第45話 朝の余韻とすれ違う気配
まぶたの裏が、ふっと明るさを帯。
柔らかな光が、じんわり瞼を押し上げようとする。
(……朝?)
神谷蓮は寝返りを打とうとした。
そこで気づいた。
左右どちらかに“あたたかい重み”。
そして、頬に触れる柔らかな髪の感触。
わずかな甘い匂いが混じり、胸の奥がひくりと震える。
ゆっくり目を開けると、視界の端に、黒髪。
反対側には、栗色の髪。
「……あれ。美桜さんと……里奈……?」
寝起き特有のぼんやりした声が漏れた。
でもすぐに息を呑む。
右側では、美桜が蓮の呼吸に合わせるように手を添えて眠り。
左側では、里奈がそっと蓮の腕を掴んでいた。
両側から包まれるような、驚くほどあたたかな感触。
身体が動かせないわけではない。
でも、“動かしたくなくなる”ほど、穏やかな感触だった。
(ちょっと……起きたって言えないだろ……!)
心臓がどん、と跳ねる。
その鼓動を聞こえないように必死で呼吸を整える。
おかしい。
自分の家のベッドなのに、心が落ち着かない。
ふたりの寝息は、信じられないくらい安らかだった。
(……起こすの。無理だな)
蓮はあきらめ、軽く目を閉じる。
その瞬間、里奈の指がきゅっと腕を掴んだ。
可愛い。
いや、可愛いなんて言葉じゃ足りない。
美桜の指先は、蓮の手の甲を軽く支えるように添えられ、
その感触がくすぐったいほど優しい。
(どうして……こんな平和な朝なんだ)
蓮は、胸の奥が変にくすぐったいことに戸惑っていた。
最初に動いたのは、美桜だった。
「……ふふ」
睫毛が揺れ、すっと目を開ける。
完璧な寝起きの顔。
薄く微笑むと、蓮の髪を一度だけ整えるように撫でた。
(……お目覚めになられているのですね、蓮様)
何も言わず、そっと体を離す。
ベッドから静かに抜け出し、足音も立てず部屋を出ていく。
その直後。
「……ん……れんくん……?」
里奈が寝返りを打ち、蓮の肩に頭をそっと預けた。
ゆっくりと目を開けて、視界に蓮の横顔を見つける。
頬がふわりと赤く染まる。
けれど、離れない。
「……おはよう、蓮くん。まだ寝てていいわよ」
蓮は全力で寝たふりを続行するしかなかった。
(……この状況で“起きてる”って言えるやつ、いる?)
里奈は蓮の手に視線を落とし、そっと指先を触れ合わせる。
(こうして隣で眠れる日が、また……戻ってきたんだ……)
胸の奥で大事そうに息を吸うように、里奈は目を細めた。
そして、誰にも聞こえないくらい小さな声で囁く。
「……今日は、いい朝だわ」
蓮は心の中で絶叫していた。
しかし里奈の甘い寝起きの声に抗えるはずもない。
ダイニングには、朝の光がゆっくりと広がっていた。
テーブルの上には湯気の立つスープ、香ばしいパン。
桐生里奈と美桜が息を合わせて準備した朝食が整っていく。
里奈は、まだ微睡みを残したような柔らかい笑みを浮かべていた。
美桜「里奈様、そのお皿はこちらに。蓮様の分は、少しだけ温度を下げておきますわね」
里奈「うん、お願いね、美桜さん」
そんな穏やかな空気の中。
部屋の入り口でその様子を見ていた二人は、同時に固まった。
里奈の、幸せをそのまま形にしたような笑顔。
それを目にした瞬間。
恵の背筋に、ビリッと電気のようなものが走る。
恵(……っ。やば……何その満ち足りた顔……!)
脳内に昨夜の記憶が、強制的に再生される。
蓮の肩に残っていた“誰かの匂い”。
それを振り払うように、自分の腕で蓮を抱きしめて……
自分の匂いをそっと重ねたこと。
「…………っ!」
思い出した瞬間、耳まで真っ赤になる。
(な、何やってんの私……!?
いや、あれは……必要な処置だった。うん。必要。……でも、今思い返すと……ちょっと……死ぬほど恥ずかしい……!)
里奈が振り向き、にっこり笑う。
「おはよう、恵ちゃん。朝の支度、もうすぐ終わるからね」
その穏やかすぎる笑顔に、再び心がピリッとする。
恵(くっ……この余裕の笑み……!!
負けてられないっ……絶対、負けてられない!)
恵は胸の奥でぎゅっと拳を握り、誰にも見せない決意を燃やした。
恵の横、玲奈は里奈の顔を見た瞬間、胸の奥が“ぽっ”と温かくなった。
玲奈(……あ。
そういえば……昨夜……)
そっと胸に手を当てる。
(……あれ……夢じゃないよね?)
頬がじんわり熱を帯びる。
心臓の鼓動が、朝の静けさの中でやけに大きく響く。
里奈は気づかずに皿を並べながら微笑んでいる。
(……こんな顔されたら……なんか、胸がむずむずするんだよね……)
里奈の穏やかさが、そのまま蓮に向けられていると知っているからこそ
なんとも言えない感情が胸の内で渦巻いた。
(私だけの気持ちじゃ、まだ足りないのかな……
でも……引かないからね。私だって……がんばるんだから)
小さく目を伏せ、ひっそりと決意を新しくする。
美桜「……お二人とも?
