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第百四十二話「雪と結ばれて」

 

 翌朝の空気は、昨夜の喜びの余韻を残しながらも、どこか物悲しいものだった。


 俺はレオナルドを魔法大学まで送ることにした。

 瞬間移動すると、世界が歪み、一瞬のうちに大学の門前に到着する。

 移動そのものは瞬時に終わったが、別れ際のレオナルドの表情には、明らかな寂しさが浮かんでいた。


「師匠」


 レオナルドが俺の目を真っ直ぐに見つめながら言う。

 その瞳には、深い心配と尊敬の念が混ざり合っていた。


「また何かあったら、どんな些細なことでも、すぐに連絡してください。一人で抱え込まないでください」


 彼の声には、リリーの一件で俺を救えなかったことへの後悔が滲んでいた。


「一人では危険すぎます。師匠は、自分の身を顧みずに戦う癖があります。だから、必ず、必ず連絡を」

「分かった」


 その声は、レオナルドの心配を和らげようと、できるだけ明るいトーンを心がけた。


「約束する。何かあったら、真っ先に君に連絡する」


 本当は、アリシアとクロウも一緒に魔法大学に戻るはずだった。

 でも、アリシアは今、俺から一メートル以上離れることすらできない状態になってしまっている。

 そして、クロウは……クロウはもう、この世界のどこにもいない。


 レオナルドに寂しい思いをさせてしまって、申し訳ない気持ちが胸を締め付ける。

 彼は一人で大学に戻り、残った仲間と勉強しなければならない。かつては賑やかだった教室日々が、今は虚無のようになってしまった。


「必ず、強くなって戻ってきます。次に師匠が危機に陥った時は、もっと完璧に救えるように」


 その言葉を最後に、レオナルドは魔法大学の門をくぐっていった。

 彼の背中は、どこか小さく、寂しげに見えた。




 ◇ ◇ ◇



 俺は一人でエルフ村に戻った。


 瞬間移動の魔法が解けて、村の広場に姿を現した瞬間、ミスティが俺を待ち構えていた。

 彼女の表情は、いつものメスガキ特有の、人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべている。


「あら、お帰り〜」


 わざとらしく甘ったるい声だった。

 その声には、明らかに何かを企んでいるようなニュアンスが含まれていた。


「あんた、イケメン馬鹿力お兄さんと二人きりだったの? いいなぁ〜、イケメンの弟子と二人きりで。羨ましいわぁ〜」


 俺の顔を覗き込むように、ニヤニヤと笑いながら言われた。


「別に、そういうんじゃ……」

「あたい、決めたわ」


 ミスティが俺の言葉を遮って、突然話題を変えた。

 その表情は、さらに意地悪そうになっていた。


「何を?」

「この近くに、魔神対策公安会の支部を作るの」


 ミスティは胸を張って、まるで世界征服を宣言するかのような偉そうな態度だ。


「あたい、天才だから支部長に任命されちゃったのよね〜。

 ねえねえ、すごいでしょ? 褒めてよ、もっと褒めてよ」

「勝手に? 自分で任命したの?」

「当然でしょ」


 ミスティが鼻を高くする。その仕草は、まるで勝ち誇った猫のようだった。


「あたいは天才なんだから、支部の一つくらい作る権限があるのよ。ていうか、あたいの才能なら、本部長だって務まるわよ。でも、面倒くさいから支部長でいいの」

「ていうか、あんたもちょっとは感謝したら? わざわざこんな田舎に、こんな何もない辺境の地に来てあげてるんだから。あたいみたいな天才が、あんたたちを守ってあげるんだから、もっと感謝の言葉を述べなさいよ」


 確かに、ミスティは魔神対策公安会でも重要な戦力として扱われていた。無詠唱魔法を使える天才魔法使いは、世界中を探してもそう多くない。彼女なら、支部設立の権限を持っていても不思議ではない。


