第47話 ヒロインたちに届く“噂
放課後の校舎は、いつものように部活動へ向かう生徒たちの掛け声と、教室に残って雑談を楽しむ生徒たちの笑い声が交差し、どこかのんびりとした空気に包まれていた。
グラウンドからは野球部の金属バットの快音。
体育館からはバスケットボールが弾む音。
吹奏楽部の演奏が、風に乗って校舎まで流れてくる。
そんな、いつもと何も変わらない放課後。
……の、はずだった。
校舎中に、目には見えない小さな波紋が静かに広がっていた。
「ねぇ聞いた? 神谷くん、今日も藤堂さんに勉強教えてたらしいよ」
「しかも昼休みも話してたって」
「最近よく一緒にいるよね」
「体育でもペアだったらしいし」
「藤堂さんって男子とほとんど話さない子じゃなかった?」
その話を聞いた別のグループが反応する。
「神谷くんってそんなタイプだった?」
「なんかさー……最近、雰囲気変わったよな。柔らかくなったっていうか」
「いや、前から優しかったじゃん」
「掃除も誰より真面目だし。
先生からも結構信頼されてるよね」
「……じゃあなんで今まで気づかなかったんだ」
ざわ……ざわ……
どこを歩いても、誰かが自分の話をしているような気配。
――実際してる。
蓮(なんでなんだよ……俺、今日ほんとに普通に過ごしただけなんだけど)
朝から何度も考えている疑問だった。
ため息をひとつ落としても、耳に入るひそひそ声は止まらない。
少しずつ、神谷蓮という人間の印象が変わり始めていた。
場所:3-A教室(放課後)
静寂と落ち着きを保つ、上級生の教室。
窓から入り込む夕陽のオレンジ色が、書類の束を静かに照らす。
その中で、ひとりの少女――桐生里奈が指先を止めた。
後輩の女子
「桐生先輩、聞きました? 今日の神谷先輩の話……」
里奈
「……神谷くんの?」
声の抑揚は変わらない。
視線だけが後輩へ向けられる。
「はい。今日また藤堂さんに英語見てあげてたらしいです。 ……なんか、最近すごく“人気”上がってるみたいで」
「……神谷くんなら当然よね」
さらり、と微笑む。
完璧な“生徒会候補”らしい落ち着いた笑み。
後輩
「……あれ? 先輩、耳赤くないですか?」
「えっ……? そ、そんなことありませんけど?」
耳の先だけ、慌てて両手で隠す。
「生徒に慕われるのは良いことだわ……ええ、もちろん」
手元の書類をまとめながら、ひとりごとのように呟く。
(なのに……なんで胸が少しだけざわつくの?)
目元がほんのわずかに曇っていることに、本人はまだ気づいていない。
里奈らしくもない、小さな“揺れ”。
それは、彼女の胸の奥で静かに膨らみ始めた。
場所:3-C教室(放課後)
バンッ!
「っ……!」
ペン先が折れた。
恵は、プリントを握る手をギチギチ鳴らしながら、深呼吸した。
噂好きな同級生が去ってから、ようやく声を出す。
「ふ、ふんっ……べ、別に……いいけど?」
机の上。
ぐしゃっと丸められたプリントが散乱。
「……良くないけど!? 全っっ然、良くないけど!!?」
誰もいない教室で叫んでしまい、慌てて周りを確認。
「っ……はあ……」
頬を真っ赤にして、机に突っ伏す。
(蓮くん……なんで急に……いや、人気出るのわかるけど……
わかるけど! だからってなんで藤堂さんとストレッチしてんのよ……!)
学校中が噂しているせいで、恵の頭は大混乱。
(ああもうっ……考えるだけで胸が変な感じ……)
ツンツンしすぎて自爆しそうになっていた。
こうして彼女の“暴走気味の好意”も加速していく。
場所:2-B前の廊下
放課後を告げるチャイムが鳴り終わり、廊下には部活動へ向かう生徒たちの足音が響いていた。
そんな賑やかな空気の中を、朝霧玲奈は友達と並んで歩いていた。
「ねぇねぇ玲奈っ! 今日の神谷くんの噂、聞いた?」
「えっ、噂? なになに?」
友達A「なんかさ、今日も藤堂さんと勉強してたらしいよ? 体育でもペア組んでたって話だし、図書室でも一緒だったとか」
友達B 「しかも最近、神谷くんの人気すごいみたい。『優しい』『教え方うまい』『思ったよりイケメン』とか、女子の間でも話題になってるよ」
友達の話を聞いた瞬間、玲奈の表情がぱあっと明るくなる。
「えっ……そうなんだ」
玲奈の顔が、ぱあっと花が咲いたように明るくなる。
「蓮くん……人気あるんだ……!」
嬉しそうに胸の前で両手をぎゅっと。
その笑顔は、本当に嬉しそうだった。
玲奈 「えへへ……なんか、私まで嬉しくなっちゃう」
友達 A「玲奈、機嫌いいね〜」
「だって……好きな人が褒められるのって、やっぱり嬉しいもん」
友達 B「そんなに素直に言えるの玲奈くらいだよ」
「えへへ……そうかな?」
両手を胸の前でぎゅっと握る。
照れ笑いを浮かべながら頬をかく玲奈。
外から見れば、彼女はいつも通り。
明るくて、人懐っこくて、誰からも好かれる笑顔だった。
その笑顔の奥では、小さな感情が静かに揺れていた。
(……蓮くんが褒められるのは嬉しい。
うん。それは本当。
優しいって言われるのも、人気が出るのも、すっごく嬉しい)
友達の何気ない一言が、胸の奥へ小さな棘を落とした。
『今日も藤堂さんと一緒だったらしいよ』
その言葉だけが、何度も頭の中で反響する。
(……藤堂さん。
今日も一緒だったんだ。
勉強もして……体育も一緒で……。
……いいな。
そんなに一緒にいられて。
私のほうが蓮くんと繋がっているのに)
胸の奥が、ちくりと痛む。
「えへへ……なんか、私まで嬉しくなっちゃう……」
ぎゅっと胸元で握った手に、少しだけ力が入る。
(……蓮くんは優しいから。
困ってる人を放っておけないから。
藤堂さんにも優しくしてるだけ。ちゃんと分かってる。
……でも。もし、その優しさを好きになっちゃったら?
