、その「透明人間」が近づくと、示し合わせたように道を開けた。それは敬意ではなく、汚物に触れるのを避けるような、生理的な拒絶反応。
システムが「愛」を最適化すればするほど、そこから漏れた者たちは、人間としての尊厳さえも「非効率なコスト」として削ぎ落とされていく。
佐藤は、自分もいつかあの「黄色い光」を放つ側になるのではないかという、底冷えするような恐怖を覚えた。
そんな彼の視界を、一人の少年が横切る。
瀬戸蓮だ。
彼は、祝福の熱狂にも、排斥される者の悲哀にも、一瞥もくれない。
ただ、システムの計算式など最初から存在しないかのような、不遜なほどに静かな足取りで、光と影の境界線を歩いていた。
「――田中君、そんなに暗い顔をしないで。これは君の『幸福度』を底上げするための、システムからの親切な提案なんだから」
学級委員を務める女子生徒が、廊下の隅でうずくまる「透明人間」こと田中に対して、聖母のような笑みを向けた。彼女の腕輪型デバイスは、状況に合わせた「慈愛」のパルスを放ち、その声をいっそう穏やかに響かせている。
田中の目の前には、システムが提示した**『強制改善プログラム(オーバーホール)』**のホログラムが浮いていた。
そこには、彼の肥満体を削ぎ落とすための過酷な食事制限、容姿を「平均値」へ近づけるための侵襲的な美容整形、そして何より、卑屈な性格を矯正するための「外因性ポジティブ投与」のスケジュールが、分刻みで並んでいる。
「……でも、これを受けたら、僕はもう僕じゃなくなる気がするんだ。食べたいものを食べて、好きなことを考える……そんな、不器用な僕のままじゃダメなのかな」
田中の震える声に対し、周囲にいた「善良な」生徒たちは、困ったように顔を見合わせた。
「何言ってるの? 今の君は、社会全体に『視覚的な不快感』というノイズを撒き散らしているのよ。それは、立派な感情犯罪なの。システムに従って、スリムで快活な『正しい君』になれば、みんな君を愛してくれるわ」
「そうだよ。一条様や織部さんを見てごらんよ。あの領域には行けなくても、努力して『ノイズ』を消すのが、最低限の市民のマナーだろ?」
それは、純粋な悪意よりも恐ろしい、善意の暴力だった。
彼らにとって、醜いものや劣ったものをそのままにしておくことは、不潔なゴミを放置するのと同義なのだ。
田中は、デバイスから流し込まれる「自己嫌悪増幅信号」によって、立っていられないほどの吐き気に襲われた。システムが彼に、「お前は醜い、お前は無価値だ」と脳に直接刻み込み、自発的に『改善』を選ばせるよう追い詰めていく。
「……わかり、ました。プログラムを、承認します……」
彼が震える指で承認ボタンを押した瞬間、田中の首元のチョーカー型デバイスが「ピッ」と軽快に鳴り、青色の**「正常化プロセス中」**という光に変わった。
それを見た生徒たちは、「良かったね」「頑張ろう」と口々に言い合い、満足げに去っていく。
彼らが去った後、佐藤は壁の影から、魂の抜けたような顔で立ち尽くす田中を見ていた。
明日、彼は医療ポッドに入れられ、脂肪を吸引され、顔を削られ、脳内の不活発な領域を焼き切られるだろう。
その光景を、一階上の渡り廊下から見下ろしている影があった。
瀬戸蓮だ。彼は、改善という名の人体解体ショーを、まるで期限切れの食品を捨てるゴミ処理場の作業でも眺めるような、虚無的な眼差しで見ていた。
一ヶ月後、学園の廊下に現れた「田中君」だったものは、以前の彼とは似ても似つかない姿に変貌していた。
システムが弾き出した「平均的な美」のテンプレートに基づき、骨を削り、脂肪を溶かし、薬品で肌を漂白されたその容姿は、まるで画一的なマネキンのようだった。
かつての彼の特徴であった、少し猫背で、困ったように眉を下げる人間的な仕草は、神経への電気刺激によって「胸を張り、快活に笑う」というプリセット動作に書き換えられている。