「それで、ここで暮らすの?」

「そうよ〜」


 でも、その目は俺の反応を伺っているようだった。


「あんたたちが心配だから、見守ってあげるわ。あんた、すぐピンチになるし。嫁さんいっぱいいるのに、また変な女に引っかかるし。本当、見てられないのよね」


 彼女がわざとらしく溜息をつく。


「別に、あんたのためじゃないんだからね。公安会の仕事として、魔神の監視が必要なだけ。勘違いしないでよね」


 でも、その頬は微かに赤く染まっていた。


「それは少し嬉しいけど……」

「いや、本当はかなり嬉しいんでしょ?」


 ミスティがニヤニヤしながら割り込んでくる。

 その目は、まるで俺の心を読んでいるかのように鋭かった。


「あたいみたいな可愛い天才が近くにいてくれるんだから。毎日会えるんだから。嬉しくないわけないでしょ? ほら、素直になりなよ〜。『ミスティちゃん、来てくれてありがとう』って言いなさいよ」


 メスガキ全開だった。

 でも、その言葉の端々には、どこか俺の反応を期待しているような、切なさが隠れていた。


 そして、ミスティが俺に一枚の紙を見せてくる。

 その紙には、魔神たちの似顔絵が驚くほど精密に描かれていた。

 アズラエル、ハルカ、カリオペラ。

 テレサスニカ以外の俺が遭遇したことのある魔神の顔が、まるで写真のように正確に再現されている。

 髪の毛の流れ、瞳の形、表情の細部に至るまで、完璧だった。


 「見つけ次第連絡」という文字が、太い赤字で上部に書かれている。


「やるじゃないか。

 これなら、魔神の早期発見ができる。村人たちに配れば、かなり効果的な警戒網になる」

「当然でしょ」


 ミスティが得意げに答える。

 その顔は、まるで褒められて嬉しくて仕方ないという表情だった。


「あたいの記憶力をなめないでよ。一度見たものは、絶対に忘れないの。

 ていうか、もっと褒めてよ。これ描くの大変だったんだから。三日三晩かけて、一人で黙々と描いたのよ。あんた、あたいの努力を分かってる? ねえ、分かってる?」


 彼女が俺の顔を覗き込むようにして、もっと褒め言葉を要求してくる。


 確かに、これは非常に有効な対策だった。

 魔神の出現を早期に察知できれば、被害を最小限に抑えることができる。

 村人たちに警戒を促し、避難の準備をする時間を稼げる。

 ミスティの提案は、実用的で、そして本当に優秀だった。


「タクヤ」


 その時、背後から甘い声が聞こえた。

 振り返る暇もなく、アリシアが俺に抱きついてきた。

 彼女の体は柔らかく、そして異常なまでに熱かった。まるで発熱しているかのような体温だ。


「魔力補給の時間です」


 その目は、もはや理性を失っているように見えた。


「アリシア、さっきもしただろ」


 抗議も虚しく消え果てた。

 レオナルドを送る前、つまりほんの十分前にも、彼女は長々とキスをしていたのだ。


「足りません」


 その声には、一切の迷いがなかった。


「全然、全然足りません。もっと、もっと必要なんです」


 そして、彼女が俺の唇に激しくキスをしてくる。


「んっ」


 彼女の舌が、まるで生き物のように俺の口内を探る。

 歯茎を、上顎を、舌の裏側を、執拗に、そして貪欲に舐め回していく。

 まるで一滴の魔力も逃さないように。


 ミスティが、呆れたような、でもどこか羨ましそうな顔をする。


「うわぁ、また始まった」


 でも、その声には微かな苦々しさが混じっていた。


「あんたたち、朝からイチャイチャして。

 人前だってのに。見せつけないでよ、独り身のあたいに。ねえ、何? あたいを惨めにさせたいの?」


 でも、アリシアは全く止まらない。

 何度も何度も、執拗に、狂おしいほどの情熱で俺にキスをしてくる。


