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『永遠の檻、救済の栞』  作者: 月見酒
透明な檻、噤(つぐ)まれた栞
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第8話:図書室の司書


 放課後の図書室は、学園の中で最も「沈黙」が推奨される場所であり、同時に最も高度な「情報統制」が行われる場所でもある。

 高い天井まで続く書架には、中身のないダミーの背表紙が並び、生徒たちはその背表紙に刻まれた二次元コードを読み取って、検閲済みのデジタルアーカイブを個人端末にダウンロードする。紙の感触もインクの匂いもない、清潔で無機質な空間。


「……瀬戸、ここのインデックス作成、今日中に終わらせておけよ。特待生なんだから、この程度のデータ整理、朝飯前だろ」


 図書委員の先輩が、面倒な作業を押し付けるように蓮のデスクに使い古された外付けストレージを放り投げた。蓮は「……了解です」と短く応じ、最奥の資料コーナーにある旧式端末に向き合う。

 彼の仕事は、デジタル化から漏れた数十年前の新聞記事や、紙の状態で残された数少ない「保存書籍」のメタデータをシステムに紐付けることだ。埃を被った古いスキャナーの動作音だけが、澱んだ空気の中に響いていた。


 その時、静寂を破るように、重い自動ドアが滑る音がした。

 入ってきたのは、数名の「聖女会」のメンバーに囲まれた梓だった。


「織部先輩、こちらへ。日当たりのいい閲覧席を、学級ランク優先権で確保してあります」

「ありがとう。でも、今日は少し古い広報資料を調べたいの。奥の棚を見てくるから、皆はここで待っていて」


 取り巻きの少女たちを入口付近に残し、梓は一人で書架の奥へと進んでいく。

 彼女が選んだのは、奇しくも蓮が古いスキャナーと格闘している、薄暗い資料コーナーだった。


 梓が資料棚の影から姿を現すと、蓮は反射的にスキャナーのスタートボタンを押し、動作音で沈黙を埋めた。

 「ウィーン……」という低い駆動音と共に、光学センサーの青い光が古い紙面をなぞっていく。蓮は手慣れた手つきで、スキャンし終えた黄ばんだ資料をトレイから引き抜き、代わりの分厚い年鑑をセットした。


「……こんにちは、織部先輩。何か、お探しですか」

「こんにちは、瀬戸くん。……大変そうね、その作業」


 梓は蓮の隣のデスクに歩み寄り、書架に貼られた二次元コードに自分の端末をかざした。電子的な「ピッ」という音が静寂に小さく跳ねる。彼女はダウンロードされた目録を指先でなぞりながらも、視線はどこか泳いでいた。


 入口付近にいる取り巻きたちからは、巨大な書架が壁となって二人の姿は見えない。ここは図書室の中でも監視カメラの死角が重なる、数少ない「空白地帯」だった。


 梓は蓮のすぐ隣の椅子を引いて腰を下ろした。資料を捲るたびに、彼女の制服から微かに甘い香りが漂い、蓮の指先がわずかに強張る。彼は視線をモニターに戻したが、端末の端に表示されている「外部デバイス同期」のログが、彼女の存在を嫌でも強調してきた。


(……バイタル、安定範囲内。いや、呼吸数が平常時より15%多いな)


 蓮はパッチを通じて、彼女の緊張を「数値」として読み取ってしまう。前回の体育祭での接触以来、二人のデバイス間の同期精度は、拒絶反応を避けるために無意識のうちに引き上げられていた。


 梓は目録のページを何度もスワイプしては戻し、同じ箇所を空転させている。蓮は、彼女が先ほどから一文字も読み進めていないことに気づき、重い年鑑をスキャナーのガラス面に押し当てながら、努めて事務的な声を絞り出した。


「……特定の年代の資料なら、インデックスを直接叩いた方が早いですよ。図書委員ですから、検索なら代わりますけど」


 年上の彼女に対する、精一杯の不器用な気遣い。

 梓はハッとしたように顔を上げ、蓮と視線を合わせた。その瞳は、入口で見せていた完璧な「聖女」のそれではなく、何かを打ち明けようと迷う、年相応の少女の揺らぎを含んでいた。