もし蓮くんも、一緒にいる時間が楽しいって思い始めたら?
もし、そのまま距離が縮まったら……?)
考えたくない未来が、勝手に浮かんでしまう。
胸がきゅっと締めつけられた。
玲奈は慌てて首を横に振る。
(だめだめっ!そんなこと考えちゃだめ!
蓮くんはそんな人じゃない。
信じなきゃ。殺しちゃう)
友達 B「玲奈? どうしたの?」
玲奈 「えっ!? な、なんでもないよ!」
慌てていつもの笑顔を作る。
だけど、その笑顔はほんの少しだけぎこちなかった。
友達 A「神谷くん、これからもっとモテそうだよねぇ」
「……う、うん」
小さく頷く。
その一言だけで、また胸がざわつく。
(もっと……モテる)
頭の中で蓮の周りに女の子が集まる光景が浮かぶ。
その中心で、困ったように笑う蓮。
その笑顔を見ているだけで幸せだったはずなのに。
嫉妬なんて一切なし。
他の女子が蓮を褒めただけで、まるで自分が褒められたみたいに喜ぶ。
玲奈は“純度100%の好意”を全開にして笑っていた。
(蓮くん……今日も会えるんだ……♪)
部活動の掛け声が、遠くグラウンドからかすかに聞こえてくる。
夕焼けは校舎を茜色に染め上げ、長く伸びた影が静かな廊下を覆っていた。
普段なら誰も近寄らない、屋上へ続く階段前。
そこだけは、まるで時間が止まったような静けさに包まれている。
コツ……。
コツ……。
ゆっくりと響くローファーの足音。
その主は、誰にも気づかれないように歩みを止める。
壁へ静かに背を預け、一つ息を吐いた。
夕日に照らされた横顔は、どこまでも穏やかで、美しかった。
「……なるほど。蓮様の人気が……上がっている……と」
神谷家に仕える専属メイド、美桜だった。
壁に背を預けながら、微笑みを浮かべる。
その笑顔は一見、優しげ。
瞳の奥は、氷のように冷たく澄み切っていた。
「まぁ……蓮様が評価されること自体は、実に喜ばしいことでございます」
それは紛れもない本心だった。
蓮は優しい。
困っている人を放っておけない。
誰に対しても誠実で、見返りを求めない。
そんな主人なのだから、人から好かれるのは当然だ。
むしろ今まで正当に評価されていなかった方がおかしい。
「ようやく皆様も、蓮様の素晴らしさにお気づきになられたのですね」
トントン……
スカートの奥から小さな護身用ナイフを指で軽く叩く。
癖のような、無意識の動作。
「ただし、“余計な虫”が湧かないのであれば……ですが。
蓮様の周囲が少し騒がしい……
そういう時こそ、見極める必要がありますわね」
夕日がゆっくり沈み始める。
影がさらに長く伸びていく。
その視線の先には、校門から帰る生徒たち。
美桜 (蓮様。どうか、そのままでいてください。その優しさにつけ込むような方だけは……。
わたくしが、お守りいたします)
主人を守るという、長年積み重ねた忠誠心。
その忠誠は時に、常人には理解できないほど深く重い。
美桜はスカートを軽く整え、静かに踵を返した。
コツ……。
コツ……。
足音だけが静かな階段へ響く。
夕日を背に歩くその姿は、とても一人の女子高校生とは思えなかった。
長く伸びる影は細く鋭く、まるで獲物を逃さず見据える狩人のよう。
誰にも気づかれぬまま。
誰にも悟られぬまま。
美桜は今日もまた、主人を守るため静かに周囲を見渡していた。