「タクヤの魔力…美味しい…甘い…濃厚…」


 アリシアは恍惚とした表情であった。

 その顔は、まるで麻薬中毒者が薬物を摂取した時のような、危険なまでの陶酔に満ちていた。


「もっと…もっとください…全部、全部吸わせてください…」


 その時、ルナ、エリカ、クロエ、オルテンシア、ユリエルが、まるで示し合わせたかのように集まってきた。

 五人の妻たちは、アリシアの様子を見て、明らかに不快そうな、そして怒りを含んだ表情をしている。


 ルナの声は、どこか困惑しながらも優しさが込められていた。

 そして、その声には、普段の彼女からは想像できないほどの強さが込められていた。


「アリシアさん、そろそろ離れていただけませんか?」

「足りません」


 まるでルナの言葉など聞こえていないかのように即答した。


「タクヤの魔力が、もっともっと必要なんです。まだ全然足りないんです」

「でも」


 エリカは、普段の明るさを失って、少し怒っている。

 その目には、明確な敵意が宿っていた。


「タクヤを独占しすぎじゃない? アリシアちゃん、あなた、タクヤの妻でもないのに。

 私たちは、正式な妻なのよ? なのに、あなたがずっとくっついてるから、私たちはタクヤと過ごす時間がないの。

 ずっと、ずっとアリシアちゃんがくっついてるから、わたしたちは何もできないの」


 確かに、アリシアは朝から晩まで、文字通り二十四時間体制で俺にくっついている。

 妻たちとの時間を、完全に、徹底的に奪ってしまっているのだ。


 クロエが、顔を真っ赤にしながらも、勇気を振り絞って意見する。


「その…アリシアさんの気持ちは分かります…けど…ぼ、ボクたちも、タクヤくんと…一緒にいたいんです…

 ボクたちは、タクヤくんの妻なんです。なのに、妻でもないアリシアさんが、ずっとタクヤくんを独占して…それは、おかしいと思います」


 オルテンシアは、珍しく怒った表情だった。

 その目には、貴族としてのプライドが燃え上がっていた。


「アタシも、タクヤと話したいことがたくさんあるのに。アリシアがずっと邪魔してるじゃない。

 アタシは貴族なのよ?貴族の妻が、平民の弟子に邪魔されるなんて、あり得ないわ」


 ユリエルは、ダウナー系の低い声で、でもはっきりとした不満を込めて呟く。


「……別に、いいけど……

 ……でも、ちょっとは……わたしたちのことも.…..考えて…

 .…..あたしたちも……タクヤと……一緒にいたい…」


 彼女の声は小さいが、その言葉には深い不満と寂しさが滲んでいる。


 アリシアが、初めて罪悪感を感じたような表情になる。その目に、涙が浮かぶ。


「でも…タクヤの魔力がないと…私…」


 彼女の声が震える。


「生きていけないんです…本当に、本当に死んでしまうんです…♡」


 その言葉を聞いて、妻たちの表情が複雑になる。

 怒りと、同情と、困惑と、そして諦めが混ざり合った、何とも言えない表情だった。


「アリシアさん」


 ルナが深く息を吐いて、できるだけ優しい声で言う。


「あなたの気持ちは分かります。魔力依存症の苦しみも、理解しています。

 でも、このままではタクヤさんが疲れてしまいます。タクヤさんの体も、無限ではないんです。

 少しは、ほんの少しでいいから、控えてくれませんか?」

「…はい」


 たぶん渋々だが、頷いている。

 それは、俺の体から離れないことが証明している。

 そして、その目は一瞬たりとも俺から離れない。

 まるで、一秒でも視線を外したら、俺が消えてしまうのではないかと恐れているかのような、必死で、切実な目だった。


 ミスティが、小声で俺に囁いてくる。

 その声には、明らかな心配が込められていた。


「ねえ、あれ大丈夫なの?