 梓は手元の端末を机に置くと、少しだけ椅子を蓮の方へ寄せた。

 ギィ、という古い椅子の軋み音が、静まり返った書架の間に大きく響く。彼女は周囲の気配を伺うように一度入口を振り返り、それから声を押し殺して囁いた。


「……あの、瀬戸くん。この間のこと、ずっと考えてたの。……あなたが『本物だ』って言ってくれたこと」


 梓は震える指先で、自分の手首に巻かれたデバイスの縁をなぞった。

 蓮は、スキャナーに次の資料をセットする手を止めた。ガラス面に押し当てた自分の手のひらが、妙に熱く感じる。


「あれから、時々……システムの指示とは違うところで、胸が苦しくなるの。パッチが『正常』だと判定していても、自分の中では何かが溢れそうで……。これも、調整すれば治るものなのかな?」


 それは、学園の象徴たる「聖女」が、管理者に漏らした最も危険なエラー報告だった。

 彼女は自分の中に芽生えた、制御不能な「個」の感情の正体を、蓮に肯定してほしいと願っているように見えた。


 蓮は端末の操作パネルに指を置き、彼女のバイタルグラフを静かに見つめた。

 

「……バグを上書きして、無かったことにするのは簡単ですよ、先輩。でも」


 蓮はスキャナーの青い光に照らされたまま、ゆっくりと梓の方を向いた。年下の少年の、冷徹になりきれない、不器用で真っ直ぐな眼差し。


「……それを『異常』だと決めるのは、システムであって、アンタ自身じゃないはずだ。……俺は、今のそのぐちゃぐちゃな数値、嫌いじゃないですよ」


 梓の目が見開かれ、そしてゆっくりと、潤みを帯びていく。

 蓮は自分の放った言葉の気恥ずかしさに耐えきれず、慌てて新しい資料の束を乱暴に手に取った。


「……あー、ほら。作業が遅れると先輩に睨まれるんで。戻ってください」


 耳まで赤くしながら、蓮は必死にスキャナーのスタートボタンを連打した。


「――織部先輩? そろそろお時間です。次の方たちが閲覧室を予約されていますよ」


 遠く書架の向こうから、取り巻きの少女の透き通った声が響き、二人の間に流れていた濃密な静寂がガラスのように砕け散った。

 梓はハッとしたように身を起こし、瞬時に「聖女」としての仮面を被り直す。先ほどまで揺れていた瞳は、一瞬で穏やかで慈愛に満ちた、いつもの完璧な光を湛えていた。


「ええ、今行くわ。……ありがとう、瀬戸くん。おかげで、ずっと探していた『答え』が見つかった気がするわ」


 彼女は立ち上がり、軽く会釈をして去っていく。その背中は、誰の目にも学園の模範たる上級生の姿だった。蓮は、彼女が角を曲がり、完全に見えなくなるまでその背中を盗み見るように追っていたが、ふと我に返って視線を端末へと落とした。


 手元の画面には、彼女が去る瞬間に記録された、システムの定義外にある鮮やかなバイタルログが残っている。

 本来なら、管理者の義務としてこの「異常」を即座に消去し、ログを正常値へ修正しなければならない。蓮の指が、デリートキーの上でわずかに彷徨った。これを消してしまえば、今この場所で二人が「個人」として触れ合った証拠は、この世界から完全に失われる。



「…………」



 数秒の葛藤の後、蓮は結局、管理システムへの同期をオフにしたまま、そのログを暗号化されたプライベートフォルダの奥底へと放り込んだ。公式の会話履歴からは「資料検索の補助」という無機質な一行だけを残し、あとの言葉はすべて闇に葬る。


 代わりに、彼は自分の中にだけその熱を刻み込む。スキャナーの青い光の中で見た、あのシステムの定義外にある彼女の潤んだ瞳。

 

 管理された沈黙の中に、確かな「個」の熱が落ちた。

 二人の立場は、決して交わることのない平行線だ。先輩と後輩、被験者と観測者。

 だが、図書室の古い空気の中で、二人は確かに「自由な感情」という名の禁じられた破片を分かち合っていた。


「……さてと、仕事の続きだ」


 蓮は再びキーボードを叩き始める。

 古いスキャナーの駆動音は相変わらず不格好に響いていたが、そのリズムは、先ほどよりも少しだけ、軽やかになっていた。


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