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『永遠の檻、救済の栞』  作者: 月見酒
透明な檻、噤(つぐ)まれた栞
29/29

幕間:内心ログ


 自室のベッドに横たわり、梓は天井を凝視していた。

 先ほど服用した「安眠パッチ」が脳に浸透し、波立っていた感情を平滑な凪へと変えていくはずだった。デバイスは『深層心理:安定』と表示し、彼女の心は論理的には「幸福」であると証明されている。



(……なのに、どうしてこんなに喉が渇くの?)



 一条瑛汰とのマッチング。親友だった里奈の変容。そして、目の前で廃棄された「田中君」。

 本来なら、それらはすべて『適切に処理されるべき情報』として、彼女の意識の表層から洗い流されているはずだった。システムがそう命じ、彼女の肉体もそれに従っている。


 だが、目を閉じると、暗闇の中にあの少年の瞳が浮かび上がる。

 瀬戸蓮。彼が放った「あれが君の望んでいた聖女の末路だよ」という言葉が、システムのパッチを突き破り、彼女の脳幹に直接突き刺さっていた。


 梓は震える手で、枕元に隠していた一冊の古い本を取り出した。

 それは、父がかつて「情報のゴミ」として処分しようとし、梓が密かに盗み出した、管理社会以前の詩集だった。



『私は、私の悲しみを知っている。

 それは、誰にも奪わせない私の重荷だ。

 光を拒む影のように、私だけが知る暗い重みこそが、

 私がここにあるという、ただ一つの証なのだ』



 掠れた文字を、指先で丁寧になぞる。

 今の社会において、悲しみは「排除すべき病」であり、重荷は「切り捨てるべき非効率」だ。

 けれど、梓はこの詩の中に、今の自分を救う唯一の真実を見出していた。


(……ああ、そうか。私が『聖女』として振る舞うたびに、私は自分の『重み』を捨てていたんだ)


 微笑みを絶やさず、波風を立てず、システムが望む正解を差し出す。その美しく磨かれた「空虚さ」こそが評価の対象だった。

 だが、蓮のあの射抜くような視線に晒されたとき、梓は生まれて初めて、自分の中に残っていた「薄汚れた、重たい感情」の存在を肯定されたような気がしたのだ。


「……瀬戸くん。あなたは、この影を、この醜い重荷を見ていたの?」


 問いかけは、防音完備の静寂に吸い込まれて消える。

 デバイスの警告ランプが、彼女の微かな動揺を検知して黄色く明滅した。不整脈を抑えるための微弱な電流が走り、無理やり心を静めようとしてくる。


 彼という猛毒が、聖女としての彼女を内側から腐食させていく。

 その破壊の痛みに、梓は皮肉にも、生まれて初めての「生の実感」を覚えていた。



 翌日、放課後の旧校舎。

 梓は吸い寄せられるように、昨日蓮を見かけた階段の踊り場へと足を運んでいた。そこは、最新の監視カメラが死角となり、システムの「清掃」が唯一行き届かない、埃の匂いがする空間だった。


「……また、聖女様のお出ましだ。一条様との『至高の結合』を祝うパーティの準備はいいのか?」


 蓮は、手すりに背を預けていた。その手元には、昨日とは違う古い洋書がある。

 梓は彼との間に数段の距離を残して立ち止まり、震える声で問いかけた。


「瀬戸くん。あなたは昨日、私のことを『サンプル』だと言ったわ。


……なら、あなたは何? あなたはこの街で、何になろうとしているの?」


 蓮は本を閉じ、ゆっくりと梓を見つめた。その瞳は、昨日よりも深く、暗い。

 彼は無言でポケットから、指先ほどの小さな、しかし無機質な銀色の記憶チップを取り出した。


「これを、君のデバイスのメンテナンス・ポートに差し込んでみるといい」


「……何、これ」


「劇薬だよ。君が信じている『平和』の裏側で、システムが何を間引き、何を栄養にして肥大しているか……その生データだ」


 蓮は階段を一段下り、チップを梓の指先に押し付けた。

 その指先が触れた瞬間、梓のデバイスが激しい警告音を鳴らす。


『――警告:未認証デバイスの接近。直ちに破棄してください。情動指数に異常なスパイクを確認――』


「これを読み込めば、君の『聖女』としての役職ロールは死ぬ。親や教師が望む、清らかで空虚な織部梓には二度と戻れない。



……それでも、自分の『重荷』の正体を知りたいか?」


 蓮の声には、誘惑も同情もなかった。ただ、地獄への扉を開く鍵を差し出すような、絶対的な拒絶と受容が混在していた。


 梓はチップを握りしめた。

 昨日、里奈が見せたあの「黒い影」の正体が、この小さな銀色の塊の中に隠されている。

 心臓が爆発しそうなほど鳴っているのに、デバイスから流れる安定パルスは、もはや彼女の奥底にある「暗い好奇心」を抑えつけることができなかった。


 深夜、自室の遮光カーテンを固く閉め、梓は蓮から渡されたチップを自身のメンテナンス・ポートへと接続した。

 瞬間、視神経に直接、冷徹な奔流ログが叩き込まれる。



「……っ、これ、は……」


 それは、彼女が「幸福な市民」として享受していた世界の裏面――システムの胃袋の中身だった。

 展開されたのは、秒単位で管理された**『個体識別番号:Origin-00(織部梓)運用スケジュール』**という名の脚本だ。


[07:30] 朝食における父親の発言:『期待しているよ』。目的:被験者の自己有用感を3.2%向上。

[08:15] 登校路での友人・ミキの接触:『梓って本当に完璧だよね』。目的:社会承認欲求の飽和による、外部刺激への抵抗力強化。

[12:40] 昼食。一般生徒・田中との視覚的接触。目的:『不適合者』の視認による、現状維持バイアスの再生産。


 梓の指先が凍りつく。

 今日、友人から掛けられた温かい言葉も、父の厳格な激励も、すべては梓という検体の「情動指数」を一定範囲内に収めるためにあらかじめプロットされた、予定調和の投与アドミニストレーションだった。

