第41話 期待させて帰るな
俺――神谷蓮の部屋は、照明を落とした柔らかな影に包まれていた。
カーテンの隙間から差し込む月明かりが、床に淡い帯を描いている。
時計の秒針の音だけが、やけに大きく耳に残る静かな夜。
ベッドに入り、布団を肩まで引き寄せ、目を閉じ……るつもりだった。
(……寝れねぇ……)
天井を見上げたまま、しばらく固まる。
諦めたようにゆっくりと目を閉じるが、数秒も経たないうちに、また開いてしまう。
右へ、左へ。
寝返りを打つたびに、シーツが小さく擦れる音を立てる。
そのたびに。
まるで再生ボタンを押したかのように、今日の出来事が鮮明に蘇ってくる。
夕食の時の、あの距離感。
両隣から詰められて、逃げ場を完全に失ったあの席。
風呂上がりの里奈がふと近づいたとき、かすかに残っていた香り。
落ち着いた表情の裏に、妙に熱を帯びた視線。
キッチンでの恵。
包丁を握る俺の手に、そっと重なった指先。
位置を直すだけのはずなのに、妙に長く感じた一瞬。
頭の中で、何度も同じ場面が繰り返される。
少しずつ角度を変えて、細部までやけに鮮明に。
静かな部屋の中で、心臓の音だけがやけに大きく響いていた。
今日の三人は、いつも以上に近かった。
触れそうで触れない距離。
でも、意識した瞬間に一気に近くなるあの感覚。
視線が合うたび、妙に意識してしまう一瞬。
(……ほんと、なんなんだよこれ……)
小さく息を吐く。
吐き出したはずの疲れは、どこにも消えずに胸の奥に残ったままだ。
頭の中は一向に静まらない。
落ち着いてきた、そう思った瞬間。
廊下から、ほんのわずかな足音。
(……え?)
意識が一気に引き戻される。
まるで猫のように軽い、静かな足取り。
床を踏む気配すら、ほとんど感じさせない。
それでも確かに“誰かがいる”と分かる、不思議な存在感。
蓮の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
(誰か……いる?)
ゆっくりと上体を起こし、壁の時計に目を向ける。
針は、夜の0時3分を指していた。
コン……。
指で軽く叩く、控えめなノック。
“ここにいる”と伝えるには十分すぎる合図。
「……蓮くん。まだ起きているかしら?」
扉越しに届いたのは、落ち着いた上品な声。
「……あ、ああ。起きてる。入っていいよ」
少し間を置いてから返事をする。
自分でも分かるくらい、声がわずかに上ずっていた。
静かに、扉が開く。
現れたのは――
昼間とは違う、少しだけ力の抜けた桐生里奈の姿だった。
髪は下ろされ、さらりと肩に流れている。
淡い色のルームウェアはシンプルなのに、どこか品がある。
露出が多いわけでもないのに。
なぜか、妙に目を引く。
(……なんでこんなに印象違うんだよ……)
「遅くにごめんなさいね。少しだけ……復習をしようと思って」
手に持ったノートを軽く掲げながら、柔らかく微笑む。
その仕草は、いつも通り。
だが。
(……その理由で深夜に来るのは無理があるだろ!?
俺だって男なんだぞ……この状況で平静でいられると思うなよ!)
里奈は自然な動きで部屋に入り、ベッドの端に腰を下ろす。
距離は、ほんの少しだけ空けている。
けれど、その“少し”が逆に意識させる。
「蓮くん。今日の勉強会……
とても楽しかったわ。
あなたがいてくれたおかげね」
「お、おう……俺も楽しかったよ」
ぎこちなく返す。
「ふふ……嬉しいわ」
里奈は静かに笑う。
その笑みは、昼間よりも柔らかく、少しだけ近い。
そっと、布団の端に指をかける。
「えっ、ちょ……!」
思わず声が出る。
(待て待て待て……いやでもこれ普通に期待していい状況だよな!?)
「大丈夫よ。変な意味ではありませんから」
さらりとした口調。
「ただ……少しだけ、蓮くんの隣にいたかっただけ」
そのまま、自然な動きで布団に入ってくる。
まるで最初からそうする予定だったかのように。
距離が、一気に縮まる。
気づけば、里奈はそっと顔を蓮の胸に寄せていた。
「……蓮くんの匂い。やっぱり落ち着くわ」
吐息まじりのその一言が、やけに近くで響く。
「り、里奈……?」
思わず名前を呼ぶ声が、少し裏返る。
(距離近っ!? え、これどうすんの俺!?絶対そういう流れだろ……)
視界の端に映るのは、ほんの数センチ先の横顔。
まつ毛の長さや、呼吸のリズムまで分かってしまいそうな距離。
里奈は、ゆっくりと手を伸ばし、
蓮の手を、ぎゅっと握る。
ただ、“そこにある”ことを確かめるような、優しい力。
「蓮くん……手、あたたかいのね」
指先が絡む。
その温度が、じわりと伝わってくる。
「いや……そりゃ、人間だから……」
我ながら、意味の分からない返しだった。
「ふふ……その返し、可愛いわ」
囁く声が、直接耳の奥に落ちてくる。
(な、なんだこの感覚……!
美桜と一緒に寝るときとは……なんか違う……!)
落ち着かないのに、嫌じゃない。
里奈はそっと身体を寄せ、蓮の肩に額を預けた。
「……こうしていると、なんだか……安心するの」
静かに、落ちる声。
「そ、そうなのか?」
「ええ。蓮くんが隣にいる……それだけで」
その言葉は、やけにまっすぐだった。
握られた手は、離れる気配がない。
(これ……完全にOKサインだよな……? もう行っていいのか!?)
お互いに身体を触れ合い、蓮の理性は限界だった。
ふっと。
里奈の体温が、離れた。
「……ありがとう。お話できてよかったわ。
またね……」
里奈は静かに布団から抜け出し、立ち上がる。
来た時と同じように、足音ひとつ立てずに扉へ向かう。
振り返り、ひとつ微笑んで。
そのまま、部屋を後にした。
――パタン。
小さな音。
再び訪れる静寂。
蓮はそのまま、天井を見上げた。
(いや待てよ……。
あのタイミングで離れるの……反則だろ)
拳を軽く握る。
悔しさとも違う、もどかしさ。
期待させて。
(……おあずけかよ…)
静かな部屋で、一人。
取り残された余韻の中で。




