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『永遠の檻、救済の栞』  作者: 月見酒
透明な檻、噤(つぐ)まれた栞
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第9話:雨宿りの境界線


 ピ、と手元の端末が短く震えた。

『気象管理局通知:第4エリア、ドーム遮蔽膜の定期換気につき降雨を許可。降水確率100%。傘の未所持者はデリバリー・ドローンを要請してください』


 蓮が顔を上げると同時に、空が急速にその色を落としていった。微細な粒子のような霧雨ではない。気象制御が一時的に解かれた空から降ってきたのは、アスファルトを叩き、熱を奪っていく「本物の雨」だった。


「うわ、マジかよ。ドローンの配送料、雨天割増になってるぜ」

「自動運転のピックアップ、予約でいっぱいだってさ。……あ、ほら、あそこのドローンポート、もう在庫切れだぞ」


 昇降口にたまった生徒たちが、不満げに端末をタップしながら、次々と飛来する配送ドローンから「標準仕様」の透明傘を受け取っていく。その光景は、どこか機械仕掛けの行進のように見えた。


 蓮は、昇降口の柱に背を預けたまま動かなかった。

 特待生の奨学金は、こうした「予測外の支出」をカバーするほど潤沢ではない。雨が止むのを待つのが、最も効率的な選択だった。


「……瀬戸くん。あなたも、待機中?」


 凛とした声が、雨音に混じって届く。

 振り返ると、そこには梓が立っていた。いつも彼女を衛星のように囲んでいる取り巻きたちは、優先予約されていた自動運転車で既に去った後だった。彼女は「聖女」としての公務――図書室での事後処理――を優先したために、珍しく一人取り残されたのだ。


「……織部先輩。ええ、雨宿りです。効率重視で」


 梓は蓮の少し隣、境界線を引くように一歩分だけ離れて並んだ。

 吹き込んだ雫が、彼女の薄い制服の袖を濡らしていく。蓮は無意識に自分の端末の端を確認した。


(バイタル、わずかに低下。……雨の冷たさに、パッチの温度調節が追いついていないのか)


 管理されたドームの中では決して起こり得ない、予報外の冷え込み。その不確実性が、彼女の心拍を波立たせているのがログ越しに伝わってきた。


 「――ひどくなってきたわね」


 梓がぽつりと呟いた直後、雨脚はさらに激しさを増した。叩きつけられる大粒の雨がアスファルトで跳ね、コンクリート特有のむせ返るような土の匂い――ペトリコールが、無機質だった昇降口に立ち込める。


 不意に湿った突風が吹き抜け、梓が「っ……」と肩をすくめた。

 風に煽られた雨がカーテンのように彼女を襲い、梓は無意識に蓮の方へと一歩寄り添う。肩が触れ合うほどではないが、二人のパーソナルスペースが曖昧になる距離。

 

 蓮は咄嗟に、自分の身体を風上にずらして壁を作った。


「こっちへ。……制服が透けますよ」

「あ……ごめんなさい、瀬戸くん」


 叩きつける雨音は、周囲の雑音をすべてかき消す天然のノイズキャンセラーとなった。数メートル先で雨宿りをする他の生徒たちの姿も、白く煙る雨の幕の向こうへ遠ざかっていく。

 

 その時、二人の端末が同時に震えた。

『健康維持アラート:周囲温度が設定値を下回りました。心拍数に揺らぎを検知。即時の保温、または指定の抗ストレス剤の服用を推奨します』


 蓮はログを睨んだ。

(バイタルグラフがさっきから乱高下している。……寒さのせいだけじゃない)

 

 波形は、まるで荒天に翻弄される小舟のように激しく揺れていた。蓮は、彼女が寒さに震えているのか、それともこの「隔離された非日常」に昂ぶっているのかを確かめるように、センサーの監視レベルを一段深くした。

 

「ねえ、瀬戸くん。昔の人は、この雨の中を傘一本で歩いていたのよね」


 梓は、軒先から滴り落ちる雨の連なりを、どこか恋しそうに見つめた。


「……ええ。記録では、紫陽花が濡れるのを愛でたり、雨音の風情を詩にしたりしていたそうです。今の僕たちみたいに、ドローンの配送料を気にして足止めを食らうんじゃなく」