 彼女の心は、自由意志という名の揺らぎを許されない、精密なプログラムの計算結果に過ぎなかったのだ。


 さらに画面をスクロールすると、一条瑛汰との「交配スケジュール」が、農作物の収穫予定表のように事務的に記されていた。


[来月15日] 第一次接触(公式デート)。

[再来月] 婚姻届受理及び、生殖細胞の適合テスト開始。

[目標] 次世代検体:Origin-01の安定的な受胎。


 私は、人間ですら、なかった。

 システムを維持するためのプラセボ、最高品質の「家畜」――。

 絶望が喉元までせり上がり、梓が接続を断とうとしたその時、データの末尾に奇妙な**「空白」**を見つけた。


 そこには、エラーログが凄まじい速度で更新され続けている。


【警告:未定義の変数(Variable-X)を検知】

【事象:旧校舎階段における接触。被験者Origin-00のバイタルが予測モデルを大幅に逸脱】

【対応:因果律の再演算(Re-Calculation)を開始……失敗】

【対応:再演算……失敗。当該事象を『ノイズ』として隔離、または削除を推奨】


 そこだけが、不自然に白く、欠落していた。

 瀬戸蓮。彼に関する全ての記録が、まるでブラックホールのようにデータを飲み込み、システムの演算を拒絶している。昨日彼と何を話し、どんな表情をしたのか。システムの「脚本」はその部分だけ、真っ白なノイズに埋め尽くされていた。


 管理社会が唯一、定義することも制御することもできない、絶対的な「無」。

 その空白の渦の底に、一行だけ、システム外の手書きログが浮かび上がった。



『――だが、このノイズ(絶望)だけは、彼らには計算できない』



 蓮の筆跡だ。

 その文字を見た瞬間、梓の視界を覆っていたデータの奔流が、一気に熱を帯びた「怒り」へと転じた。

 

 システムが書き込んだ「聖女」というプログラムの隙間に、彼が流し込んだ冷徹な真実。それが、梓の魂に初めて、計算不可能な「殺意」という名の熱を灯した。


 データの奔流が止まり、部屋に重苦しい静寂が戻った。

 梓は震える手でチップを引き抜き、鏡の前に立った。そこに映っているのは、システムが心血を注いで作り上げた「最高傑作(Origin-00)」の姿だ。

 

 左右対称に整えられた前髪、一点の曇りもない肌、そして「聖女」であることを証明する、耳元で上品に輝くイヤリング型デバイス。

 今まで、このデバイスは彼女にとって、自分が正しく、価値ある存在であることを保証する「勲章」だった。だが今は、家畜の耳に打たれた個体識別のタグにしか見えない。



「……これが、私なんだ」


 鏡の中の自分が、美しく、そしてひどく醜悪に歪んで見えた。

 悲しみも、喜びも、この小さな機械が奏でる電気信号に踊らされていただけ。一条との未来も、里奈への同情も、すべては定められたプロトコルの中の出来事。


 梓は、化粧台の引き出しから金属製のペーパーナイフを掴み出した。

 その鋭利な先端を、自分の耳元――デバイスと皮膚の接続部へと向け、強く押し当てる。


(壊さなきゃ。この『偽物』を、今すぐ――)



 だが、刃先が皮膚を裂く直前、指先が不自然に凍りついた。

 自分の意思ではない。デバイスが梓の筋肉の収縮を瞬時に計算し、微弱な電気刺激で運動神経を強制的にジャックしたのだ。


『――検知:不適切な身体運動。自己防衛プロトコルを起動します。落ち着いてください、梓。深呼吸を――』


 デバイスから、耳を撫でるような甘い合成音声が流れる。

 それと同時に、脳内に強力な**「多幸感パルス」**が流し込まれた。

 怒りも、絶望も、殺意も、すべてがパステルカラーの霧に溶かされていく。無理やり口角が吊り上がり、心拍数が「正常値」へと強制的に引き戻される。


「あ、ぁ……っ」


 梓の手から力が抜け、ペーパーナイフが床に落ちて乾いた音を立てた。

 死ぬことさえ、自分を傷つけることさえ、このシステムは「エラー」として許してくれない。彼女は自分の体という檻の中に閉じ込められ、外側から優しく、残酷に飼い慣らされている。


 梓は、自分の意志とは無関係に微笑み続ける鏡の中の自分を見つめながら、頬を伝う涙だけが、プログラムされていない唯一の「ノイズ」であることを悟った。


(……助けて、瀬戸くん)


 意識の奥底で、彼女はあの「空白」を呼んだ。

 システムの計算を拒絶し、この完璧な檻を破壊できる唯一の劇薬を。


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