 完全に中毒者の目してるけど。薬物中毒者と同じ目よ、あれ」 

「あんた、責任取れるの? このままじゃ、あの子、本当におかしくなっちゃうわよ」


 確かに、アリシアの症状は深刻だった。

 日に日に悪化しているようにさえ見える。

 何とかして、この魔力依存症を改善する方法を見つけなければならない。


 でも、今の俺には、その方法が全く分からない。




 ◇ ◇ ◇




 俺は、ミスティが作った魔神のポスターを持って、村を歩き回ることにした。


 アリシアは、妻たちの視線を気にして、仕方なく俺から二メートルほど離れた位置を歩いている。

 でも、常に、本当に常に俺の方を見つめている。

 その視線は、まるでレーザーのように強烈で、俺の背中に焼き付くような感覚がある。


 ガルドは、ミア先生と一緒に、村の東側の小さな家の前でゆっくりと過ごしていた。

 二人とも幸せそうで、平和な日常を心から楽しんでいる様子だった。

 ガルドはミア先生の手を優しく握り、ミア先生は幸せそうに微笑んでいる。


「タクヤ、おかえり」


 ガルドが俺を見つけて、大きく手を振った。


「お疲れ様だったな。大変だっただろう」

「ありがとう」


 ガルドとミア先生の関係は、本当に理想的だった。

 お互いを深く尊重し合い、自然体で愛し合っている。

 無理がなく、押し付けがなく、ただ純粋に相手を想っている。


 俺とアリシアの関係も、いつかこうなれればいいのに、と心から思う。




 ◇ ◇ ◇




 グロムの鍛冶場を訪れると、彼が俺の瞬刃ブリンクを作業台の上に置いて、何か細工をしているのを見つけた。

 金槌の音が、リズミカルに響いている。

 火花が飛び散り、金属の焼ける匂いが鍛冶場を満たしていた。


「グロム、何をしてるんだ?」

「ああ、タクヤか」


 俺の声に気づいたのか、グロムが振り返った。

 その顔には、職人特有の満足げな笑みが浮かんでいた。


「お前の剣を強化してたんだ。ちょうど良かった、見てくれ」

「強化?」

「そうだ」


 その声は、興奮で少し高くなっていた。


「元々、瞬間移動がしやすいように、軽量かつ魔力伝導性の高い素材で作られていたが戦闘スタイルを見ていて思ったんだ。遠距離攻撃も使えたら、もっと便利じゃないかってな」


 彼が剣の柄の部分を俺に見せる。

 そこには、小さな、しかし精巧に作られたボタンが取り付けられていた。


「このボタンを押すと、小さな刃が直線的に、高速で発射される仕組みだ」


 グロムが実演してくれる。

 ボタンを押すと、カチリという小さな音と共に、手のひらサイズの鋭い刃が、まるで弓矢のように勢いよく飛び出した。

 刃は空気を切り裂き、ヒュンという音を立てて飛んでいく。

 十メートル先の的に命中すると、ズシンという重い音と共に、深々と突き刺さった。


「すごい威力だな。

 当たればかなりのダメージを与えられそうだ。これなら、遠距離の敵も攻撃できる」

「そうだ」


 満足げに頷いている。

 その顔は、自分の作品に誇りを持っている職人の顔だった。


「魔力を込めれば、さらに威力も射程も上がる。お前の戦闘力が、確実に向上するはずだ」


 その時、オルテンシアが鍛冶場の入り口から颯爽と入ってきた。

 彼女は俺の強化された瞬刃ブリンクを見て、その場で立ち止まり、目を大きく見開いて輝かせた。


「まあ、なんて素晴らしい武器なの」


 オルテンシアが興奮して、まるで宝石を見つけたかのように言った。


「これは…これは、アタシにこそふさわしい武器だわ。

 貴族のアタシに」


 そして、彼女が突然、俺の手から剣を奪おうとしてくる。

 その動きは素早く、そして本気だった。


「ちょっと待て、オルテンシア」


 慌てて剣を引っ込める。


「これは俺の剣だ」

「何を言ってるの、タクヤ」


 オルテンシアが、まるで当然のことを言うかのように、堂々とした態度で答える。


「アタシは元貴族よ? 名門中の名門、レーヴェン家の出身なのよ? 

