幕間:『沈黙の転校生』
教室の自動ドアが開いた瞬間、ざわついていたクラスの空気が、真空状態になったかのように凍りついた。
そこには、一週間前に「感情制御不全」の判定を受け、更生施設へと連行されたはずの親友――里奈が立っていた。
一週間前。想い人がマッチング・プロトコルで別の女子と成立した際、彼女はデバイスの制止を振り切って泣き叫び、教室の備品を破壊した。床に組み伏せられ、「助けて、梓!」と叫んでいた彼女の、血の走った瞳を梓は今も鮮明に覚えている。
「おはよう、みんな。今日からまたよろしくね」
教壇に立った里奈は、一ミリの狂いもなく口角を上げ、完璧な微笑を浮かべていた。
だが、その首元を見た瞬間、クラスの誰もが息を呑んだ。
彼女の細い首には、以前の控えめな**「チョーカー型」ではなく、重厚な金属の光沢を放つ「首輪型」**の生体デバイスが装着されていた。
この社会において、デバイスの形状はそのまま「精神の純度」を示す階級章だ。
梓のように自己抑制に優れた優良者や著名人が着用を許される、イヤリングやピアスのような装飾に近い**「イヤリング型」。
一般市民が装着する、時計代わりの「腕輪型」。
そして、情動の暴走を起こし「過去に問題有り」と判定された者にのみ課される、神経介入強度の高い「首輪型」**。
里奈のそれは、以前の平穏な日常に戻れないことを告げる、残酷な宣告に他ならなかった。
「……里奈、なの?」
梓が掠れた声で問いかけると、里奈は首を傾げた。
首輪のセンサーが瞬時に緑色に明滅し、彼女の脳内に「適切な社交反応」をパルスとして流し込む。
「ええ、梓。リセットを受けて、ようやく分かったわ。あの時の私は、ひどい精神の病にかかっていたのね。今はもう、あんな醜いノイズに振り回されることはないわ」
里奈の瞳は、まるで磨き上げられた義眼のように澄み渡っている。
かつて彼女が「梓、これ内緒だよ」と言って見せてくれた、あのいたずらっぽく、湿り気を帯びた人間らしい光は、どこにも残っていなかった。
「ねえ、里奈。あの時あなたが言っていたこと……覚えてる?」
休み時間、梓は里奈の席へ歩み寄った。周囲の生徒たちは、重々しい「首輪型」を装着した里奈を、まるで感染症の患者を避けるように遠巻きに眺めている。
「あの時って、どの時のことかしら?」
里奈は、教科書を整理する手を止めて、小首をかしげた。その動作一つ一つが、事前にプログラムされた演劇の型のように優雅で、不自然だ。
「……彼のことよ。あんなに好きで、将来はドームの外に二人で逃げてもいいって、泣きながら言ってたじゃない」
梓がその言葉を口にした瞬間、里奈の首輪から「ピピッ」と鋭い警告音が鳴った。
センサーが赤く点滅し、彼女のバイタルに生じた微かな不整脈を即座に検知する。
「梓、冗談はやめて。私がそんな『非論理的なエラー』を口にするはずがないわ。ドーム外なんて、汚染された死の土地でしょう? そこへ逃げるなんて、自殺志願者の考えることだわ」
里奈の表情は、怒るでも悲しむでもなく、ただ「正解」を述べる教師のように平坦だった。
梓は背筋に冷たいものが走るのを感じた。里奈の記憶から、あの激しい恋心だけでなく、それを共有した自分との時間さえも、「不適切なノイズ」として剪定されたのだ。
「……じゃあ、私のことも、ただの『模範的なクラスメイト』としてしか見ていないの?」
「いいえ。あなたは『聖女』、織部梓。この学園の指標よ」
里奈は微笑んだ。だが、その瞳には梓を映しているはずの光がない。
彼女が見ているのは梓という人間ではなく、システムが定義した「織部梓」という記号に過ぎない。
再調律とは、記憶の消去ではない。
それは、過去のすべての出来事から「感情という色」を剥ぎ取り、システムにとって都合のいい「無機質な事実」へと塗り替える作業なのだ。
梓は、里奈の首元で鈍く光る銀色の金属を見つめた。
あれが、かつて親友だった少女の魂を、内側から食い尽くす機械の牙に見えた。
「それにね、梓。システムは私に、さらなる『恩寵』を与えてくれる予定なの」
里奈が耳元にかかった髪を、ゆっくりと指先で払った。
その拍子に、重厚な首輪の隙間から覗いたうなじの皮膚に、梓は息を呑んだ。
そこには、生々しい手術痕とともに、皮膚の下で禍々しく拍動する「黒い影」が透けていた。
