第42話 寒いしは言い訳にならない
里奈が去って、わずか五分。
さっきまで残っていた空気が、まだ完全には消えていない。
シーツに残るわずかな温もり。
手のひらに残った、柔らかな感触。
耳の奥にこびりついた、あの声。
どれもこれも、妙にリアルなまま残っている。
(……落ち着け、俺……)
天井を見上げる。
白い天井が、やけに遠く感じる。
(このままじゃ、絶対寝れねぇ…。
ちょっとだけ、落ち着けばいいんだよな)
深く息を吐く。
そう。
ほんの少し、スッキリすればいいだけだ。
頭を冷やすための、軽い運動。
それくらいなら、問題ない。
(よし……ほんとにちょっとだけだからな……)
誰に言い訳してるのか分からないまま、心の中で呟く。
布団の中で、こそこそと体勢を整える。
誰にも見られていないはずなのに、なぜか周囲が気になる。
妙に慎重な動き。
静かに、音を立てないように。
(……なんでこんなコソコソしてんだ俺……)
自分で自分にツッコミを入れながらも、手は止まらない。
意識を逸らすためのはずなのに、逆に意識が一点に集中していく。
あと、少しでスッキリしそうな、その瞬間。
ガチャッ。
無情にも、現実は容赦なく扉を開けた。
ノックすら、ない。
「起きてるよね。……入るよ」
「め、恵!? お前ノックくらいしろ!!」
反射的に叫ぶ。
心臓が一気に跳ね上がる。
(タイミング最悪すぎるだろ!?)
「してたら逃げられるでしょ」
恵の一言が、あっさりと突き刺さる。
水瀬恵は、ためらいなく部屋に入り、そのままドアを閉めた。
慌てて布団の中で体勢を整える。
ごそごそと、できるだけ自然に見えるように。
呼吸を整え、姿勢を整え、何事もなかった風を装う。
だが、明らかに“何かしてた感”は消せていない。
恵はそんな蓮の内心など知る由もなく。
髪は後ろで無造作にひとつに束ねられて、少しだけ崩れたラフな格好のままベッドへと歩み寄ってくる。
服装は、ゆるめのTシャツにハーフパンツ。
飾り気はないのに、妙に目のやり場に困る。
完全に“素”の姿。
「うん。次はちゃんとノックするね。……“いいところ”だったみたいだし」
軽く言いながら、ベッドの端に腰を下ろす。
ポスッ、と軽い音。
その距離、ほんの数十センチ。
余韻が消えないまま、次のイベントが始まった。
「あのさ……今日の夕飯。ちゃんと味わった?」
「え? もちろん美味しかったけど」
「“けど”じゃないでしょ。もっとこう……ほら……なんかあるでしょ」
「な、なんかって……」
「……バカ。ちゃんと言わないと……わかんないんだから」
恵は、腕を組んだまま蓮を見る。
顔はそっぽ向きつつ、耳は真っ赤。
その視線は一瞬だけ、ふっと下に落ちた。
「……」
ほんの一瞬。
けれど、それで十分だった。
(い、今見たよな……!?)
蓮の背中に冷たい汗が流れる。
慌てて布団を少し引き上げる。
だがその動きすら、逆に“隠してる感”を強めてしまう。
(やめろ俺! それ余計怪しい!!)
恵は何も言わない。
ただ、もう一度ちらっと視線を落として、すぐに逸らした。
「……別に、いいけど」
ぽつり、と小さく呟く。
「な、何がだよ……」
「……なんでもない」
声は平静を装っているのに。
指先が、落ち着きなくシーツをつまんでいる。
膝が、ほんの少し内側に寄る。
身体が、わずかにもじっと揺れる。
(絶対意識してるだろこれ……!)