 貴族には、最高の武器を持つ権利があるの。それは、何百年も前から続く伝統なの」

「それに、アタシの方が上手に使えるわ。絶対にね。だって、アタシは貴族だもの。

 庶民とは、生まれながらにして違うの」


 彼女の貴族としてのプライドが、全開になっている。

 その表情は、本気で、そして心の底からそう信じているようだった。


「でも、これは俺の武器だから」

「貴族の言うことは絶対なの」


 オルテンシアが、まるで議論の余地がないとでも言うように断言する。


「アタシの家は、代々続く名門よ。何百年もの歴史があるの。庶民のあんたより、アタシの方が武器を持つ資格があるの。それは、血統が証明してるわ」


 完全に貴族の論理だった。

 しかも、彼女は本気でそう信じている。

 その純粋さが、逆に説得を困難にしていた。


 その時、ルナ、エリカ、クロエ、ユリエルが、まるで緊急事態を察知したかのように駆けつけてきた。

 四人の妻たちは、オルテンシアの様子を見て、一斉に溜息をつく。


「オルテンシアさん、それはダメです」


 ルナは、まるで子供を諭すように優しく、しかし断固とした口調だった。


「タクヤさんの武器ですから。あなたのものではありません」

「そうよ」


 エリカが、呆れたような表情で同調する。


「人のものを勝手に取っちゃダメでしょ。そんなの、子供でも分かることよ。

 貴族とか関係ないわよ。泥棒は泥棒なんだから」


「…そ、そうだと思います」


 クロエも、顔を赤らめながら勇気を出して意見する。


「武器は、持ち主にとって本当に大切なものですから。魂が宿っているようなものです」

「……オルテンシア……ダメだよ……」


 ユリエルもダウナー系の声で、でもはっきりと言った。


「……それは……泥棒……犯罪……」

「泥棒!? 犯罪!?」


 オルテンシアが、まるで世界が終わったかのような表情で驚く。

 その目は、本当に、心の底から驚いていた。


「アタシが泥棒ですって!? アタシが犯罪者ですって!?