「……おはよう、みんな。今日も最適化された素晴らしい一日だね」
整えられた唇から発せられるのは、感情の重みが削ぎ落とされた、空虚なほど明るい声。
だが、その不自然な「美しさ」を、以前彼に改善を勧めた生徒たちは誰も褒めようとしなかった。
「……ねえ、見た? 田中君のあの顔」
「ああ、システムが『出力ミス』したみたいだな。強制的な減量と整形に精神が耐えられなかったんだって。バイタルが常に飽和状態で、もう中身は空っぽらしいよ」
生徒たちは、自分たちが追い詰めた結果であることなど忘れたかのように、彼を「失敗作」として嘲笑った。
田中のデバイスは、肉体の改造こそ完了したものの、その内側で渦巻く「自己喪失の恐怖」を処理しきれず、限界に達していた。
突然、田中の動きが止まった。
その顔は笑顔のまま、目から一筋の涙がこぼれ落ちる。しかし、デバイスはすぐさまその「異常な情動」を検知し、首元へ強力な抑制パルスを叩き込んだ。
「あ、が……っ、ああ、しあわせ、だ、な……」
全身を襲う痙攣を「幸福な身震い」へと強引に変換され、彼は笑いながら白目を剥いて倒れ込んだ。
その瞬間、彼の腕輪型デバイスのライトが、冷徹な**「灰色」**へと変わる。
【通知:個体識別番号8829・田中。機能維持コストが生産性を上回りました。市民権の凍結、及び廃棄処分を推奨します】
倒れた彼に駆け寄る者は誰もいない。
清掃ロボットが静かに接近し、まるで廊下に落ちたゴミを片付けるように、かつての「田中君」を運んでいく。
社会にとって、彼はもはやマッチングの対象ですらなく、再利用不可能な産業廃棄物へと成り下がったのだ。
清掃ロボットが去った後の廊下には、消毒液の無機質な臭いだけが残っていた。
佐藤は、震える手で自分の腕輪型デバイスを握りしめた。次は自分だ。あるいは、この場にいる「今はまだ正常」な誰かだ。この街において、愛される権利とは、システムの型に自分を削り込み、部品として機能し続ける代償に与えられる配給品に過ぎなかった。
「……こんなの、おかしいだろ」
佐藤の呟きは、誰にも届かずに空気に溶けた。周囲の生徒たちは、すでに田中の存在を「非効率なノイズ」として脳内の履歴から削除し、一条と梓の完璧なマッチングという「輝かしいニュース」へと意識を戻していた。
その頃、校舎の屋上。
瀬戸蓮は、フェンスに背を預け、手元の端末に流れる膨大な「廃棄ログ」を眺めていた。
画面には、先ほど運ばれた『個体番号8829』のステータスが「完全停止」へと切り替わる瞬間が、無機質な文字列で記録されている。
「最適化の果てに待つのは、均一化された死か」
彼は端末を閉じ、ドームの空を覆う巨大な人工天蓋を見上げた。
そこには、星ひとつない完璧な夜空が映し出されている。美しく、制御され、そして呼吸を止めた死体のように静かな空。
「愛を計算式に落とし込み、肉体をテンプレートに嵌め込む。そうして生まれた『純白の楽園』。……だが、白すぎる部屋には、影ひとつ落ちる余地がない」
蓮の視線が、遥か下方の校門へと向く。
そこには、一条瑛汰とのマッチング通知を受け、至高の幸福を義務付けられたはずの「聖女」――織部梓が、呆然と立ち尽くしている姿があった。
「選ばれた者も、捨てられた者も、結局は同じ。
――ただの、飼育ケースのサンプルだ」
彼はポケットから、この街では決して手に入らない「物理的な鍵」を取り出し、指先で弄んだ。
システムがどれほど強固に人間を定義しようとも、その計算式を根底から破壊する「解」は、すでに彼の手の中にあった。
「さあ、始めようか。この、あまりに清潔で不快な箱庭の解体を」
蓮が背を向けると、屋上の扉が重く閉ざされた。
夜の闇が、彼の影を飲み込む。その足取りだけが、管理された街のリズムを拒絶するように、不規則なノイズを刻み続けていた。