「……不自由で、自由。今の私には、その『濡れる選択』すら許されないけれど」


 梓がふっと、自嘲気味な笑みを浮かべる。その瞬間、彼女の手首でデバイスが、冷たい雨の景色を拒絶するように鮮やかな「桃色」に明滅した。


 「……ねえ、瀬戸くん。これ、いつから『異常』になったのかしら」

 

 梓が、軒先からカーテンのように流れ落ちる雨列に、そっと指を伸ばした。

 普段の生活――例えば手洗いや冷えた飲料に触れる程度の「予測された刺激」なら、デバイスは沈黙している。だが、今彼女が触れようとしているのは、管理ドームの不備が生んだ、制御不能な自然の奔流だった。


 指先が激しい飛沫に触れた瞬間、彼女のデバイスが神経質な警告音を鳴らす。


『環境温度との乖離を検知。不快指数が許容値を超えます。強制調律を開始――』


 システムは、彼女が「雨に濡れて不快であるはずだ」と自動判定し、脳内へ強引な鎮静パルスを送り込もうとする。梓の顔から、みるみるうちに表情が抜け、機械的な「安らぎ」が上書きされようとしていた。


「っ……う……」

 

 意思に反して「快適」を強要される苦痛に、梓の膝がわずかに折れる。蓮は咄嗟に彼女の腕を掴み、雨の境界線から引き離した。

 

「……何してるんですか。そんな微細な温度変化まで拾う設定になってるなんて、聞いてない」

「……ごめんなさい。でも、こうして『拒絶』されるたびに、私は今、本当に冷たいものに触れたんだって……実感できるの」


 システムが必死に消そうとする「不快感」こそが、自分が今ここに生きている証なのだと、彼女の虚ろな瞳が訴えていた。

 蓮は、彼女を掴んだ手のひらから伝わる、痛いほどの冷たさと、パッチの介入に抗うような激しい拍動を同時に感じ取り、奥歯を噛み締めた。


 今すぐ彼女を自動診断ステーションへ送るのが、観測者としての最適解だ。

 だが、蓮は端末を操作する代わりに、自分の上着を脱ぎ、震える彼女の肩を包むように覆った。


「……報告は『メンテナンス不良による過剰反応』で通します。だから、もうそれ以上、システムを試すような真似はしないでください」


 蓮は、自分のデバイスに表示される真っ赤な警告ログを視界から消し、彼女の震えを抑えるように、その肩を不器用に、けれどしっかりと抱き寄せた。


 遠くでドームの駆動音が重低音を響かせ、空の遮蔽膜が再び閉じ始めた。

 「本物の雨」は唐突に勢いを失い、代わりに管理された清潔な空気が昇降口に流れ込む。雨上がりの街を模した、微かな「偽の虹」がホログラムで空に投影された。


『気象管理局通知:定期換気終了。歩行環境は最適化されました。生徒諸君は速やかに下校ルートに戻ってください』


 端末からの無機質な通知が、二人の間にあった沈黙を切り裂く。梓は蓮の上着を握りしめたまま、しばらく雨の名残が光るアスファルトを見つめていたが、やがてゆっくりとその肩を離した。


「……ありがとう、瀬戸くん。上着、汚しちゃったわね」


 梓は上着を返し、いつもの「聖女」としての佇まいに戻ろうと背筋を伸ばす。だが、濡れた前髪から滴る雫と、パッチの強制調律による青白い顔色が、彼女の「完璧な日常」がまだ修復しきれていないことを物語っていた。


「……クリーニング代、特待生枠の経費で落としておきます。それより、デバイスのログは僕が弄っておいたので、今日はもう余計な刺激を受けないようにしてください」


 蓮は受け取った上着を腕にかけ、あえて目を合わせずに答えた。

 彼の端末には、彼女のバイタルが「正常値」へと書き換えられた偽の記録が残っている。管理AIを欺き、二人だけの「異常」を隠蔽した証拠だ。



「……ねえ、瀬戸くん。また雨が降ったら、その時は――」



 梓が何かを言いかけ、そして口を噤んだ。言い残された言葉の代わりに、彼女は小さく会釈をして、迎えに来た自動運転車のポッドへと歩き出す。


 蓮は、彼女が乗り込んだ車が静かに走り去るのを、雨上がりの湿った風に吹かれながら見送った。

 自分の手のひらには、まだ彼女の肩の震えと、凍えるような冷たさの感触が残っている。

 管理された快い温度よりも、その痛みを伴う冷たさこそが、今の彼には唯一信頼できる「現実」のように思えた。


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