 貴族が、そんなはしたないことをするわけないでしょ! アタシは、正当な権利を主張しただけよ!」

「でも、人のものを取ろうとしてたじゃない。

 それは泥棒っていうのよ」

「それは」


 オルテンシアが言葉に詰まる。

 その顔は、混乱と困惑に満ちていた。


「貴族の権利として…正当な主張として…」

「権利じゃないわよ。

 それは、ただの我儘。子供の我儘と同じ」


 オルテンシアは、妻たち全員に説教されて、渋々諦めた。

 その表情は、まるで大切なおもちゃを取り上げられた子供のようだった。


「分かったわよ」


 彼女はふくれっ面で、唇を尖らせていた。


「でも、アタシは貴族なのよ。レーヴェン家の誇り高き娘なのよ。貴族は、最高のものを持つべきなの。それが、貴族の義務であり権利なの」

「だから、今度アタシにも新しい武器を作ってよ。最高級の、世界に一つしかない、アタシにふさわしい武器を」


 まだ貴族のプライドを必死に保とうとしている。

 でも、その目には涙が浮かんでいた。


「分かった、分かった。

 じゃあ、オルテンシア専用の武器を作ってもらおう。君だけの、特別な武器を」

「本当?」


 オルテンシアが、まるで暗闇に光が差したかのように目を輝かせる。


「さすがタクヤ、話が分かるわね。

 貴族の妻を持つ者として、当然の対応ね。アタシ、あんたと結婚して良かったわ」


 彼女は、完全に満足したようだった。

 純粋すぎて、周りの呆れた雰囲気に全く気づいていない。


 その時、ユリエルが、恥ずかしそうに、でも決意を込めた表情で俺の袖を引っ張った。


「あの」


 彼女がダウナー系の声で、顔を真っ赤に染めながら言う。

 その声は、蚊の鳴くような小ささだった。


「……タクヤ……その……」

「……あたしと……あの……」


 彼女の声は途切れがちで、まるで言葉を絞り出すのに全力を使っているかのようだった。

 視線は地面に向けられていて、俺の目を見ることができない。


「……夜……一緒に……」


 ユリエルの言葉は、最後まで続かない。

 でも、その意味は十分に理解できた。

 彼女の頬は、まるでリンゴのように真っ赤に染まっている。


 ユリエルは、俺との夫婦としての関係を……初めての夜を求めているのだ。


 でも、彼女は五番目の妻だ。

 先に妻になったオルテンシアに、礼儀として許可を求めるべきかもしれない。

 妻の序列を尊重することは、家族の調和を保つために重要だった。


「オルテンシア。

 ユリエルと先に済ませてもいいか?」

「何を?」


 オルテンシアが首をかしげる。

 その表情は、本当に何も理解していないようだった。


「夫婦のことだよ」

「夫婦のこと?」


 オルテンシアが不思議そうに、まるで難解な算術の問題を解こうとするかのように首をかしげる。


「一緒にご飯を食べるとか? それとも、お散歩? 

 夫婦は一緒に過ごすものだって、お母様が言ってたわ」


 完全に理解していない。

 彼女の純粋さは、時として驚異的だった。

 いや、これはもはや純粋を超えて、別次元のレベルだ。


「まあ、そういうことだ」


 俺は曖昧に、これ以上説明するのを諦めた。


「いいわよ、別に」


 オルテンシアがあっさりと、まるで些細なことのように答える。


「貴族は寛大なの。心が広いのよ。

 ユリエルがタクヤと一緒にご飯を食べたいなら、アタシは許可するわ。アタシは、そういう小さなことは気にしないの。貴族の度量の広さを見せてあげるわ」


 彼女は、本当に、心の底から理解していないようだった。

 その純真無垢な表情は、ある意味で罪だった。


 周りの妻たちが、呆れと諦めの混ざった表情をしている。

 でも、誰も説明しようとしない。

 オルテンシアの純粋さを、誰も壊したくないのだろう。

 この無垢さは、彼女の魅力の一つでもあるのだから。


 ミスティが、俺の耳元で小声で囁いてくる。


「ねえ、あの貴族様、本気で分かってないの?