蓮様を起こしていただけますか?」
恵「っ、い、今行く!」
玲奈「うん! まかせて!」
二人は一斉に顔を上げた。
それぞれの胸には昨夜の記憶と、
『負けない』という小さな火が静かに燃え続けていた。
静かなノック。
そして、ほんの少し弾んだ足取り。
玲奈「……入るよ。恵ちゃん、静かにね」
恵「わかってるって。……って、なにその足取り。変に楽しそう」
玲奈「え、えぇ? 別に普通だけど?」
ふたりは蓮の部屋の扉をそっと開ける。
ベットで蓮が気持ちよさそうに眠っていた。
玲奈「……わ、まだ寝てる」
恵「二度寝とか珍しくないけど……この表情、完全に熟睡だね」
恵が布団の端を軽くつまんで引く。
「ほら、起きろ蓮。朝だよ」
玲奈は蓮の肩を軽く揺らす。
「……れーん? 起っきて〜?」
「……ん、んあ……? 玲奈……と、恵……?」
寝ぼけた声でゆっくり目を開ける。
玲奈「おはよう。朝だよ」
恵「美桜さんに頼まれたの。あんた起きなかったらしくて」
蓮は薄く笑い、寝ぼけたままぽそり。
「……いつもみたいに着替え、手伝ってくれる?」
……ピタ。
玲奈「……いま、なんて言ったの?」
恵「“いつもみたいに”?」
「え、だから……着替え……」
玲奈と恵が視線を交わす。
玲奈、恵(美桜さんが……“いつも”?)
ふたりは、ゆっくり笑顔に戻る。
玲奈「……わ、わかった。任せてよ!」
恵「……仕方ないなぁ。はい、ほら起きて」
蓮はまだ状況を理解していないまま、布団から身を起こした。
寝ぼけ顔の蓮を中央に、左右から玲奈と恵が近づく。
玲奈「じゃあ、服持ってくるから腕あげて」
蓮「……ん」
言われるままに腕を上げる蓮。
玲奈が上着をそっと通す。
距離が近くて、蓮の肩に彼女の髪が触れる。
玲奈「……もう、動かないでよ? ボタン閉めづらいから」
蓮「あ、あぁ……」
恵は蓮の後ろに回り、寝癖を直しはじめた。
恵「ほんとひどい寝癖。ほら、こっち向いて」
蓮「え? う、うん」
恵の指先が蓮の髪を軽く整え、ふわっと指先が触れるたびに、蓮の心拍が地味に跳ねる。
蓮(……これ、なんか妙に……恥ずかしい……)
玲奈「はい、腕もう一回あげて。動作がゆっくりすぎるんだってば」
恵「ボーッとしてるからだよ。もっとシャキっとしなよ」
蓮「う……」
着替えが半分ほど終わったところで、蓮の意識が完全に覚醒した。
「あれ……? え、ちょっと待って。
なんで二人が俺の着替えを……?」
玲奈「気づくの遅いってば!」
恵「はいはい、じっとして。もう少しで終わるから」
蓮の顔が赤くなる。
「み、みんな普通にしすぎじゃない!?」
玲奈「うん、恵ちゃんといい感じに連携できてるよね」
恵「……まぁ、これくらいはね。美桜さんだけにやらせるのもどうかと思ったし」
ノック。
そして、優雅な足音。
美桜「失礼いたします。着替えの確認を……まあ」
蓮「み、美桜さん……」
美桜、にっこり微笑む。
美桜「支度が整っているようで、安心いたしましたわ。
玲奈様、恵様。ありがとうございます」
玲奈・恵「…………(笑顔)」
玲奈(やば……なんか勝った気がして嬉しい……でも複雑……)
恵(……ちょっとスッキリしたけど……でも複雑……)
蓮は視線を泳がせるしかなかった。
ダイニングには、里奈と美桜が用意した温かい朝食が並んでいた。
里奈「蓮くん、こっち座って」
「あ、うん……」
まだ完全に寝ぼけの余韻が抜けない蓮が椅子に座る。
美桜「蓮様、お味噌汁をどうぞ」
里奈「蓮くんには卵焼きも取り分けておいたわ」
その光景を見た玲奈と恵が同時に一歩近づく。
玲奈「ねぇ、里奈さんってさ……やっぱり世話焼きだよね」
恵「うん。美桜さんは距離の詰め方がなんか……プロって感じ」
美桜「蓮様の世話をするのは、わたくしの務めでございますので」
里奈がクスッと笑う。
里奈「ふふっ。美桜さんとはね、昔からの仲なの。相性も……いいのよ?」
蓮「え、なんか……里奈と美桜さん、妙に仲良くない?」
里奈「ええ、もちろん」
美桜「はい、もちろんでございます」
玲奈と恵が同時に心の中で叫ぶ。
玲奈(協力体制!? なんでそこだけ仲良いの!?)
恵(連携しないで! 蓮が逃げ場なくなってるじゃん!)
蓮(……なんだこれ。賑やかだけど、空気は……やわらかいな)
ふと、そんな感情が胸に浮かんでいた。
朝食が終わり、食卓の片付けを美桜が淡々と進める。
里奈はその動きを静かに見守っている。
蓮は椅子に座ったまま、ぽつりと内心でつぶやく。
(……なんでだろう。
朝から全員バタバタして……正直疲れるのに…… でも……嫌じゃない。むしろ……なんか、心地よい)
里奈は美桜の動きを目で追いながら、静かに思う。
(わかってるわ、美桜さん。
あなたとは争いにならない。
けれど……蓮くんの隣は、誰にも渡す気はないから)
美桜もまた、蓮の食器を拭きながら小さく微笑む。
(蓮様の“朝”を守るのは、わたくしの役目……譲るつもりはございませんわ)
そんな“静かな火花”だけが、テーブルの下でひっそりと舞っていた。




