表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『永遠の檻、救済の栞』  作者: 月見酒
透明な檻、噤(つぐ)まれた栞
19/29

第7話:体育祭の残像


 学園中が、高揚感という名の計算された熱気に包まれていた。

 年に一度の「身体能力測定競技会」――通称、体育祭。全生徒の走行速度、跳躍力、そして心拍の安定度がリアルタイムでランキング化され、会場中央に浮かぶ巨大なホログラムモニターに刻々と映し出されていく。


「おい見ろよ、織部さんの心拍数。あんなに全力で走ってるのに、ずっと『至福の安定値』を維持してる。やっぱり聖女様は出来が違うな」

「それに比べて俺たちのグラフ、見てみろよ。緊張でガタガタだ。これじゃ来期の適性評価に響くぜ……」


 クラスメイトたちの羨望と焦燥が混じった声が、蓮の耳に届く。彼はクラスの待機席で、支給されたスポーツウェアの袖をまくり、膝の上で端末を操作していた。周囲では男子生徒たちが「ランクを上げれば奨学金が増える」と血気盛んにストレッチに励んでいるが、蓮の視線はフィールドの反対側、女子選抜種目のスタートラインに立つ梓に向けられていた。


 彼女もまた、機能性を重視したタイトなウェアに身を包んでいる。ポニーテールに結い上げられた髪が、初夏の風に揺れていた。普段の厳かな制服姿とは違う、瑞々しい「少女」としての輪郭が強調され、観客席からは溜息のような歓声が漏れている。


(……数値が上がってる。他人の目には安定して見えても、パッチの裏側は限界だ)


 蓮の手元のグラフは、パッチの許容範囲ギリギリで激しく波打っていた。システムは彼女に「聖女らしい、余裕のある勝利」を求めている。だが、今の彼女の生体反応は、期待に応えようとするプレッシャーで、今にもオーバーフローを起こしそうだった。


 混合リレーの第3走者。蓮と梓は、同じトラックに立つことになった。

 管理システムによる「能力値の平均化」を目的としたチーム分けの結果だが、二人にとっては、衆人環視の中で最も密接に近づく数秒間となる。


「次は瀬戸と織部さんか。おい瀬戸、お前足引っ張るなよ? 織部さんの完璧な記録に傷がついたら承知しねえからな」


 バトンゾーンで待機する蓮に、クラスの調子のいい連中が野次を飛ばす。この学園において、聖女は「愛でるべき公共資産」であり、蓮のような無味乾燥な特待生がその隣に立つこと自体、ある種の不調和として映るのだ。


 蓮はそれを受け流し、前を走る走者の背中を凝視した。バトンを受け取り、加速する。風を切り、視界の端に、次を待つ梓の姿を捉えた。


「織部……!」


 声をかけた瞬間、計算外の事態が起きた。先行する別チームのランナーがバランスを崩し、蓮の進路を塞ぐように転倒したのだ。衝突を避けるため、蓮は強引に身体を捻り、梓の待つゾーンへと飛び込むように滑り込んだ。


「――っ!」


 勢い余った蓮の身体が、梓を押し倒すような形で重なる。

 クッション性の高い人工芝の上に、二人の身体が密着した。


「おい、大丈夫か!?」「何やってんだ瀬戸!」


 遠くで上がる悲鳴のような声が、一瞬で遠のく。

 蓮の鼻先には、制服の時には気づかなかった、梓の髪から漂う微かな石鹸の香りと、彼女自身の熱い吐息がかかった。重なり合った胸元から、彼女の心臓が、システムでは制御しきれない速さで打ち鳴らされているのがダイレクトに伝わってくる。


「……あ」


 梓の潤んだ瞳が、至近距離で蓮を射抜いた。

 管理された「聖女」ではなく、不意のハプニングに体温を跳ね上がらせた、ただの女の子の顔。

 蓮は、自分の心拍数までもが、パッチの同期なしに跳ね上がるのを感じていた。


 「警告。検体番号005、バイタル異常。救護シーケンスを開始します」

 

 頭上で複数のドローンが羽音を立て、青白いスキャン光がサーチライトのように二人を照らし出した。

 蓮は咄嗟に身体を起こそうとしたが、梓の震える指先が彼のウェアの裾を強く握ったまま離さない。至近距離で見つめ合う二人の視線が交差する。


「瀬戸くん……心臓が、止まらないの。これ、パッチのせい……?」


 梓のデバイスは、パニックを示す赤ではなく、見たこともないような鮮やかな「桃色」を瞬かせていた。蓮は、彼女を追い詰めるドローンのレンズから隠すように、自分の身体で彼女を覆い隠し、死角を作った。