 完全に天然よね。ある意味すごいわ」

「でも、羨ましいなぁ。あたいも、あんなふうにおじさんと……」


 彼女がそこまで言いかけて、急に口を噤む。

 顔が赤くなっている。




 ◇ ◇ ◇





 夜になって、俺はユリエルを自分の部屋に呼んだ。


 月明かりが窓から差し込み、部屋を淡く照らしている。

 静寂の中で、虫の鳴き声だけが規則正しく響いていた。


 彼女は、恥ずかしそうに、でもゆっくりと、一歩一歩確かめるようにして俺のところにやって来た。

 その足取りは不安定で、まるで足が震えているかのようだった。

 ユリエルの顔は、月明かりでも分かるほど真っ赤に染まっている。


「あの」


 ユリエルの声は、小さく震えていた。


「……本当に……いいの……?」

「もちろんだ」


 俺が優しく、できるだけ彼女の不安を和らげるように答える。


「君は、俺の大切な妻だから」


 ユリエルの顔が、さらに真っ赤になる。

 耳まで赤く染まっていて、まるで全身が燃えているかのようだった。


 でも、その目には、恐怖と期待が複雑に混ざり合っていた。

 怖がっているようで、でもどこか、心の奥底では期待しているような、そんな矛盾した感情が見て取れた。


「……怖い……」


 彼女が小さく、震える声で呟く。


「……初めて……だから……  

 ……痛いのかな……苦しいのかな……」

「大丈夫だ」


 俺が彼女を優しく抱きしめる。

 彼女の体は小刻みに震えていた。


「ゆっくりでいい。君のペースで」

「……うん……」

 ユリエルが俺の胸に顔を埋める。

 その体温は、異常なほど高かった。


 でも、俺は気づいていた。

 彼女の体が震えているのは、恐怖だけが原因ではない。


 彼女の呼吸が、少しずつ荒くなっている。


 心臓の鼓動が、激しく、早く打っている。


 そして、彼女の手が、俺の背中を掴む力が、徐々に強くなっている。

 ユリエルは、怖がっているふりをしながら、実は心の奥底では強く期待しているのだ。

 体が正直に、欲求を表現している。


 でも、彼女はそれを表に出すのが恥ずかしくて、ダウナー系ツンデレの仮面を被って、必死に隠しているのだ。


 俺は、彼女の気持ちを理解した。

 だから、ゆっくりと、優しく、しかし確実に、彼女をリードすることにした。


「ユリエル」

 俺が彼女の名前を呼ぶ。

 その声には、愛情を込めた。


「……はい……」


 彼女が小さく答える。

 その声は、期待で震えていた。


「愛してる」


 その言葉を聞いて、ユリエルの体がビクンと大きく震えた。

 まるで電流が走ったかのように。


「……あたしも……」


 彼女が小さく、でもはっきりと呟く。


「……愛してる……ずっと……ずっと前から……」




 ◇ ◇ ◇




 その夜、俺とユリエルは初めて夫婦として結ばれた。


 彼女にとって、人生で初めての経験だった。

 最初は、本当に怖がっているようだった。

 体が硬直していて、呼吸が浅く、速かった。


「……怖い……」


 ユリエルが震える声で呟く。


「……本当に……怖い……」

 「大丈夫だ」


 俺が彼女の髪を優しく撫でる。


「俺がいる。一緒だから」


 でも、時間が経つにつれて、彼女の反応が明らかに変わっていく。


「……ん……」


 小さな声が、彼女の閉じた唇から漏れる。

 それは、恐怖の声ではなかった。


「……あ……」

 彼女の体が、俺の動きに敏感に反応し始めている。  背中が弓なりに反り、指先が俺の腕を掴む。


「……タクヤ……」


 彼女が俺の名前を呼ぶ。

 その声は、もはや恐怖ではなく、明らかな心地よさに染まっていた。

 甘く、切なく、そして親密さを込めた声だった。


 でも、ユリエルは必死にそれを隠そうとする。

 ダウナー系ツンデレの彼女らしく、本音を隠そうと必死だった。


「……べ、別に……」


 彼女がダウナー系の声で、震えながら言おうとする。


「……そんなに……気持ち……心地いいなんて……ない……から……」


 でも、その言葉は、次の瞬間に漏れる甘い吐息によって完全に否定される。


「……んっ……あっ……はあっ……」


 彼女の体は、嘘をつけない。

 正直に、素直に、反応している。


「……ダメ……こんなの……」


 ユリエルが恥ずかしそうに、涙目になりながら言う。


「……あたし……おかしく……なっちゃう……

 ……こんなに……心地いいなんて……聞いてない……」


 でも、彼女の体は、もっと、もっとと求めている。  体が自然と動き、俺に合わせてリズムを刻んでいる。


「……もっと……」