「……里奈、それ……」
「これ? 次のステップのためのコネクタよ。首輪型ではまだ、私の内側に残る『不純物』を完全に抑制しきれないから。来月には、これを**『埋め込み型』**に移行するの」
梓の心臓が、警鐘を鳴らすように跳ねた。
埋め込み型。それはデバイスが装身具であることを辞め、神経細胞そのものと融合する管理社会の終着駅だ。狂信的なシステム信奉者か、あるいは再調律を繰り返してもなお「情動という病」が完治しない重犯者にのみ適用される禁忌の処置。
皮膚の下で蠢くチップの色は、墨のように黒い。それは彼女の魂が、システムによって「修復不能な汚点」と定義されたことを意味していた。
「ええ。より深く、より確実に、システムの一部になれる。そうすれば、もう何も怖くない。
……何も、考えなくてよくなるの」
里奈の言葉が、ふと途切れた。
その瞬間、完璧に固定されていた彼女の口角が、ほんの数ミリだけ、力なく震えた。
「……ねえ、梓」
里奈が、そっと梓の手に触れた。
氷のように冷たい指先。だが、その力が異常なほど強く込められる。
「……痛いの。本当は、ずっと頭の中が、真っ白なノイズで焼かれているみたいに、痛いの。……お願い、梓。私を、殺して。今のうちに、『私』がまだ、この痛みを感じられているうちに……っ」
それは、システムに去勢され、黒い機械に侵食されゆく少女が放った、最後で唯一の「自己意志」だった。
だが、その悲鳴を、首輪が許さなかった。
ジ、と不快な放電音が響く。
里奈の瞳から、一瞬だけ宿った湿り気が瞬時に蒸発し、再び硝子細工のような無機質な光が戻った。
「……なんてね。冗談よ、梓。今のは『旧い私』の残響。すぐに、心地よい凪が戻ってくるわ」
里奈は優雅に手を離し、何事もなかったかのように微笑んだ。
梓は、自分の手の甲に残った、里奈の爪が食い込んだ赤い跡を、ただ呆然と見つめることしかできなかった。
里奈は、電池の切れた玩具が再起動した時のように、一点の迷いもない動作で教科書を開いた。
先ほどまで梓の腕を掴んでいた指先は、今やノートに美しい楷書を刻んでいる。そこには、親友に「殺して」と願った少女の面影など、分子レベルですら残っていない。
教室の温度が、数度下がったような気がした。
周囲の生徒たちは、里奈の「再起動」を確認すると、安心したように自分たちの作業に戻っていく。彼らにとって、里奈の絶望は「修正されるべき軽微な不具合」に過ぎず、今の無機質な姿こそが「正常なアップデート」なのだ。
(……救えない)
梓は、自分の指先が冷たく強張っていることに気づいた。
この世界で「救済」とは、苦しみから解放されることではない。苦しみを感じる機能そのものを、機械的に、不可逆的に奪われることなのだ。
耐え難い吐き気を抑えるようにして、梓は逃げるように教室を飛び出した。
人気のない非常階段まで走り、冷たい手すりに縋り付いて激しく呼吸を整える。その時、階上の踊り場から、微かな「紙の擦れる音」が聞こえた。
見上げると、そこには特待生クラスの制服を着た瀬戸蓮がいた。
彼は手元にある物理書籍から視線を上げることなく、ただ淡々と、眼下の光景を「観測」していた。階段の隙間からは、窓越しに先ほどの教室の様子が、まるで標本箱のように一望できる。
「――あれが、システムの出す最終回答だよ」
蓮の声は、低く、驚くほど澄んでいた。
彼は本を閉じると、踊り場から梓を見下ろした。その黒い瞳は、里奈の変容も、梓の絶望も、そのすべてを理解した上で、冷徹なまでに平坦だった。
「救いがない、とでも言いたげな顔だ。だが、彼女はもう『不快』を検知できない。主観的には、あれが彼女の完成形だ。……君が望んでいた『聖女』としての調和、その末路だよ」
蓮と目が合った瞬間、梓の脳内に、システムの警告音よりも鋭い予感が走った。
この男は、里奈を憐れんではいない。
だが、里奈をこのような姿に変えた「この世界そのもの」を、修復不可能な欠陥品として廃棄する準備をしている。
蓮は、微かに口角を上げた。それは嘲りではなく、実験の進捗を確認した学者のような、残酷なほどに純粋な肯定だった。
梓は初めて、自分が守ってきた「平穏」という名の檻が、内側から音を立てて軋み始めるのを感じた。