 手元の端末でできるのは、彼女のデバイスに「一過性の接触ショック」という微弱なダミー信号を送り、強制的な鎮静プログラムの起動をコンマ数秒だけ遅らせること。それが限界だった。


「パッチのせいじゃない。……これは、書き換えられない『本物』だ。少しの間、そのままにしておけ」


 蓮は、無理に数値を制御するのをやめた。その代わり、彼はドローンのスキャン光を背中で遮りながら、梓の耳元で低く囁いた。


「落ち着け、織部。……俺の鼓動を感じろ。システムじゃなく、俺の音を聴け」


 蓮は彼女の背中に手を回し、自分の方へと引き寄せる。

 管理社会において、個人の感情は常に透明でなければならない。だが、重なり合った二人の体温と、激しく打ち鳴らされる心臓の音だけは、ドローンのレンズも、周囲の喧騒も届かない、暗く熱い聖域の中にあった。


 梓は蓮の胸板に顔を埋め、彼から伝わる不器用なほど力強い拍動を、新しいパッチのように吸い込んでいった。やがて、救護ドローンの警告音が、蓮が送った「一過性」の信号を正式なステータスとして受理し、緩やかに遠ざかっていく。


 救護班による簡易診断の結果は「突発的なバイタル上昇、および物理接触による軽度のショック」。

 システムはあの瞬間の激しい熱狂を、単なる『数値のスパイク(一過性の異常)』として処理し、機械的に忘却のリストへと放り込んでいた。


 放課後の喧騒が遠ざかった救護テントの裏手。日陰のベンチに、二人は並んで座っていた。

 先ほどまで彼らを囲んでいた視線は、今やトゲのように鋭い記憶として蓮の背中に刺さっている。


「……瀬戸の野郎、どさくさに紛れて何してんだよ」

「織部先輩に怪我がなくてよかったけど……あんな無愛想な年下に抱きとめられるなんて、最悪のバグだよな」


 去り際の男子生徒たちの、嫉妬と蔑みが混じった囁き。上級生である「聖女」への不敬を責めるような視線が、蓮の肩を重くさせていた。


「……瀬戸くん、さっきは、ごめんなさい。私のせいで、あなたが変な目で見られて」


 梓はポニーテールを解き、乱れた髪を指先で整えながら、小さく呟いた。

 まだ少しだけ赤い頬。それは、パッチが作り出す均一な「多幸感の赤」ではなく、熱を持った不均一な、年相応の赤らみだった。


「……別に。いつものことですよ。それより、アンタの数値がなかなか戻らなくて焦っただけです」


 蓮は端末を凝視したまま、ぶっきらぼうに答える。

 普段なら「効率」を優先して理路整然と振る舞えるはずなのに、年上の彼女を前にすると、口をついて出る言葉は驚くほど不器用で、幼さが隠せない。

 視線をどこに置いていいか分からず、必要もないのに端末のログを何度もスクロールさせる。梓の隣に座っているだけで、芝生を握る指先が妙に意識され、自分の心拍までパッチなしでは制御できないほどに乱れていた。


「……でも、不思議。瀬戸くんの鼓動、すごく速かった」


 梓が、伏せた瞳の隙間から蓮を覗き込むように言った。その声には、年上の女性としての余裕と、それ以上に一人の少女としての好奇心が混じっている。

 

「……気のせいですよ。……転倒を避けようとした運動負荷のせいです」


 あからさまな言い訳。少年特有の意地と、見透かされていることへの気恥ずかしさが、蓮の声を硬くさせる。

 梓はそんな年下の「守護者」の横顔を見て、小さく、本当に小さく笑った。それは、全校生徒の前で見せる完璧な慈愛の微笑ではなく、一人の少年を少しだけからかうような、瑞々しい笑みだった。


「ふふ、そういうことにしておいてあげる。……ありがとう。助けてくれて」


 管理社会という冷たい檻の中で、初めて共有した「本物の鼓動」。

 二人の間に流れる、重苦しくも甘い沈黙。夕闇が迫る校庭に響く閉会式の音楽を聴きながら、二人はもうしばらく、現実の数値スコアに戻るのを拒むように、不器用に距離を保ったまま座り続けていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