 ユリエルが、ついに本音を漏らす。


「……もっと……して……

 ……お願い……タクヤ……」


 俺は、彼女の願いに応えることにした。

 ゆっくりと、丁寧に、愛情を込めて。

 彼女の初めての夜が、素晴らしい思い出になるように。


 時間が経つにつれて、ユリエルの反応はさらに大きくなっていく。


「……ああっ……タクヤ……タクヤ……」

 彼女が俺の名前を連呼する。

 その声は、もはやダウナー系ではなく、情熱的で、熱く、切実だった。


「……好き……大好き……ずっと……ずっと一緒にいてて……」


 彼女の告白が、部屋に響く。

 そして、最後には、彼女の体が大きく震えて、頂点に達した。


「……ああああっ……!」


 ユリエルの叫び声が、月明かりの部屋に響き渡る。


 その後、彼女は俺の腕の中で、満足そうな、幸せそうな表情を浮かべていた。


「……ありがとう……」


 ユリエルが俺の胸に顔を埋めて呟く。

 その声は、深い満足感に満ちていた。


 でも、彼女の顔は複雑だった。  ダウナー系ツンデレな表情と、女性として完全に満たされた表情が、交互に現れる。


「……べ、別に……そんなに……」


 彼女がツンデレモードで言いかける。


 でも、途中で言葉が止まって、恥ずかしそうに俺を見上げる。

 その目は、明らかに嘘をついている自分を自覚していた。


「……嘘……」


 ユリエルが認めた。


「……すごく……心地よかった……」

「……また……したい…………ダメ……?」


 その言葉を聞いて、俺は心から微笑んだ。


「もちろん、いいよ」


 俺が彼女を優しく抱きしめる。


「いつでも。君が望むなら、いつでも」


 ユリエルは、俺の腕の中で幸せそうに微笑んだ。  

 その笑顔は、今まで見たことがないほど明るく、輝いていた。


 彼女も、俺の大切な家族の一員だ。

 愛する妻の一人として、これからも大切にしていかなければならない。




 ◇ ◇ ◇




 その夜、俺は久しぶりに心から安らいだ気持ちで眠りについた。


 ユリエルは俺の腕の中で、安心しきった表情で眠っている。

 その寝顔は、天使のように穏やかで、幸せそうだった。


 家族との絆を改めて確認できた夜だった。

 ユリエルとの距離が縮まり、彼女の心を理解できたことは、俺にとって大きな喜びだった。


 でも、窓の外を見つめながら、俺は現実を思い出す。


 アリシアの問題は、まだ全く解決していない。


 彼女の魔力依存症は日に日に悪化していて、妻たちとの関係も険悪になりつつある。

 明日からも、彼女のキス攻撃は容赦なく続くだろう。

 何とかして、彼女の症状を改善する方法を見つけなければならない。

 でなければ、彼女は本当に壊れてしまうかもしれない。


 そして、魔神の脅威も、まだ去っていない。


 プロイシェン王国を滅ぼした存在……おそらくテレサスニカ……は、まだこの世界のどこかにいる。

 ハルカも、他の魔神たちも、いつ現れるか分からない。


 ミスティが作ったポスターは有効だが、それだけで魔神を防げるわけではない。

 早期発見ができても、戦う力がなければ意味がない。


 平穏な日常は貴重だが、いつまで続くか分からない。

 嵐の前の静けさのように、この平和は儚いものかもしれない。


 俺は、家族を守るために、さらに強くなる必要がある。


 クロウを失った悲しみは、まだ心の奥底で疼いている。

 彼の死を無駄にしないためにも、俺は強くならなければならない。


 明日からも、新たな挑戦が待っているのだから。


 でも、今夜だけは……

 俺は、ユリエルの温かい体温を感じながら、目を閉じた。


 愛する家族がいる。

 守るべきものがある。


 それだけで、俺は戦い続ける理由を持っている。

 どんな困難が待っていても、俺は決して諦めない。

 この幸せを、この日常を、絶対に守り抜く。


 そう心に誓いながら、俺は深い眠りに落ちていった。


 隣で眠るユリエルの安らかな寝息が、子守唄のよう

に優しく俺を包み込んでいた。




 ◇ ◇ ◇




 翌朝、目が覚めると、ユリエルはまだ俺の腕の中で眠っていた。


 そして、部屋の扉の向こうから、アリシアの気配を感じる。

 彼女は、きっと朝一番の魔力補給を待っているのだろう。


 新しい一日が始まる。

 問題だらけの、でも愛すべき家族との日常が、また始まるのだ。

 俺は小さく溜息をついて、でも笑顔で、その現実を受け入れた。


 これが、俺の選んだ人生なのだから。


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