さっきまでの気まずさとは違う。
もっと、生々しい“意識”。
沈黙が、やけに長く感じる。
恵は視線を逸らしたまま、落ち着かない様子で指先をいじる。
シーツの端をつまんでは離し、またつまむ。
膝が少しだけ内側に寄る。
足先が、落ち着かないように小さく揺れる。
身体全体が、もじもじと動いていた。
(……めちゃくちゃ意識してるじゃねぇか……)
やがて、恵が無理やり話を戻すように口を開いた。
「でさ。あたしの料理、ちゃんと味わってよ。そうじゃなきゃ……意味ないでしょ」
強がるような言い方。
でも、その奥はどこか真剣で。
(……これ、逃げられねぇな……)
蓮は軽く息を吐く。
そして、恵の方を見る。
「……ちゃんと美味かったよ」
「だからそれじゃ――」
「ちゃんと“恵のが”美味かった」
「……っ」
恵の動きが、ぴたりと止まる。
次の瞬間、顔が一気に赤くなる。
耳どころじゃない。
頬までしっかり染まっている。
「な、なにそれ……急に……」
「いや、お前が言えって……」
「そうだけど……そういう言い方は聞いてないし……!」
ぶつぶつ文句を言いながらも。
その声は、どこか嬉しそうで。
恵は一度、小さく息を吸って。
意を決したように、布団の端に手をかけた。
「……寒いし」
「え?」
「別に、変な意味じゃないから」
言い訳みたいに付け足しながら。
そのまま、するりと布団の中に入り込んでくる。
「ちょ、ちょっと待て――」
「うるさい。動くな」
ぴたり、と。
自然すぎる動きで、横に収まる。
肩と肩が触れる。
腕が軽く当たる。
体温が、直接伝わってくる。
さっきまでの“意識”が、一気に現実になる。
恵は、顔を蓮のほうへ向けながらも、どこか落ち着かない様子で。
足が少し触れて、慌てて引っ込めて。
でも数秒後には、また無意識に触れてしまう。
「……っ」
小さく息を呑む音。
足で軽く触れた“何か”を確かめるように、
恵の手が、下に落ちる。
そして、触れる
「……え」
時間が止まったみたいな沈黙。
恵の肩が、わずかに跳ねる。
次の瞬間、
バッ、と勢いよく視線を逸らした。
「……な、なんで、デカくなっているのよ」
声が震えている。
強がってるのに、誤魔化しきれていない。
耳どころか、首筋まで赤い。
「いや!それは……不可抗力!俺の意思じゃないから!」
「不可抗力って何よ!? そんな堂々と言うこと!?」
「いやだって事実だろ!?」
「事実でも言い方ってもんがあるでしょ!!」
恵はそのまま、もじもじと体を揺らしながら。
ほんの少しだけ、蓮の服をぎゅっと掴んだ。
「……ほんと、最悪……」
小さく呟く。
でも、その声はどこか嬉しそうで。
「……あんたさ」
恵が、小さく呟く。
「ほんと、ずるいよね」
「な、なんでだよ……」
「そういうの……普通に言うから」
恵は、顔を赤らめてはっきりと蓮を見る。
逃げない視線。
でも、その奥には確かに照れが混じっている。
そして――
蓮の胸元へ、そっと顔を埋めた。
「……っ!?」
至近距離。
髪が触れる。
呼吸が、直接当たる。
恵はそのまま動かない。
ただ、確かめるように、そこにいる。
「……はぁ」
小さく息を吐いて。
「やっぱり来たんだ、あの女」
「な、何の話だよ!?」
「里奈の匂い、ついてんじゃん」
少しだけ顔を上げて、じとっとした視線。
「……ほんっとあの人、やることが姑息」
(く、匂いバレてるーーー!?)
内心で絶叫する蓮をよそに。
恵はむすっとしたまま、一瞬だけ躊躇して、蓮の肩へ腕を回した。
「ちょ、恵……!?」
ぎゅっ、と。
思ったよりもしっかりとした力で、抱き寄せる。
逃がさない、みたいに。
「文句ある?
あたしも……やっとくから」
耳元で、少し強がった声。
恵は、蓮の肩や胸元に香りを上書きするみたいに、顔を寄せる。
甘さと、意地と、照れが全部混ざっている。
約三十秒。
長いのか短いのか分からない時間。
ぱっと離れる。
顔は真っ赤。でも、目はまっすぐ。
「……はい。これで帳消し」
「ちょ、ちょっと待て、それマーキングってやつ……!?」
「はぁ!? ち、違うし!!」
即座に否定しながらも、視線は逸らす。
「ただその……!
里奈の独壇場みたいなの、ムカついただけ!」
言いながら、蓮の肩を軽く突く。
強くもなく、弱くもない、不器用な距離の取り方。
「ま、今日はありがと……おやすみ」
ぽつりと、呟く。
恵は勢いよく立ち上がり、扉へ向かう。
ガチャッ。
――バタン。
少し乱暴な音。
静寂が戻る。
(……なんなんだよ、ほんと……)
里奈とは違う、少し軽くて、でもまっすぐな香りが新しく重なっていた。
天井を見上げながら。
さっきよりも、さらに眠れなくなっている自分に気づくのだった。




